第41話
翌日、祐華は高校に入ってから、初めて欠席した。
事件のことがニュースになるのではないかと、家を出る時間ぎりぎりまでくるみはテレビを見ていたが、特に取り上げられることはなかった。
しかし、昨日の騒動で学校に警察が来たことはすでに生徒の間に知れ渡っており、教室に入るとみんながその話で持ちきりだった。
いつも自分の前に見えた、ゆるい癖のあるふわふわしたボブヘアと、着丈より少し大きめのブレザーの背中がないことが落ち着かなくて、居心地が悪い。
そしてそれと同時に、いつも自分と祐華を見てはこそこそと話をして笑っていた女子生徒たちの姿もないことが、今回の事件の発端を物語っている。
物足りなさと清々しさが入り混じる教室で、くるみはここ数週間の出来事の重さに心を潰されまいと、ポケットからのど飴のスティックを出して、ひと粒口に入れた。
「一応、個チャ送ってみたんだけど、既読もつかないよ……当たり前って言えば当たり前なんだけど、心配だな……」
昼休み、いつもの階段で、ミチルと麗の三人で一緒に弁当を食べながら、くるみはスマートフォンの画面を見て肩を落とす。
「藤枝先輩にお願いして、帰りにお見舞いに伺わせていただきましょう。直接お会いしたほうが、祐華さんもお気持ちが楽になるかも知れません」
ペットボトルのほうじ茶の蓋を開けながら、ミチルが提案する。
「会いに行くのはいいけどさ、話ができるかな。……わたしたちの顔見て、少しでも気がまぎれたら、とは思うけど……」
マイボトルからひと口麦茶を飲んだ麗が、心配そうにぽつりとこぼす。
「……お辛いでしょうね。大怪我をさせられそうになったのもそうですが、何よりもベースを壊されたことが……安倍先生も仰ってましたけれど、楽器は演奏家の命ですから」
「……簡単に『買い換えたら?』なんて言いたくないな……祐華ちゃんといえばあのピンクのベース、ってイメージあるし」
「藤枝さん、あのエレベ、すごく大事にしてたもんね……『証拠品だから』って中の確認もさせてもらえないまま警察の人に持ってかれたの、見てる方もしんどかったよ」
三人は揃って深いため息をついた。
長い沈黙の後、ふとくるみはあることを思い出して顔を上げる。
「……昨夜話してあるから、お兄ちゃんも誘ってみようかなあ。今日バイト休みだって言ってたし、わたしたちだけで行くよりは励ませるかもしれないよね」
「そうだね。お兄さんと藤枝さん、どうみてもお互い好き同士だし、そのほうがいいと思う」
「賛成です、ぜひご一緒していただきましょう」
二人の言葉に、くるみは慎とのチャット画面を開いた。
「祐華」
階段を登る足音の後、部屋のドアが小さくノックされ、母の声がする。
そろそろ昼休みが終わる頃だろうか。締め切ったカーテンの隙間から容赦なく差し込む、突き刺すような日光が眩しい。
その光に背を向けて、祐華は母の声に答える気力もなく、ベッドの中で目を瞑っていた。
しかし、
「慎くん来たで、会うでしょ?」
その言葉に彼女はがばと跳ね起き、朝から櫛も通していない髪を慌てて指先で整える。
「……今行く」
ベッドから降りようとして脚を床に下ろすが、
「祐華ちゃん、こんにちは。……話、出来るかな?」
その瞬間にドアが空き、黒い薄手のダウンコートと濃いブルーのデニムを身に着け、ギグバッグを背負った慎がそこに現れ、祐華は硬直した。
「くるみから聞いたよ。……ほんと、大怪我にならなくてよかった」
バッグを下ろして注意深く床に置き、コートを脱いだ慎は祐華と向かい合わせに座ると、心からの安堵の笑みを浮かべる。
カーテンをほの白く染める日の光に照らされたその笑顔は、疲れ果てた彼女の心にふわりと温かく沁みこんでいく。
「あ、ありがとうございます……でも……」
思わず机の横のスタンドをちらりと見て、いつもはそこに置かれているはずのものがないことの苦しさに、祐華はその先の言葉が出てこなくなる。
「うん、ベースの事も聞いた。……辛かったね、大事にしてたのに」
深い同情をはらんだ言葉に、昨夜泣けるだけ泣いて枯れたはずの涙が、またじわりと祐華の腫れた下まぶたに滲む。
それを見て慎は少しためらったようなそぶりを見せるが、
「……でさ、あの、もしよかったら、って思って、……これ、持ってきたんだけども……」
彼はそう言うと、少しへたれてきた淡いピンクのラグの上でギグバッグを開ける。
「……」
祐華は意味が分からないまま、バッグの中身と慎の顔を交互に見比べる。
そこに入っていたのは、慎がいつも使っている、白いボディのプレシジョンベースだった。
「これ、祐華ちゃんにあげるよ。あのベースの代わりにはならないと思うけど、よければ使って」
「え……」
ぽかんとしている祐華に、慎は優しく笑って言葉を続けた。
「俺の中古でごめんね。でも、手入れは欠かさずしてたから、そんなに状態は悪くないと思うんだ。申し訳程度なんだけど、弦も今朝、新しいのに変えといた。……本当は今すぐ新品買ってあげたいんだけど、バイト代がまだそこまで貯まってなくてさ。また誕生日に新しいの、楽器屋に選びにつれてってあげるから、それまでこれで我慢して。……だめかな?」
「だ、だめなんて、そんな……でも、そうしたら先輩……」
「いいんだよ。……ホント言うと、最近、あんまり弾いてなくて、きみと練習するときくらいしか使わなかったんだ。だから、ちゃんと弾いてくれる人のところに行ったほうが、こいつも幸せだと思う」
そう言ってバッグの蓋を閉めると、慎はそれを丁寧にベッドの上に置き、祐華の隣にすとんと座る。
「……」
あまりに突然のことで理解が追いつかず、彼女はただ彼の笑顔を見つめるだけになる。
その笑顔がふと曇り、労わるような眼差しに変わったとき、彼の手が自分の頬を撫で、祐華の全身は温かく燃え上がった。
「怖かったよね。俺も小さい頃、似たようなことあったから、少しだけ気持ちがわかるよ」
「……似たようなこと?」
「……三歳の時、公園で遊んでたら、いきなり知らない男の人に担がれて、トイレの中に連れてかれて、そこで首絞められたんだ。幸い、見てた人がすぐに助けてくれたんだけど、あと少し遅かったら、俺はこの世にいなかった。犯人は母さんのファンだった人で、俺のせいで母さんは女優を辞めたから、俺がいなければ、また女優に復帰する、って思ったらしい。……自分以外の誰かの人生なんて、絶対思い通りになんてならないのにね。その考え方を間違える人のせいで、頑張ってる人が迷惑を被ったり命を奪われるなんて、あまりに理不尽だ」
慎は淡々とそこまで喋ると、そっと祐華の小さな肩に腕を回して、ベッドの縁に寄り掛かった。
「きみがそんな理不尽の犠牲にならなくてよかった。くるみから話を聞いたとき、頭に来すぎて、夕食に何食べてたか思い出せないくらいでさ。……でも、きみが相手を殴らなかったって聞いて、すごいと思った。俺やくるみだったら絶対に二、三発はお見舞いしてたと思うのに、きみはそうしなかった。……きみは本当に強くて、優しくて、……気高い心の持ち主だよ」
生まれて初めて聞いた誉め言葉に、祐華はすっかり恐縮して何も言えなくなる。
慎はしっかと祐華の肩を抱いて、彼女の額に顔を寄せながら、深く大きなため息をついた。
「……俺、いつも肝心な時に助けてやれないよな。学年が三つ違うから学校にいるタイミングも被らなかったし、きみがいじめられてるってわかってても、話を聞くくらいしかできなかった。今だって、個チャで話は出来ても、本当はどうしてるかってことは、妹から又聞きするしかない。同い年だったらいいのにってしょっちゅう思うよ。いつも側にいてあげられなくて、すごく悔しい。今回のことも、どうやって励ましたらいいかわからなくって、こんなことくらいしか思いつかなかった。ごめんな、本当はもっと近くで、守ってあげたいのに……」
彼の手に力がこもり、祐華はとうとう、慎の腕の中に抱きとめられてしまった。
自分の額に、慎が鼻先をくっつけたのがわかる。
今までで一番近くなった距離と、初めて感じた彼の身体の匂いに鼓動は加速する。
なのにどういう訳かひどく安心して、昨日からずっと続いていた緊張が少しだけほぐれ、彼女はようやく、少しずつ想いを口の端に乗せた。
「そんな……謝らないでください。わたし、先輩がいてくれたから、三年生の時に教室に戻れたんです。勉強だって先輩が励ましてくれたから頑張れたし、ベースのことだって、先輩がいろいろ教えてくれたから、今まで楽しくやってこれて、……一緒にいるとか、近いとか遠いとか、そんなの関係ないです。……わ、わたしの心には、……いつも、先輩がいる、から……」
自分で言っておいてまるで安っぽい歌詞のような気がして、恥ずかしくなった祐華はぎゅっと目を瞑る。
慎がかすかに笑った声がする。
次の瞬間、その彼の頬が自分の顔に寄せられたと思うと、唇に何か柔らかくて温かいものがふわっと触れて、祐華は思わず目を見開いた。
「……せんぱい……?」
「……ごめん、……」
額を合わせて一言だけ慎は謝ると、目を閉じてもう一度同じ感覚を祐華の唇に落とす。
自分が慎にキスされているのだと気が付くのに、祐華は何秒もかかった。
「……好きだよ、祐華」
唇が離れると、聴いたことのない慎の声音が、鼓膜を通り越して脳を甘く揺さぶる。
破裂するのではないかと思うほど、心臓は激しく高鳴っている。
「俺のことを色眼鏡で見ないで話してくれた女の子、きみがいちばん最初だった。すごく素直でいい子だって、……俺を『小説家と女優の息子』じゃなくて、『牧之原慎』っていう、一人の人間として見てくれて、嬉しくてたまらなかった。きみと話してると、俺は何も勘繰らなくていい。何も疑わずに、正直な気持ちでいられるんだ」
あとからあとから浴びせられる、包み隠さない言葉の雨に打たれたまま身動きできない祐華を、慎は強く抱きしめる。
「きみは俺にとって、誰よりも大事な人なんだ。いなくならなくて、本当によかった……」
「先輩……」
慎の身体が震えている。
祐華がおそるおそる彼の背中に腕を回すと、慎はほっとしたように大きなため息をついた。
「怖い思いしたのに、俺のわがままばっかり言って、ごめん。励ましたくってここに来たのに、顔見たら、すごく安心しちゃって……何喋っていいのか、わかんなくなっちゃったよ……」
彼の声に涙が混じり、やがてそれがすすり泣きに変わる。
祐華も受け止めきれなくなった喜びが涙に形を変えて溢れるのを、止めることができなかった。
(わたし、幸せになっていいんだわ)
慎の腕の中で、祐華は自分の心に残っていた、冷たく苦しい記憶の最後のひとかけらが溶けていくのを感じた。
(いままで、ずっと怖かった。いつか自分の幸せな毎日が、誰かに壊されてしまう気がして。あの子達が目の前に現れて、それが本当になってしまうと思ったら、逃げ出すこともできなくなるくらい怖かった。……でも、くるみちゃんが手を引いてくれた。先生たちが助けてくれた。お兄ちゃんも、みんなも心配して、一緒に怒ってくれた。……そして、慎先輩が、こんなに一生懸命励ましてくれてる。わたしはひとりじゃない。もう何も怖がらなくていい……これから先はずっと、怯えながら暮らさなくていいんだわ)
彼の肩越しにそっと目を開け、からっぽのスタンドを見つめる。
(ありがとう、わたしの命を守ってくれて。ちゃんと直してあげるから)
そう、ネックが折れたくらいで思い出は消えないのだ。
音が変わってしまっても、それさえ自分が幸せになれた一つの証のように思える気がして、彼女は目を閉じて微笑んだ。
慎の肩に頬を埋めて、祐華はため息をつく。
いつも夢見ていたことが現実になった嬉しさで、少し汗ばむくらいに身体が温かくなる。
「先輩、……わたしも好きです……初めて会った時から、ずっと……」
吐息と一緒にこぼれた祐華の言葉に慎は腕を緩めると、まだまつ毛に涙の残る、愛らしい彼女の明るい茶色の澄んだ瞳を見つめる。
「……ありがと。……ふふっ、可愛いな、祐華」
「え、……や、やめてください、……可愛いなんて、そんな……」
「ほんとだよ、すごく可愛い」
頬にかかった髪を指に絡げ、火照った耳元に息を吹きかけるように囁く、いつもより少しだけ低い慎の声に、祐華はただひたすらにうろたえることしかできない。
「さっきはごめん、……ねえ、もう一回、キスしていい?」
出てこない言葉の代わりにうなずいて返事をすると、彼は再び祐華の唇に優しくキスをする。
やがて、触れ合わせるだけでは物足りなくなったのか、彼は少しだけ彼女の唇をついばんだ。
いつか映画で観たようなキスになる予感がして、思い切って祐華も彼のまねをすると、思ったとおりにそれは、溶けてしまいそうなほど甘くて熱いくちづけに変わる。
淡いピンクのカーテンをほんのりと透かして入って来る冬の日差しをまぶたに受け、初めての感覚にめまいを起こしたようにくらくらしながら、二人はぎこちなくて拙いキスを味わう。
ひどく刺激的なそれは、二人の心を覆っていた『命を脅かされた恐怖』という薄暗い呪いを、跡形もなく消し飛ばした。
「……せんぱい……」
顔を離した後、彼にだったら何をされても構わない気持ちで、祐華は身体の力を抜いて慎の胸元へしなだれかかる。
「……ここから先は、きみが十八歳になってからにしようね」
今すぐに押し倒したい気持ちを堪えてどうにかその言葉を吐くと、慎は彼女の小さな顎を持ち上げて、桃色に上気したやわらかい頬に唇を寄せた。
「……お兄ちゃんも既読がつかない」
「バイト中じゃないの?」
「いえ、今日は当日休みとって、朝からずっと部屋に籠ってたみたいなんですけど……何してるんだろ?」
藤枝家に続く一方通行の道の角で首を傾げながら、紘輝にそう答えつつ、くるみはポケットにスマートフォンをしまう。
昨日の事件の影響で午後の授業と部活動が無くなったこともあって、二時前にくるみたちは祐華の見舞いにやってきていた。
「今さらですけど、すみません。わたしまで押しかけちゃって」
「いや、むしろありがたいよ。友達がたくさん来てくれた方が、祐華も気がまぎれると思うからね。どっちみち、明日は警察の人が話聞きに来るっていうから無理してでも学校来ないといけないんだし、勢い付けてやらないと」
麗の言葉に紘輝はそう笑って答えると、自宅のドアを開けた。
「ただいまー」
「おじゃましまーす」
どやどやと玄関から入って行くとき、何気なくガレージの奥のほうを見たくるみの視界に、オレンジの軽ワゴンの影に隠れるように停められた、見覚えのある黒いバイクが目に入る。
(あー……そういうことかあ)
既読がつかないわけだ、とくるみはひとり納得してから、友人たちに続いて靴を脱いだ。
階下で聞こえる物音と話し声に、慎と祐華ははっと我に返って、五回目のキスを慌てて中断する。
「……誰か来たね」
そう言いつつ咳払いして、慎は大きく深呼吸する。
「お兄ちゃんと……くるみちゃんの声だわ。軽音楽部のみんなかも」
「くるみ!?……やべ、あいつにバレたら面倒なことになる……」
鬱陶しげに頭を抱えた慎に、
「……バレちゃってもいいですけどね、わたし」
祐華はそう言ってくすくすと笑う。
「だめだよ、あいつが俺らをどうにかしようとしてたのはわかってんだ。あることないこと想像されんのは不本意だよ」
慎はそう言いつつも既に逃げ場がないことを受け入れ、せめて邪推をされないようにと立ち上がると、白いベースを手にした祐華を眺めて微笑んだ。
「どう? 今まで使ってたのと比べて、少し弾き心地が変わったと思うけど、使いこなせそう?」
「はい。……改めて、ちゃんと弾いてみたら、全然響きが違いますね。前にも弾かせてもらってたし、興津先生のベースを聴いてわかってはいたんですけど、やっぱり不思議な感じ……」
「その音の違いが面白いから、何本も持ってるのに、つい新しいのを買っちゃうんだって、先生言ってたなあ。……ふふっ」
「どうしたんですか?」
急に吹き出した慎に、祐華は首をかしげる。
「いや、もしも先生とくるみが結婚したらさ、そうやって新しいベース買うたびに、先生がくるみに叱られるんだろうなって思ったら……ははは……」
眼の前にその光景がありありと浮かんできたのだろう、大きな声で笑い始めた慎につられて、祐華も声を上げて笑う。
その二人の声が扉の向こう側から聞こえて、
「……なんだ。慎先輩、来てるんじゃないですか」
「祐華さん、笑ってらっしゃいますね」
階段を登ってきた高校生たちは顔を見合わせ、ほっとして肩の力を抜いた。
(ホント、お兄ちゃん、こういうときだけ行動早いなあ……)
譲り受けたベースを膝に抱え、にこにこと幸せそうに笑う祐華を見て、妹は実に兄らしい行動に微笑む。
「あの、本当にもらっていいんですか? 結構いいやつでしょう、これって……」
「いいですよ、弾かないんだったら、お兄ちゃんが持ってても宝の持ち腐れです」
恐縮する紘輝に、くるみが兄のかわりに晴れやかな気持ちで答える。
「いや、そうだけどもさ、お前が言うこんじゃないだろ……」
妹の隣で慎がため息をつく。
「牧之原先輩、お優しいですね」
「前から祐華ちゃんには甘いとこあったけど、ここまでとはね」
部屋の隅から見ていたミチルと太陽が顔を見合わせて、くすくすと笑う。
「少し元気になったみたいでよかった。膝の怪我もあるし、無理はしないでね」
「壊された方も、早く返してもらえるといいね。修理するなら早い方がいいだろうし」
麗と隆玄の言葉にうなずきつつ、祐華は膝の上の白いベースを撫でる。
(あのとき、……ベースを壊されたとき、初めて正面切って、心の底から言いたかったことが言えた。ほんとうは中学の時に言えればよかったのかもしれない。でも、言わないままでいるよりはずっといいわ)
自分の言葉に愕然としたような、かつての同級生の驚きでゆがんだ顔を思い出す。
(偉そうだったかな……でも、あのくらい言ってもいいわよね、もっとひどいこと、ずっと言われてたんだし、それだけのことをされたんだから)
それ以上のこと――殺されかけてもなお、折れてしまいそうになる心を、どうにか補強する。
無論、努力してもどうにもならないことはたくさんある。
だが、自分のやることがうまくいかないからといって、真摯に日々を生き、努力が報われて幸せになった者を、あらゆる暴力で引きずり下ろし、嘲笑って踏みつけにしていいはずがない。
それだけは人として、間違ってはいけないのだ。
そのことをもう一度、意識の中心にしっかりと据え置いた後、
(あの子はわたしを殺そうとした。……もう、日の当たる道には、戻って来れないんだわ)
祐華はやっとそう思い、同情しそうになった自分自身に歯止めをかけた。




