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第33話

「すっごーい! なんかマジで少女マンガみたいじゃん、超青春してるー!」

 土曜日の部活の後、瑠菜からの誘いで女子だけ集まってカラオケに行くことになり、くるみたちは隆玄と麗について、ことの顛末をかいつまんで彼女に話した。

「いーなー、憧れちゃうなー。話聞いてるだけでめちゃめちゃきゅんって来るんですけど!」

 コーラフロートのアイスをつつきながら、瑠菜がうっとりと宙を見る。

「うふふ、隆玄先輩のデレデレっぷり、ホントすごかったよねえ」

「うんうん、オーラが完全にピンク色だったわ」

「本当にお幸せそうでしたね、見ているわたしまで幸せな気持ちになりました」

 くるみたちも飲み物を手に、隆玄の様子を思い出してにまにまと笑う。

「で、今日は部活の後、二人でデートってわけかー。いいなあ、あたしも好きピと一回でいいから、デートしてみたいなー」

 瑠菜はそう言って、アイスの混じったコーラを一口飲む。

「え、瑠菜せんぱ……じゃなくて、る、るなぴパイセン、……その、えっと、……うああ、やっぱなんか無理ー! 普通に『瑠菜先輩』って呼ばないと落ち着かないー!!」

 訊こうとしたことが吹き飛んでしまうほどの恥ずかしさがこみあげてきて、くるみは悶えながら頭を掻きむしる。

「あっははは! こーゆーのは慣れだよー。で、何か聞きたいことあるん?」

 くるみの様子に爆笑しながら、瑠菜が質問の先を促す。

「……えっと、ですね。……好きな人、いるんですか?」

「いるよー、子供の頃からずっと片想いしてるっけ」

「えっ」

 あまりにもさらりと重たい恋の話が出てきて、くるみは焦った。

「まあ……そんなに長い間想われているなんて、お相手の方はお幸せですね」

 ミチルがまだ隆玄にあてられた空気のまま、ほう、とため息をつく。が、

「……ううん、きっと迷惑がられてるよ、あたし」

 そう言って寂しそうに笑った瑠菜に、くるみたちは彼女の抱えるものを受け止めきれず、思わず言葉を失くした。

「ちょえ、やだ、そんな暗くなんないでよー! みんな真に受けすぎてて草なんですけど!!」

 瑠菜はひとりで笑うと、アイスに張り付いたコーラ味の氷をスプーンですくう。

「いえ、だって……辛くないですか、ずっと片想いだなんて……」

「もー、ゆかっちはいい子だなー、そんな真剣に心配しなくていいよー、見込みがないのわかってて、あたしが勝手に好きでいるだけだからさ。もうここまでくると、片想いがあたしのアイデンティティになってるんだよね! ヘタに両想いになったらダメなやつ!」

 心配気に瑠菜を見た祐華に、彼女は歯を見せてにっと笑ってから、今しがたすくったしゃりしゃりのコーラをおいしそうに口に入れた。

「そ、そういうものですか……?」

 あまりにもタフな物言いに、くるみはただただ驚いてしまう。

「うん、好きなもんは好き! でも相手に自分の気持ちは絶対に無理強いしないし、その人が他の人と幸せになっても、素直におめでとうって喜ぶ! それって絶対大事なマインドだと思うからさ! あたし、好きピのこと考えるといつもそれを思い出せて、なんつーかこう、自分がブレないんだよね!」

 ふむ、と息を吐き、瑠菜は腕組みをしてみせる。

「……強いんですね、えっと、……るなぴパイセン」

 硬い表情で一生懸命、慣れないギャル語を口にしたミチルに、瑠菜は威勢良く吹き出すと、

「あっはっは、無理しないでいいよちるみー! あたしのこんは『お姉ちゃん』とか呼んでいいから!」

 大笑いしながらその背中を遠慮なくばんばんと叩く。

「いえっ!! それは、あの、なんていうのか! あの、……」

 めずらしく力いっぱい焦っているミチルの姿に、くるみと祐華も思わず顔を見合わせて笑う。

「さあさあ、時間もったいないから軽音楽部のみなさん、歌って歌って! あたしは盛り上げ役やるもんでさ!」

 瑠菜はそう言って部屋の中に置かれたかごからマラカスを取ると、早速しゃかしゃかと振りながら立ち上がる。

「……る、るなぴパイセンは歌わないんですか?」

「あたしはだめー。マジでドン引きするほど音痴だから。太陽に『絶対歌うな』って言われてるし?」

「えええ……」

 全くそれを苦にしていない雰囲気の瑠菜に若干の遠慮はしつつも、くるみたちはパッドを手に取って選曲画面を開く。

「じゃあ、聴きたい曲あったら言ってください。できる限りリクエストに応えますから」

 せめてドリンクのタダ券分のお礼が出来ればと思い、くるみは瑠菜に申し出る。

「ちょえ、マ!? やった!」

 瑠菜の表情がさらに明るさを増す。

「じゃあさ、これ歌えるかしん?」

 早速もう一つのパッドで曲名検索して彼女が見せた曲名に、くるみはうなずいた。

「『可愛くてごめん』ですね。いけますよ」

「でもこれ、くるみんが歌ったらわりとガチな煽りソングになっちゃうよねー! あははは!!」

「うえっ!?いやいやいやいや!!!何言うですか!?わたしここまで開き直って生きてないですよ!!!そもそも女子力低いですって!!!」

 げらげら笑う瑠菜に大慌てで弁明するくるみと、パッドから送信された曲名を交互に見て、

「……どんな歌なのかしら?」

「さあ……? わたしも初めて聴きます」

 祐華とミチルは首をかしげていた。


「あー! 楽しかったー!」

 既に真っ暗になった店の外で、瑠菜が冬の香りの空気を身体いっぱい吸い込み、大きく伸びをする。

「いやー、上手な子の歌聴いてるとそれだけでアガるわー! みんなマジありがとね、ホンモノのライブ会場みたいだったっけ!」

「いえいえ、お粗末様です」

 くるみたちは謙遜の笑みを浮かべる。

「このあとどーする? みんなでご飯行く?」

「あ、わたし一緒に行きます!」

「わたしも今日は外で食べてくるって言ってあるから、大丈夫です」

「何時まででもお付き合いします、るなぴパイセン」

「マジ? みんなノリがよくって嬉しいなー! じゃあどこ行こっか?」

「どうしよう? ハンバーガー?」

「ファミレスもいいわよね」

「ラーメン屋さんとかどうでしょう?」

「ちょえ、ちるみー、この時間にラーメンはギルティっしょー!」

 くるみたちはきゃあきゃあとはしゃぎながら、少し強めの北風が吹き抜ける駅前を歩く。

 その姿を、コンコースの中からひとりの人物が、食い入るように見つめていた。


 駅ビルの中のイタリアンファミレスに入り、注文を済ませ、ドリンクバーから温かい紅茶を持ってくると、くるみはカバンから祐華たちの作ってくれた単語帳を取り出す。

「組分けテスト、月曜日ね」

「うん。とにかく、せめて最下位クラスからは脱出しないと」

「きっと大丈夫ですよ、くるみさん」

 本当ならば家に着いてから勉強すればいいのだろうが、不安でどうしても落ち着かない。

 くるみは失礼します、と一言断ってから、単語帳をめくった。

「え、くるみん英語苦手なの? 定期演奏会のとき、超歌うまだったのに、なんか意外……」

「あ、いや……これにはちょっと訳があって……」

「ワケ? 赤点取ったらお小遣いなしとか?」

「あ、えーと……どうしようかな」

 そんな理由だったらどれだけ気が楽だったろうか、とくるみはため息をつく。

 そして、

「……あの、るなぴパイセン……ちょっと相談しても、いいですか?」

 自分の感じている恐怖をどうにかしたくて、くるみは単語帳を閉じると、瑠菜の目をまっすぐ見た。


「え、あの合唱部のチャラい先生、そんなヤバみな奴だったの? うっわー、マジ引くわ……」

 くるみたちは、これまでの古和土との経緯をざっくりと瑠菜に話して聞かせた。

「ふつーにサイコパスじゃん、こっわ」

 瑠菜は顔を引きつらせつつ、オレンジジュースを一口飲む。

「前からちょっと変な先生だとは思ってたんです。授業中、それまでにこにこしてたかと思うと急に怒り始めたり、生徒の失敗を泣くまでおちょくったり……」

 打ち上げの時の苦い記憶が蘇り、くるみは唇を噛む。

「なんだか、自分の周りにいる人はどれだけいじってもいい、みたいな雰囲気があるんです。それを面白いと取るか、不愉快と取るかは人それぞれなんですけれど、そのすれすれのところでいつも生徒に手を出してきて……あの先生に何もされたことがない生徒は、それを見て一緒に笑ってるんですけど、されたことある身としては全然笑えません。正直、顔見るのも嫌です」

 祐華はたまった不満を吐き出すように一気にしゃべり終えると、ホワイトソーダを飲んでため息をつく。

「……一番困るのは、わたしに付きまとっていた先生みたいに、明確にセクハラや暴力といった行為がないので、結局『コミュニケーション』という言葉で片付けられてしまうことなんです。よく、コミュニケーションはキャッチボールって言われますけど、古和土先生の場合はルールのないドッジボールという感じで、こちらがいくら『やめてほしい』という意思表示をしても、それを無視して相手が怪我をするまで、大きな球を投げつけてくるんです」

 喋り終えてから上品な仕草でアールグレイを飲み、ミチルがカップをテーブルに置く。

「……あたしが中学の時もいたなあ、そういう変なとこで『友達』ぶる先生。結局そういう先生の周りって、同じレベルの子しか集まらないから、どんどんやることが過激になってくんだよね。SNSなんかにいる、感覚マヒってる連中と一緒だよ」

 瑠菜は今まで見たこともないほど、静かで真剣な表情になる。

「そーだな……物理的に距離取るのが一番大事だけど、何かされそうになったときに断固として拒否る、ってのが超大事だよ。そういう奴って、『こいつならやり返してこないだろう』って思った子を集中的に狙うし、十中八九『これもお前のためなんだ』とか、『他の人にバラしたら困るのは自分だ』って脅してくる。そういう言葉に屈して、相手の思い通りにされたら一生悔やむことになるよ。相手の言うことに負けて、自分を曲げたら絶対にダメ。これ鉄則」

 まるでここにいない古和土を射殺すかのような鋭い眼差しで、瑠菜は話を続ける。

「なんか一つでもおかしいとか、筋が通らないって思うことがあったら、その都度『本当にこれは正しいのか?』って自分で自分に確認するんだよ。絶対相手の言うこと鵜呑みにしたらだめだからね。あと、その先生と二人きりにさせられそうだったら、確実に逃げ道は確保しなよ。……脅してるみたいで悪いけどさ、襲われたりしたら、股間蹴って小指折ってもいいからね。後ろから来られたら腕にかみつくのもアリ。こーいう場合、ちゃんと正当防衛になるから」

 あまりにも具体的な助言が与えられ、くるみたちはそれまでの彼女の様子とのギャップに面食らう。しかし、

「……なーんてね、いま読んでる本の受け売りだけど! 以上、ご参考までに、って感じ!」

 瑠菜はそう言って、あっという間に元通りの賑やかな笑顔になった。

「え、あ、ありがとうございます、……ていうか、普段どんな本読んでるんですか……?」

 あまりのキャラクターの変わりように、くるみは尋ねずにはいられなかった。

「そーだねー、犯罪学とか、犯罪心理学とか、そのおまけで社会学と精神医学もちょっとだけかじってるかなー。あたし、科学捜査員になりたいんだ! 海外ドラマで見てバチカッケーって思ってさ、子供の頃からめっちゃ憧れてんの!」

 カラーコンタクトなど必要ないのではないかと思うほど目を輝かせた瑠菜に、

「うああ……すごい、人生にかすりもしなかったジャンルが出てきた……」

「これがいわゆる『ギャップ萌え』なのかしら……カッコいいわ……」

「やっぱり太陽先輩のお姉様ですね、正義感の強いところはおんなじです」

 三者三様の感動を覚えたとき、店員がポップコーンシュリンプとピザを持ってやってきた。


 食事を終えたころ、自転車で帰るのには少し遅い時間になったため、四人はそれぞれ迎えに来てもらうことにして、駅のロータリーで話をしながら待つ。

 その間に、祐華はスマートフォンで音楽アプリを立ち上げ、『可愛くてごめん』の購入ボタンをタップした。

「ん? 祐華ちゃん何してるの?」

 それに気づいたくるみが、祐華の隣にやってくる。

「うん、今日歌った曲で、一つ欲しいのがあったから」

「そっか、どの歌?」

「うふふ、ないしょ」

 えー、と残念がるくるみに、祐華はいたずらっぽく笑って見せる。


(この歌、中学生の時に聴きたかったな)

 祐華は未だに晴れない思いを封じ込めるように、スマートフォンの画面を落とした。


 翌週の月曜日、数学と社会の小テストが終わり、三時間目の英語のテストの前、くるみはカバンからはちみつレモンののど飴のスティックを出し、ひと粒頬張る。

(大丈夫、……先生のおまじないがきっと、守ってくれる)

 甘酸っぱい優しい味に、早鐘を打つ心臓と、震え始めた身体が落ち着きを取り戻す。

(それに、みんながわたしのこと、助けてくれた。今までだってそうだった。どんなに大きなステージでも、みんなと一緒にいれば何も怖くなかった。だから絶対、大丈夫)

 大きく深呼吸すると、甘い香りが穏やかに心に沁みていく。

(よし、やるぞ!)

 くるみは筆記用具を持って、自分の教室に移動した。


「お疲れ様、くるみちゃん」

 テストの後、いちばん遠い教室から祐華がやってきて、くるみに背中から声をかけた。

「どうだった?」


 くるみは振り向くと、

「英語の解答用紙、入試以来初めて、全部埋められたよ!」

 そう言って祐華にⅤサインをしてみせた。


「「よかったなー、くるみちゃん!」」

 その日の放課後、部室で同じ報告をした途端、上級生たちは歓喜に沸いた。

「うんうん、やればできる子なんだよ、くるみちゃんはさ」

「いえ、隆玄先輩に基礎から教え直してもらったのが、やっぱり大きかったです。みんなも単語帳、ありがとうございました。また今度、改めてお礼させてください」

 くるみはみんなに頭を下げる。

「いいっていいって、まずは結果待ちだ」

「ここからはまさに『人事を尽くして天命を待つ』だね」

 遠慮の仕草で手を振る紘輝の隣で、太陽が腕組みをする。

「全部埋まったなら絶対に上のクラスに上がれるわよ、きっと大丈夫」

「今回は、設問も難しすぎることはありませんでしたしね」

「そうね、前期の二回目なんて平均点15点だったものね、あれはひどかったわ」

「……それ、わたしが3点取ったやつだ……」

「それはそれですげーな、くるみちゃん……」

 そのまましばらく、軽音楽部の部室はテストの話で盛り上がった。


「……あの、興津先生」

 いつものように部室に向かう前の帰り支度をしていた興津に、巴が声をかけてきた。

 しかし、それはもう今までのような猫なで声ではない。

「すみません、少しお時間をいただいてもいいでしょうか」

 そう言って彼を見る目は、ひどく真剣だった。

(……妙なことになる確率は、低そうかな)

 それでも彼は警戒し、一応の距離を取ろうとする。

「いいですよ。ここで話せることでしたら」

「あ、いえ……ここではちょっと……」

 案の定困った顔をした巴に、内心ため息をつきながら、

「じゃあ、そこの準備室でいいですか?」

 彼は職員室と廊下から筒抜けになった、職員準備室を見遣った。


「金曜日は、大変申し訳ありませんでした……!」

 給湯器の前で向かい合うと、巴は派手な色の頭を思い切り下げる。

「始業前のお忙しいところに、くだらない質問でお時間を取らせてしまった上、お怪我までさせてしまう所でした。反省しています……」

 彼女はすっかりしおらしくしている。

「……いえ、私も大人気ないことをしました。こちらこそ申し訳なかったです。もうお気になさらないでください。……巴先生さえよければ、お互い様ということにしませんか」

 本当に反省している様子が見て取れ、興津も自分の非礼を詫びた。

 それを聞いて、巴はほっとしたように頭を上げる。

「ありがとうございます。……あの……」

 彼女はそのまま、真面目な顔をして口を開く。

 興津は黙って、巴の話を聞くことにした。


「私、あの後、少し考えたんです。……私は今まで、教科書に載っていることだけをきちんとなぞってさえいれば、授業になるんだと思っていました。大学もクラシックピアノ専攻でしたし、両親が懐古主義で、新しい音楽を嫌う人たちだったので、子供の頃から自分にもそれが必要のないものだと、そう思ってきました」

 巴の手が、ピンクのマーメイドスカートの上で握られる。

「でも、じゃあ私が今やっていることは何なんだろうと、……こんなにいろいろな音楽が溢れている世の中で、いまを生きている子供たちの中に、どれくらいオールディーズやクラシックに興味を持っている子がいるか……そしてその興味がない子に、知らなかった曲のいいところを教えるのが私の仕事なのに、私は自分の興味がないことや知らないことを自分から学ぼうともせずに、ただ親や周りの人の好みにばかり合わせて、とてもいいかげんに、矛盾したまま音楽と付き合ってきたと、そう思ったんです」

 巴はそこで一度息を吐き、言葉を続けた。

「興津先生にお聞きしたことだって、自分で調べればすぐにわかることばっかりだし、動画サイトで適当に検索したバンドの名前ばかり覚えて、ちゃんと歌を聴きもせずに話しかけてしまって、すごく薄っぺらなことばかり……本当に恥ずかしいです。音楽教師なのに、自分が音楽に疎いことを暴露するなんて、どうかしてました。大学でも、同じことを言われてきたはずなのに……でも、やっと目が覚めた気がします。音楽は、仕事するためだけに使ったり、誰かの気を引くための『道具』じゃないですね」

 彼女は苦笑して肩をすくめると、頬を染めて興津を見た。

「これから、もっといろいろなジャンルの音楽を聴いて、自分が本当に好きな音楽を見つけて、真剣に向き合いながらやっていこうと思います。それで、あの、……これからも、出来れば興津先生に、いろいろ教わりたいなと……その、仕事じゃなくて、プライベートで……」


 何かを期待して見つめてくる巴に、興津は首を横に振った。

 途端に彼女の顔色が曇る。


「巴先生。音楽を仕事や、誰かと仲良くなるための手段にすることは、間違っていませんよ。音楽がきっかけで出来た友達が私には何人もいる。……誰よりも大切にしたい、大事な人もね」

 びく、と巴の肩が震えたが、興津はそれを無視して先を続けた。

「私はあなたのお気持ちに応えることはできません。将来、結婚の約束をしている人がいます。私の人生のすべてをかけて、幸せにしたいと思っている人が」

 今頃、部室で懸命にギターを爪弾いているだろうその姿を想って、彼は微笑む。

「巴先生、あなたは素敵な女性だ。ご自分の至らなさを省みることができるし、それから目をそらさないできちんと受けとめて、前に進もうとしている。きっと近いうちに、あなたの隣を一緒に歩いてくれる方が、必ず現れるはずですよ」

 では、と言って、興津は彼女に背を向け、準備室を後にする。


(たとえくるみと出逢う前に彼女と会っていたとしても、心が動くことはなかっただろうな)

 ふとそんなことを思い、興津はくるみの顔がたまらなく見たくなる。

(……早く部室に行こう)

 かすかに聞こえる巴のすすり泣きを振り払って、彼はギグバッグを背負った。


「あらー、巴先生、残念だったっけねー」

 涙をハンカチで押さえていたところに聞こえた不愉快な物言いに、巴はぎょっとしてそちらを見る。

「見事に振られましたなー、ははは、かわいそうに」

「!……古和土先生」

 吐き気がするほどの気分の悪さを抑え込み、巴は化け物を見る目でそちらをねめつける。

「そっかー、興津先生、彼女いるのかー。ああ見えてやることやってるんだねえ」

 下品なジェスチャーを交えて職員室のほうを見やりながら、古和土は馬鹿にしたようにげらげらと笑う。

「失礼ですよ、古和土先生」

 既に理性の糸が何本か切れた顔で、巴は古和土を見る。

「はははは、別にええら、今さっき自分のこと振った男のことなんてさー。というわけで、早速だけど巴先生、俺なんかどう? さっき興津先生の言ってた、『隣を歩く人』ってやつ……」


 準備室に響いたのは、平手打ちの乾いた音ではなく、鈍い殴打の音だった。


「……」

 古和土は何をされたかわからない、という表情で、頬を抑えて床の上に転んでいる。

 氷のように冷たい眼差しで、巴は自分がこぶしで殴った相手を見下ろす。


「打ち上げの時の笑えないいたずらと、さっきの品のないジェスチャーと、趣味の悪い立ち聞き……全部、これでチャラにしてあげますよ。ただし、私があなたをぶん殴ったことを誰かに報告したら、あなたの方が先にセクハラしたって理事長に直接報告しますから。……わかったらさっさと失せろ、そして二度と私に絡むな。この下衆野郎」

『理事長に直接』の部分を強調しつつ、巴は啖呵を切った。


 こぶしを構えたまま仁王立ちになっている彼女にすっかり怯え、古和土は慌てて体を起こすと、這う這うの体で廊下に飛び出していく。

 その足音が遠くなってから、

「……痛たた……ピアノ弾く人間が、いちばんやっちゃいけないことしちゃった……」

 彼女は拳を解くと、右手をはたはたと振る。


(……残念、彼女持ちだったか。ちょっとだけ、本気で好きになりかけてたんだけどな)

 興津が去っていった職員室の方を見て、定期演奏会のリハーサルの時にステージの上で見た彼の、何とも言えない甘くて暗い色香にくらりとしたことを思い出し、まだその残り香にこれからしばらくの間は悩まされるのだろうと考え、巴は肩を落とす。

 自分が打ち上げで意図せず見せてしまった失態を、嫌な顔一つせずに助けてくれたその優しさは、思えばただの仕事仲間としての責任感からで、決して自分に好意があったからではないのだと言い聞かせてはみるが、そうやすやすと諦めることができない程度には、片恋の熱は巴の心に焦げ跡を残して、静かに疼いている。

(ほんと、いい人ほど早く売れちゃうのよね、……羨ましいな、あんな人に好かれて、結婚の約束までしてるなんて。どんな人なのかしら……でも、私みたいに、ズルして人の気を惹こうとするような人間じゃない、ってことだけは、嫌になるほどわかる……)

 女子だけではなく、男子生徒からも彼を好意的に見ている声の多い興津のことだ、人として何かと釣り合いの取れる人間なのだろう。

 そして、自分はそこに至らなかったというより、そもそもの身の丈が足りなかったのだと思い知らされ、ひどく惨めな気分に陥りそうだったのを、巴は慌てて止めた。

(……落ち込んだってしょうがない。フラれたなら未練なんて持たないで、次よ、次)

 深呼吸して涙を引っ込め、首を軽く振ると、巴は古和土を殴った手の感触が不愉快になって、すぐ後ろの給湯器の前に立ち、その下の蛇口をひねってハンドソープを手に取った。


 両手を泡だらけにしながら、興津が相手のことを口にした時の、本当に幸せそうな笑顔を思い出す。

(あんな顔されたんじゃ、私がその人に敵うわけないな)

 彼女は小さく肩をすくめると、お幸せに、と心の中でつぶやいて、自分の未熟な恋愛感情を洗い流すように水流に手をかざした。


 ハンカチで手を拭きながら職員室に戻ると、巴は一昨日買ったばかりの新しい香水を少しだけ手首につける。

 上品で甘いバラと洋ナシの香りがして、自分が生まれ変われたような、そんな気持ちになる。

 しかし、それだけでは明日もここに来るためのエネルギーが足りない気がして、

「……よーし。晩ご飯、バイパスんとこの家系、食べに行ってみるか!」

 彼女はそう言って思い切り伸びをすると、カバンを持って元気よく職員室を後にした。

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