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――講談社さん、本当にすみませんでした。
――昨日の夜、僕は死のうと思った。
精神安定剤を大量に服用して、カミソリで手首を切りつけて、首を絞めようとした。
カミソリで手首を切ったところまでは良かったが、自分で自分の首を絞めようとすると力が入らなくなる。死ぬのが怖いのか。
頸動脈から、鼓動が伝わる。どくどくと脈を打つその感覚は、「頸」という部品が生きていることを僕の指の感覚へと伝えている。そして、鼓動する頸動脈を握り潰せば、その時点で僕は生命活動を終える。――厳密に言えば、すぐに生命活動を終えるのではなく、一旦意識を失って、その後、心臓から脳に対する酸素の流れが止まることによって、「僕」という個体は漸く生命活動を終える。だから、どんなに苦しくても、心臓が鼓動している限りは――死ねない。
やがて、「死」に対する覚悟を決めた僕は自分の頸動脈を両手で力強く握り潰した。頸動脈を握り潰した瞬間、僕の視界は――夜中の停電のように真っ暗になった。俗に言う「ブラックアウト」というモノだろうか。
*
今どきの小説なら、ここで僕は「異世界」と呼ばれる世界へと転移されるらしい。所謂「異世界転生」というモノである。しかし、その時僕が見たのは、なんというか、本来そこにあってはならないモノ――つまり、「僕によく似た『何か』」だった。
ドッペルゲンガー。――ドイツに伝わる「もう一人の自分」を模した幻覚で、ソレを見た者は死ぬ。つまり、今僕が見ているのは「死の予兆」である。
白い壁に囲まれた部屋に、僕によく似た「何か」が立っている。僕によく似た「何か」は、白い死装束のようなモノを身にまとっていて、両腕には無数の傷痕が付いている。
僕は、傷だらけの「何か」に話しかける。
「――誰だ?」
当然だが、「何か」は僕と同じ見た目であり、声色も同じである。冷たく突き放すような声で、「何か」は言葉を発した。
「僕は、『僕』だ。それ以外の何だと思っているんだ」
矢張り、これは――ドッペルゲンガーなのか。僕は、改めて僕に似た「何か」に名前を聞いた。
「名前を教えてくれ」
僕に似た「何か」は、その名前を名乗る。名前を名乗った瞬間、鼓動を感じないはずの心臓が高鳴った。
「僕の名前は――フユヅキアヤカだ」
ああ、そうなのか。確かに、僕は「冬月絢華」という名前である。黒いベリーショートの髪に、中性的な見た目。そして、温度の低い声色。――そういう属性を持っているが故に、僕のことを女性だと思う人間は少ない。そうこうしているうちに、一人称も「僕」で馴染んでしまった。
フユヅキアヤカという名のドッペルゲンガーは、話を続けた。
「冬月絢華、残念ながら――あなたは死ねなかった。精神安定剤の過剰摂取に自傷行為、そして自分の手で自分の首を絞める。そんな行為で死ねるとでも思ったか。その証拠に、止まっているはずの心臓が脈を打っている」
そう言って、彼女は僕の胸に顔というか――耳を埋めた。ドッペルゲンガーと対話しているが故に、「フユヅキアヤカ」が感じているモノは僕にも共有されている。――つまり、聴こえるはずのない自分の心臓の鼓動が、僕の鼓膜に鳴り響いている。
「僕の心臓は――動いているのか」
「そうだ。正直言って、僕は昔からこの音が嫌いだ。『生きている音』なんて綺麗事を言うけど、僕からしてみれば――こんなモノ、『生かされている音』でしかない。あなたが死ねば、僕はこうやって苦しまずに済んだんだ」
――彼女は苦しんでいるのか。確かに、「自分と全く同じ容姿の人間がそこにいる」というのは死の予兆である。故に、「フユヅキアヤカ」というもう一人の僕も「死」に対して怯えているのだろう。
怯えた表情を見せる彼女に対して、僕はある質問をした。
「じゃあ、どうすれば君の苦しみを和らげることができるんだ?」
僕の意地悪な質問に、彼女は答えていく。
「――僕を殺してくれ。あなたがやったように、指に頸動脈を当てて、そのまま力を入れていく。それで、僕は漸く死ねるんだ」
そういう方法しかないのか。他に、もっと――平和的な解決方法はないのだろうか? でも、彼女がそういうのなら、やるべきことはただ一つだろう。
ただ一つのやるべきことのために、僕は彼女――フユヅキアヤカの首というか、頸動脈に親指を当てた。指に伝わる鼓動が、彼女の鼓動なのか。
頸動脈を強く押さえたところで、彼女は苦痛とも恍惚とも受け取れる表情を浮かべていた。
「――本当に、これでいいんだな?」
僕は彼女に対してそう言ったけど、頸動脈を押さえつけられている以上、声は出せない。でも、その表情は――多分、「漸く死ねる」ということを暗に示していたのかもしれない。
しかし、互いの感覚が共有されているということは――僕の首元も苦しい。これが、頸動脈を押さつけられるということか。
息ができない。意識が朦朧とする。指の力が入っていくにつれて、心臓の鼓動が早鐘を打つ。
「――ぐ、ぐあああああああああっ!」
苦しみのあまり、僕はゾンビのような呻き声を上げた。
*
――天井が見える。シーツの感触が、僕の背中を包んでいる。窓の外は既に明るい。夜が明けたのか。
ここは、自分の部屋――とはいっても、アパートの一室でしかないのだけれど――か。相変わらず、部屋は散らかっている。
あの幻覚を見たあとなので、自分が本当に「生きている」のかどうかが分からなかった。胸に手を当てると――心臓が脈を打っていた。ということは、僕は「生きている」のか。結局、また死ぬことができなかった。
いつ頃からだろうか。僕はひたすら「死ぬこと」ばかりを考えるようになってしまった。それは僕の心が弱いからなのか。それとも、「生まれてこなければ良かった」と思っているからなのか。いずれにせよ、僕は「冬月家の出来損ない」であることに変わりはない。
冬月家。兵庫県でも屈指のインテリの家系。ご先祖様は兵庫北部――豊岡の豪商だったらしく、一代で莫大な富を得たという。もちろん、豪商ということは、「頭も良い」ということである。
故に、ご先祖様の子孫はほぼ全員が神戸大学や京都大学といった「そういう系統の国立大学」に入学している。――その時点で人生はほぼ勝ち組と言っても良い。
しかし、僕はというと――そういう血統からはあり得ないぐらいダメな人間だった。大学も同じ京都にある京都大学ではなく少し格が落ちる立志館大学だったし、その後の就活も失敗。結局、万策尽きた僕が選んだ職業は「小説家」だった。普通なら、このフェーズで両親にとてつもなく叱られるだろう。
ところが、両親は――「僕が小説家になること」について反対しなかった。むしろ、母親に「絢華は他の子とは違うから、そういう仕事も悪くはないと思う」と言われたのだ。
――「絢華は他の子と違う」。正直言って、僕は他人からそう言われるのが嫌いだった。他人に言わせると、僕の考え方は「常に半歩ずつズレている」とのことらしい。
だから、小中はほとんど引きこもりというか――不登校に近い学校生活を送っていた。流石に高校は「今後の進路に関わる」という理由で登校していたが、正直言って周りにはついて行けなかった。
とはいえ、高校の学力テストでは常に上位をキープしていた。ベスト3から落ちたことがなかったのだ。そのお陰なのか、卒業後の進路を立志舘大学に定めた時には「学園初の立志舘大学進学者」として大体的にスポットライトを浴びるようになった。
その後、立志舘大学では単位を取得する傍らでミステリ研究会へと所属することになった。――小中高と友人が出来なかった僕にとって、ミステリ研究会のメンバーはほぼ「初めての友人」と言っても差し障りはなかった。当然ながら、今でも連絡はSNSを通じてたまに取っている。
しかし、その時の友人たちがSNS上で結婚報告や出産報告をアップする度に、僕は焦りの表情を見せていた。彼氏いない歴=年齢の僕にはキツい話だ。
男性に間違えられる見た目、俗に言う「まな板」、そして――ゼロどころかマイナスの女子力。僕が「異性にモテる要素」はどこにもない。要するに心の闇を抱えた「陰キャ」と呼ばれる人間である。
――もしかして、あのドッペルゲンガーは僕の「心の闇」が発露した幻覚なのか。心の闇を抱えていることで、僕は「もう一人の僕」という幻覚と向き合っていることになる。そして、互いの感覚を共有しているのなら、あの時首が苦しくなった理由も分かる。多分、ドッペルゲンガーは心のどこかで「死にたくない」と思っていたのだろう。僕がこの手でドッペルゲンガーを殺めようとした結果、ドッペルゲンガーの首の感覚が僕の首に伝わり、そして苦しくなった。その後、ドッペルゲンガーがどうなったのかは知らないが、僕にしか見えない幻覚なら、鬱病がひどくなったときにまた見えるのだろうか? そんなことを思いながら、僕はダイナブックの電源を入れた。書きかけの原稿があるのだ。
書きかけの原稿は――講談社に送ろうとしていたモノであり、タイトルは特に決めていないが「書いているうちに浮かび上がるだろう」ということで名付けを後回しにした。
立志館大学のミステリ研究会に在籍していたということで、僕が書いている小説のジャンルは――もっぱらミステリと言っても良い。というか、ミステリ小説ばかり読み漁っていたが故にそういう小説しか書けない体になってしまった。別に、それで損をする訳ではない。
しかし、10年もミステリ小説を書いていると、矢張りネタ切れを起こしてしまう。そもそもの話、ミステリ小説自体が飽和気味というか、マンネリ気味なので――売れない。その証拠に、僕が商業デビューをしたきっかけであるメフィスト賞も、ここ数年はミステリ以外のジャンルから受賞作が出ている始末である。これじゃあ、「ミステリの講談社」の名が汚れてしまう。
そもそも、僕がメフィスト賞に応募したのは、立志館大学3回生の夏だった。就活に行き詰まっていた僕は「憧れの京極夏彦と同じ土俵に立ちたい」という一心から就活を投げ捨ててメフィスト賞に応募。どうせ箸にも棒にもかからないだろうと思っていたが、「立志館大学ミステリ研究会」という箔が功を奏したのかその年のメフィスト賞を受賞。結果として僕は「月極冬華」としてデビューすることになった。名前の由来は――言うまでもない。
処女作は講談社ノベルスから発売されたが、講談社ノベルス自体が「西尾維新と森博嗣しか売れない、京極夏彦は新作を出さない」と言われていた時期だったので売れ行きは芳しくなく、文庫化すらされなかった。多分、文芸第三出版部からも「月極先生はお荷物」と言われていたのだろう。タイトルは――『毒舌探偵の華麗なる推理』とかそんな感じだっただろうか。当時の原稿はUSBメモリの中に保管してあるが、読み返すと――恥ずかしい。黒歴史だ。
それ以降もコンスタントに小説を書き続けていたが――売れない。僕のどこがダメなのか。数少ない友人の1人にも原稿を読んでもらったが、曰く「こんなモノが世間で評価されないなんておかしい」とのことだった。
あまりにも売れないので、僕は文芸第三出版部の担当者に「ライト文芸レーベルである講談社タイガに鞍替えしたい」と嘆願したこともあった。しかし、担当者から「月極先生はノベルスで出してこそ」と言われてしまったことによって頓挫してしまった。
少し前に、小説の資料を集めるために某古本チェーン店に行ったことがあるが、ノベルスコーナーにおいて僕の小説は110円(税込)で投げ売られていた。世間から見て、僕にはそれぐらいの価値しかないのか。550円(税込)はちょっと高望みしすぎだから、せめて330円(税込)ぐらいの価値は欲しい。まあ、僕の古本における価値を決めるのは古本チェーン店であって、講談社じゃないのだけれど。
そういう訳で、僕は――スランプだった。あまりにも原稿が書けなさすぎるので、WiFiが繋がらない場所へと逃避しようと考えたこともあった。
昔なら「海外に逃げてしまえばネットも携帯電話も繋がらなくなる」と言われていたが、今はスマホ1台あれば国内だろうが海外だろうが関係ない。それは、WiFiも変わらない。――僕は、海外にすら逃避できないのだ。
仕方がないので、現在の僕は芦屋のボロアパートを仕事部屋兼住処としている。なぜ同じ兵庫県でも神戸や西宮にしなかったのかというと「神戸はなんかうるさいし西宮は治安が悪いから」という理由である。ボロアパートとはいっても築35年なので、阪神地区を火の海に包んだあの忌々しい大震災は生き抜いているという計算になる。故に耐震性はバツグンだ。家賃は月々6万5千円と芦屋の割にはリーズナブルだが、ボロアパートだしワンルームだからこの価格なんだろうと心の中で思っている。
僕は、そのボロアパートの一室で原稿を書いているときが一番落ち着く。それは僕に友人と言える友人がほとんどいないからであり、なんというか――「パソコンが友達」と言えばいいのだろうか。「ボールは友達」とかいうどこかのサッカー小僧じゃないけど、多分そんな感じだと思う。
しかし、今はスランプ状態なので――ダイナブックの画面を前にしても、大したモノは書けない。原稿はほとんど真っ白である。
どうせ新作を出したところで売れないし、このまま講談社の担当者に対して「書けませんでした」と素直に言うべきなのか。それとも、無理やりアイデアを捻り出して原稿を書くべきなのか。僕は――悩んでいた。
悩むぐらいなら、矢張り――死ぬべきだろうか。いや、そんなことで自ら命を絶ってしまうのは情けないか。そう思っていたときだった。何かが――僕の肩というか、背中に触れるような感覚を覚えた。
僕は後ろを振り向いたが、誰もいない。――矢張り、幻覚なのか。精神的に参っているから、幻覚の一つや二つぐらい感じても仕方はないだろう。
そう思って、僕は洗面台の鏡を見た。しかし、後ろに誰かいるわけではない。死んだ魚のような目をした自分が、そこに映っているだけだった。安心した僕は、そのまま仕事部屋に戻ろうとしたが――何かがおかしい。なんというか、心臓にエイリアンの幼生が寄生しているような感触を覚えた。要するに、僕の胸は――ざわついていたのだ。
この胸のざわめきは――なんだろう。人間って、厭な予感を覚えると「胸がざわつく」というが、僕が感じているのは――矢張り、厭な予感なのか。実際、ドッペルゲンガーという幻覚を見てから僕の精神状態は最悪であり、「死んでしまいたい」と思うこともある。もしかしたら、僕は死神に取り憑かれているのか。いや、それは考えすぎだろうか。でも、ドッペルゲンガーって要するに死神だよな。
胸のざわめきのことは一旦忘れて、僕は再び原稿を書き始めた。――これでいいのだろうか?
僕が書いているモノと世間が求めているモノって、かなり乖離していると思っている。実際、世間が求めているモノって――もっと、軽快でわかりやすいモノなのだろう。でも、僕が書いている小説というのは――世間から見れば、複雑で難解かもしれない。だから売れないのか。
そう思った僕は、書いていた原稿を――ゴミ箱の中に捨てた。右クリックで「ゴミ箱を空にする」を選択すれば、その時点でこの原稿はボツにできるはず。しかし、どういう訳か――指が動かない。矢張り、今の原稿と真正面に向き合うべきだろうか。削除するぐらいなら、カタチになるように書き上げて講談社に送付すべきか。そう思った僕は、ゴミ箱から原稿を救出して――また書き始めた。トライアンドエラーで書いていけば、力技でも物語は完結できる。そんなところだろう。
トライアンドエラーを繰り返しているうちに、原稿枚数は40字×40行に換算して10枚に達しようとしていた。当然、これで満足している訳ではない。50枚を最低ノルマとして、矢張り75枚、いや、100枚ぐらいは書くべきだろうか。そうやって考えると、まだまだだな。
こうやってキーボードを打っているうちに、僕の精神は落ち着きを取り戻そうとしていた。矢張り、大切なのは「気構え」なのか。無心でキーボードを打っていると、嫌なことはすべて忘れられるような気がした。しかし、物語のまとまりを考えると、矢張り――バランスが悪い。なんというか、「頭でっかち尻つぼみ」と言った具合だろうか。それだけ、僕にはストーリーを考える才能がないのか。
――そうだ、例のドッペルゲンガーを小説の中に組み込むのはどうだろうか?
そう考えた僕は、あの時に感じた幻覚を――思い出そうとした。
彼女の容姿と声色は僕と全く同じで、両腕は自傷行為の傷痕が痛々しく付いていた。身に纏っていた白いワンピースは死装束のメタファーであり、なんというか「死の匂い」が染み付いていた。そして、頸動脈を指で押さえると――まるで性的な行為で快楽を覚えたような表情を浮かべていた。
「死ぬ瞬間」は性行為で快楽を覚える時以上にドーパミンという脳内物質が発せられるというが、彼女は「死ぬこと」によって快楽を感じていたのか。でも、頸動脈を強く押さえれば押さえるほど、僕の頸動脈も苦しくなった。それは、僕と彼女が何らかのカタチで感覚を共有しているからなのか。それとも、あのドッペルゲンガー自体が――僕の心が生み出した幻覚だからなのか。
いずれにせよ、あの時僕が見たドッペルゲンガーは「僕の中に眠っているモノが具現化したもう一人の自分」であり、多分――僕の中に秘められたもうひとつの人格なのだろう。
そう思うと、何としても彼女を幸せにしたい。けれども、彼女は「死ぬこと」ですら幸せを感じない。それは自分が常日頃から「死にたい」と思っているからそうなってしまうのだろうか。もっと、こう、平和的と言うか――非暴力的な手段を使うことはできないのか。
そもそも、ミステリ小説を書いている以上「人を殺害する描写」からは逃れられない。世の中には「殺人事件が起こらないミステリ小説」もあるらしいが、それは余程の才能がないと書くことができない。僕にはそういう類の才能がないから――無実の人間を殺めるしかない。多分、ダイナブックのテキストエディタ上で殺害した被害者の数は100人――いや、それ以上だろうか。流石に300人は殺害していないが、「問題提起」のためなら文章上で誰かを殺害することは厭わない。――当然、実際に何らかの方法で他人を殺害することは法律的にも人道的にも反する行為であり、そこら辺はきちんと弁えている。
現在進行形で書いている原稿も、当然誰かを殺害している訳であり――犯人も存在していることになる。その犯人は、「意外性」を持たせることによって読者から様々な反応をもらうことができる。その反応は「賛否両論」という漢字4文字の中に詰められていることがすべてであり、ZonAma.comのレビューでも僕は敢えて「否」寄り――低評価の意見をフィードバックするようにしている。意見は厳しければ厳しいほど良いのだ。
――相変わらずこの作家は駄目だ。
――駄作。
――どの作品も似たり寄ったり。
――退屈な作品。
――オワコン。
――金返せ。
作品に対して寄せられるボロクソの意見は、僕のメンタルを傷つける。でも、ボロクソの意見を読まないといい作品は書けない。
ボロクソの意見=改善点であり、僕はその改善点を次回作に活かすようにしている。しかし、ある作品のレビューに寄せられたボロクソのレビュー群を読みすぎて――僕は精神的に壊れた。だから、向精神薬の過剰摂取と自傷行為、そして自殺未遂に走ってしまったのだ。
結果的に、僕は昏睡状態で死の淵を彷徨い、「フユヅキアヤカ」という名前のもう一人の自分――ドッペルゲンガーと出会った。昏睡状態の中でドッペルゲンガーと出会ってしまった以上、僕はもうすぐ死んでしまうのか。いや、心臓はまだ脈を打っているから――死なないのか。いずれにせよ、僕の寿命はそんなに長くないことだけは確かである。
*
色々と考えつつ、原稿を書いている時だった。滅多に鳴らないスマホの着信音が鳴った。どうせ着信の主は講談社の担当者だろうと思っていたが、よく見ると――「藤崎沙織」と表示されていた。
藤崎沙織。――彼女は立志舘大学の同期であり、僕から見て唯一の親友といっても過言ではない。彼女は僕と同郷――豊岡市出身であり、中学校が同じ市立第一中学校だった。言われてみれば、引きこもりだった僕に対して宿題を郵便受けに入れていたのは彼女であり、ガラケーのメールにも「無理せず学校に来るように」との督促が寄せられていた記憶がある。そして、何よりも――好きなアーティストが僕と共通していた。
たまたま登校した日が音楽の授業の日であり、あいうえお順の関係で彼女とは隣同士の席になった。そして、好きなアーティストの話題になった時にうっかり「hitomiが好き」と口を滑らした。――普通の女子なら、そこは「某事務所の人気アイドル」と答えるべき場面で僕は「hitomi」と答えてしまったのだ。結果的に、彼女もhitomiが好きだったから助かったけど、正直――その時の僕は赤面していた。推しを他人に話す行為自体が恥ずかしかったのだ。
それからというもの、彼女とは色々とガラケー越しでhitomiに関する情報交換をするようになった。スマホなら通信会社なんて関係ないけど、昔は同じ通信会社じゃないとメールのやり取りができなかったのだ。――要するに、藤崎沙織と僕は同じ通信会社のガラケーを使っていたので、引きこもりだった僕はそこから「連絡帳」的なやり取りを行うようになったのだ。
だから、立志舘大学で彼女と再会したときは――嬉しかった。彼女はhitomiだけじゃなくてミステリ小説――特に京極夏彦と辻村深月が好きだったのでその部分でも話が合った。故に、入会すべきサークルも「ミステリ研究会」でほぼ内定していたのだ。ちなみに、僕の専攻学部は「理工学部」であり、彼女の専攻学部は「医学部」だった。微妙に違う。
当然ながら、卒業後の彼女とは連絡が取れない状態だったが、互いに――ガラケー時代から電話番号は変わっていなかった。だから連絡してきたのか。
僕は、「藤崎沙織」と表示されている画面の通話ボタンを押した。
スマホからは、聞き覚えのある声が聞こえた。
「――もしもし? これ、冬ちゃんの電話番号で合ってるよね?」
僕は、その聞き覚えのある声に対して答える。ちなみに、藤崎沙織は中学校時代から僕のことを「冬ちゃん」と呼んでいた。
「ああ、合っている。確かに僕は冬月絢華だ」
「良かった! 番号変わってなかったのね! 電話帳に名前があったから『まさか』と思って電話してみたんだけど……」
「それにしても、急にどうしたんだ?」
僕がそう言うと、藤崎沙織は――少し困った声で話をした。
「実は、ちょっと悩んでることがあって……これ、『冬ちゃんじゃないと相談に乗ってくれない』って思ったのよね」
「相談? 一体なんだ?」
「私――とんでもない所に嫁いじゃったのよね。なんていうんだろう? ほら、横溝正史の小説であるような……」
「横溝正史の小説か。――『犬神家の一族』?」
「そう、それそれ。それで、私の旦那さんのおじいちゃん? まあ、要するに――なんかすごい人が死んだ訳。そういう格の人が死ぬってことは、遺産も莫大ってことよ」
「所謂遺産トラブルか。――どうして僕の出る幕があるんだ?」
「えーっと、パソコンの電源は付いてるかしら?」
「ああ、今まさにブラウザを開いたところだ」
「それで、検索サイトで『鴻上製薬』って検索してみて」
僕は、藤崎沙織に言われた通り検索サイトで「鴻上製薬」と検索した。――確かに、相談役と思しき人物の訃報がニュースサイトに掲載されていた。
「これだな。――見出しには『鴻上製薬 相談役死去 享年93歳』と書かれているな」
「そうそう。――そもそもの話、鴻上製薬って知ってるよね?」
「知っていて当然だ。就活で落ちた企業の1つでもあるからな。本社機能は大阪府堺市にあって、製薬事業から紡績事業、さらには情報システム事業まで幅広く手掛けているんだろ?」
「冬ちゃんにとってはそれぐらい常識だったわね。――それはともかく、私、少し前に鴻上製薬の御曹司と結婚したのよね。ほら、私の実家って開業医だから、そういう製薬会社との取引が多いのよ。それで、『そろそろ沙織ちゃんも結婚したほうがいい』ってお父さんに勧められた結果――鴻上製薬とかいう玉の輿に乗っちゃったって訳。だから、今は『藤崎沙織』じゃなくて『鴻上沙織』なのよ。そこまでは良かったんだけど……矢っ張り、部外者である私にとって鴻上家ってヤバいのよ」
「――そこから先は言わなくても分かる。要するに、相談役が死んだことによって遺産争いに巻き込まれて、『自分の命が狙われている』って言いたいんだろう? いくらなんでもその手のミステリ小説の読みすぎだ」
「ああ、矢っ張り冬ちゃんならそう言っちゃうかぁ……でも、なんだか面白そうだと思わない? 冬ちゃん、小説書いてるでしょ?」
「ど、どうしてそれを知っているんだ」
「知ってて当然よ? 冬ちゃんが『月極冬華』とかいうふざけたペンネームでメフィスト賞に応募して、うっかり受賞したことも知ってるわよ? だって、『月極冬華』って――私が付けたペンネームだもの」
ああ、そうだった。藤崎沙織という人物は僕に対して「月極冬華」というペンネームを授けた張本人だった。なぜこんなふざけたペンネームになってしまったのかというと――京極夏彦の季節を半年ズラした上で自分の名前を付けたからである。
京極夏彦の季節を半年ズラすと「京極冬彦」になり、そして自分の名前の一部分である「月」と「華」をあてがうと「月極冬華」となるのだ。今から思うと、講談社文芸第三出版部はこのペンネームを見て鼻で笑っていたのだろう。
そんなことはともかく、藤崎沙織は話を続ける。
「それで、冬ちゃんには探偵として鴻上家に来てほしい訳。いいかしら?」
僕の答えは、分かっていた。
「ああ、それで新しい小説のネタになるのなら――構わない」
「オッケー。でも、鴻上家の所在地って、実は堺市じゃないのよね。堺市は飽くまでも鴻上製薬の本社機能がある場所であって、経営者が住んでる訳じゃないのよ」
「じゃあ、鴻上家がある場所はどこなんだ?」
「えーっと、芦屋? なんでも、六麓荘に大きな屋敷を構えてるとかなんとか……」
「六麓荘? じゃあ、僕の家の近所だ」
「えっ、冬ちゃんって芦屋住まいなの?」
「えぇ、まあ……」
僕がそう言うと、藤崎沙織は若干ゲスい声で質問した。
「もしかして、印税で住んでんの?」
そんな訳がないだろう。僕はツッコんだ。
「いや、そこまでじゃない。僕が住んでいるのは芦屋川沿いのボロアパートだ」
「なーんだ。――それなら話が早いわね。今って会えそう?」
「まあ、なんとか。場所を指定してもらったらすぐに向かう」
「じゃあ、芦屋駅前のスタバで」
「分かった。――待っていろ」
そういう訳で、僕は急遽芦屋駅前のスタバへと向かうことになった。スマホの終話ボタンを押したところで――時刻は正午を回ろうとしていた。