第28話
最後のパイプ椅子を片付けて倉庫に入れ、扉を閉めるころには、荷台いっぱいの楽器を乗せたトラックは学校に向けて出発していた。
「専門業者を頼めるなんて、やっぱり私立は違いますね。私が昔通ってた公立は部費が足りなくて、保護者が借りたトラックの荷台に部員がこっそり乗り込んでましたよ」
「そもそも楽器の扱い方も意識も違うんだよ。ここだけの話、中学生の頃、農家の子の家から借りた軽トラックでティンパニを運んだら、えらいこんになったっけね」
興津と藁科は昔話に花を咲かせながら駐車場に向かう。
「バイパスのところの焼き肉屋でしたよね」
自分の車を解錠して、興津は藁科に打ち上げ場所の確認を取る。
「そう。……ああ、興津君。ひとついいかしん」
それにうなずきつつ、藁科は少しだけ厳しい表情で興津を見た。
「……はい」
なんとなく嫌な予感がして、興津は自分の手が震え始めたのを感じた。
「君、牧之原くるみのことを、どう思ってる?」
「え……」
単刀直入な質問に、全身が痺れたような感覚がして、彼は竦んだ。
「いや、特に目に見えて贔屓はしてないみたいだし、別に上に報告しようなんて気もないよ。ただ……遊びであの生徒と仲良くしているわけじゃないよな?」
「……」
どう答えても不正解になるような気がして、声が出ない。
藁科はなおも言葉を続ける。
「ちらほらそういう話を聞いてるんだよ。主にあの子にフラれたらしい男子生徒からね。まあ、男の逆恨みなんてみっともないが、若い子にそれを言ってもしょんない。でも、……本気で好きなわけじゃないなら、さっさと諦めさせてやれ。そうしないと君の首が危ない」
彼は一度そこで言葉を切り、興津を改めてじっと見た。
「……あの、……」
どう答えていいのか考えあぐねて、興津はそこから先が続かない。
(本気だって言ってしまえば、どこかで誰かの耳に入るかも知れない。……藁科先生を信用していないわけじゃないけれど、本当のことだけは絶対に言えない)
額と背中ににじむ冷や汗を感じながら、興津も黙って藁科の目を見据えた。
「そんなおっかない顔しなくていい。こんなことを君に言うのも理由があってね」
藁科はかすかに笑いを浮かべる。
「実は、私の嫁さんも元は自分の生徒だったんだよ。昔は今ほど厳しくもなかったもんで、在学中から学校に内緒で付き合い始めて、大学卒業してから折を見て籍を入れたんだ。まあ、それでもかなり騒がれたけどね。だから、君たちが本気でお互いのことを好きなら、別に止めようとは思わないし、別れろ、なんてつまらないことも言う気は一切ない。……ないけんども……」
彼はそこで大きく息を吐くと、困った顔で深い顎髭をなでる。
「あの子も君も目立つからね、上手くやらないと危険だ。ちゃんと気は配ってるだろうけど、さっき言った男子生徒みたいに、君たちが近くにいるだけで面白く思ってない人間がいる、ってことは、頭に入れといたほうがいい。あることないこと吹聴してまわったり、幸せな人間を見るのも嫌で、その幸せをぶち壊すことだけに執心するような人間がいるかもしれないってこともね」
「……」
「ま、心配しなくても今のところは大丈夫だよ。報告は全部私のところで止めてるでね。君も牧之原も、今まで通りに振舞っていれば何も問題はない。本気なら、私は応援するよ。そんな顔してるってことはそうなんだろう?」
核心を突かれた興津が思わず目線を下に落とすと、藁科はそれを肯定の仕草と受け取ったようだった。
彼はふむ、と息を吐くと、少しだけ顔を曇らせる。
「……しかし、問題なのは古和土だ。今日も牧之原に何か言ってキレられてたっけえが、あいつ、兄貴の時といっしょで、あの子の家族のこと全校生徒にバラしたらしいな。えらい稚拙だが、……たぶん狙われてるぞ、牧之原」
「えっ……」
思わぬ言葉に、興津は目を見開いて顔を上げる。
「前っから、古和土は自分が気に入った女子生徒や教員に、小学生みたいな悪さをして気を引こうとする癖があるんだ。君も知ってると思うが、いっぺんセクハラで懲戒くらっても依願退職しない図太いやつだし、口がうまいからのらりくらりかわされて、理事会も手を焼いてる。こないだ辞めてった奴みたいに、あからさまな暴力とかの証拠も出て来なくて、生徒とのコミュニケーションだって言い逃れするもんで、いつも歯がゆいよ。……しっかり守ってやれ、あの子のこと。あんな幼稚で下衆な男に負けちゃいけんよ」
藁科は興津の肩を叩くと、
「じゃあ、また後で」
そう言って自分の車のほうに歩いて行ってしまった。
(藁科先生に害意がないことはわかった。でも……まさか古和土の奴が、くるみのことを?)
秋の夕暮れの眩しさに、ダッシュボードからサングラスを取り出しつつ、興津は藁科からもたらされた、不穏な話を整理する。
(確かにあいつは、生徒や教職員……特に女性にに対する態度は目に余る人間だ。そもそも、生徒の家族のことを話すなんてプライバシーの侵害じゃないか。知ってても言っちゃいけないってわかってるだろうに、注意されてもまた同じことをして……特にくるみの家は、羨望や嫉妬の的になりやすい環境だから、下手したら孤立させてしまうことだって……)
そこまで考えて、彼は背筋にぞくりと嫌なものが走るのを感じた。
(まさか、孤立させた上で、懐柔して、洗脳するつもりだとしたら……)
もともと彼女は孤立しやすいほうだ。声や恵まれた容姿が邪魔をしている上、直情的な性格ゆえに友達らしい子が軽音楽部以外に見当たらず、加えて自己肯定感も高くはない。最近はそうでもなくなってきたが、入学したての頃は、褒められるとひどく居心地の悪そうな顔をすることが多かった。
(自己肯定感の低い相手にストレスを与えた上で自分の思う方に誘導して、欲求を満たしたり搾取を行う……昔読んだ本にあった、マインドコントロールの手法に似ている。……古和土は、それを無意識に、あるいは意識的にやってるかもしれないってことか)
そら恐ろしい想像に興津は身震いすると、それを振り払うようにぐっと奥歯を食いしばる。
(……くるみが危ない。出来る限り、側にいてやらないと。あの子は僕が守るんだ)
どこまで出来るかはわからないが、彼はそう胸の奥で固く誓うと、サングラスをかけてからブレーキを強く踏み込み、エンジンのスイッチを押した。
夜の帳が降り始めた頃、生徒を乗せた三台のバスは、バイパス沿いのレストランの駐車場に停まった。
「うふふ、焼き肉久しぶりだなあ」
バスから降りて、くるみはぐっと伸びをする。
「お腹空いちゃった……食べ過ぎないように気を付けないと」
「本当に気を付けろよ祐華、お前胃が弱いんだから」
後ろについて下りてきた祐華の背中を、紘輝がぽんと叩く。
「紘輝先輩、良かったっすね、楽器持ち帰ってもらえて」
バスから降りた隆玄が、首を鳴らしながら紘輝に話しかける。
「ああ、これで気兼ねなく食える」
「お兄ちゃんこそ食べ過ぎないようにね、せっかく痩せたのに元通りになっちゃうわよ」
「今日はチートデイだからいいんだよ」
吹奏楽部員に混じって、くるみたちは歩きだす。
「ミチル、こういう店初めてだろ?」
「はい。……というか、焼き肉自体初めてです」
「そっか、じゃあやり方教えるよ」
「とりあえず、ホルモンは炭になるまでよく焼く。腹壊したくなかったら、こういう店のはそれが鉄則だよ、ミチルちゃん」
軽音楽部のしんがりを歩く太陽とミチルに、隆玄が振り返って声をかける。
「ほるもん……?」
「りゅーげん、そういうのはまだいいから」
耳慣れない単語に戸惑うミチルと迷惑そうな太陽を見て、隆玄はごめん、と言って肩をすくめると、麗の姿を視線の先に探す。
(あ、いた)
程なく彼女は見つかり、隆玄はほっと息を吐く。
(やっぱ、吹奏楽部はパートごとに分かれて座るんかな。……居づらそうだったら、俺らのテーブルに移ってこれるようにしたいな)
隣に友達らしい影もなく、独りでうつむきがちに歩く小さな背中を見て、隆玄の心は痛んだ。
興津が駐車場に車を停めると、既にバスから生徒たちが店の中に入って行くところだった。
(教員は教員で固まるんだろうか、……出来ればくるみの近くにいたいんだけれど)
思わずため息をついたその時、
「興津先生、お疲れ様」
後ろから古和土が声をかけてきた。
「……お疲れ様です」
興津は出来るだけ平静を装って味気ない笑顔を浮かべると、古和土に背を向けて店へと歩き出す。
(この人がくるみに近づくことだけは避けたいな、何を言い出すかわかったもんじゃない)
今日の舞台袖でのやり取りと藁科の話を思い出し、目いっぱいに警戒する。
「いやー腹減ったね、昼にハンバーガー食ってそれっきりだからねー」
「ええ、目が回りそうですよ」
胃にものが入っていると歌いづらいため昼食もとらず、眠れなかったおかげで食欲がわかずに朝食も抜いてきた興津にとっては、これが今日初めての食事だったのだが、奴隷の鎖自慢をする気にもなれず、適当に受け流す。
「いっそ飲んでもいいかね、帰りは代行頼んで」
「いやいや、生徒の前ですからそれは……」
さすがに箍が外れ過ぎな発言に、興津は思わず釘を刺す。
「でも焼肉にはやっぱアルコール欲しいだろ?」
「いえ、どっちかと言うと白米ですね、私は」
早くこの話題を終わらせたくなって、若干語気を強める。
「相変わらずつまらん奴だねえ。興津先生、飲み会でもあんまり飲まねえから、本当に楽しんでるか心配になんだよ。こういう時こそ、ハメ外さんと。なあ?」
「独り暮らしなもんで。自制しないと後が大変ですから」
いつまでも自分に絡んでくる古和土が鬱陶しく感じられて、興津は心の中で深いため息をつきながら店のドアを押し開ける。
「おう、興津君、古和土君、お疲れ様」
ごま塩頭に日焼けした肌の瀬戸が、会計を先に済ませるためにそこにいた。
「もうみんな生徒は座ってるよ、あとは巴先生と藁科君待ちだ。部員の側の席開けてあるで、早く座って」
「はーい。さって、ドリンクメニューはどこかしん」
「了解です」
古和土と離れられることと、くるみの近くにいられることに安堵し、興津は思わず微笑む。
「興津くん、なんかえらい嬉しそうだっけね」
「え、ああ……今日初めての食事なもので、やっと食べられると思うと」
瀬戸のわずかな鋭さを含んだ物言いを、興津は慌てて事実を述べて交わした。
「先生ー、こっちこっち」
紘輝の声に呼ばれて、興津は店の隅に陣取る軽音楽部員たちの席についた。
「お疲れ様です」
「ああ、君たちもお疲れ様」
ご丁寧にくるみの隣が開けられていることに苦笑して、興津はジャケットを脱いで椅子に掛け、カバンを足元のかごに入れる。
着席すると、傍らのくるみが彼を見て可愛らしく笑う。
それに幾分か抑え気味な笑顔を返して、興津は店の中を見回した。
(こういうところ、一人じゃ絶対に来ないから、何だか新鮮だな)
考えてみれば、誰かと一緒に食事をするのは夏休みの合宿以来だった。
(あの時も楽しかったな。……やっぱり、もう独りには戻りたくない)
当たり前のことなのに、今日帰る部屋ががらんどうなことが、ひどく寂しく感じられる。
(……大学に行け、なんて言っておきながら、結局は僕がわがままを言って、あの部屋の中に、くるみを閉じ込めてしまいそうだ……)
不意に切なくなって、彼は少しだけ長いまばたきをしてから、隣に座る美しい少女を見る。
(愛してるよ、くるみ)
あまりにも場違いな感情が唐突に湧いて、思わず小さな笑い声を立ててしまう。
そんな彼の胸の内を知る由もなく、彼女はただ幸せそうに微笑んでくれた。
「みなさん、遅くなってごめんなさい。道が混み始めてて……」
「先に始めててもよかったんですよ、教頭先生」
みんなが着席して十分程立ったとき、出入り口から巴と藁科が連れ立ってやってくる。
「いやいや、今日の功労者抜きで始めるわけにはいかねえら」
彼らが席につくのと同時に、瀬戸が立ち上がる。
「はーいみんな、注目。とりあえず全員集まったから、話を……」
空腹な上にこれ以上待たされるのか、という空気に生徒たちがなりかけたとき、瀬戸はいたずらっぽく笑って腕を組む。
「しようと思ったけど、んなものはどうでもいいから、みんな好きなもん持ってきなさい。席も好きに移動していいでねー」
わっ、と店の中が一斉に沸いて、吹奏楽部の男子部員が皿を持ってダッシュする。
「よし、全員突撃!!」
軽音楽部も紘輝の号令一過、皿を手にバイキングコーナーに向かった。
「よう、牧之原」
くるみがフルーツを取ろうとしていると、背中から古和土が話しかけてきた。
「……あ、お疲れ様です」
くるみは愛想笑いを返し、目の前にあったメロンをトングで挟んで皿に乗せる。
「ははは、お前相変わらず冷てえな、そんなに英語が嫌いか」
「嫌いではないです、苦手なだけで」
今朝の下手袖での苛つく会話を思い出して、彼女はさっさと席に戻ろうとイチゴを諦め、代わりにライチの入ったゼリーに手を伸ばす。そして、
「そういうこと言ってるから、今日の歌みてーに発音へったくそなんだよ、お前は」
古和土のその言葉に、伸ばした腕が止まった。
「いやー、ひどかったぞ、今日の二曲目。『L』と『R』の区別はついてないし、母音の発音がまんま日本語だったし。あれじゃ何歌ってるかわかんねーよ」
心無い言葉に、身体が怒りと悲しみで震え始める。
古和土はそんなくるみの様子を見て、楽しそうに言葉を投げ続けた。
「そもそもさあ、録音とかして自分の歌聞いてたら、あれ歌おうとか思わねえよなあ。自分で聞いておかしいって思わなかった? てか、誰かに発音チェックとかしてもらおうって考えたりしなかった? いやまあ、したところで大差ないだろうけどよ、あの感じだと」
古和土はけらけらと笑うと、皿にイチゴを取ってから、うつむいたくるみの顔を覗き込んで、にいっと口の端を歪めた。
「音程だけ合ってりゃいいってもんじゃないだろ、歌ってのは。あれは原曲に対する冒涜だね。ま、田舎の高校生がやるこんだから、プロと同じことを求めてもしょんないのかもしんねえけどさ、へたっぴいがあんまり褒められて調子乗ってると恥かくぞ、今日みたいに」
そこで誰かが古和土を呼ぶ声がして、くるみから彼は離れた。
「……」
くるみはそれ以上何も取らずに、静かに席に戻った。
「……くるみちゃん、どうしたの?」
ひどく沈んだ顔の彼女を見て、祐華が声をかける。
「顔色が良くないですね、お具合が悪くなってしまいましたか?」
ミチルも心配して席を立つ。
「とりあえず座りなよ、ほら」
太陽が手からメロンが乗った皿を取り、祐華が背中に手を添える。そこへ、
「……牧之原、どうした?」
明らかに雰囲気のおかしくなったくるみに、興津が手に持っていた飲み物をテーブルに置きながら話しかける。
そして彼が着席するのと同時に、彼女は大声を出して泣き始めた。
「あははははは、泣かしちゃった! いやー、悪りぃ悪りぃ、ごめんっけねー! 牧之原ぁ!」
少し離れたところから、手を叩く音と、古和土の爆笑する声が聞こえて、くるみ以外の軽音楽部員と興津は一斉にそちらを見た。
「でも、俺間違ったこと言ってないだろ? 事実は事実として受け止めなー、成長するためには挫折も味わわんとねえ、あはははは!」
彼は悪びれもせずにそう言うと、周りの生徒たちとの会話に戻る。
「……何を言われたんだ、牧之原」
嫌な予感と怒りを抑え込みつつ、興津は出来るだけ冷静にくるみに問う。
「……今日歌った、『トップ・オブ・ザ・ワールド』、……発音がひどくて、何歌ってるか、わからないって……下手くそが調子乗るな、原曲への冒涜だって……」
「!!」
思わず席を立って古和土を殴りに行きそうになったのを、興津は必死で堪える。
「そんなことないわよ、ちゃんと歌えてたわ。発音だってきれいだったもの」
くるみの背中を撫でながら、祐華が必死に否定の言葉をかける。
「そうです、ちゃんと藁科先生にお墨付きまでいただいたんですから」
ミチルも一緒になって励ます。
「……ざっけんな。下手くそって、どの口が言ってんだ。全部間違えずにあれだけ歌えるんだから、絶対そんなこんない。……だからあの先生、苦手なんだよ、俺……」
怒りを吐き出した太陽が、心の底から見下げ果てた声音の深いため息をつく。
「ひでぇなんてもんじゃねえ、人が一生懸命、頑張ったことを踏みにじりやがって……!」
隆玄の声は殺意に近い憤怒で震えている。
「くるみちゃん、気にしちゃだめだ。ちゃんと歌えてたってことは俺たちが保証する。その証拠にお客さんだって、目いっぱい拍手くれたじゃないか。ひとりのアンチの意見より、百人の賞賛の方が正しい。自信もっていいんだよ」
紘輝が一生懸命に慰めの言葉をかけるが、くるみは泣き止まない。
(……くそったれ!)
出かかった言葉をどうにか飲み込んでから、興津も口を開く。
「牧之原、みんなの言うとおりだ。今日の君の歌は、特に良かったよ。発音も練習通りきれいに出来ていたし、何より聴いていて温かい気持ちになった。教頭先生も巴先生も、藁科先生も楽屋で君のことを褒めていたよ。長年音楽に携わっている人が、何よりお客さんが君の歌声を認めてくれたんだ。大丈夫、何を歌っていたかわからないなんてこんは、絶対にないよ」
「……でも……」
まだ泣き止まないくるみに、興津は一つだけ息を吐いて、心を落ち着かせてから顔を覗き込む。
「……牧之原、私たちと古和土先生、君はどっちの言葉を信じる?」
「……」
その声に、くるみはようやく顔を上げる。
「……あの」
背後から声がして、くるみたちはそちらを見た。
「麗ちゃん……」
隆玄が身を乗り出す。
「……さっき、わたし、横で聞きました。古和土先生が、牧之原さんに何を言ったのか。あんなの、絶対信じなくっていいです。他の聞いてた子っちも、めちゃくちゃ引いてましたから。……牧之原さん、大丈夫。うちの部、牧之原さんのファンがたくさんいるでね」
麗はそう言ってぎこちなく笑う。
その言葉に、くるみはまた泣き始めてしまった。
しかし、その涙が悲しみと怒りではなく、喜びからのものだということは、そこにいた誰の目にもよくわかった。
「清水、ありがとう。わざわざそれを言いに?」
「……ええ、まあ」
興津の問いかけに、麗は何故か明後日の方向を見る。
よく見なくても彼女はカバンを抱えている。
何かを察した紘輝が、
「麗ちゃん、荷物ここ置きな、隆玄の横」
そう言って自分と隆玄の間の、コーナーになっているソファーを叩く。
「……いいですか? お邪魔して」
「麗ちゃんなら大歓迎だよ、ほら、早く座りな」
満面の笑みの隆玄の横に、麗はちょこんと腰かけた。
「俺、麗ちゃんの分も焼いてあげるね」
「自分で焼くから大丈夫です」
相変わらずの冷たさに苦笑しつつ、隆玄の顔には安堵の色が浮かんだ。
三十分後、少し元気を取り戻したくるみと、古和土が再びやってくることを危惧した興津をテーブルに残して、軽音楽部員と麗は二回目のお代わりを取りに席を立っていた。
「……ごめん」
店いっぱいの喧騒に紛れて、興津は彼女にだけ聞こえるボリュームで話しかける。
「藁科先生から話を聞いて、警戒はしてたんだけど……ずっと一緒にいればよかったね」
「いえ……そんなことしたら、怪しまれちゃいますから」
肩をすくめて彼女は笑う。
「……そのことで、一つだけ言わなきゃいけないことがある。藁科先生は、僕たちのことに気が付いてるよ。でも、敢えて見逃してくれてる」
「うそ……」
「ほんとだ。それに付随して、藁科先生から聞いたことを君にも伝えておく。……君はもっと、古和土先生と距離を取りなさい。あの人は君のことを、何らかの搾取の対象としてみているかもしれない。危険だ」
「……そんな、……」
彼の言葉に、くるみはただ息をのむことしかできなかった。
「この間辞めた先生ほどではないと思いたいし、目的がはっきりしないから何とも言えないけど、藁科先生の話を聞く限りでは、君をさっきみたいに傷つけて、自信を失くしたところにつけ入る気でいるんだろう。いいか、これからは何か言われたら、必ず僕たちに相談しなさい。ひとりで悩まないでいいからね。……君は何も悪くないよ、くるみ」
周りに人がいないことを確認してから、興津は控えめに彼女の名を呼んだ。
「……先生……」
涙の痕が残る頬に、ほんのりと朱がさす。
「大丈夫。みんな君の味方だ。安心しなさい。僕を信じて、くるみ」
興津の柔らかな笑顔に、くるみはこくりとうなずいた。
「お待たせでーす、おかわり持ってきましたー」
トレイの上の皿に山盛りの肉を乗せて、男子部員が二人の背中から声をかける。
「くるみちゃん、イチゴ食べる? ライチゼリーもあるわよ」
「ケーキも一個ずつ持ってきましたから、みんなでシェアしましょう」
「……うん、ありがと、祐華ちゃん、ミチルちゃん」
ようやくいつもの笑顔を取り戻したくるみに、ミチルと祐華は顔を見合わせ、ほっとした様子で笑った。
「先生、ビール飲まないんですか?」
「何言ってるんだ、今は仕事中だ。帰ってから飲み直すよ」
「わー、相変わらず真面目っすね」
「これが普通だ。生徒の引率で呑む教師なんて、マンガの中だけだよ」
二年生二人を相手に、興津も軽口をたたく。
「これ焼いたら、網変えてもらおう。麗ちゃん、俺らに遠慮しないでいいから、しっかり食べなよ」
「ありがとうございます、藤枝先輩。元が取れるように頑張ります」
麗の発言に、和やかな笑いが起こる。
軽音楽部の打ち上げが、ようやく始まった。




