第39話
「……エレアコ、あんなにいいお値段するなんて思わなかったっけ……」
下りのエスカレーターの上で、うなだれたくるみが絶望を隠さない声色で呻く。
「本体だけじゃなくてシールドやアンプも揃えないといけないし、そうなったら貯金とお年玉合わせても絶対買えない……どうしたらいいのかなあ……」
肩を落としてしょんぼりとする妹に、
「お前にはまだ早いってことなんじゃないの?」
慎が追い打ちをかける。
「もー、うるさいなあ、お兄ちゃんがバイト代で買ってくれてもいいのに」
「絶対やだ」
「けちー」
すっかりむくれてしまったくるみに、後ろに立っている興津が苦笑する。
「まあまあ。鬼が笑う話になるけども、来年の文化祭に間に合えばいいんだろう? それまで頑張ってお小遣いをためなさい。上手くやれば普通のアコギでも、マイクで音は拾えるから、中庭ライブくらいならなんとかなるよ」
「うう……」
「それに、まずは『スタンド・バイ・ミー』以外にも弾けるようにならないとな。ちゃんと教えてあげるから、焦らないで、まずは出来ることからやっていこう」
「はーい……」
彼の言葉に渋々うなずくと、くるみは先にいる紗雪の後ろ姿を見て、大きなため息をつく。
(いいなあ、紗雪ちゃん。すごくかわいいの買ってもらえて。しかも右利きだからデザイン選び放題なんだもの……レフティモデルってお高いし、ほんとに少ないなあ)
自分を悩ませる種々の事柄が悲しくなって、くるみは自分の左手を眺めた。
「なあ、紗雪ちゃん、なんで急にギター始めようと思ったんだ?」
「え……」
紘輝の質問に、右手にハードケースを持った紗雪は、ためらったようにしばらく黙った後、
「……弾いてみたい曲があって、……それだけです」
ぽつりと答えた。
「そっか、大事だよなあ、その気持ち。俺もそうだったっけ」
敢えてそれ以上踏み込まないことにしたのだろう、紘輝はそう言って微笑む。
「勉強の合間の気分転換にもなるだろうし、紗雪ちゃんだったらきっとすぐに上手くなるよ。無理はしないで頑張ってな」
「はい……」
うつむいてしまった妹の背中を、隣に並んで歩いていた隆玄がぽんぽん、と叩く。
「あんまり思い詰めんなよ、楽しくやれ。まずはそっからだ」
「うん……」
兄の言葉にうなずくと、妹はまた黙って、うつむきながら歩みを進めた。
「……なあ、瑠菜。それ買っていったいどうすんだよ」
集団の最後尾で楽器店の紙袋を手にしてうきうきと歩く瑠菜に、太陽が呆れた様子で声をかける。
「え、ガッコの子っちとカラオケ行ったら使うよ?」
「使いどころがわかんねーだろ、スライドホイッスルとクラクションなんて。まだタンブリンとかマラカスの方が理解できるけど?」
「えー、これ間奏で鳴らしたらバチクソウケると思うんだけどなー」
「ほんと、お前の感覚ってよくわかんねーな……」
自分の言葉を気にも留めずすっかりご満悦の瑠菜に太陽は肩をすくめると、隣を歩くミチルを見た。
「どうだった? キーボードだけじゃなくって、シンセサイザーも触ってみた感じは」
「うーん……音を作るところから始めなければいけないので、奥が深すぎて沼にハマってしまうような気がして……あまり気軽に手が出せないですね」
「でも、ミチルだったらやればできるんじゃないかな? エレクトーンだって似たようなものだろ?」
「いえいえ、店員さんにご説明いただいたんですが、全然違います。わたしには敷居が高いなと……それよりはポータブルキーボードや、ショルダーキーボードの方が気になりました。ライブや演奏会のたびに、毎回部室のキーボードを持ち運ぶのは大変ですから」
「確かにね。でも、ミチルがキーボードなんて背負ったら、潰されちゃいそうで心配だな」
「まあ」
背丈がやっと150センチあるかないかという小柄な彼女は、彼の冗談に困ったような笑みを浮かべた。
「あ、そうだ。この後みんな時間ある?」
駅前のロータリーまで歩いたところで、慎が思い出したように声を上げる。
「え、とりあえず大丈夫っすけど」
「なんですか?」
「いや、父さんからくるみのことで、みんなにお礼しなさいって言われててさ、うちのおごりでみんなで一緒に食事に行こうと思ってるんだ。都合悪い人いる?」
「いいんですか?」
「うん、昨日父さんに話したら、こんだけ人が集まることもそうそうないだろうからって。麗ちゃんと紗雪ちゃんも遠慮しなくていいよ。あ、興津先生も人数にカウントされてるんで、帰るってのはなしでお願いしますね。来てくれなかったら俺とくるみが叱られますから」
「ええっ?……困ったなあ、そういうのは誤解を招くから、断ってるんだけどな……」
有無を言わさない慎の態度に、興津が弱った顔をする。その隣で、
「ちょっと待ってお兄ちゃん、その話わたしが聞いてないんですけど!?」
全くの寝耳に水の話に、くるみは大声を上げた。
「当たり前だ、いまお前に大金なんて持たせたらエレアコ買っちゃうだろ」
「ひどーい!! そんなことしないもん!!」
「まあまあ、くるみちゃん落ち着いて……」
憤慨するくるみを祐華がなだめた。
「で、どうします? 先生?」
「いいじゃないですか。長い教師人生、こんなことも一度くらいはありますよ」
「そうそう、合宿の時だってミチルちゃんにお世話になったじゃないすか、今更っすよ」
「ここで先生だけ帰っちゃったらみんな興ざめですよ、たまには空気読んでも罰は当たらないですって」
慎に追随して上級生三人が興津を説得する。
興津はしばらく悩んだ後、隣でずっと彼を懇願の眼差しで見つめるくるみをちらと見て、
「……わかった。でも、私がいたことは黙っててくれると助かるな」
そう言って申し出を受けることにした。
「よかった、ちょうど夕食の時間ぎりぎりに入れて」
「あと五分遅かったら待たされてましたね」
レジ前に座って順番待ちを始めた他の客を見ながら、慎と祐華がコートを脱いで席に着く。
彼らは駅前から少し離れた場所にある、広い駐車場の回転寿司屋に足を運んでいた。
「回転寿司なんて初めてです……こうなってたんですね、お店の中」
「あはは、ミチルちゃんは回らない寿司屋の方が慣れてそうだね」
「まあ、もうだいぶ前からこっちも回らなくなっちゃいましたけどね。いろいろあったから」
店の様子にいたく感動しているミチルを見て、紘輝と太陽が肩をすくめて笑う。
「あの、本当にわたしまで、ご馳走になってしまっていいんですか……?」
麗が恐縮しながら慎を見遣る。
「うん、だってくるみの友達だろ? こいつ、ストレートに物言いすぎるし、やることなすこと突拍子もないから友達少ないんだよ。いつも仲良くしてくれてるお礼とお詫び、ってことで」
「……お兄ちゃん、何かさっきからわたしにひどくない?」
「ひどいもなにも、事実だろ」
「……やっぱ、すっごく意地悪いな……ムカつく」
くるみはむすっとしたまま、ひたすら苦笑している祐華の隣に腰掛ける。
「あ、えーと……じゃあすみません、お言葉に甘えて」
「麗ちゃんも否定してよー!」
なんとも言えない微笑みを浮かべたまま、麗は隆玄のいるテーブルに行ってしまう。
「紗雪ちゃんもどんどん食べてね、隆玄みたいに魚嫌いじゃないでしょ?」
「はい、……ご馳走様です」
通路をまたいだ慎の声に、隆玄の斜向かいに座った紗雪がこちらを見て頭を下げた。
「先輩、お寿司屋さんで食べれるものあるんですか?」
「肉寿司があるからへーき。ラーメンもフライドポテトもアイスもあるし」
早速注文用のパッドをタッチしながら、心配そうな麗に隆玄はうきうきと答えた。
「なんかすみません。あたし、いーかげんなアドバイスしただけなのに」
荷物を置いた瑠菜が、わざわざくるみたちの席までやってきて頭を下げる。
「いやいや、瑠菜ちゃんがくるみにいろいろ教えてくれてなかったら、本当に危なかったよ。ありがとう」
「本当にありがとうございました、パイセン」
兄の言葉にくるみは頭を下げる。
「今日は遠慮しないで、思いっきり食べてね」
「はい、そんじゃ、お言葉に甘えて、今日はゴチになります!」
びしっと敬礼してから、瑠菜は太陽とミチルが並んで座る席の向かいに戻った。
「……そろそろ先生、戻ってくるかな」
そう言って慎はレーンの向こう側に見える駐車場を見るが、学校に車を取りに戻った興津がやってくる気配はまだない。
「先に始めてようか、好きなの選んで」
慎はそう言って、祐華にパッドを渡す。
「くるみちゃん、一緒に選びましょ」
「うん」
祐華と一緒にパッドを覗き込みながら、くるみは今か今かと彼がやってくるのを待っていた。
「あれ、興津君。お疲れ様」
「あ、教頭先生、お疲れ様です」
駅前から夕暮れの中を歩いて、学校の駐車場に戻ったところで興津は瀬戸と鉢合わせた。
「これからうちに帰るだか?」
「いえ、ちょっと食事をしてから……」
誰と一緒とは言わないが事実は伝えなければと思い、興津は半分正直に答える。
「ははは、一人もんは気楽でいいっけねえ。俺なんかちいっとコンビニ寄っただけで、嫁さんっちからいろいろ言われちまうでさ」
「いえいえ、言ってもらえる人がいないのはやっぱり寂しいですよ」
適当な相槌を打ち、互いに愛想笑いを交わしつつ、車の鍵を開ける。と、
「ああ、そうだ。ここで会ったついでだ、興津君、ちいと大事な話がある」
瀬戸が不意に何かを思い出したように、興津を呼び止める。
「はい、……何でしょう?」
くるみとの関係がばれていないことを祈りつつ、彼はいったんかがめた背を伸ばして、瀬戸に向き直った。
「あ、先生」
はす向かいで七皿目を平らげた慎の声にくるみが通路を振り返ると、ダークグレーのコートを脱ぎ、黒いカバンを持った興津が歩いてきた。
「悪いっけね、遅くなって」
彼は冬のにおいの空気をかすかにまとったまま、くるみの隣で立ち止まり、向かいに腰掛けて足元に荷物を置く。
「おかえりなさい」
「お疲れ様です、お先に始めてます」
周りのテーブルから聞こえる声に、興津は目配せで応えた。
「はい先生、注文どうぞ。遠慮しないでくださいね」
「ありがとう。それじゃあ今日は、ご馳走になります」
くるみの差しだしたパッドを受け取りながら、彼は頭を下げる。
「先生、ボタンエビ美味しかったですよ、おすすめです」
「そう? じゃあまずはそれにしようか」
目の前にお互いがいることに、同じだけの幸せな気持ちを感じていることが隠せない笑みを浮かべて、二人は見つめ合った。
くるみが六皿目に三回目の炙りサーモンを頼んだとき、
「……そうだ、さっき教頭先生から聞いた話なんだけど、君たちにも伝えておこう」
緑茶を一口飲んで、興津が不意に厳しい目つきになった。
「今日、私たちが下校してからなんだが、部活終わりの時間頃、うちの学校の前に他校の生徒がたむろしていたみたいでね。それがあんまり柄のいい子たちじゃなかったらしいんだ」
「え、ヤンキーですか?」
「くるみ、言い方言い方」
ストレートに聞き返したくるみを慎がたしなめる。
「いや、牧之原の言うとおりで合ってるよ。改造した原付で乗り付けてきたらしい」
「うわあ、ださっ」
「だからお前……」
隣で頭を抱えた慎に、興津は苦笑いする。
「いいよ、面と向かって言ってるわけじゃないんだから。……いや、でも笑い事じゃない。大井先生が竹刀を持って出て行ったら逃げて行ったらしいが、それまでの間ずっと校門に張り付いて、そこを通る生徒一人一人の顔を見て何か話してたそうだ。一応警察には話してあるから、見廻りはしてもらえるみたいだけど、また来るかもしれない。見かけても、うっかり目を合わせたりしないように気を付けなさい」
「……嫌ですね、どこの学校なんだろ?」
箸を置いてくるみは眉をひそめる。
「あれじゃないかな、この辺からちょっと離れたとこにあんまり雰囲気良くない高校あるだろ。たぶんそこだ」
小皿にパックからガリを出しながら、慎が声をひそめて言う。
「え、なんでわかるの?」
「前もトラブルがあったからな。俺が一年の時、そこの生徒に二年生が修学旅行先で因縁つけられて、ケンカ沙汰になったんだよ。その頃はまだ、聖漣も生徒のガラが悪かったからね」
「そんなことあったんですか……やだわ……」
慎の話に祐華が怯える。
「うん、向こうの先生も一応気をつけてくれてるみたいなんだけどさ、学年によっては手が付けられないらしくって。その時はちょうど当たり年だったみたい。それから、そこの学校と絶対に日程を合わせないように、うちの学校は修学旅行を秋から年明けに変えたんだ」
「へえ、何か変わった時期に行くなーって思ったけど、そんな理由があったのか……」
兄が二月に沖縄に行ったことに、ようやくくるみは得心がいった。
「その話は私も聞いたな。まあ、確実にそこの生徒とは限らないけど、部活動が終わる時間をきっちり狙ってきているのが怖い。たぶんうちの生徒の誰かが連絡を取って時間を教えたんだ。向こうは特定の誰かを狙ってるんだろう。まさか君たちがターゲットってことはないだろうが、万一絡まれたらすぐに校舎の中に逃げて、教職員を呼びなさい」
興津の言葉にくるみと祐華がうなずいたとき、注文した品物がレーンを流れる合図が鳴った。
「うふふ、炙りサーモン来た」
祐華に到着した皿をもらってから、くるみは少なくなった醬油を小皿に出して箸を取る。
「くるみ、お前それ、同じもん三皿目だろ、少しは自重したら?」
慎が呆れて笑いながら、自分の注文を始める。
「いいじゃない、美味しいものは何度食べても」
好物を前に幸せそうな彼女を見て、興津はふとある歌を思い出して笑う。
「『SUSHI食べたい』って曲にあったけど、女の子はやっぱりサーモンが好きなんだな」
意外な曲名が彼の口から飛び出してきて、くるみは思わず吹き出す。
「もう、たまたまですよ。じゃあ先生は寿司ネタ、何が好きなんですか? 歌の通りなら、男の人だからやっぱりから揚げとか?」
「いや、玉子かなあ」
「あはは、子供だー」
興津の答えを嬉しそうに笑うくるみを、慎は少しだけ寂し気に見つめる。そして、
「え、二人とも何の歌の話してるの?」
「PV見る? 動画サイトに公式のがあるよ。結構強烈だけど、中毒性がすごいっけ」
きょとんとしている祐華に向き直るとそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。
食事が終わり、くるみたちは駐車場に向かう興津を見送る。
「牧之原、今日はご馳走様。お父さんにもよろしく伝えてくれ」
「いえ、どういたしまして。くるみのこと、本当にありがとうございました」
「いいんだよ、私は当たり前のことをしただけだ。……それじゃあ、みんなも気を付けて帰りなさい。お疲れ様」
お疲れ様です、と口々にかけられるあいさつにうなずくと、夕方よりもきつくなった北風に、少し伸びた髪とコートの裾をなびかせて、彼は踵を返す。
「先生、気を付けて帰ってくださいね。おやすみなさい」
くるみが手を振りながら声をかけると、彼は立ち止まって振り返り、
「ああ、おやすみ」
そう言うと優しく微笑んで、彼女に手を振り返した。
(どうか、今夜もあなたが眠れますように)
彼の不眠症が少しでも軽くなるよう、ロングコートの背中にくるみは祈った。
「慎先輩、今日は本当にご馳走様でした」
駅に向かう道すがら、紘輝が慎に頭を下げると、慎は手を振ってそれを止めた。
「いや、いいって。ていうか紘輝、実家継ぐのやめるだなんて、急にどうした?」
「東京の専門に行って、ギターの勉強ちゃんとしようと思って……やっぱ、諦めきれなくて」
「そっか、……いいんじゃない。お前、ギターだけはガチだもんな」
「えええ、だけってなんですか、だけって」
風に吹かれながら肩を並べて笑い合う紘輝たちの後ろで、くるみと祐華は先程、興津から聞いた話を、かいつまんで太陽とミチルに話した。
「あの高校かあ……父さんが嘆いてたなあ、あそこに入った子は間違いなく剣道やめるって」
「働いていらっしゃる先生方も、きっとご苦労されてるでしょうね」
それを後ろで聞いていた瑠菜がため息をつく。
「ウチのガッコも通信だから、それなり色んな人いるけどさ、あそこは根っこが違うんだよね……なんかこう、中学時代からずっとこうだったんだろうなーって子が寄せ集まってる感あるから、ウチのヤンキーがマイルドに見えるっけ。バイト先でもマナーが悪い高校生の客はたいていあそこの子でさ、使った後の部屋、めっちゃくちゃ汚いんだ。しかもラブホ代わりにされてるっぽくって、結構な確率でキモいゴミもあるし、片付けで当たるとマジ憂鬱」
「うああ、それは嫌だ……」
瑠菜の愚痴に、くるみは思わず顔をしかめた。
「まあ、先生が出てったら逃げたってことは、イキってるだけで喧嘩は弱いんだろうけど、しばらくの間、校門出るまではみんなで固まって帰ったほうがいいかもな。気を付けよう」
夜の車道に白い息を吐きながらそう気を引き締めた太陽の言葉に、くるみは身をすくめる。
「はあ……どうしてこう、怖いことばっかり続くのかなあ……平和な日常はいつ来るんだろ……普通に授業受けてご飯食べて部活するだけの生活がしたい……」
「大丈夫ですよ、警察の方が見回りに来てくださるんですし。自分から関わり合いにならなければいいだけです」
「うん……」
ミチルに励まされつつもげんなりするくるみの隣で、祐華はふと、あることを思い出す。
(……うちの中学から、あそこに行った子が何人かいたわ。記憶が間違ってなければ、制服改造してた子っちと、わたしを一番、目の敵にしてた子……)
瑠菜の話に恐ろしいほどの説得力が出て、北風に吹かれる以上の寒さで体が震える。
(考え過ぎよ。わたしが聖漣受かったってこと、担任の先生以外に言わなかったもの)
その時、また別のことを思い出して祐華の足が止まる。
(でも……なんであの子たち、わたしの出身中学……)
くるみを待つ間に受けたクラスメイト達からの質問は、ひょっとしたら――
「祐華ちゃん?」
「ゆかっち、どしたー?」
くるみと瑠菜から呼ばれて、祐華ははっと我に返る。
「あ、……ううん、何でもない」
(まさかね、……そんなことないわ。だってもう、終わったことなんだもの)
沸き起こる恐怖に蓋をして、祐華は再び歩きだした。
「リード代、言ってくれたら俺が出したのに」
「結構です。貸し借りはしたくないので」
「えー、彼氏なんだからさぁ、ちょっとくらいおごらせてくれたっていいじゃん」
「部活で使うものは自分でお金出すって決めてるんです、余計なことしないでください」
「ほんと意地っ張りだなぁ、麗ちゃんは。まぁ、そこが可愛いんだけどね」
「……馬鹿にするのやめてもらえませんか?」
なんとかして世話を焼きたい隆玄と、それを意地になって拒む麗の隣で、紗雪は右手に一つ、新しい重さの荷物を持って歩く。
(どうしよう、今日、楽しいって思っちゃった。もう絶対、そんなことないと思ったのに)
ギター売り場でハート型のサウンドホールのアコースティックギターを見つけて大はしゃぎしたすぐ後に、それが左利き用ではないことに気が付き思い切り落胆するくるみを見て、紗雪は思わず吹き出してしまった。
試奏用のギターで『バンビーナ』のギターソロを完璧に演奏して周りをざわつかせた紘輝や、難しそうなベースラインをさらりと弾いて店員から拍手をもらっていた興津の姿に、自分が吹奏楽部でアルトサックスを吹いていた頃を思い出して、胸が熱くなった。
夏の終わりからずっと心を縛っていたものが、また一つ消えたのを感じる。
(『あの歌』を聴いたときみたいに、少しだけ楽になった。……でも、楽になっていいのかな。今日みたいに何かを楽しいって思っても、私は許してもらえるのかな。それは、間違ってないのかな。……ねえ、どうなんだろう?)
白い息を吐きながら見上げた冬の夜空は、街の明かりに照らされて、カシオペア座だけがぼんやりと見える。
(もう一度会って話せたら、なんて言うんだろう。……本当に、会えたらいいのにな……)
机の引き出しにしまったきり、開けないままの封筒を思い出し、また白いため息がこぼれる。
(……聖漣受かったら、軽音楽部に入ろう。あの歌が歌えるようになるまでの間だけでいいから。少しでも早く上達したい)
前を歩く高校生たちの背中を見て、紗雪はまた、北風の中に胸に凝った暗い熱を吐き出した。




