第46話
「ハッピーバースデー、麗ちゃん。はい、これプレゼント」
一月三日の午後、隆玄は麗が姉と二人で暮らしている古いアパートを訪ねていた。
「……たしかに年賀状に住所は書きましたけど、それ見て家まで来ます?」
よれた白いトレーナーの首元を恥ずかしがって隠すようにしながら、麗が目を逸らす。
「来るでしょ、普通」
隆玄はその仕草を無視して、もう一度自分が手に持った紙袋を彼女に差し出した。
「お姉さんは? 仕事?」
こたつにあたりながら、台所に立ってお茶を用意する麗に隆玄は話しかける。
「仕事というか、会社の新年会で。今日は遅くなるって言ってました」
めったに使わない来客用の茶托に一番茶を入れた品の良い湯呑を載せ、麗は急須の残りを自分のマグカップに注ぐ。
「へー、新年早々飲み会かぁ、大変だねぇ、社会人って」
「わたしたちもいずれはしなきゃいけないことなんですよ、他人事みたいな言い方したらダメです」
「あはは、俺が院長になったら絶対めんどくさいからやらないよ。みかん食べていい?」
「どうぞ。一個百円です」
「わー、お高いなぁ」
丸盆に載せた緑茶を隆玄の前に置くと、麗は向かい側にマグカップを置いて、自分もこたつにもぐり込む。
「ほら、早く開けて」
「……」
傍らに置いたままのプレゼントの紙袋を、隆玄に促された麗は訝しがりながら開ける。
「……こないだ慎先輩が、祐華ちゃんにベースあげたでしょ。俺も真似してみたんだ」
「!……受け取れません」
何が入っているかわかった麗は、そう言って紙袋を閉じ、隆玄をまっすぐ見た。
「言うと思った。……お姉さんに怒られるとか、そんな理由でしょ?」
「他人からの施しは受けません」
「そういう言い方されるとさすがに傷つくなぁ。いい加減意地張るのやめてよ、麗ちゃん」
純粋に悲しそうな微笑みを浮かべる隆玄に、麗は信じられないものを見る目で首を横に振る。
「だって……先輩、何万したんですか、これ。中古だってバカ高価いのに、どう見たって新品じゃないですか。……なんで、お花とかお菓子とか、そういう後腐れのないものじゃないんですか……」
抗議するうちに、麗の丸い大きな目の端から涙が溢れ、頬を伝って落ちたそれは、こたつ布団にぽたぽたと静かな音を立てて染み込んだ。
「……こうでもしないと、君がどっか行っちゃいそうだからだよ」
そう言いながら隆玄は立ち上がって麗の側に歩み寄ると、古ぼけた畳とマットの境目にあぐらをかく。
「ほっとけないんだよ、麗ちゃんはさ。こないだ話してくれたみたいに、ある日突然学校辞めて、俺の前から消えちゃうんじゃないかって気がして。俺にキツく当たるのも、そのための準備なんじゃないかって、時々思うわけ。だから、どこにもいかないように縛り付けときたいんだよ。目いっぱい恩を売って、義理を押し付けて、思いっきり世話焼いてさ」
「……」
「……ねえ、俺が不安じゃないって思ってた? 君が意地悪言っても、傷ついてないと思ってた? そんなことない。好きなら好きで、なんで素直になってくれないんだろうって悩んでるんだよ、俺なりに。毎日キッツいこと言われてもさ、それでも俺の側にいてくれるなら、それでいいやって、しんどいの我慢してんの。俺は麗ちゃんが好きだから、冷たくされても相手して、がまんして笑ってるの。わかる?」
隆玄は袋から楽器屋の包装紙に包まれたプレゼントを取り出して、麗に押し付ける。
「このために貯金、全部使った。俺が麗ちゃんにあげたくて買ったんだ。管楽器のことなんて何にもわかんないから、店員さん一時間捕まえていろいろ聞いて、君に喜んでもらいたくて。……受け取ってよ。……俺のこと好きなら、俺の気持ちくらいは、素直に受け取ってくれたって、いいじゃないか……」
喋りながら泣き始めてしまった隆玄に、麗は何も言えなくなったまま、手の中にある誕生日プレゼントを見た。
ばりばり、と包装紙を破る音がして、隆玄は顔を上げる。
「……お姉ちゃんに、なんて説明したらいいのかな……」
フランス製のB♭管クラリネットが入った段ボール箱を、麗は涙を流しながら、困ったように笑って眺めている。
「……正直に、彼氏に買ってもらった、じゃダメ?」
鼻水をすすりながら隆玄が笑うと、麗は頬を染めて首を横に振る。
「だめです。……恥ずかしいから」
「そっか」
隆玄は立ち上がって麗の背中側に回ると、すとんと腰を下ろして彼女を背中から抱きしめる。
「わかったぞ、……麗ちゃんは意地っ張りなんじゃなくて、照れ屋なだけだな」
麗の後頭部に頬をこすりつけながら、隆玄はくすくすと笑って目を瞑る。
「……でも、こんなことまでしてもらって、わたし、先輩に返せるものが、何もない……」
膝の上から大事そうにクラリネットの箱を下ろすと、丁寧に傍らに置いてから、麗は隆玄の胸に身体を預ける。
「返さなくっていいんだよ。だって、これからもずっと一緒にいるんだから。でしょ?」
「え……あの、そんなこと勝手に決めな……」
麗が言おうとした言葉の先は、頬に触れた優しいキスで途切れてしまった。
「うん、今のでじゅうぶん。これでお返しはもらったから、気にしなくていいよ」
「……っ、今の、ずるいですよ……」
「あはは、そうだよ、俺はずるいんだ」
「開き直らないでください、そういうとこです!……」
思わず振り向いてしまった麗が、しまった、と思うよりも早く、隆玄は彼女の唇を奪う。
優しくされることに慣れていないせいで、彼女は無心のまま初めてのキスを受け止めた。
慣れていないのは隆玄も同じなのだろう、麗の痩せた身体を抱きとめる彼の腕は震えている。
「……麗ちゃん」
唇が離れてもぼうっとしたままの麗に、いつもへらへらしている隆玄の濃い茶色の目が、黒縁眼鏡の奥で真面目な笑みを浮かべる。
その表情が自分にだけ見せるものだということを、彼女は直感していた。
「……どこにも行くなよ。何があっても、俺は麗ちゃんの味方だから」
「……はい……」
腕の中で素直に答えた彼女の声に、彼はふっと安堵の息をついた。そして、
「ありがと。……俺の気持ち、ちゃんと受け取ってくれて、すっごい嬉しい。……ほんと、麗ちゃんと一緒に暮らせたら、どんだけ楽になれるだろうなぁ……」
絞り出すような、かすれた声で呟いて、そのまま彼女の肩に顔をうずめて縮こまってしまった。
「え……」
予想もしていなかった単語の響きに身をすくませた麗を向かい合わせに抱きなおし、彼女の髪に頬を埋めるように抱き縋りながら、隆玄は苦し気な声色を隠さずに胸の内を吐露し始めた。
「……俺、家族と一緒にいるのがしんどくてさ。……親父は外面は良いけど、家の中では冷たい人でね。勉強以外の事で褒めてくれたことなくって、昔っから俺も妹も成績でしか測らないから、毎日そのことでプレッシャーかけられて、すごく息苦しいんだ。母さんも自分の仕事ばっかで、家族のことなんか全然省みないし、妹も、本当はもっと明るくていい子だったのに……いろいろあって病んじゃって、今、精神科に通ってるんだよ。でも、親父と母さんは、自分たちが医者だからって、世間体を気にして付き添いにも来ないんだ。……寂しいよ。ただでさえ少なかった会話がどんどん減って、家に帰っても、猫としか話さないなんてこと、しょっちゅうで……今の俺は、学校でドラム叩いて、友達と馬鹿話して、麗ちゃんと一緒にいることだけが生きがいなんだ。……俺、もう嫌だ。あんな居心地の悪い家に帰りたくない。麗ちゃんと離れたくないよ……このまま二人で、どっか遠くに行っちゃいたいって、本気で思ってる……」
「先輩……」
「俺、もっと君の近くにいたい。心も身体も、両方とも……」
また泣き出してしまいそうな気配を漂わせながら、隆玄は麗の身体に寄り掛かる。
彼が抱えている苦しみの形を初めて聞かされて、麗は今まで自分が何も知らずにいたことを深く後悔した。
(……いくらだって聞く機会はあったはずなのに、わたし、自分のことでいっぱいいっぱいで……なんでたった一言、「何か困ってることはないですか」って聞けなかったの?……自分が優しくしてもらうばっかりで、その何万分の一も、わたしは先輩に返せてないよ……)
ネイビーのセーター越しに感じる、彼の薄い身体の手応えの無さが、急に怖くなった。
(嫌だ。先輩がいなくなっちゃったら、わたしだって……そんなの絶対に嫌だ……!)
あり得るかもしれない現実に怯えた身体に、力がこもった。
隆玄の線の細い両頬を手に包むと、麗はそっと自分の唇を彼の唇に重ねる。
再び目を開けた時に見た彼は、嬉しそうな、しかし、ひどく気弱で頼りない笑顔をしていた。
濁流が押し寄せるような勢いで今までの自分の態度が申し訳なくなり、麗は彼の胸に身を寄せると、背中に腕を回して抱きしめる。
「……先輩、ごめんなさい。わたし、自分の辛さにばっかり目が行って、先輩の気持ち、考えてなかった……お父さんもお母さんもいて、家族みんなが仲が良くって、いつも幸せなんだろうなって、勝手に思ってた」
「ずっと隠してたからね。……家族の話、あんまりしたことないから。ほら、噂になるとまずいもんでさ、先生にも友達にも、ほんとのことが言えなくって。……でも、ずっと黙ってるの、もう疲れちゃった。もう俺、いっそ、麗ちゃんと猫だけいればいい。妹も嫁に行くあてがあるし、病院の跡継ぎになるよりドラム叩いてたい。……俺、血が苦手なのに、なんでうちの親父は外科医なんだろうなぁ……」
心底嫌そうにため息をつく隆玄の言葉に、麗は小さな笑い声を立てる。
「……やっぱり軟弱者ですね、隆玄先輩」
「そうだよ、俺は軟弱者だ。麗ちゃんみたいに強くはなれないよ」
「またそうやって開き直る……」
二人は顔を見合わせると、小さな子供のような眼差しで微笑む。
「でも、軟弱者でも、俺のこと好きだって言ってくれるの嬉しいよ」
「わたしもです。……ひがみっぽくって、性格悪いなって、自分でも思うのに……いつも優しくしてくれて、すごく嬉しい……ごめんなさい。人前だとどうしても、恥ずかしくって……」
「いいよ。麗ちゃんが本当は素直でいい子だっていうの、俺だけが知ってればいい」
隆玄は幸せそうに笑うと、そっと麗の前髪にキスをした。
「麗ちゃん、好きだよ」
「……わたしも……」
二人は欠けていたものがやっと満たされたような心持で、お互いの身体に寄りかかって抱きしめあった。
そうして、少しだけ心が軽くなったのだろう、隆玄はいつものふざけた口調で麗の耳にささやいた。
「ねぇ、二人っきりの時だけでいいもんでさぁ、俺のこと、『たっくん』って呼んでよ」
「えー?……やだ、恥ずかしい……」
「あはは、二人っきりの時って言ったでしょ。他の人いるとこで呼ばんでいい。それは俺も恥ずかしい」
「めんどくさいなあ」
「お願い。麗ちゃんしか甘えらんないの、俺」
「……わかった。頑張ってみる」
そこまで言葉を交わし、二人はもう一度見つめ合って、唇を重ねる。
触れ合うだけのそれが、恐る恐る深さを増して、やがて不器用な甘さの余韻を残して離れた後、
「……あの、今日、お姉ちゃん、……帰ってこないです」
真っ赤になった頬を隠すように隆玄の胸元に縋りついた麗が、ぽつりと言葉をこぼす。
「え? 会社の新年会じゃないの?」
「三が日からそんなのあるわけないじゃないですか。……年末から彼氏と旅行行ってるんです、海外に。わたしも誘われたけど、邪魔するのも嫌だから、バイトがあるって断って……」
「……」
「帰ってくるのは明後日だから、……家にいたくないなら、うちにいても、いいですよ」
「そ、……そっか。……じゃ、じゃあ、……お言葉に甘えようかなぁ……」
全くのノープランだった部分に踏み込まれ、隆玄は完全に声が上ずる。
それをごまかすように、彼は一つ大きな咳払いをした後、
「あ、じゃあさぁ、……先に、コンビニ行って、おやつ買うついでに、足りないもの、ちょっと買わせてもらってもいいかしん? 一緒に行くでしょ?」
種々の期待以上に、過多に緊張の含まれた声音で、麗に問う。
「……うん。あの、……じゃあ、わたしからも一個、いいですか」
「うん、何?」
「コンビニで、ペンダント付きのチョコあったら、それ、わたしに買ってください。保育園の頃から集めてるんです」
意外な申し出に、隆玄は一瞬だけ面食らった後、くつくつと笑い始めて麗の頭を撫でた。
「……ふふ、そんな趣味あったんだねぇ、麗ちゃん。可愛いなぁ、やっぱり」
「他の人に言わないでくださいね、恥ずかしいんで」
「言わない言わない。食玩集めるの楽しいよねぇ。俺もちっこい頃は、死んだばあちゃんにシール付きのウエハースとか、ガム付きのフィギュアとか、よく買ってもらったっけなぁ……シールとかカードはバインダーに綴じてあるし、フィギュアもまだ机に飾ってあるよ」
「わたしと一緒ですね。……お母さんが、買い物行くたびに、お手伝いのご褒美に買ってくれたから」
「そっか。……麗ちゃんとお母さんの、大事な思い出なんだね」
絡まっていたリボンが解け、綺麗に固く結び直されたような心持で、二人は見つめ合う。
「……あとで見ます?」
「そうだね。買い物の後、新しいのと一緒に見せてよ」
彼の手が優しく彼女の頬を撫でると、まぶたが誘うように伏せられる。
彼は迷うことなく、彼女の唇に互いに遮るものの無くなった心を混ぜ合わせるように、深々とキスを落とした。
「……買い物、行こっか。遅くなんないうちに」
「はい」
くらくらするような余韻を残した口づけの後、二人は互いの鼓動の速さを確かめるように、もう一度だけ、きつく抱きしめ合う。
花がほころぶようにその腕が解けると、先に立ち上がった彼に延べられた手を彼女が取って、二人は寄り添いながら玄関へと向かう。
そう遠くはない日暮れを感じさせる一月の曇り空が、しっとりと冷たい雨の気配を帯びて、逆光の中のシルエットにして浮かび上がらせた後、古いドアが閉まる。
空っぽになった薄暗い居間には、破れた包装紙の上に置かれたクラリネットの箱と、ぬるくなっていくこたつの上のみかんが入った菓子盆を挟んで冷める緑茶が、ただ静かにそこにあるだけだった。




