第4話
四月の体育館の中は、まだわずかに肌寒い。
それでも全校生徒が集まればそれなりに熱気があるもので、新入生歓迎会が始まってから二十分も経てば、じんわりと空気が上から温まってくる。
前半の運動部の室内ゆえに地味になるパフォーマンスを退屈な気持ちで眺めながら、くるみは底冷えする床の上でほんのりかじかむ爪先に難儀していた。
(早く軽音楽部の順番、来ないかなあ)
向こう側で吹奏楽部が準備を始めているから、もうそろそろ文化部のターンだろう。
また興津の演奏がステージで聴けると思うと、くるみは待ち遠しくてたまらなかった。
(昨日、結構練習したけど、上手くできるかな……)
まさかフルコーラス歌わされることもないだろうとは思いつつ、とりあえず全部間違えず歌えるようになるまでさらっておいたのだが、つっかえないかどうしても不安だ。
(まあ、初めてきちんと弾き語りするし、そこはしょんないよね)
抑え気味にあくびを一つする。
喉を傷めないよう、歌の方はそこそこでやめておいたが、ピアノだけはきっちり仕上げたくて夢中になって弾いているうち、日をまたいで午前一時になってしまっていたことを思い出す。
(眠い……)
吹奏楽部の演奏が始まる。
(あー、これ、お母さんのiPodに入ってた曲だ……何だっけ……)
コンクール向けの丁寧なメロディと、きちんと形の整えられた演奏に眠気が増す。
(……だめ、寝ちゃいそう……)
心地よくなるということは、ここの吹奏楽部はそれなりにレベルが高いのだろう。
(軽音楽部じゃなかったら、吹奏楽部に入ってたかもなあ。……でも、厳しいのやだし……まあ、そもそも興津先生に出会ってなければ、ここに来たかもわからないし……)
くるみの意識はそこで途切れた。
「吹奏楽部の皆さん、ありがとうございました」
拍手とマイクの音声で、くるみははっと目を覚ます。
(うああ、完全に寝てた……!)
慌てて体を起こし、口元によだれがついていないか確かめてから、とってつけたように拍手に加わる。
(目が覚めない……このまま静かーな音楽続いたら、また寝落ちしそう……)
あくびをかみ殺しながら拍手を終えて、姿勢を正す。
壇上でマイクを受け取った吹奏楽部の顧問と思しき教師が、新入生を見渡して口を開いた。
「えー、吹奏楽部は現在、二年生が二十五人、三年生が二十人の、計四十五人で活動しております。大変名誉なことに……」
(やっぱりこういう学校だと、吹奏楽は人数多いなあ……)
想像以上の大所帯ぶりに、くるみは夢うつつになりながらも驚いた。
(軽音楽部は人数少なそうだから、和気あいあいとできたらいいな……でも、お兄ちゃんがダラダラしたくて来た人がたくさんいたって言ってたから、今年もそうなるのかな……)
まだまだ続く吹奏楽部の顧問の長い話をBGMに、目の前で入れ代わりに合唱部が準備を始め、くるみはそこでまた意識が途切れそうになる。
(あーだめだ、これは合唱部の歌、子守歌だ。確実に寝ちゃう……)
瞼が重くなるのを必死で堪えていると、隣からひそひそと祐華が声をかけてきた。
「くるみちゃん、大丈夫?」
「うん……ちょっと眠いだけ……」
やっと終わった話の後の拍手に紛れて、くるみはもにょもにょと答える。
「祐華ちゃん、先生来たら起こして……」
「えええ……」
祐華が若干引くのを無視して、くるみはパイプ椅子の背もたれに深々と体を預けた。
「合唱部の皆さん、ありがとうございました。次は軽音楽部の皆さんです、準備よろしくお願いします」
「!」
『軽音楽部』という単語で、くるみの意識は一気に目覚める。
「起きた?」
祐華が苦笑しながら聞く。
「うん」
「合唱部の歌、よかったわよ」
「うん、夢の中まで聞こえた。『COSMOS』」
くるみの冗談に祐華は吹き出した。
「歌ってないわよ、それ。もう、思いっきり寝てたでしょ」
「ばれたか」
「バレバレ」
くるみは笑って肩をすくめると、今度こそ覚醒のための大きなあくびをした。
「あ、あの青いギター持ってるのが、わたしのお兄ちゃん」
「うん? そうなんだ」
ダークブルーのギターを肩から下げた少年を指さして、祐華が笑った。
しかし、くるみの視線はその後ろに颯爽と現れた興津の姿に、あっという間に釘付けになる。
『昨日も思ったけど、背が高いんだなあ、先生』
黒いスラックスと白いワイシャツ、グレーのネクタイという出で立ちに、青みがかった黒いボディの左利き用ジャズベースを抱えて立つ興津は、今日もくるみの胸をときめかせた。
(足も長いなあ……やっぱりカッコいい、何回見ても素敵)
思わず知らず、満面の笑みが浮かぶ。
(ファン多そうだな、……っていうか、彼女とか、いたら嫌だな……いないといいな)
今になってちくりと胸を刺したつまらない考えをすぐさま抜き取って、くるみは彼を見つめた。
ドラムの後ろに座った眼鏡の少年が両腕を上げ、スティックを打ち鳴らしてリズムをとる。
祐華の兄のギターから放たれた、有名すぎるリフが耳を刺す。
(『Smoke On the Water』だ!)
くるみは思わず立ち上がりそうになって、慌てて姿勢を戻す。
イントロだけでその場にいた全員がざわついたのがわかる。
隣の祐華を見遣ると、エアギターならぬエアベースを構え、弾き始めを待っている。
吹奏楽と合唱ですっかり温まったところに鳴り響いたエレキギターは、あっという間にみんなの心を掴んだようだ。
やがて、興津のジャズベースから身体の奥が揺れるような低音が鳴り響く。
(うわあ……やっば……カッコ良すぎて死にそう……)
文化祭の時に聞いたバイオリンベースとは違うソリッドな音色と、何より楽しそうにそれを奏でる彼の姿に、くるみは改めて魅了された。
しかし、彼女はこの部が抱える致命的な欠点を知っている。
(そろそろ歌い出しだ……)
完璧とまではいかなくても、それが少しでも改善されていることを彼女は願った。
(……そう。問題は、ボーカルなんだよね……)
演奏が終わり、明らかに盛り下がってしまった空気が自分の事のように悲しい。
メインで歌っていたのは祐華の兄なのだが、声が完全に楽器に負けていたのだ。
特に今回は歌詞が英語だったことも災いしたのか、何を歌っているのか全くわからなかった。
それなりにトレーニングはしているのだろうが、高音になると毎回必ず裏返る声に、くるみは内心ひやひやした。
ギターの腕前が良いだけにそこが非常にアンバランスで、なんとも物足りない気持ちになる。
(すごくもったいないなあ、演奏はみんなキレッキレなのに……)
果たして今の歌で自分と祐華以外の新入生が来るのか、甚だ疑問だった。
マイクを司会の生徒に渡された興津が口を開く。
「新入生の皆さん、最後まで聴いてくれてありがとうございます。私は顧問の興津です。今日はベーシストがいないので私が参加しましたが、今、この部は三人で活動しています。本年度、入部してくれる人数によって、今後の活動方針も変わってくるので、難しいことは抜きにして、楽器を演奏したい人、歌いたい人は是非一度、見学に来てください」
拍手と同時に深く頭を下げると、彼はマイクを返してステージから去って行く。
(終わっちゃった……)
今日のメインイベントのひとつが終わってしまった寂しさに、くるみは深いため息をつく。
(……やっぱり、すごくカッコいいな、先生。また観られてよかった)
片付けられて空になっていくステージを眺めながら、彼女は先程の彼の姿を思い返して、幸せな気持ちで笑みを浮かべた。
放課後という名の昼休みが始まると、くるみはギグバッグを背負った祐華を伴って、購買部に足を運んだ。
「本当にあるんだね、購買って」
「うん、わたしも漫画やアニメでしか見たことなかったもんで、なんか不思議な気分だわ」
「飲み物買えなかったら、自販機で買おっか」
「そうね」
初めてのことだらけで楽しくて仕方ない二人は、きらきらと会話を交わしながら廊下を進む。
すると、
「おーい、祐華」
向こうから、先程の青いギターの少年が手を振っているのが見えた。
「あ、お兄ちゃん」
速足で近寄ると、妹よりは幾分か面長でシャープながら、パーツの形はほとんど変わらない面差しが目に入る。
やはり癖のある柔らかな黒髪を額の上に躍らせて、彼はこちらに近づいてきた。
「これから昼飯か?」
「うん。お兄ちゃんは?」
「俺もこれから反省会兼、昼休みってとこかな」
彼はそう言うと一瞬苦笑いし、すぐに言葉を続けた。
「そっちは? あ、もしかして、昨日言ってた、慎先輩の妹さん?」
「うん」
「そっか。こんにちは、初めまして。祐華の兄の紘輝です。お兄さんには在学中、本当にお世話になりました。……まあ、今も毎日、チャットでやり取りはしてるけどね」
彼は自己紹介すると、屈託のない笑みを浮かべる。
「あ、ど、どうも、初めまして、牧之原くるみです。こちらこそ兄がお世話になってます」
「……へえ、確かにいい声だ。これは心強いな」
紘輝はふむ、と息をつく。
「もう噂になってるよ。一年生にアイドル声優みたいな声の子がいるってね」
「は!?わたしがですか!? うああ、そんな、やめていただきたい……」
唐突かつ斜め上な誉め言葉にくるみは素直に喜べず、ただただ動揺した。
「うん。いやー、興津先生もいい人材をスカウトしたなあ、これは軽音楽部に革命が起きるかもしれん」
困惑するくるみを尻目にほくほく顔の紘輝を、
「お兄ちゃん、大袈裟。くるみちゃん困ってるからやめてよ」
祐華がぴしゃりと諫める。
(あ、身内に厳しいタイプか、祐華ちゃん)
いつものふわふわした喋りと全く違う声のトーンに、くるみは笑いを堪えた。
「ああ、うん……ごめん、あんまりプレッシャーかけちゃだめだよな、気負わずに行こう」
そうして、どうやら紘輝は妹に逆らえないようだ。
なんとなく彼の人となりがわかって、くるみの肩から少し力が抜ける。
「ていうか、せっかくだから部室で一緒に飯食おう。二人とも入部希望だもんな? 興津先生もすぐに来ると思うでね、ついでに反省会も覗いてってくれ」
「やだ、なんかお通夜みたいになってそうで」
「えええ……お前、言い方」
祐華の辛辣な一言に、さっき彼女が自分に引いたときとそっくりのリアクションをする紘輝を見て、くるみはしみじみと二人が兄妹だということを感じた。
購買部で最後のひとつのフルーツティーを買うことができたくるみは、紘輝に連れられて、祐華と一緒に西棟の階段を上る。
「そうだ、……えーと、なんて呼べばいい?」
紘輝はくるみを呼ぼうとして戸惑う。
「牧之原でもくるみでも、どっちでもいいです」
「あ、じゃあ……慎先輩とごっちゃになるから、苗字はやめて下の名前で。えーと、くるみちゃん、でいいかな」
「はい」
人気のない廊下を歩きながら、紘輝は話を続けた。
「なんか今日、みんなの前で歌うって話だけど、それ先生が勝手に言ってないか? 興津先生、真剣になると見境ないもんでさ、迷惑だったら断ってもいいんだよ?」
「いえ、もう準備してきましたから。迷惑だなんて思ってないですし……」
「そっか。ならええけど、ああ見えて、結構な無茶振りする人だから気をつけてな。祐華もだぞ、多分お前、教わるときに先生とマンツーマンになったりするだろうけど、出来ないときは出来ないってきっぱり断れ。でないとハードルがどんどん上がるからな」
「う、うん。わかった」
真面目なトーンで気遣う紘輝の様子から、兄を含めてたった四人しか部員が残らなかった理由を、くるみはなんとなく察することができた。
(まあ、あっていきなり弾き語り要求するのも、無茶振りって言えば無茶振りか)
きっと、彼は熱くなると周りが見えなくなってしまうのだろう。
(今まで会ったことないな、こんな先生)
あの優しい雰囲気の彼の中にそんな強い情熱が秘められていることを知り、心が弾む。
(そういうとこも、好きかも)
くるみは不思議な胸の高鳴りに小さく笑った。
「お疲れー! お前ら喜べ、新入部員だぞ! しかも二人! これで同好会落ちは回避だ!」
部室の引き戸を開けると、紘輝は自分が一番嬉しくてたまらない様子で、中に声をかける。
「おお、やった! これでギターアンプ、もう一台でかいの買い足せますね!」
ステージでリズムギターをつとめていた筋肉質でしなやかな体つきの少年が、くるみと祐華を見て、素直な笑顔を浮かべる。
「ていうか祐華ちゃん、ほんと合格おめでとう! 今年やたら倍率高かったみたいじゃん」
「はい、でも、おかげさまでなんとかなりました」
「祐華ちゃんなら大丈夫だろうとは思ってたけど、実際に目にすると安心するねぇ」
「うふふ、ありがとうございます」
二人と面識があるのだろう、祐華は全く臆することなく笑いながら言葉を交わす。
「……で、もしかしなくても、そっちの子は先生が言ってた、慎先輩の妹さんすか?」
髪をワックスでつんつんと立てた、ひょろりと背の高いもう一人が、黒縁眼鏡のブリッジを押さえながら問う。こちらは先程ドラムを叩いていたはずだ。
「そうだ。一応忠告しとく、手えだすなよ」
「ちょっと、やめてください、初対面の子に人聞きが悪いこん言うの」
ギターの少年が生真面目に、しかし多分に冗談を含んだニュアンスで言葉を返す。
「てか、慎先輩と顔そっくりだから恐れ多いっすよ。俺なんてとても……」
行儀悪く机に腰掛けてメロンパンの袋を開けながら、眼鏡の少年が肩をすくめる。
「あはは、身の程を弁えててよろしい。ま、俺も人のこんは言えんっけね」
そう言うと、紘輝もカバンを机に置いて弁当箱を出した。
「二人とも、適当なとこに座って食べなよ。俺らのこんは気にしなくていいでね。自己紹介はあとで先生が来てからになるだろうしさ、楽にしてて」
「あ、は、はい……」
この部のカラーなのか、ラフで砕けたノリにすっかり押されてしまったくるみは、ぼそっと小さな返事をするだけで精いっぱいだった。
「くるみちゃん、あっちで食べましょ」
彼らの溜まっている場所の対角線にある机を指差して、祐華が困り笑顔を浮かべる。
「うん……」
固まりかけたくるみの手を引いて、祐華がそちらに歩を進める。
(わたし、上手くやってけるかな……)
兄とはまた違う、同じ年頃の男子との付き合い方に困り果て、彼女はため息をついた。
昼食を食べ終え、食後のフルーツティーを一口飲んだところで、
「お疲れ様。みんないるかな?」
教室の後ろ側の引き戸が開いて、興津が姿を現した。
「あ、先生、お疲れ様です」
のんびり座っている上級生とは対照的に、くるみたちはあわてて立ち上がろうとするが、
「いいって、そういうの。それにまだ食事中だろう」
彼に制されて元通りに着席した。
「伊東、行儀が悪いぞ。椅子に座りなさい」
「はーい」
興津に言われて、眼鏡の少年はおとなしく机から椅子に座る場所を変える。
『なんだか、先生っていうより、お父さんみたい』
くるみは彼らのやり取りを微笑ましく眺めた。
そしてすぐ、彼は後ろを振り向くと、
「さ、入って」
一人の小柄な少女を中に導き入れる。
豊かな髪をツインテールに結ったその少女は、ぺこりとお辞儀をしてから部屋の中を見回し、くるみと祐華の姿を見つけてほっとしたように頬を緩めた。
(あ、美少女だ)
くるみはもうひと口フルーツティーを飲みながら、本能的にそう思った。
どの角度から見ても非常に整った、品の良い顔立ちなのがよくわかる。
「あの子たちも君と同じ新入部員だよ、話してきたらいい」
興津に促されて彼女はこちらを見る。
くるみと祐華が手を振ると、ぱっと花が咲いたような笑顔を浮かべて、彼女はやってきた。
「あの、失礼します……お二人は、何年生でいらっしゃいますか?」
ツインテールの少女はおそるおそるといった風に話しかけてくる。
「一年生です。あなたも?」
祐華が答えると、
「よかった、わたしもです」
心底ほっとした笑みを浮かべて、彼女はすぐそばの椅子へきれいに足をそろえて腰かけた。
「何組?」
「三組です。あなたがたは?」
「わたしたちは二人とも二組」
度々自宅に部員が練習に来ていたおかげでこの空気に慣れているのだろう、祐華は普段よりも受け答えがしっかりしている。
「初めまして、わたし、菊川ミチルと申します。よろしくお願いします」
彼女は自分から名乗ると、丁寧に頭を下げた。
「初めまして、藤枝祐華です」
「あ……初めまして、牧之原くるみです」
祐華に倣ってくるみも頭を下げる。
「あの、お二人は、どんな楽器を嗜まれていらっしゃるんですか?」
きっと素でこういう話し方しかできないのだろうという空気を纏ったまま、ミチルは上品な言葉遣いで質問を投げかけてきた。
「わたしはベース。菊川さんは?」
祐華の問いに、ミチルはにっこり笑って答える。
「わたしはピアノを……」
「えっ」
「えっ?」
予想外の事態に、くるみは再び凝固してしまった。
その反応に一瞬きょとんとし、すぐに何かくるみに都合の悪いことを言ってしまったと気付いたミチルが、口を噤んでうつむく。
合間に挟まれた祐華は二人を交互に見るが、いい言葉が思い浮かばなかったのか、そのまま縮こまってしまった。
非常に気まずい空気が流れ、会話が完全に止まる。
「どうした?」
様子のおかしい彼女たちのところに、興津がやってくる。
「……あの、先生、わたし、ピアノでいいんですか……?」
半分泣きたい気持ちのまま、くるみは興津を見上げた。
「……あー、牧之原の言いたいことがわかったぞ。菊川と被ったって思ってるんだろ」
おたおたするくるみと、気まずさに拍車がかかった様子のミチルを見て、興津は柔らかく笑う。
「二人とも大丈夫だ、キーボードとピアノで分担すれば問題ない。両方ないと成り立たない曲なんてごまんとあるから安心しなさい。むしろサウンドに厚みと幅が出るから、ツインピアノだって構わないくらいだ」
彼の言葉にほっとするのと同時に、頬が熱くなるのをくるみは感じる。
ミチルも胸をなでおろした様子でくるみと目を合わせ、にこっと笑う。
ややこしい事態になる前に問題が解決したことで、祐華も安堵の息をついた。
「三人とも頼んだよ。今のこの部は、誰か一人でも欠けたら成り立たないからね」
「「はい」」
きれいに揃った返事が可笑しくて、三人は笑った。
興津は時計に目をやる。
「さて、そろそろ準備をしようか。机を片付けて楽器を出そう。……ああ、そうだ。牧之原、ちょっと来なさい」
「え、あ、はい」
興津に呼ばれるまま、彼女はそのあとをついて部室を出る。
廊下に出ると、厳しい顔をした興津が腕を組んで立っていた。
「牧之原。さっきの歓迎会の時、寝てたな」
「!」
身体が竦んで動かなくなる。
「演奏中に居眠りするなんて失礼だろう。理由は何だ?」
「……」
正直に言ってはいけない気がして、黙ってうつむく。
「体調が悪いなら、今日は無理に歌わなくていい。日を改めよう」
「いえ、違います」
それでも努力したことは見てほしくて、くるみは必死に取り繕おうとした。
「あの……ピアノと歌の練習してたら、気が付いたときには真夜中で……」
思わず言ってしまってから、後悔して口を抑える。
「……原因は私か」
「……」
小学生の頃に似たようなシチュエーションで理不尽な怒られ方をした記憶が蘇り、くるみはぎゅっと目を瞑った。
「……困ったな。君を叱るつもりでいたのに、これじゃ叱る立場にない」
「え……」
思ってもいなかった言葉が降ってきて、くるみは顔を上げる。
そこにはひたすら苦い表情を浮かべた興津の姿があった。
「私が昨日あんな無茶を言ってしまったから……やらかしたなあ、これは酷いバタフライ・エフェクトだ……」
彼はそう言うと、口元に手を当てて考える仕草を取った。
「あの……」
「君は悪くない。私の責任だ。無理をさせてすまなかった」
「……先生……そんな、無理だなんて……わたしがうっかりしてたから……」
ひどく申し訳なさそうな顔をした興津に、くるみは慌てた。
「それに、寝てたのは事実ですし、ちゃんと他の部の演奏聴かなかったの、いけなかったと思ってます。……すみませんでした」
「……自分でわかってるならそれでいいんだ。もう何も言わないよ。それよりも、寝不足になるまで練習させてしまった、私の方が問題だ……」
興津はひどく落ち込んだ様子で、深いため息をついて目を逸らす。
その見ていて辛くなるほどの後悔の仕草に、くるみの脳裏に『ブラック部活』という単語が浮かび、慌てた彼女はそれを振り払おうと必死になった。
「問題じゃないです、大丈夫です! わたし、練習してる間すごく楽しかったから、ぜんぜん問題じゃないです!……あの、だから安心してください、……そんな顔しないで、先生……」
「牧之原……」
くるみの言葉に、興津はますます困った顔をする。
二人の間に、ごく短い沈黙が訪れた。
「……わかった、じゃあ、今日のこんはお互い、いいにしよう」
数秒の後、どうにか自分の中で折り合いをつけたであろう興津が口を開いた。
「先生……」
「うっかり君を責めてしまった。許してほしい」
「許すなんて、別に、先生は何も……わたしこそ、すみませんでした。これからは気を付けます」
くるみの言葉に、興津はばつが悪そうな笑顔を返した。
「……ありがとう、牧之原。……君は優しいな。私の悪い癖で君を振り回してしまって、本当に申し訳ない」
「いえ……」
くるみは胸の奥がきゅっと痛くなった。
(優しいのは、先生の方なのに)
こんな時、理由も聞かずに叱り飛ばされた経験しかないくるみの心に、彼の真摯な言動のひとつひとつが柔らかく刺さる。
(……本当に、こんな先生、初めて会った……)
どうして彼の奏で歌う音楽が心を打つのか、少しだけ理由が分かった気がした。
(……参ったな)
真剣な眼差しで自分を見上げるくるみを、興津は見つめ返した。
今まで教師という仕事を続けてきた中で、幾人かの生徒が自分にこんな眼差しを投げかけてきたことはあった。
それが一時の気の迷いであることに本人たちが気が付くまで、彼は見て見ぬふりをするのが当たり前で、義務だった。
自分からそういった気持ちを持つことは決してなかったし、これから先もあってはならないことだと理解している。
しかし、どうしたことか、彼の心は急激に揺らぎ始めている。
自分の人としての未熟さと愚かさを、彼女は容易く受け入れて、何でもないと言ってくれた。ただそれだけのことなのに、胸が締め付けられるような思いがして、ずきずきと痛くなる。
今までこんなことはなかった。
これまで感じた視線は全て、自分に人としての欠点を見つけると、あっという間に消えていく程度のものだったのに、くるみの甘い熱をはらんだ眼差しは今もこうして彼を射抜いている。
そのまっすぐな瞳と、自分の至らなさを受け止め、優しく慰めてくれた彼女のやわらかな心を、彼は本能的に『欲しい』と思ってしまった。
(バカ、落ち着け、相手は生徒だぞ。何考えてんだ)
そう言い聞かせてみても、止まりそうにない方向に心は転がり始める。
昨日感じてしまった心臓の鼓動が、ずっと鳴りやまなくなっていることに気が付く。
(待て待て、絶対だめだ。……いい加減にしろ、可愛いって思ったら負けだ)
彼は理性ですべての考えをねじ伏せ、くるみから目を逸らした。
「……牧之原、歌えそうか?」
そう言いながら、耳まで真っ赤になって顔をそむけた興津の様子に首を傾げながら、
「はい」
くるみは応える。
「何を歌う?」
「……aikoの『初恋』です」
(……だめだ、お手上げだ)
曲名を聞いた瞬間に興津は降参した。
(いっそのこと、認める方が楽になれそうだな)
そう思った途端、肩の力が抜けて顔の火照りも収まる。
(いよいよ悪い大人になったな、僕も)
絶対に本気にならない、と自分をきつく戒めてから、彼は視線を戻す。
長い人生なのだから、時にはこんなことだってあってもいいだろう、と言い訳もしてみる。
(この子が他の生徒に心変わりするまでだからな、わかったか)
そう、くるみの想いがいつか冷めるまで、それまでの間だけ、心密かに想っていよう――
彼は彼女と自分自身の気持ちを受け入れることにした。
「じゃあ、今から自己紹介の後に一人ずつ演奏をしてもらうから、その時になったら頼むよ。夜更かしの成果を見せてくれ」
「はい!」
こちらを見て嬉しそうに微笑んだくるみの笑顔を、甘酸っぱい気持ちで眺める。
こんな気分になったのは、高校生の頃が最後だったかもしれない。
自分が危ない橋を渡り始めたことは自覚しつつも、興津はもう、その歩みを止めようとは思わなかった。




