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第34話

「よーし、それじゃあ順に返すぞー」

 五時限目の壇上で紙束を手にした興津が、生徒の名前を一人ずつ呼ぶ。


 先週行われた組分け小テストの返却は、これで五教科中四教科が終わる。

(今回も社会、英語と同じくらいがんばったけど、やっぱどきどきする……)

 今回、くるみはかなりの時間を英語に割きはしたが、先の三教科はひとまず安泰と言える成績だった。

(これで社会がコケたら目も当てられないなあ……いや、でも手応えはあったから大丈夫)

 手に汗握りながら、くるみは教壇の上の興津を食い入るように見つめていたが、

(……ああ、ダメダメ、あんまり見たら怪しまれちゃう)

 そう思うと慌てて目を閉じ、静かに深呼吸を繰り返して、自分の順番を待った。


 ある者は喜び、またある者はがっかりしながら答案用紙を受け取る中で、

「菊川……は、ここか。はい」

 ミチルの名が呼ばれたことに反応して、くるみは目を開ける。

「ありがとうございます」

 そう言いながら教卓の真ん前に座る彼女は答案を受け取ると、ほっとした笑みを浮かべる。

(ミチルちゃん、また満点だったのかな。ずっとパーフェクトかあ……)

 初回のテストで一問だけ間違えた悔しさに歯噛みしながら、くるみはもう一度目を閉じる。


 答案用紙の束が残り三分の一まで減った時、

「藤枝ー」

 祐華が呼ばれ、くるみは再び目を開けた。

(うああ、次だ……! 今回も先生のクラスになりますように……!)

 祐華が興津の手から答案用紙を受け取ると、いつも通りの点数が取れたのだろう、彼女の顔がほころんだのが見える。そして、

「次、牧之原ー」

「は、はい!」

 祈る気持ちもそこそこに、思わず返事をして立ち上がり、くるみは小走りに教卓に駆け寄る。


「はい。今回も頑張ったな」

 そう言って手渡された答案には、『100』という数字が書かれている。

「……!」

 ぱあ、と顔が明るくなった彼女を見て、彼が一瞬だけ恋人の眼差しになる。

(やった!)

 くるみは満面の笑みで小さくお辞儀をしてから、教卓に背を向けた。

(褒められちゃった、嬉しい……!)

 自分の後の生徒の名前が呼ばれるのを上の空で聞きながら、半分スキップするような心持で席まで戻り、『おめでとう!』という言葉がきれいな字で添えられた解答用紙を、にやけながらひとしきり眺めると、くるみはそれを丁寧にクリアファイルにしまった。


「くるみちゃん、すごいじゃない。満点これで二回目ね」

 授業の後、自分たちの教室に戻ると、まるで自分のことのように嬉しそうな祐華がくるみに声をかける。

「えへへ、だって公共、超楽しいもん」

 くるみはでれでれと鼻の下を伸ばしながら、祐華に答えた。

 興津の授業だったらなんでも楽しい、というのが正解だが、大好きな彼が教えてくれることを少しでも間違いたくないという、部活で教わることと共通の気持ちは何よりも大きい。

 彼が頑張った時に必ず褒めてくれることも、彼女にとっては学習意欲につながる大事な糧だった。

「これでまたしばらく、興津先生のクラスで授業、受けられるわね」

 彼が好きだというオーラを隠せていないくるみに、祐華は無意識にさらなる燃料を投下する。

「うん、先生の授業、わかりやすいし面白いしで、全然飽きないよね。……」

 しかし、そこでくるみの言葉は途切れ、彼女の額に脂汗が滲む。


(……あれ? なんで? なんかすごい、胸がざわざわして……嫌な予感がする……)

 不意にばくばくと鳴り始めた心臓に自分で驚いて、くるみは思わず唾を飲む。


「くるみちゃん、大丈夫?」

 異変に気付いた祐華が、心配して声をかける。

「……ごめん、なんだか、……心臓が、すごくどきどきして……」

 次の時間が英語だからだろうか。ひとりぼっちで移動先の教室に向かう恐怖に、脚が震える。

「……保健室行く?」

「ううん……平気。たぶん、ちょっと緊張してるだけだから」

 くるみはそう言うと、ポケットの中からのど飴を取り出して、ひと粒口に入れる。

(お願い、先生。わたしを守って)

 甘い香りに肩の力を抜きながら、彼女は神でも仏でもなく、愛しい彼に祈った。


「そんじゃあ返すでねー」

 移動先の教室の壇上で、なぜか片頬に大きな絆創膏を貼った古和土が、これからとびきり面白いショーでも始めるような雰囲気を醸し出す。


 古和土のテストの返却は、それだけでくるみにとって不愉快なものだった。

 何しろ、一人ひとり点数をきっちり読み上げたうえ、得点の低い生徒にはあからさまな暴言とはいかないまでも、あれやこれやと小ばかにしたような声かけをしてくるのだ。

(あれじゃあ、やる気にならないよ……)

 出来ればこのクラスにいることはこれっきりにしたい、とくるみは強く願う。

 ため息をつくと、まだ口の中に残っていたレモンと蜂蜜の香りが、かすかに香る。

(……大丈夫、あんなに頑張ったんだから、きっと結果は出てる)

 自分の順番が来るのをおとなしく待ちながら、くるみはどうにも先ほどからおさまらない、嫌な胸騒ぎと必死に戦っていた。


 自分の前の生徒が呼ばれ、

(……次だ……!)

 くるみは全身全霊で祈る。

 しかし、どういう訳か古和土は自分の名前を呼ばず、すぐ後ろの生徒の名を呼ぶ。

(え……?)

 訳の分からない事態に、教室もかすかにざわつく。

 古和土はそのまま、意地悪く点数を読み上げては生徒を小馬鹿にして、結局くるみの名を呼ばずに全員分の返却を終える。

(え、なんで!?)

 予想もしていなかった展開に、くるみは身体中が震える。

「あの……! 先生、わたし、まだ答案返してもらってません!」

 思わず席を立って、くるみは古和土に訴えた。

「……ああ、牧之原、お前はあとで返す。そのときちょっと話があるでな、掃除の後、もう一度ここに戻れ。居残りだ」

 そう言ってこちらを笑いながら見た古和土の目が、明らかに恐ろしい色をしているのを見て、

(……怖い……!)

 くるみは何も言えなくなり、そのまま座ると、答え合わせにも参加できずに取り残された。


「え、……居残り!?」

「……うん。絶対一人で来いって……何だろう……すごく怖い……」

 恐怖ですっかり冷え切った手指を握りしめ、くるみは祐華と一緒に昇降口の掃除に向かう。

「……みんなにグルチャ流しておきましょう。四組の教室でいいのよね?」

「うん、掃除の後に来い、って言われたから。……何もないと思うけど、少し離れたとこでいいから、外でみんな、待っててほしいかも……」

「大丈夫よ、みんな来るわ。興津先生にも声かけとくから。人が外にいれば、古和土先生も変なことはしないわよ、安心して」

「ありがとう、祐華ちゃん」

 一応の解決を見て、くるみは浅く息を吐く。

(……でも、まだ何か、……)

 言い知れない恐ろしさに心臓を握りつぶされるような感覚に、吐き気がする。

 くるみは校舎に勢いよく吹き込む北風のせいだけではない、凍えるような寒さを感じた。


「じゃあ、また後でね。……危ないと思ったら、すぐ逃げてきて」

 自分たちの教室の前の廊下で待機することにした祐華に、くるみは小さくうなずくと、二つ先にある廊下の真ん中の教室に向かう。

 その途中でため息をついてから、制服のポケットの中に残っていた最後ののど飴を取り出し、

(お願い、先生。……助けて……!)

 興津にありったけの願いと祈りを捧げてから、そっと口に含んだ。


「おう、来たか牧之原」

 廊下の真ん中にある四組の入り口まで来たくるみを、古和土は相変わらず得体の知れない微笑みを浮かべ、教室の中へ手招きする。

「誰もついてきてねえな?」

「え、あ……は、い」

 何故そんなことを重要ごとのように確かめるのか、くるみは疑問を持ちつつ、

(……逃げ道を確保する……大丈夫、ここのドアは鍵がかかってない)

 ふと、瑠菜から言われたことを思い出し、扉を開けたまま、古和土の前の机まで歩を進めた。

「よし、じゃあ始めるか」

 目の前に座った古和土の表情が悍ましく感じられ、胸騒ぎがひどくなって、全身が粟立つ。

 それでも、

(……何言われても、嫌なことは絶対に拒否る。おかしいと思ったら否定する……)

 くるみは口の中で飴を転がしつつ、瑠菜が教えてくれたことを反芻しながら、古和土の座っている机からひとつ空けた先の椅子に腰かけた。


「あ、いたいた。藤枝さーん」

「えっ!?」

 廊下いっぱいに祐華を呼ぶ声が響く。

(ちょっと、いま声かけないで、お願い!!)

 そこにやってきたのは、さほど仲良くはない部類の、数人のクラスメイトだった。

「ねえ、ちょっと聞きたいんだけどさ、藤枝さんってどこ中出身?」

 彼女たちは無遠慮な大声で、祐華に質問をする。

「……なんで?」

 受け応えしつつ、横目にくるみの様子を伺おうとしたが、自分より上背のある人間に周りを取り囲まれてしまって、四組の様子は見えない。

「なんででもいいじゃん、教えてよ」

「……市立第三、だけど……」

 聞かれるまま素直に答えつつ、

(どうして今、それを? ていうか、見えないから早くどっか行って……!)

 祐華は彼女たちの隙間から六組の教室が見えないかと、小さくつま先立ちをした。

「ふーん……そっか、なるほどね」

「間違いないかー」

「おけおけ、いま連絡しちゃおーよ」

 くるみのことで頭がいっぱいの祐華は、彼女たちが意地の悪い笑みを浮かべたことに気が付かなかった。

「ていうかさー、あんたさっきから何チラ見してんの? 人の顔見て話しなよ、それともうちらの話きいてねーの?」

 そわそわする祐華に苛ついた様子のクラスメイトの一人が、祐華の両脇の壁に手をつき、そこに彼女を閉じ込めるようにして追い詰める。

「う、ううん! き、聞いてるよ! でもごめん、今、友達来ないか待ってて……」

 急な出来事に沸いた恐怖に耐えつつ、苦笑いしてごまかす祐華を彼女たちは鼻先で笑う。

「どうせ牧之原でしょ」

「あんな奇声女と良く付き合えるね」

「行こっか」

 最後のくるみに対する暴言に言い返す間もなく、祐華への拘束を解くと、彼女たちは笑いながら去って行く。

(……ムカつく!! バーカ!!!)

 彼女たちの背中に思いっきり舌を出し、祐華は再び四組の教室を見遣った。


 外が騒がしいことに気が付いた古和土が、舌打ちをする。

「……気が変わった。場所変えんぞ」

「え……」

「逃げんなよ」

 外から聞こえる声に混じっているのは、他でもない祐華の声だ。

(まずい、祐華ちゃんがそこにいるの、バレたんだ!)

 あるいはあらかじめ、くるみが友人たちを呼ぶことを読んでいたのだろう。

 古和土はくるみの答案と思しき紙を掲げてぺらぺらと弄びながら、それを返してほしければついてこい、と言いたげにこちらに背を向けて戸口に立ち、左右を確認してから声とは反対側の方に折れ、四組の教室から出て行く。

(……ヤバい、みんながここに来ても、もぬけの殻だ……!)

 古和土が明らかに自分に何かよからぬことをする気でいることが分かり、くるみはさらに身の毛がよだつ。

(ついて行きたくない……でも、この距離だと逃げてもすぐに追いつかれる……そしたら、何もかも終わり……!)

 冷や汗が背中ににじむのを感じつつ、くるみはいつでも取り出せるように、コートのポケットの中にスマートフォンを突っ込んでから席を立った。


 教室の外に出ると、二組の前で数名の女子生徒が、あまり雰囲気の良くない会話をしている。

 あの輪の中心に祐華がいるのだろうが、背の高い一人が完全に壁になって彼女の姿が見えない。

(祐華ちゃん、誰かに絡まれてる……!)

 本能的にそう感じ、思わず助けに行こうとした瞬間、ぐっと後ろからカバンの肩ひもを引っ張られる。

「逃げんなっつったろ、このまま階段まで歩け」

 古和土は低い声でそう言うとくるみの後ろに回り込み、祐華との間を遮る。

(お願い、祐華ちゃん気が付いて!)

 背後から距離を詰めようとする古和土に捕まらないよう、仕方なしに速足で階段まで歩く。

 が、結局祐華がこちらに気付いた様子がないまま、廊下からは死角になってしまう踊り場の中までくるみは追い込まれる。

「これでウゼえのは巻いたな、ミッション完了ってやつだ」

 背中越しに聞こえた古和土の楽し気な声に、くるみは背筋が凍った。


 そのまま二階まで古和土の前を歩かされると、

「付いてこい」

 古和土はもう邪魔が入ることはないと思ったのだろう、今度は自分が先に立って歩き始めた。

 ほんの少し自分が助かる確率が上がったことで、くるみはわずかに冷静さを取り戻す。

(……隙を見て、グルチャに連絡できれば……)

 混乱と恐怖で震える手をコートのポケットに突っこんだまま、彼女はじっと様子を伺いながら、前を行く古和土と二メートルの距離を開けて注意深くついて行った。


(……なんとかなれ!)

 吹奏楽部の個人練習の音も聞こえない、東棟から西棟へ続く二階の渡り廊下を歩く間、古和土が振り返らないことを祈りつつ、くるみはグループチャットの画面を開く。

(せめて、西棟に行くってことだけでも……!)

 彼女は息をつめてちらりとキーパッドを見る。


【にし】


 ただ二文字だけをフリックするとすぐに送信し、ポケットの中にスマートフォンを隠す。

(お願い、みんな……先生、助けて……!)

 くるみはさっきよりも50センチほど広めに古和土との距離を取りながら、人気のない西棟に向かった。


「……あれ?……なんで?」

「……誰もいない……ここじゃないのか?」

「そんなはずは……」

 同級生たちから解放されてそのまま廊下で待っていた祐華が、他の部員に先駆けてやってきた紘輝と一緒に、そっとのぞきに行った一年四組には、誰の姿も見当たらない。そこに、

「祐華さん、紘輝先輩」

「おつかれっす」

「中にいるんでしょう、くるみちゃん?」

 ミチルを先頭に、隆玄と太陽が現れる。

「……ううん、いないの……」

「えっ……」

 祐華の言葉に、三人は息をのむ。

「……祐華、見張ってる間、何かなかったか?」

「あ、あの、クラスの子に囲まれて、なんでかわからないけど、どこ中出身か聞かれて……」

 紘輝の顔色が変わる。

「やられた! 多分その時だ、あの野郎、祐華に気が付いてどっか別の教室に移動したぞ!」

「うそ……」

「大変です、早く探さないと!」

「手分けしましょう」

「でも、どこを探せば……」

「とりあえず一個一個、教室を見るしかない。急ぐぞ」

 彼らが駆けだそうとした瞬間、グループチャットの受信音が一斉に鳴り響く。

「……くるみちゃんだ!」

「『にし』……西棟ってことよね!?」

 いたたまれなくなった祐華が駆け出したのを合図に、全員が渡り廊下を目指した。

「祐華、お前職員室行って、興津先生呼んで来い!!」

「うん!!」

 背中から飛んできた兄の声に応えると、祐華は誰よりも早く渡り廊下を走った。


 西棟一階の廊下の真ん中の扉の前で祐華は足を止め、中に飛び込む。

 中にいた数名の教員たちが一斉に彼女を見るが、様子のおかしさに誰も何も言わない。

「興津先生!!」

 ほとんど悲鳴のような声で彼女は叫んだ。

 果たして、扉のすぐ脇にある、三年生の担任たちが使っているデスクの島の、その壁際に彼は座っていた。

「藤枝!?」

「先生、くるみちゃんが……!」

 ただならない様子でくるみの名を口にした祐華に、彼は椅子を蹴り飛ばす勢いで立ち上がる。

「古和土先生に、呼び出されて、……西棟のどこかに……!」

「わかった、先に行け! 鍵もってくから!」

 虫の報せのように放送室での一件が頭をよぎった彼は、自分の勘に従うことにした。

 祐華は返事もせずに走り去る。

 その後を、軽音楽部の部員たちの聞き覚えがある声が駆け抜けていった。

(くるみ……!)

 彼は準備室に駆け込み、鍵かけボードのマスターキーをむしり取ると、そのまま廊下側の出口から彼らの声を追って走り去っていく。

 せっぱ詰まった雰囲気に職員室の空気は一瞬固まるが、それはすぐにほぐれて、程なくいつもの放課後の風景を取り戻した。


(逃げ道を確保、逃げ道を確保……絶対に、相手の言いなりにならない……)

 瑠菜から聞いたことを念仏のように唱えながら、くるみはその逃げ道がない廊下を歩く。

 やがて、古和土は一つの教室の前でぴたりと足を止める。

「入れ」

 顎で入口を差され、くるみは下手に抵抗できないことに臍を嚙みながら中に入る。

 彼女の後にすぐ入ってくると、古和土は後ろ手にがちゃり、と鍵をかけた。

(やばい、……反対側もたぶん、鍵がかかってる……!)

 自分が極めて危険な状況にあることを察して、くるみは目の前が真っ暗になった。

「そこ、座れ」

「……」

 それでも、どうにか自分を奮い立たせると、くるみは絶対に古和土に背中を向けないように後退りながら、指差された席につく。

 途端に、ばん、という音を立て、くるみの解答用紙が下敷きになる形で、机の上に古和土の右の手のひらが落ちてくる。

「お前、この点数は何だ」

「え……」

「え、じゃねえ。この点数は何だって聞いてんだ!!!」

 突然怒鳴られて、胃がきゅっと縮む。


 しかし、彼女の目に張った自分の解答用紙は、

(……うそ、100点……!?)

 どうみてもこんな叱責を受けるような点数ではなかった。


「お前みたいなバカが、なんでこんな点数なんだ? 定期考査だっていっつも赤点スレスレだろ? それがなんで急に満点なんか取ってんだよ」

「え、……それは、ちゃんと勉強したから……」

「ふざけんな!!!」

 古和土はまた激高して、今度は両手で机を叩く。

「嘘つくんじゃねえよ。お前、女優の娘だもんな。へへ、金持ちのおっさん誑かすのがお得意なデキ婚女優の血を引いてりゃ、嘘なんてお得意だろう?……俺は信じねえぞ、このクソガキ」

 くるみは怯えながらも、

(負けちゃだめ! 絶対にこの人の言うことなんて聞かない! それに、こいつ今、お父さんとお母さんのことを馬鹿にした……! 絶対に許さない……!!)

 心の中でそう叫んで、ぎっと古和土を睨みつけた。

「……本当です。先生が信じるか信じないかなんて、どうでもいいです。ちゃんとわたしは勉強しました。女優の娘がどうとか、無関係なこん持ち出さないでください」

 言い返してくると思わなかったのか、古和土は絆創膏が張られた頬をわずかに引きつらせる。

(絶対、筋の通らないこと言われても、負けない!)

 怖くてたまらないのに、身体の芯は急に燃えるように熱くなって、彼女は妙な高揚感に打ち震える。

(この人の言ってることはおかしい! わたしは、何も間違ってない!!)

 奥歯を食いしばりながら、くるみは古和土の理不尽な物言いに全力で立ち向かった。


「……はっ、くっだらねえ嘘つきやがって。……お前、カンニングしたろ?」

 にやりと笑って、古和土はくるみの顔の高さまで自分の顔を近づけようとする。

「はぁ!?」

 気持ち悪さに身を反らしながら、あまりの発想に思わずくるみは大声を出した。

「は? じゃねえよ。万年どべ(ビリ)クラスのお前が、こんな簡単に満点なんて取れっこねえよ」

「簡単じゃないです!! わたし死ぬほど勉強したんですけど!!?」

 だんだん自分の喋りがヒートアップしていくのを、くるみは止められなくなってきていた。

「だから嘘つくなって言ってんだろ!!!」

 くるみにつられたのか、古和土も先ほどより語気が荒くなる。

「正直に言えば、こっから出してやるよ。ほら、カンニングしたって言え、牧之原。そのほうがお前の身のためだぞ? 正直に言わないなら、お前が嘘ついたってみんなにバラすからな。……停学になりたくなきゃ、素直に『カンニングしました』って吐けよ。嘘ついたら大学行けなくなるぞ? あ?」

 明らかに獣の表情になった古和土から、くるみはいつでも逃げ出せるように椅子から腰を浮かせる。

(脅されても絶対に言うことは聞かない……! お前のためなんて言葉は、信じない……!!)

 嘗め回すように自分の身体を見る古和土に、くるみはわざと声を張り上げて言い返す。

「だから正直に勉強したって言ってるんです!! 嘘言ってるのは先生の方じゃないですか!!!」

「この……!! うるっせえ!!! 耳障りな声でぎゃんぎゃんわめくな!!! カンニングしたんだろがよ!!!」

「うるさいなら何度でも言ってやりますよ!!! わたしは勉強しました!!! 嘘なんか言ってない!!!」

「黙れ!!!」

 怒鳴り声とともに伸びてきた古和土の腕を、くるみはすんでのところでかわして席を立ち、カバンを抱えてゆっくりと後退る。

「……逃げても無駄だぞ」

 古和土が不意に舌なめずりをし、ニタァ、と笑ってくるみを見る。

「もういい。埒があかねえ。……牧之原、服脱げ。パンツん中まで全部見せろ」

「はあぁ!!?」

 とんでもない要求に、くるみは変なところから声が出た。

「どうせどっかにカンニングペーパー仕込んでんだろ? 何も持ってねえか、全部脱いで証明しろよ。そしたら、お前がちゃんと勉強して満点取ったってこと、認めてやっからよ? ほら、身体検査だ、さっさと脱げ……!」

 古和土はへらへらと笑いながら、くるみににじり寄る。

(……絶対言いなりにならない!!)

 くるみは残り少ない勇気を振り絞って、古和土に抵抗した。

「先生、それ正気で言ってます? 自分が何言ってるかわかってますよね!? セクハラですよ!?」

「つべこべ言わねえで裸んなれ!!」

 雄叫んだ古和土のその目は、既に焦点が合っていない。

 最早話をしてもまともに通じない気がして、くるみはどうやってここから無事に抜け出すか、その方法を考え始める。

(鍵、……ドアさえ開けば、出られる……でも、そこに行くまでに捕まったら、……!)

 自分の身に起こるであろう恐怖に、思わず足が竦む。

 その一瞬を見逃さず、古和土は飢えた肉食獣のようにくるみに飛び掛かってきた。

(やばい!!)

 ぎりぎりでそれをかわすと、何脚かの椅子と机ががたがたと音を立てて、その位置を変える。

「逃げんじゃねえ!!」

 窓側に逃げたくるみを追いかけながら、古和土は机と椅子を体でかき分けて蹴散らす。

(早く鍵、開けないと!!)

 くるみは顔面蒼白になりながら、机と椅子の間を必死で扉まで駆けた。


「!」

 二階を探している部員たちを横目に、右足を引きずりながら三階まで懸命に階段を駆け上った時、興津の耳に机と椅子ががたがたと激しく床を鳴らす音が飛び込んできた。

「くるみ!」

 思わず彼女の名を呼んで、彼は音のするほうへ廊下を走る。

「どこだ! 返事しろ!!」

 間を仕切る窓から、階段と渡り廊下に挟まれた六つの教室のひとつひとつの中を見る。

「くるみ!!!」

 ただひたすらに彼女の無事を祈りながら、彼はもう一度名前を呼んだ。


(先生の声!)

 鍵を空けようとした扉にそのまま後ろから覆いかぶさって、身体を押し付けられそうだった所をしゃがんでかわし、古和土の腕の下を潜り抜けると、くるみは再び対角線上に逃げる。

 その途中で、彼女の耳は確かに興津の声を捉えた。

「先生!!!ここです!!!」

 藁にもすがるような思いで、彼女は声を張り上げる。

「興津先生、助けて―――――――――――っっ!!!」

 全身全霊の甲高い悲鳴は廊下まで響き、こちらに向かってくる古和土の動きを一瞬止める。

 同時に、瑠菜の言っていた『最終手段』が頭をよぎり、

(正当防衛!!!)

 くるみは意を決して手前の椅子を飛び越えると、爪先で思い切り古和土の股間を蹴り上げた。


 くるみの悲鳴を聞いた興津が、廊下の真ん中にある教室の扉の鍵を開けようとしたその時、どさり、という何かが転がる音の後、中は水を打ったように静まり返った。

「くるみ!!」

 ただならない気配に彼が勢いよく引き戸を開けると、そこには股間を押さえて声もあげられずにのたうち回っている古和土と、息を切らせて咳き込み、床にへたり込むくるみがいた。

「くるみ、大丈夫か!?何もされてないか!?」

 人目を気にする余裕もなく、彼は彼女の肩を両手でつかんで、その顔を見つめる。

「……大丈夫、……わたし、絶対言いなりに、なるもんかって……負けないって、……」

 そこまで喋ったときに緊張の糸が切れ、くるみは彼の胸に飛び込み、わっと泣きだした。

「先生、……怖かった、すごく怖かったよ……!」

 大声を上げて胸元で泣きじゃくる彼女を、興津はためらいなく抱きしめる。

「ごめん、もっと早く来れれば……でも、よく頑張ったね、無事でよかった……!」

 心からの安堵で、彼の目にも涙が浮かぶ。


(先生だ……先生が、助けに来てくれた……)

 自分を強く抱きしめてくれる腕と、肌から香る彼のコロンに、くるみはようやく安心する。

(先生、ありがとう……大好き……)

 愛しい彼の温かい胸で、大きく深呼吸をする。

 そして、彼女の意識はそこで途切れた。


 くるみの身体から力が抜け、ふにゃりとくずおれる。

「!……くるみ! おい、しっかりしろ!」

 彼女はそのまま、彼の腕の中で気を失ってしまった。

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