第二話 部長はトイレに行きたい
初めてである。
誰かに感謝されるという嬉しい出来事に対して、ここまで困り果ててしまったのは。
「あ、あの! あ、ありがとうございます!」
会議の場でつい先程まで責め立てられていた、システム開発部に所属する若手女子社員。彼女が進路を遮るように頭を下げているので、私はトイレに向かうことができない。とにかく彼女を移動させなければ。
「私は、君からそんなに頭を下げられるようなことをした覚えはないよ。ここは会議室の前だから目立つし、廊下でそうしていては通行の妨げになる。ほら顔を上げて……困った時はお互い様だ。じゃあ、また後で」
「あ、あの、すみません。か、缶コーヒーで良ければ奢らせていただけないでしょうか」
「ん? んんん?」
私がトイレに行こうとするのを妨げた彼女は、なぜか私に缶コーヒーを奢りたいのだと言ってきた。
いや、普段だったらありがたく奢られるところだが、なにせ今の私は排便欲求との激しい空中戦を繰り広げている最中である。コーヒーを悪く言うつもりはこれっぽっちもないが、あの黒い液体について考えるだけで今は肛門が疼いてしまうのだ。無理、絶対に無理だよ。
「気持ちだけ受け取っておこう」
「でも」
「本当に気にしなくて良い」
「あの……ダメですか?」
やめろ、そんな捨てられた子犬みたいな目で私を見るのではない。
彼女を見ていると、つい思い出してしまう。
あれはまだ私が小学生の頃だった。帰り道にある田んぼの側で、私は生まれたばかりの子犬が捨てられているのを見つけてしまったのだ。まったく、酷いことをするものだ……そう思いながら、私は子犬の側を行ったり来たり。本当は連れて帰りたい。でも、親はなんて言うだろうか。生き物の世話をするのは簡単なことではない。それに飼うのならちゃんと責任を持って面倒を見なければならない。果たして私にそれが可能なのだろうか。
グルグルと頭を悩ませながら不審者のように子犬の側をうろうろしていると、やがて空からパラパラと雨が降ってきた。子犬の入ったダンボール箱には当然蓋などされていない。このまま濡れてしまえば、この小さく尊い命は、今夜を越すことさえ出来なくなるだろう。
『……うちに来るか?』
そう問いかけても返事すらしない子犬を抱え、私は覚悟を決めて家に帰った。
この子を育てるためなら、私は絶対に引き下がったりしない。心の奥底から湧き上がる激情に身を委ねて、どんな努力でもしてみせよう。母を説得するためなら、私は全てを受け入れる覚悟だった。ゲロ不味いニンジンだって食べてみせるし、苦手な算数だって満点を取ってみせる。だから絶対に、この子犬を飼うのだと。
『母さん。一生のお願いだ。この子犬を飼わせてくれ!』
『別にいいけど?』
厳しい試練を乗り越えてどうにか説得に成功した私は、子犬に「まさかミケ猫」という名前を付けて大切に育てた。家族はみんな「ネコちゃん」「ネコ」としか呼ばなかったため、犬自身も自分の名前を「ネコ」だと思っている節はあったが、まさかミケ猫は結局私が大学生になる頃まで元気に生きたし、どこで作ってきたのか子犬を三匹ほど(まさかミケ猫はメス犬だった)産んで、生まれてきた子たちも母の知り合いが里親なってくれて……今となっては懐かしい思い出だ。
そんなことを思い出しながら、私は気がつけば女子社員とともに自動販売機のコーナーまでやってきていた。本当はトイレに行きたかったのに。
「あの……私の名前は、宮村稔子と申します」
「ネコちゃん?」
「はい。同期からはそう呼ばれていますが……私のことをご存知だったんですか? な、なんか恥ずかしいです」
全然ご存知ではなかったけれども、犬のような子だと思っていた女子社員が自分を「ネコちゃん」だと言うものだから、私の中では完全に彼女のイメージが犬で固定されてしまった。
実際年齢的に考えてみれば、死んだまさかミケ猫(犬)の魂が宮村稔子(犬)に転生していたとしても辻褄が合ってしまう。いや、辻褄はまったく合わないんだけれども、私の中で宮村稔子(犬)がまさかミケ猫(犬)にしか見えなくなってしまうのだ。あぁ、転生してこんなに大きくなって。
それはそれとして、私はトイレに行きたいのだ。
「えっと……コーヒーでいいですか?」
「いや。緑茶にしておこう」
「分かりました」
そう行って、彼女は自販機で飲み物を二つ購入すると、片方を私に差し出し来た。先程、会議の場で彼女を手助けした(というより私がトイレに行きたかっただけなのだが)ことへのお礼という理解で良いだろう。
排便を我慢している私にとって、飲み物を摂取するというのはクリティカルになりかねない愚行である。そのため、私はほんのり唇を湿らす程度にお茶のペットボトルを傾けると、飲んでいないことを悟られないように誤魔化すようにして彼女に話しかけた。
「ネコちゃん……失礼。宮村さんは」
「いいですよ、ネコちゃんで。ふふふ」
「あぁ、すまない。ネコちゃんはシステム開発部に入って何年目だろうか。こう言っては君に失礼だろうが……今回の大きなプロジェクトを任されるのには、少々若すぎるという印象を持ってな。君の同期くらいの社員は、もっと小規模な案件で経験を積んだりしている段階だろう? この件を受け持つのは、業務量の面でも精神的な負荷の面でも、ずいぶん重荷なんじゃないかと心配になったのだが」
今回システム開発部が作っているソフトウェアは、我が社の看板商品……二十年ほど前に大ヒットした古いソフトウェアを、大幅に作り替えて売り出そうという社運をかけた商品になる。本来ならもっと実績のある中堅社員がプロジェクトリーダーになっていても良い案件だと思うのだ。
私がそうやって話題を向けると、まさかミケ猫……じゃなかった、宮村稔子は視線を自分のつま先に向けて、ふぅと小さくため息を吐いた。
「私……自惚れていたんです」
「ふむ」
「あ、あの……私は、大学でソフトウェア開発プロセスについての研究をしていたんです。だから、この会社に入っても即戦力になれるんじゃないか。同期たちとは違う、一段階上の社員として活躍できるんじゃないかって。そんな風に根拠のない自信を持ってしまっていたんです」
そうやって、ぽつりぽつりと話すネコちゃんは、瞳の奥に何やら暗い光が灯っていて……本当に捨て犬のように、放っておけない雰囲気であった。
「だから、自分からやりたいって手を挙げて」
「ふむ……そうか」
「だけど実際にプロジェクトを担当してみたら……私が理想としていた通りに人間は動いてくれなくて。ルールを作って、数字を見せながら論理的に管理しようとすれば、開発者からは“俺たちはロボットじゃない”なんて言われてしまう。頑張れば頑張るほど、関係は悪くなっていくばかりで」
あの……この話、長くなるだろうか。
あのね、そろそろ本当に私は限界なんだけれど。私のお尻の筋肉はプルプルと震え始めていて、いっそ恥も外聞もかなぐり捨てて盛大に脱糞したいと本能が訴えかけて来ているんだけれども。でもそれをしてしまえば、私が今までコツコツと積み上げてきた部長イメージが一気に崩れ去ってしまう。私に残された僅かな理性が「それだけはダメだ」と大声で叫んでいるのだ。
本能と理性のせめぎ合い。
その中で、私は静かにネコちゃんの独白を聞く。
「技術知識にも不足があったので、“偉そうに指示しておいてこんなことも知らないのか”って開発ベンダーの担当者にも叱られてしまいました」
「……それは大変だったなぁ」
「結局、私が馬鹿だったんですよね。自分は思っていたより全然、有能なんかではなかった。むしろ無能な働き者……私が本来、もっとも嫌悪していた人種……私自身がそれそのものなんだって、今になって気付いてしまいました」
あぁ、そんな捨て犬のような目をするんじゃない。
まさかミケ猫(犬)を思い出して、拾って帰りたくなる。
「……うちに来るか?」
「え?」
あぁ、また悪い癖が出てしまう。
「有り体に言えば……社内ヘッドハンティングのようなものだと思ってくれ。大学でちゃんと研究をしていたんだろう? そして今回の件を通して、自分の“伸びしろ”も理解できたんだろう? そうしたら、あとは君の地力をじっくり伸ばして、やりたい仕事ができる自分に向かって、一歩ずつ成長していくだけだと思うんだが」
私の言葉に、ネコちゃんは目をまん丸くして固まっている。いや、偉そうな言葉を使っているけど、そんなに難しい話じゃないんだ。結局は彼女の知識や経験を、私の部で活用したいというだけの話である。
「うちはクライアントと直接話をする窓口の部署だ。システムに関してそれなりに話をできるだけでも立派な“武器”だし、君が伸ばしたいと思っているコミュニケーション能力を伸ばすにはうってつけの環境でもある」
「あの……でも私なんかがご迷惑では」
「そうか? 迷惑がなんだと言い始めれば、私なんか部下に迷惑をかけっぱなしのダメ部長だぞ? 誰だって、知識やスキルの得手不得手はある。だからこそ、私たちは大人数で集まって会社なんてものをやっているんだ。迷惑をかけたりかけられたり……そうやって、どうにかこうにか仕事をやってるんじゃないか」
つまり「迷惑じゃないよ」って言いたいだけなんだけれど、今のネコちゃんみたいに自己嫌悪がマシマシになってる子に直接そう伝えても信じてもらえないからなぁ。ちょっと回りくどい言い方になってしまうけれど。
「将来的に元の部署に戻りたいのだとしても、うちでの仕事は悪い経験にはならないと思う。それに、ネコちゃんは今のビジネス推進部にこそ必要な人材だ」
「……ありがとうございます。原井田部長」
「君さえよければ、システム開発部と人事部に掛け合ってみる。この話を受けるか受けないかは君次第が、じっくり考えて前向きに検討してみてくれると嬉しい」
彼女の目には静かな、それでいて前向きで力強い光が灯る。そうだ、そんな目をしてくれると私としても安心して自分の部下に迎え入れられるというものだ。
さぁ、話が綺麗にまとまったところで。
私はトイレに行くとしよう。じゃあね。
「……あ、そろそろ会議が再開する時間ですね。戻らないと」
うぎゃあああああぁぁぁぁぁ!
私は限界ギリギリのラインで反覆横跳びをしている便意を必死に宥めすかしながら、寒気のする全身をどうにか奮い立たせた。ネコちゃんと一緒に会議室へと戻りながら……覚悟を決める。
――こうなったら、こんな会議一瞬で終わらせてやる。