第一話 部長はトイレに行きたい
本作は全ジャンル踏破「文芸_コメディ」の作品です。
詳しくはエッセイ「なろう全ジャンルを“傑作”で踏破してみる」をご覧ください。
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旧約聖書には明確に記載されていないが、神様が土塊を捏ねて人間を作った時、一緒に混ぜ込んだものがある。
基本的に人間の三大欲求と言われてるのは、食欲、性欲、睡眠欲である。しかし私としては、それらよりも上位に存在する人間の“根源的な欲求”こそ、神様が一番最初に混ぜ込んだものなのではないかと思うのだ。つまり。
――私は今、便意を催している。
「……原井田部長。ビジネス推進部のご意見は」
そう問われ、ハッと我に返る。
だが正直、今の私は会議どころじゃないのだ。
本能の奥底が発する深刻な警告メッセージが、脳から脊髄を伝って、ゾクゾクとした寒気として全身を這う。両腕に鳥肌が、額にはじっとりと脂汗が滲む。今の私には、何かを思考する余裕が一切ない。
「厳しい状況だな」
「えぇ……プロジェクトの遅延は深刻です」
「危機感だ。私は今、強い危機感を覚えている」
昼下がりの会議室。行われているのは会社の今後を左右する重要な会議である。
現在、社運をかけたソフトウェア製品の開発プロジェクトが大幅に遅延しているため、今後の対策を話し合うために各部門の長やキーマンを集めて頭を悩ませているのだが。
そんなもん、今はどうだって良い。
私はウンコを漏らしそうなのである。
「私は、ウン……色々と意見はあるが、少し頭の中を整理する時間がほしい。皆も白熱して感情的になっているからな。どうだろう、このあたりで休憩時間を挟むというのは」
休憩時間、つまりトイレタイムである。
どうだ、我ながら冴えた提案だろう。
司会進行役の若手社員はうんうんと頷いて、私の提案を前向きに考えてくれているようだ。何やら背後にいる先輩社員と会議進行について相談しているようだが……うん。できれば決断は早めに頼むよ。
「ありがとうございます、原井田部長。それでは皆様から異論がなければ、これより五分間の休憩とします」
よしよし。こうすれば、私は堂々と会議室を出てトイレに行くことが許される。
もちろんビジネス推進部長としての威厳を損ねることもなく、会議に対して不利益も生じさせない。むしろ適度な休憩時間を設けることは、効率的な会議運営に寄与していると言っても良い。ビジネスの基本であるWin-Winというものだ。
緊迫した空気がほんの少し弛緩し、あちこちで部署ごとにガヤガヤと雑談が始まった。ふふ、計画通り。
さぁウンコウンコ、と考えながら席を立とうとすると、隣の席に座っている部下の毛利という若手社員がギラギラとした目を向けてきた。彼は優秀な男なのだが、今はちょっと……先にトイレに行かせてくれないだろうか。
「さすが部長、素晴らしい提案です」
「そうか? 実はトイレに行きたかっただけだが」
「そういうことにしておきましょうか。さぁ、今のうちにビジネス推進部としての意見を統一しておきましょう。今日の会議で決まる内容は、うちの部にとっても今後の動き方を決める重要な指針になりますから。妥協せずに主張しないと」
「そ、そうだな……」
毛利の圧が強くてつい黙ってしまう。
わ、私は本当にトイレに行きたいんだが。
そうこうしているうちに、ビジネス推進部のもう二人の会議参加者も寄ってくる。毛利を含めた三人の部下たちはいずれも将来有望な優秀社員である。
「僕はシステム開発部の怠慢が問題だと思うんですよ」
「それは毛利くんの決めつけじゃない?」
「俺は本質的な問題は別のところにあると思うが」
ほら、三人とも優秀優秀。
私この場にいらないよね。
「部長はどう思われますか?」
「トイレに行きたいんだが」
「冗談は時と場所を選んでください」
本当なんだけど、信用ないなぁ。
いつも適当なことばっかり言ってるツケが、こんなところで回ってくるとは。はぁ……ヤバいぞぉ、全身にゾクゾクと鳥肌が。こりゃ焼き鳥屋が皮を剥ぎに来ちゃうんじゃないだろうか。
いやでもね、私なんかにできる仕事なんてたかが知れてるじゃん。せいぜい他部門との話し合いで矢面に立つこととか、問題が起きた時の責任を取ることくらいだもん。細かい議論は君たちでしてて良いからさぁ、私をトイレに行かせてくれないかなぁ。
「僕としてはシステム開発部の管理体制が甘すぎると思うんですよ。いつも日程が遅延してプロジェクトが炎上しているじゃないですか。そこの改革は必須では」
「いえ、私はシステム開発部だけに責任を押し付けても何の解決にもならないと思います。そもそも私たちビジネス推進部がクライアントの意見を拾い切れていないのも要因の一つではないですか。AIの活用も含め、新しいやり方を模索すべきかと」
「部長はどう思われますか?」
え、あ、待って待って。
今ちょっとそういうの考える余裕ないの。
「部長に意見を聞く前に、俺からも一つ良いか。正直に言って、二人のどちらの意見も焼け石に水だと思う。根本的な解決には繋がらない。現実的に考えてそもそも世の中というのは流動的なんだから、例えばまずはベータ版を打ち出して細かくアップデートをかけていくような、ソフトウェアの提供方式そのものを抜本的に改革した方が良いのではと思うのだが」
「それは一般カスタマーを相手にしたWebシステムの話でしょう。今回のプロジェクトで作るソフトウェアのクライアントは企業です。最初からある程度の信頼性が担保されていないと、採用を検討するテーブルにすら上がらないと思いますが」
「部長はどう思われますか?」
私はトイレに行きたいと思っているが。
くっ、なんか部長っぽいこと言って切り抜けるか。
「そうだな……やはり皆、少し感情的になっているのではないだろうか。他部署の問題点にとらわれ過ぎだ。我々がビジネス推進部として今考えるべきなのは、あくまでクライアントに寄り添った視点で、会社としてどう行動すべきかだろう?」
頑張れ、私。
なんとかスパッと良いことを言って議論を切り上げるのだ。私はトイレのために、トイレは私のために。スクラムを組め!
「ふむ、そうだな。ソフトウェアを作るのはシステム開発部の仕事。商品として売るのは営業部の仕事。そして我々ビジネス推進部は、クライアントがビジネスを円滑に行えるよう、きめ細かなサポートをするのが仕事だ……考えるべきポイントを間違えてはいけないよ」
どう? いい感じじゃない?
まぁ「冷静になろうよ」と「よそはよそ、うちはうち」の二つをそれっぽく言っただけだけど。もう良いよね。私はトイレに行くぞ。もういい加減、背筋がガタガタと震えて限界なのだ。私はトイレに行くからな。
「――そろそろ会議を再開いたします」
うぎゃあああああぁぁぁぁぁ!
私は内心で悶絶しながら、どうにか顔だけは冷静を装い、そもそもこのように便意を我慢するきっかけとなった出来事に思いを馳せるのであった。
✿ ✿ ✿
ことの発端は、昨晩にまで遡る。
義父……妻の父親からLINEで「生牡蠣を送りました」という連絡が、私のスマホに入った。発泡スチロールの箱いっぱいに詰まった牡蠣の写真に、私のテンションはMAX。これだけあれば楽しみ方は無限大だ。私はお義父さんに「さんきゅ♡」のスタンプを返すと、会社帰りに駅前の酒屋で少し高めの日本酒を買って帰ったのだ。
レモン汁と醤油をちょっと垂らした生牡蠣は、私の大好物である。いっぱいあるからなぁ、ポン酢で食べるのも良いな。牡蠣フライにもしようかな。そんな風に考えているだけで、気分はもうウキウキ。仕事で多少のトラブルがあっても何も気にならない。
しかし、すっかり牡蠣モードになっていた私の気持ちは、妻の一言によって粉々に砕け散った。
「あら……全部食べちゃったわよ?」
そんなわけあるか!
と思って話を聞いてみると、どうやら牡蠣が届いたタイミングでうちにホストの春樹くん(妻の推しホスト)が遊びに来ていたらしく、春樹くんが実は牡蠣が大好物だったみたいで、器用に殻を剥いてパクパクと全て食べきってしまったそうなのだ。すさまじいのは若者の食欲よ。
あまりの仕打ちにかつてないほど怒り狂った私はスマホを開き、春樹くんに「牡蠣全部食べちゃったの?」とLINEを送った。彼からは「超美味かったっす」というメッセージと共に、妻と一緒に満面の笑みで牡蠣を貪っている写真が送られてきた。うん……いつも智恵子と遊んでくれてありがとうね。
「牡蠣……私の牡蠣が……」
あまりにも落ち込んでいる私に、春樹くんが牡蠣が美味しいオススメの居酒屋を教えてくれたり、妻の智恵子が「オイスターソースって牡蠣だったわよね」と言って豚肉のオイスター炒めを作ってくれて日本酒で一杯やったりしたのだが、どうにも気分が晴れない。
旧約聖書には明確に記載されていないが、神様が土塊を捏ねて人間を作った時、一緒に混ぜ込んだのは“牡蠣欲”じゃないだろうか。
しょうがないので、私は愛読書である『まさかミケ猫短編小説集』を読みながら枕を涙で濡らすことになった。吾輩は猫じゃニャいです。力の抜けるタイトルだが、内容はいつ読んでも震えるほど感動できる作品だ。
――吾輩は猫じゃニャいです。ただの猫耳宇宙人で、たまたま名前が「ネコ」というだけニャんです。マタタビの匂いに釣られて地球に来ました。趣味は日向ぼっこです。待って待って、だから吾輩は猫じゃニャいんですってば!
いつ読んでも面白いなぁ。
私の心は少しだけ回復した。
そうして私は、春樹くんに「ランチタイムに牡蠣メニュー出してくれるお店とか知らない?」とLINEを送り、彼が「サーセン、カレーのトッピングに牡蠣フライがあるカレー屋くらいしか知らないっす」と送ってくれたお店のURLにアクセスして、即ブックマークした。
そして翌日の昼食。
意気揚々とカレー屋に足を運んだ私は、念願の牡蠣フライをトッピングしたカレーを大喜びで胃袋に掻き込むと、見事に腹を下し、こうして会議の場で脂汗を浮かべて悶絶する結果になったのだった。
✿ ✿ ✿
再開した会議の雰囲気は、簡潔に言って最悪であった。
先ほどまで見せられていたシステム開発部の報告資料は、実はかなり数字が加工されたもの(嘘ではないものの、よく見せるために小手先のテクニックを駆使している)だったということが、白日の下に晒されたのである。
そこで、システム開発部からプロジェクトリーダーを任されている若手女子社員が緊急招集された。
その間にも私の排便欲求は「あ、大丈夫かも」「もうダメだ」の波状攻撃をしつこく繰り出してきて、みんなの議論している内容が全く頭に入ってこない。部下たちがヤンヤヤンヤと盛り上がっている声も、どこか遠くに聞こえる。つらい。
――今この会議室で最も必死に悩んでいるのは、他でもないこの私なのではないだろうか。
そんなことを考えているうちにも、システム開発部の篠原部長は部下の女子社員を怒鳴り散らしていた。
「これは君が作った報告書だろう!」
「だって、篠原部長がそうしろって」
「君がプロジェクトリーダーだろうが!」
篠原部長は、女子社員にヘイトを移そうと必死なように見える。もちろん彼女に今の事態の責任がないとは言わないが……こういった場で部下の不始末を大っぴらに責め立てるのは、あまり感心しないなぁ。
ふう、排便欲求が少し落ち着いてき……あ、やっぱりダメだ。テレレレッテッテッテー。鳥肌のレベルがまた上がったぞ。もはや羽毛すら生えてくるレベルだろうこれは。
「社運を賭けた大プロジェクトだぞ! どう責任を取る!」
「それは、私は、その」
「ハッキリしないか! そもそも君をプロジェクトリーダーに任命したのが私の間違いだった!」
今にも泣き出しそうな女子社員。
うーん……仕方ない。これもトイレのためだ。今の私はトイレのためだったら全世界を敵に回せるぞ。
ゾクゾクと体中を駆け巡る寒気に身を震わせながら、意を決して挙手をする。本当は身動きを取るのも辛いのだけれど。とにかく今は、この不毛な議論を早々に打ち切らなければなるまい。そして私はトイレに行くのである。
「私から一つ良いだろうか」
「原井田部長。これはシステム開発部内の議論だ。ご意見はもう少し待っていていただけますかな」
「いや、待てないな。私はもう我慢ならん」
あぁ、肛門が「もうダメだ、もうダメだ」と言っている。頑張れ、頑張れ。お願いだ。私の括約筋よ、もう少しだけ頑張ってくれ。頼む頼む頼む頼む。
「篠原部長。頭を下げない責任者に存在価値はあるのか」
「それは」
「プロジェクトの遅延原因がどこにあるのかは、内部で話し合ってもらって結構だが……他部署の社員が集まるこの会議で頭を下げるのは、誰の仕事だろう。なぁ、篠原くん」
私の言葉に、会議室がシンと静まり返る。
「まぁ、責任を押し付け合う時間は、ここらで終わりにしようか。また少し休憩時間を挟んで、気分を入れ替えよう……そして再開後は、未来に目を向けた建設的な議論をしようじゃないか。そもそも、我々は敵ではないのだ。同じ船に乗っている船員同士、助け合っていこう」
そう言って、私は流れるような自然な身のこなしで会議室から出ていく。
よしよし、よくやったぞ私。実はもう思考能力を八割くらい喪失してるから、既に何を言ったのか覚えてないんだけど、最低限の部長っぽい雰囲気を出しながら場を切り上げることには成功したんじゃなかろうか。うんうん、これはファインプレー。あとはトイレに行くだけだぞ。
そう思い、廊下を歩き始めた時だった。
私の進路を遮るように現れる人影。
「あ、あの! あ、ありがとうございます!」
先程まで責め立てられていた女子社員が、そう言って深々と頭を下げてきた。待って待って待って……私はすごく嫌な予感がするんだけれど。