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第42話

 次の日の午後、授業が終わった後に行われた実況見分から開放されたくるみと祐華は、同席していた興津に先に部室に行くように促され、一足先にいつもの階段を上がっていた。

「……あの子、嘘みたいに大人しくなってたね」

 祐華に襲いかかった少女がまるで別人のようだったことに、二人は驚いていた。

「祐華ちゃんがあの時、あの子に言ってたこと、なんか刺さったのかな」

「わかんないわ。でも……ものすごく頭に来ちゃって、結構きついこと言っちゃった……」

 酷いことをしたようにしょげる祐華を、くるみは慌てて鼓舞する。

「いいんだよ、自分が悪いなんて思っちゃだめ。だって、あの人たちにずっと、嫌な思いさせられてたんでしょ? やり返したって誰も祐華ちゃんのこと、責めたりなんかしないよ。……平気で人を傷つけるような人は、相手がどれだけ苦しかったかなんて、自分が同じだけ傷つかないとわからないんだ。祐華ちゃんはあの子にそれを教えただけ。何にも悪くない」

「うん……」

 ふわふわした髪を撫でながら、くるみは祐華の柔すぎる心を慰めた。

 その言葉に安堵したのか、祐華はうなずきながらほっと息をつくと、次いでかすかな笑い声を立てる。

「……あのね、おかしいの。わたしあの時、『可愛くてごめん』の歌詞が頭に浮かんじゃって」

「え、あのタイミングで?」

「うん。……ほんとはわたし、ベースを壊されたときに頭に血が上っちゃって、あの子のこと、気が済むまで殴りたいって思ったの。でも、手を上げた瞬間にぶわーって頭の中に歌が流れて来てね。自分が頑張ったから、いま、わたしは毎日がこんなに幸せで楽しいのに、なんでいつまでもこの子に邪魔されなきゃいけないんだろう、この子もいつまでもこんなことしてて虚しくないのかな、って、急に冷静になっちゃって。それに、中学の頃ずっと悪口や嫌がらせされたのに、暴力なんて振るったら、自分も同じレベルになっちゃう気がして、そんなことしたらもったいないし、自分が可哀想だなって思ったら、なんだかどうでもよくなって……」

「それで叩くのやめたんだ。……すごいな、わたしだったら絶対往復ビンタしてたと思う。見習わなくっちゃ」

 感心して目を丸くしたくるみの言葉が、昨日慎の言った通りなのが可笑しくて、祐華はくすくすと笑いながら先を続ける。

「見習うだなんて……慎先輩も、すごくいいことしたみたいな褒め方してくれたけれど、全然そんなことないわ。カラオケでくるみちゃんが歌ってくれなかったら、きっと知らなかった歌だし。ある意味、歌に助けられたのかしら。だからあの子に言ったことも、半分受け売りよ」

「そっか……じゃあ、リクエストしてくれたるなぴパイセン、グッジョブだね」

「ほんとね。また今度会ったら、お礼言わなくちゃ」

 階段を上り切り、一息つきながら二人は顔を見合わせて笑った。

「でも、祐華ちゃんほんとに可愛いから、本気で『可愛くてごめん』って思ってていいよ」

「やめてよ、全然そんなことないってば。……」

「……祐華ちゃん?」

 突然顔を真っ赤にして立ち止まってしまった祐華を、くるみは訝しげに見る。

「……あ、ううん、なんでもないわ。い、行きましょ」

「?……うん」

『可愛い』の一言に、昨日慎に耳元で囁かれたその吐息の温かさや、交わした口づけの甘ったるさが脳裏に鮮やかに思い出されてしまった祐華は、首をかしげるくるみの隣をぎくしゃくと歩きながら部室へと向かった。


「お疲れ様でした、大変でしたね」

「お疲れー」

 部室に着くと、既にほかの部員は全員集まっていた。

「あああ、これでやっと平穏な日常に戻れる……」

「二人とも本当にお疲れ様」

 ギグバッグを机に置き、深い深いため息をついて椅子にずるりと腰かけたくるみに、太陽が声をかける。

「みなさん、昨日はお見舞い、ありがとうございました」

「俺からもありがとう。くるみちゃん、こっちからもまたチャットするけどさ、慎先輩にもよろしく言っておいて」

 直角に腰を折り曲げた祐華に倣って紘輝も頭を下げ、くるみを見遣った。

「はい。今回は珍しく気が利いてたんで、褒めときますね」

「はははは、相変わらずくるみちゃん、慎先輩に厳しいなぁ」

 隆玄がくるみの物言いに苦笑いする。

「先生は?」

「ちょっとだけ警察の人と話があるって言って……もうすぐ来ると思いますけど」

 くるみは待ち遠しい気持ちで扉を見て、廊下に耳をそばだてる。

「ふーん、なんだろねぇ」

「いらっしゃるまで音出ししてましょうか」

「そうだね」

 椅子の上で大きく伸びをしてから、くるみは立ち上がってギグバッグに手を伸ばした。


(……くるみの歌だ)

 職員室で印刷した書類を手に階段を上ってきた興津の耳に、心地良い歌声が廊下のいちばん奥から聞こえてきた。

(『スタンド・バイ・ミー』か。……僕はいつまで、君の側にいられるのかな)

 二十歳になったらというのは極端だが、それでも「結婚しよう」という口約束を馬鹿正直に守ろうとしている自分の青臭さが不意に悲しくなって、彼は小さなため息をつく。


 自分とのこんな息苦しい関係を、彼女は本当に卒業するまで続けていられるのか、日毎夜毎に不安は募るばかりだ。

 そして、もしもその先があったとしても、十六歳も離れた年の差は一生縮まることはない。

 間違いなく、先に死ぬのは自分の方だろう。

 くるみが迷いなく向けてくれる想いを受け取るたびに、興津の胸は軋むように痛くなる。

(本当は、自分に嘘をついてでも、突き放すべきだったのかもしれない。……でも、耐えられなかった。誰よりも側にいてほしかった。もう、君のいない人生なんて考えられないんだ)

 そこまで考えて、

(……ホント、僕は面倒臭い男だな。気持ちが重いんだよ、いちいち)

 自分が嫌になった彼は、頭を軽く振ってその考えを追い出すと、きちんと教師の顔になってから当初の目的を手繰り寄せ、部室の扉の前から中に呼びかける。


「みんな、お疲れ様。……藤枝、ベースを早く返してもらえるかもしれない方法、警察の方から教えてもらったよ」

 彼は手元に用意した書類を祐華に見せながら、まるで自分のことのように明るい表情でこちらを見たくるみと目を合わせて微笑んだ。

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