第2話
「はい、お疲れ様」
「ありがとう」
くるみの手からスポーツドリンクのペットボトルを受け取ると、慎は興奮で張り過ぎて嗄れてしまった声で答えてから、すぐにそれを開けて半分ほど飲み、大きなため息をつく。
「どうだった、俺たちの演奏」
「うーん、まあまあよかったんじゃない」
くるみもミネラルウォーターのペットボトルを開けて、ひと口中身を飲んだ。
「お、まあまあと来たか……何がだめだったか正直に言ってくれ、だいたい察しは付く」
「ボーカル。特にアンコールの曲の」
「だよなあ……どうして高音が出ないのに『リライト』やったんだろ、俺たち……」
慎は唸りながら頭を抱える。
演奏が終わり、慎とくるみは体育館から校舎の四階にある、いちばん隅の空き教室に戻ってきていた。
他の部員はそれぞれの楽器を片付け、各々文化祭を楽しみに行ってしまったようである。
しかしくるみは先程のライブの衝撃が忘れられず、とても他の展示を見る気になれなかった。
その気分のまま体育館の外で兄を捕まえた彼女は、あの教師のことを何か聞き出せないかという期待を大いに膨らませ、バスの待ち時間までの間、部室で話をすることにしたのだった。
ペットボトルの中身を飲み干してしまってから、慎は傍らの妹をちらと見遣る。
「あーあ、お前くらい声に特徴あって、しっかり歌えるやつがいたらいいのにな」
「やめてよ、ほんとに気にしてるんだから」
幼い子供のようにも聞こえる、蜂蜜のように甘ったるくて耳に残る、やや舌足らずで鼻にかかった声で、くるみは兄に抗議する。
「気にするほどじゃないと思うんだけどな、時と場合によっては武器になるじゃん」
「武器って……何の役にも立ってないよ。女子には声作って媚び売ってるって嫌味言われるし、男子にはアニメ声ってバカにされるし、先生には普通に喋れって脅されるし。合唱でもどんなに声抑えても目立つしさ……お母さんみたいな声が良かったのにな、落ち着いてて、綺麗で……」
「しょんないだろ、持って生まれたもんなんだから。うまく付き合うしかないよ」
「わかってるけどさあ……」
くるみは大きなため息を吐いて、もう一口水を飲む。
「ていうかほんとお前、なんで合唱部入ったんだよ。悪目立ちするってわかってたんだろ?」
「消去法で決めたらそうなったんだもん。運動部も吹奏楽部も上下関係厳しいっていうから除外して、絵が描けないから美術部と文芸部外したら、入れる文化部が他になくて……」
「後ろ向きだなあ、お前の生き方」
「お兄ちゃんだって似たようなもんでしょ。……やめよ、この話。せっかくの楽しい気持ちが消えちゃうじゃない」
自分以上に居心地の悪い子供時代を過ごしていた兄にそう返し、くるみは一つだけ大きな息を吐いてから、やりきれなさも一緒に封じ込めるようにペットボトルに蓋をした。
「……でもさ、お兄ちゃん、めずらしく頑張ったね」
「いつも手抜きしてるみたいな言い方すんな、人聞きが悪い」
慎はペットボトルを机に置き、隣の机の上にあったバッグのファスナーを開けると、パールのような光沢のある白い楽器を取り出す。
「だって、そのギター、うちで練習してたのと、なんか一味違うって言うかさ……あんなにうまく演奏できるようになってるなんて思わなかったよ」
「……ベースな。ギターには違いないけどベース・ギターだ」
兄はまず妹の無知を訂正してから、言葉を続ける。
「まあな……前の顧問の先生は自分が演奏できないから、こっちが質問しても答えらんないどころか、逆に俺が何をどう扱うのか教えてばっかで、本当に頼りなかったんだ。おまけに、半分不良のたまり場になっててさ、部員同士ギスギスしてるし、練習しないで菓子食って雑談して帰るだけだったり、他所の生徒と喧嘩したり、しょっちゅう反省文だなんだってトラブルばっかり起こしてさ、それが原因でその先生も辞めちゃって、その後に俺も部長にされたもんだから……もうさ、いろいろあり過ぎて疲れ果てちゃって、去年の今ごろ、入れ替わりで今の顧問の先生が来るまでは、正直辞めようかと思ってた」
「ふーん……お兄ちゃんも苦労したんだね。じゃあ、今の先生って、そんなにいい先生なの?」
「うん。興津先生はすごく頼りになるんだ。褒めてくれるからモチベも上がるし、自分も演奏する人だから、教え方が具体的でわかりやすいんだよ」
「へー、どんな人? その、おきつ先生って」
「さっき俺たちの後に、先生のバンドが演奏しただろ。ボーカルとベースやってたのがそう。ヒゲの先生」
「あ……」
まさしく意中の人の名前を知って、くるみは頬が熱くなる。
「練習は絶対に手抜きさせないし、知ったかぶりやサボる奴には厳しいけど、真剣に音楽が好きでやってる生徒にはすごく丁寧に指導してくれんだ。まあ、ちょっと性格暗いのが玉に瑕だけん、あのヒゲがさ、ジョージ・ハリスンみたいにキマっててカッコいいんだよなあ」
「……誰それ、ジョージナントカって人」
かっこいいという修飾語で増した動揺を悟られないように、いつも以上に素っ気無い口調で言葉を返すと、兄は眉をしかめた。
「誰ってお前……ビートルズくらい知っとけよ、常識だろ」
「常識って何でよ。お母さんのiPodに入ってた歌ならわかるけど、メンバーまでは知らないもん」
「じゃあいま覚えとけ。ビートルズは……」
「結構ですうー」
「お前なあ……」
知識をひけらかせる相手に振られた慎はげんなりとして肩を落とす。
大袈裟な兄の仕草にくすくすと笑うと、くるみは先程のライブの曲目を思い出して、話を変えた。
「ていうかさ、……先生たちのバンド、『RPG』やってたね」
「うん」
「もしかして、お兄ちゃんの差し金?」
「まさか。母さんの話はしたことあったけど、あの曲のことまでは言ってないよ。セトリはお楽しみだって教えてもらえなかったから、俺もびっくりした。偶然ってすごいな」
「うん……」
くるみはもうひと口水を飲むと、ふう、と小さくため息をついた。
偶然などではない。
この出逢いは運命以外の何ものでもないという確固たる思いが、くるみの心の中に生まれた。
その証拠に、彼の歌声を聞いた途端、自分の心は無色透明から鮮やかな色に変わった。
今まで感じたことのないこの気持ちの名前がきっと『恋』なのだろう。
そして、きっとこれは自分の人生を大きく変えてしまうものだ。
しかし、くるみはそれを怖いとは思わなかった。
これまでの薄氷を踏むような平穏の日々から抜け出せる気がして、わくわくする。
胸の中に爽やかな香りの風が吹いているような気がして、彼女は微笑んだ。
「オリジナルには勝てないけどさ、悪くなかったよな、先生っちのも」
兄の言葉にうなずくと、先ほどの興津の歌声を思い出して、くるみはかすかに頬を染める。
「うん……ちょっと泣いちゃったっけ」
その返答に、慎が何かに気付いたように苦々しい表情をする。
「……お前、まーた化粧してんだろ。目の下真っ黒になってんぞ」
「えっ、やだ」
くるみは慌ててカバンからポーチを出すと、パウダーのコンパクトを開いて目の下を擦った。
「なんで中学生のうちから化粧なんてするかなあ、兄ちゃんは悲しいぞ」
「いいでしょ、別に人に迷惑かけてないんだから。日焼け止めにもなるし」
中学校に入ってからどうも過保護が過ぎる兄の言葉を、くるみはにべもなくつっぱねる。
「本当によせよ。変な男が寄ってきたらどうすんだ」
「どうもしませんー」
マスカラのかけらを爪の先でこそげ落とし、コンパクトを閉じてポーチにしまうと、くるみはそっぽを向いた。
「お前、人が心配して言ってやってるのにその口の利き方……あ」
その時、背中越しに扉が開く音がして、慎がそちらを見る。
「先生、お疲れ様です」
どき、と心臓が再び跳ねた。
振り返るとそこに、ステージの上から手を振ってくれた人――興津が立っている。
まさかこんなに早く再会するとは思っていなかったせいで、くるみは思考停止に陥った。
「お疲れ。牧之原、今日のステージ、今までで一番良かったよ。バッチリだった」
「ほんとですか? 俺、声なんてカッスカスでしたけど……」
「本当だよ。そうじゃなかったら、あそこまで聴いてた人っちは盛り上がんないよ。他の先生っちも褒めてたっけね、ここまで出来ると思わなかった、とても楽しかった、って」
「!……ありがとうございます……」
いつも何かと格好つけて悪ぶっている兄が、ここまで素直に笑みを浮かべているのを見るのも、嬉しそうな声で話すのも、久しぶりな気がする。
その兄を褒めた興津の声音は穏やかで低く、体育館に響いた歌声より、ずっと落ち着いて聴こえた。
「……で、そちらはどなたかな?」
柔らかい口調ではあるが、興津にしてみれば見たこともない女の子が部員の隣にいるのだ。訝しまれて当然だろう。
彼に訝しまれたくるみは慌てて立ち上がると、頭を下げた。
「あ、あの……兄がお世話になってます……」
こんなに真っ赤になるならチークなんて塗らなくてもよかったのではないかと思うほど、顔が熱い。
身体を起こして目を合わせると、興津は少し考えてから、何かに思い当たった顔をする。
「……ああ、君、さっき最前列にいた子だね。そうか、牧之原の妹さんだったのか」
「はい。くるみ、この人が今話した、興津先生」
兄に紹介され、くるみは再び人形のように腰を深く折り曲げる。
「……あの、牧之原くるみです。……初めまして……」
鳴りやまない心臓に辟易しながら、彼女はどうにか自分の名前を告げ、顔を上げた。
「どうも、初めまして。君のお兄さんの担任と部活の顧問をやってる、興津です」
そう言って微笑んだ興津の深く暗い海のような目に、くるみは吸い込まれそうな思いがした。
(……この先生、私の声、聞いても笑わないんだ……)
今まで自己紹介するたびに微妙な表情をされたり、はたまた吹き出されたりという経験ばかりだったくるみは、興津の変わらない態度にふわっと胸の奥が暖かくなる。
(仕事柄、慣れてるだけなのかもしれないけど、……失礼な人じゃない)
彼が信頼に足る人間だということがわかった安心感に、肩の力が抜けた。
「すみません、バスの時間がまだ先だから、ここで話してたんです。まずかったですか?」
「いいよ。九月って言ってもまだ外は暑いもんで、熱中症になったらよくないっけね。ここならエアコンもついてるから、時間まで休んでいきなさい」
彼はそう言いながら側の空いていた椅子に腰かけ、担いできたバッグを机に置くと、中からステージで奏でていた楽器を取り出した。
バイオリンのような形をしたキャラメル色に鈍く光る部分を膝に乗せ、柔らかそうな布で彼は丁寧にそこを拭く。
その布を持つ手に、くるみは自分との共通点を見つけた。
(この先生、左利きなんだ)
嬉しくなって微笑むと、また彼と目が合った。
「君、何年生?」
「……あ、え、えっと、ちゅ、中三です」
「そんな緊張しなくていいよ」
ガチガチに固まっているくるみを見て、興津は困ったような笑みを浮かべた。
「中三ということは受験か。ここ志望かな?」
「……はい」
くるみは彼の言葉にこくりとうなずいた。
「そうか。うちは学校で真面目に授業を受けていれば、塾に行かなくてもちゃんと入れるレベルだから、あまり根詰め過ぎないようにね」
「はい……」
話しかけてくれる言葉のひとつひとつが心地良くて、くるみの胸はときめいた。
その勢いに任せて、今度は自分から話しかける。
「あ、あの」
「うん?」
聞き返してくれる声の優しさに、心がきゅっとやわらかな痛みで満ちた。
「……左利き、ですか」
唐突な質問に面食らったのだろう、興津の表情から笑みが消える。
「……あ、うん。それがどうかしたのかな?」
その反応に慌てて、くるみは思わず自分の左手を差し出してしまった。
「わたしも、です」
「えっ……ああ、そうなんだね」
一瞬ためらった後、彼はくるみの手を取って、親しみを込めた笑顔で握手をしてくれた。
「応援してるよ、君ならきっと大丈夫だ。……ところで、握手で左手を出すのは良くないよ。私も昔やらかしたからね、経験者の声だと思って、今のうちに直したほうがいい」
「えっ、そ、そうなんですか」
興津の手の大きさと、予想外の展開と、自分の無知とでうろたえるくるみに、彼はもう一度優しく微笑んで言葉を続ける。
「左手の握手は相手に敵意を向けるものなんだよ。子供の頃、それで外国人の友達を怒らせたことがあったもんでね。……どうも、世の中のルールやマナーは左利きに厳しいね。お互い不便だけど、上手くやろう」
彼はそう言うと手を解き、今度は右手を差し出してくれた。
ためらいがちにくるみがその手を握ると、左手と同じようにそれはしっかりと結ばれる。
「来年の四月に会えるのを、楽しみにしているよ。頑張って」
「はい……!」
今なら苦手な英語も簡単にできそうな気がして、くるみは満面の笑みを浮かべた。




