第三話 部長はトイレに行きたい
危機に瀕した人間が奇跡を起こす「火事場の馬鹿力」という言葉が、便意を我慢している時にも適用されるということを、私は今日始めて知った。
ネコちゃんと一緒に会議室に戻れば、部下三人はなんだか私に対して生暖かい視線を向けてくる。
「やっぱり……部長、また拾ってきたんですね」
「いや、毛利くん。これは不可抗力なんだ」
「部長は不可抗力だらけじゃないですか」
確かに現在会議室にいる三人の有能な部下たちも、ネコちゃんの時と同じようにして拾ってきてしまった人材である。
でもね、ちょっと言い訳をさせてもらえるのならさ。私自身はほら、誰かと比べて何か特別に有能な人間ではないでしょ。だから、せっかく有能なのに今の環境がマッチしていないって人がいたら、つい声をかけてしまいたくなるわけで。ネコちゃんも絶対活躍する子だと思うから、ここはご容赦願いたいところなんだよね。
それはそれとして、今の私は少々驚くほど便意を我慢できている。これはきっと、我慢に我慢を重ねた私の本能が、強烈な排便欲求を叩きつけるための準備段階に入ったからだ。津波の前に潮が引くようなもの。つまり、残された時間は少ない。
「いいさ。ここまで来たら戦ってやる」
「……部長?」
「こんな会議、あっという間に終わらせる。毛利くんたちにはちょっと迷惑を……いや、だいぶ迷惑をかける結果になるかもしれないけれど。すまないね、ほんの少しだけ地獄に付き合ってくれるだろうか」
私の言葉に、部下たちは「いつものことじゃないですか」と諦めたような乾いた笑いを漏らしていた。
会議が再開した瞬間に、私はその場で立ち上がる。躊躇している時間はない。便意の大津波が今にも押し寄せようとしている現状、こんな無駄な議論はさっさと終わらせてトイレに向かわないと私の尊厳が終わってしまう。
「我が社は今、危機に瀕している」
本当に危機に瀕しているのは私の肛門だが。
「我々は危機に瀕している。我々は同じ船に乗る仲間だが、船自体が座礁しそうな状況において、船員同士が争い合うのは不毛でしかない。文句もあるだろう。不満もあるだろう。だが、どうか皆、この航海を無事に乗り切るために……会社としての存続の危機を乗り越えるために、私に協力してほしいのだ」
私がそう話を始めると、みんなポカンと口を開いて呆気にとられていた。一方で私はといえば、今にも「行くぞぉ、行くぞぉ」と準備運動をしている強烈な排便欲求の気配を感じて戦々恐々としていた。急がなければ。
「システム開発部、篠原部長。申し訳ない!」
「……へ?」
「今もプロジェクトを完遂するため尽力してくださっている貴方には、大変失礼で申し訳ない提案をする。これは貴方のプライドを損ねる話でもあるが……無理を承知でお願いする。このプロジェクトをビジネス推進部に明け渡してくれ!」
私はそう言って、深々と頭を下げる。
無茶を言っているのは分かっている。
「……原井田部長、それは」
「これまでのことも、これからのことも、プロジェクトの成功可否に関する責任は私が全て背負う。貴方に何かしら責任を負わせることはしないから、どうか頭を下げる仕事は私に任せてくれないだろうか」
ここまで来たら勢いだ。
私はぶり返してきた便意を誤魔化すように、身振り手振りを大きくして語り始める。
「もちろん、プロジェクトの建て付けを大幅に変更するのには、本来であれば様々な部署に根回しをする必要がある! だが、社長に頭を下げて、業務部にも人事部にも頭を下げて、社内から必要な金と人を集める責任は私が請け負うことにしよう。今はそれだけ……会社存続の危機なのだと、どうか認識してほしい!」
ダメだ、もう少し待ってくれ。
私は腹部に走る鈍い痛みをなんとか宥めすかし、歯を食いしばってその場に立つ。いや、食いしばりすぎると肛門からチョロっと漏れそうになってしまうので、食いしばらないように頑張って立ち続ける。
システム開発部の篠原部長は、渋い顔をする。
「原井田部長……それは越権行為では?」
「では、船底に穴が空いているのを黙って見ていろと? 貴方は本当にことの重大さを理解して発言しているのか? 船が沈んだ時にも、それは自分ではなく部下の責任だと言うつもりか? 組織の役割が違うなどと言って、船底の穴を見過ごすことなど私にはできない! ここは私に任せてもらおう!」
私が叩きつけるように言葉を浴びせかけると、篠原部長は押し黙ったまま私に恨みがましい視線を向けてくる。分かるよ、普段の私なら絶対にしない越権行為だからな。でも今は非常事態――
私がウンコを漏らすかどうかの、瀬戸際なのだ。
「この会議室で、今この事態を一番深刻に受け止めているのは私だ。私に任せてくれ!」
「いや、原井田部長。そもそも貴方はシステム開発のイロハを何も知らないだろう。そんな人物に。プロジェクトを任せられるはずがない!」
篠原部長はそう叫ぶ。
でもな。
私はその言葉を待っていたのだ。
「……ははは、何を言うかと思えば」
そう言いながら、三人の部下に合図をしてその場に立ち上がってもらう。
「幸運にも、私には優秀な部下がたくさんいるのでな。それにプロジェクトリーダーの宮村さんを始めとしたシステム開発部の優秀な社員も、当然のことながらこのピンチを乗り越えるために協力してもらうさ。一時的な部署異動なんて、よくある話だろう?」
「それはっ」
「篠原部長、貴方にとっては苦汁を嘗めるような思いだろうが……これも会社の存続のためだと思って、どうか協力していただきたい」
私がそう言い放てば、この会議室の誰もが黙り込む。
よしよし、これで思い描いた通りの展開になったぞ。
「毛利、この場のことは任せた。私はこれから、各部署に頭を下げて回る仕事があるのでな」
そうやって言いたいことだけ言い捨てて、私は会議室を後にする。各部署に頭を下げて回る……その前に、私にはどうしても行かなければならない場所があるからだ。
本当に危ないところだった。トイレの個室が埋まっていなかった幸運だけは、本当に神様に感謝しなければなるまい。
こうして私は、長時間に渡る便意との激闘をなんとか制することができたが、その代わりに大きな仕事を背負うことになって、部下たちに苦笑いをされながら忙しい毎日を送ることになってしまったのだった。
✿ ✿ ✿
――吾輩は猫じゃニャいです。だから猫の本当の気持ちは分からニャい。でも、ペットを捨てる地球人の気持ちはもっと分からニャいです。捨て猫は全てうちの星に連れ帰って、自由に暮らしてもらう。悪く思うニャ、地球人。
心の中でまさかミケ猫先生の文章を繰り返しながら、私はこの忙しかった一年を振り返っていた。
私が頭を下げて回った結果、季節外れの人事異動が大量に発生し、社長は大爆笑で「システム統括部長ね」と新設された部署を放り投げてきた。経理からもチクチクどころか日本刀で斬りかかられるくらいの鋭い罵詈雑言を浴びせかけられたけれど、まぁそれを甘んじて受けるのが私の仕事だ。あと部下たちには本当に大変な思いをさせたと思う。
私が牡蠣を食い逃したと知った義父は、私のことを憐れんで再度大量の牡蠣を送ってくれた。今度ばかりは妻もちゃんと反省していたようで、私はホストの春樹くんと仲良く牡蠣を分け合って食べることになったのだ。
春樹くんはうちに七輪と備長炭を持参してくれたので、日本酒を飲みながら二人で牡蠣をじっくり炙り、柚子を絞って食べてみたのだが……これがまた絶品であった。やはり牡蠣は素晴らしいとじみじみ思いながら、私は牡蠣に合うオススメの日本酒について春樹くんと激論を交わしていた。
元システム開発部長の篠原くんとはあれから何度か飲みに行く機会があり、どうやら奥さんが浮気をしているんじゃないかと悩んでいるらしかったので、私が「ホストの春樹くんと牡蠣を食べたよ」と話してあげたら、まるで宇宙を背景に背負った猫のような面白い顔になっていた。今は営業部に異動になったのだけれど、意外と向いていたのかバリバリに活躍しているという噂を聞く。なかなか面白い男なのだ。
ネコちゃんも正式に私の部下になって、毛利くんたちも相変わらず私の無茶振りに文句を言いながら付き合ってくれている。新しい部署はめちゃくちゃ忙しいけれど、なかなか楽しい生活を送れているんじゃないかな、なんて思っているうちに……。
あれから一年が経過しようとしていた。
「生牡蠣を送りました」
今年も義父から届いたLINEに、心が踊る。
どんな風に食べようかなぁと想像を膨らませてテンションを爆上げしながら、私は究極に愉快な気分で、華麗なスキップを披露しながら、ぐったりと歩くゾンビのような人々を追い越して家路を急いだのだった。
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