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私、山家の偏見ー歴史エッセイ

築山殿のこと

作者: 山家

 今年の大河ドラマの主人公は徳川家康ですが、これまでの大河ドラマで描かれてきた人物像とはかなり違う形で、家康やその周囲の人物が描かれていて賛否両論と言った状況にあるようです。

 そうした中で私が現在気になっているのは、徳川家康が正妻の築山殿と長男の信康を殺した一件を、この大河ドラマではどう描くのだろう、ということです。

 今回の大河ドラマでは、今のところはこれまでの大河ドラマと異なり、家康と築山殿は仲睦まじいようなので、尚更に私には気になることでもあります。


 さて、築山殿、徳川家康の正妻についてですが、従前は母が今川義元の妹であり、今川義元の養女として徳川家康(結婚当時の名前で言えば、松平元信)と結婚したとされてきました。

 ですが、黒田基樹氏の研究によれば、築山殿は関口氏純の娘なのは確かだが、母が今川義元の妹というのは誤りとのことで、いわんや今川義元の養女となったというのは江戸時代後期以降に言われだしたとのことです。


 もっとも、関口家はれっきとした今川家の一族で今川家御一家衆の一員であり、その娘婿に家康がなったということは、今川家の準親類衆として家康は処遇されるようになったということです。

(尚、細かいことを言えば、関口家は二つあったようで、井伊家とつながっていたのは関口氏純の関口家とは別の関口家(それこそ本多忠勝と本多正信が同じ本多家とはいえ、別の家の出身だったようなものです)で、かつての大河ドラマで関口家を介して井伊家と徳川家がつながったように描かれたのは、ドラマ上の脚色のようです)


 今川家の準親類衆としての処遇を今川家中において家康が受けられたということは、今川家中は家康を大事にしていた証といえ、俗説ではこの当時の家康は今川家の人質として辛酸を舐めたとされますが、それが偽りなのが分かります。

 そして、このまま今川家が安泰ならば、徳川家康は今川家の準親類衆として三河における国衆の有力者となり、今川家の為に戦い続けて、築山殿はその正妻で今川家と松平家をつなぐ紐帯として安定した地位のままでいられた筈でした。


 しかし、桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にし、その直後に上杉謙信の小田原城侵攻作戦(尚、この作戦中に上杉謙信が関東管領に正式に就任します)が発動されます。

 折しも桶狭間の戦いの戦果を活かして、織田信長による三河への侵出も始まっていました。

 このことが徳川家康と築山殿の運命を大きく変えます。


 こうした状況下、今川氏真は妻の実家である北条家救援を決断して関東へと軍勢を派遣する一方、岡崎城に徳川家康を入れて織田信長に対処させますが、このことは徳川家康に不満を抱かせたようです。

(旧来の通説だと、桶狭間の戦いの直後に岡崎城に独自に徳川家康は入城して今川家から独立を果たしたとされていましたが、最近の研究の深化によって、家康が今川家と対立して織田家と手を結んだのは桶狭間の戦いの翌年以降で、岡崎城入城も今川氏真の指示によるとされているようです)

 織田信長の勢いは強く、今川家に自分は救援を求めているのに、北条家救援を優先するとは。

 準親類衆である自分を軽んじているのか。

 そう考えた家康は、今川家を見限って織田家と手を組むことにしたようです。


 尚、築山殿は家康が今川家を見限った際、既に岡崎にいたようだと黒田氏は述べています。

 後世の史料では、1562年の人質交換まで築山殿は駿府にいたように述べられていますが、「三河物語」等の史料では、その時に駿府にいたのは信康だけだったように述べられているとのことで、恐らく岡崎に家康が入城した際に築山殿も同行したと黒田氏は推定していて、私も同意します。

 

 更にこの家康の動向は、三河のみならず遠江にも波紋を徐々に広げていくことになり、慌てて今川氏真は三河や遠江の情勢変動に対処することになりましたが、主に家康を中心とする三河の国衆による今川家への叛乱となる「三州錯乱」から、「遠州忩劇」と称される井伊・飯尾・天野等の遠江の国衆が、今川家に叛乱を起こす事態にまで至ってしまいました。

 その結果として、家康自身も三河一向一揆という苦難を経験しますが、1566年頃には三河一国をほぼ家康が取りまとめ、駿河・遠江を今川家が確保するという状況が成立します。


 その一方で、この頃に行われた東美濃(主に国衆の遠山家)の帰属を巡る武田信玄と織田信長の交渉は、今川家のことを念頭に置いていなかったようですが、この交渉は結果的に今川氏真に武田家への疑心を産むこととなり、又、信玄も三河・遠江の現状から今川家をこのまま同盟相手とすることに不安を覚えるようになります。

 こうしたことが、今川家と武田家が徐々に対立する原因となり、最終的には武田義信幽閉事件(尚、義信は病死したというのが最新研究のようで、殺害や自害ではないようです)等を引き起こし、1569年には信玄と家康が手を組んで、今川家を滅亡させる事態へとつながることになったようです。


 さて、その一方で複数の年次が異なる史料がありますが、1568年には信康と五徳の結婚が行われたと黒田氏は推定しています。

 又、時期が前後しますが、1570年9月に家康は居城を浜松へと移し、1571年8月に信康は元服して岡崎城主に正式になったようです。

 そして、築山殿は信康夫婦の傍に住んで、完全に夫の家康とは別居生活を送ることになります。


 一方、今川家の滅亡は結果的に武田信玄・勝頼と徳川家康の対立を引き起こすことになります。

 家康が遠江を割と順調に領国化したのに対し、信玄は北条家の介入もあって駿河の領国化に苦労することになりました。

 そして、氏真との長期の戦いを嫌った家康は独断で、氏真の北条家への退去という講和を締結したことから、苦戦中の信玄の怒りを買うことになり、武田と徳川の抗争が引き起こされます。


 この抗争は三方ヶ原の戦いから信玄の死、長篠の戦い等を経て、最終的には武田家滅亡へとつながっていくことになりますが。

 この抗争の間、決して徳川家と言えど一枚岩ではなく、奥平家等の境目の国衆は双方を天秤にかける有様でしたし、大賀弥四郎事件等、れっきとした徳川家の家臣が武田家に内通する事件もありました。

 

 そして、築山殿の生涯におけるこの時期の様々なことについては、同時期の一次史料が皆無といっても過言ではない有様で、後世の二次史料も余り触れておらず、信頼性の高い二次史料から多くを推論せざるを得ないのが現実です。

 

 こうした中で、黒田氏は武田家の三条氏や今川家の寿桂尼等の居住実態や権能等から推論して、正妻と言えども必ずしも同居していなかった、又、家中いわゆる奥の取締りは正妻の権能で、産まれて来た子どもの認知等も正妻の了解が必要だった。

 だから、築山殿は別居はしていたが、相変わらず正妻のままであり、秀康にしても築山殿が了解しなかったので認知されなかった等の主張をされています。


 この辺りは、そう言われればそうなのかな、とこの辺りに疎い私は考えるのですが、そうは言っても少し推論が過ぎるのではないか、と考えざるを得ません。

 その辺りを深読みしだすとキリがない話ですし、実家、後ろ盾を完全に失った築山殿がそんなに強い権能を別居した状態で維持できたというのに、私は首を捻ります。


 そして、運命の信康事件に至るのですが、黒田氏は大賀弥四郎事件は1575年のことであり、この事件は築山殿も了解していたことだ、と「岡崎東泉記」から黒田氏は推論しています。

 唯、この「岡崎東泉記」は松平広忠の死について織田信秀による暗殺説を述べる等、私としてはそこまで信用できる史料かな、と首を捻る話です。

(最も、大賀弥四郎事件が発覚したために、武田勝頼は岡崎城急襲を諦めて長篠城を攻めることにし、その末に長篠の戦いに至ったというのは成程、と私の蒙を開かれる話ではありました)


 私としては、大賀弥四郎事件に築山殿自身は関与していなかった、そもそも関与しようにも力が無かった、と考えるべきではないか、と考えます。

 信康事件にしても、「信長公記」等の信頼できる史料は信康の逆心を伝えていても、築山殿について直に触れてはいなかった、と私は覚えています。

 そうしたことから考えても、「岡崎東泉記」を根拠に大賀弥四郎事件に築山殿が関与していた、というのは無理筋の気がします。


 唯、その一方で五徳と築山殿、五徳と信康の仲が険悪になったのは事実ではないか、と考えます。

 五徳と信康が結婚した頃は、それこそ信長は足利義昭を奉じて上洛したばかりであり、家康にしても三河を統一して遠江をうかがおうとしている状況で、織田・徳川間にそんなに大きな力の差はありませんでした。


 更に血筋を考えれば、織田信長家は、尾張守護代の織田家の分家筋ではありますが、現代に遺っている史料からは、いつ誰から分家したのか分からない家に過ぎません。

 又、織田家は平家の末裔と自称しますが、藤原家や忌部家の末裔説もある等、出自も怪しい家です。

 それに対して、築山殿と信康は、紛れもなく足利将軍家の一門である今川家の血を承けた身であり、血筋的には織田信長家より上位になります。


 こうしたことから、結婚当初は信康と五徳は対等又は血筋的には自分達は格上という意識が、築山殿や信康にはあったのではないか、と私は考えます。

 しかし、織田家の急激な勢力拡大から徳川家は織田家の親族武将扱いされるまでに、徐々に地位を低下させていきます。

 実際にあったかどうか真偽不明の逸話ですが、五徳が築山殿を義母として敬わなかったことを信康が怒ったとの逸話が伝わっています。

 実際、信康事件が起きた頃ならば、五徳にしてみれば信康や築山殿等、父の配下武将の息子とその母位にしか思えなかったでしょう。

 ですが、当時の女性道徳的に、妻が夫や姑を軽んじて見下すのはどうでしょうか。

 しかも、結婚当初は対等だったのに、徐々に妻が夫や姑を見下しては。


 信長や家康が何度か仲裁に入った形跡もありますが、信康夫妻の仲が完全にこじれてしまい、五徳が信長に不満を公然と訴えるようになり、更に武田家に信康が内通しているとの噂まで伝えたことから、家中取締りのためもあって、家康が信長に信康と築山殿の処断の許可を求めて起きたのが、信康事件ではないかと私は考えます。


 そして、信康と築山殿ですが、すぐに殺害に至っておらず、暫く時間が空いています。

 この理由について定説は無いようですが、恐らく義信同様に家康としては共に幽閉して、信康の廃嫡に止めるつもりが、まずは築山殿が将来を悲観して自害し、それを知った信康が暴発することを怖れて、家康は信康を自害させたのではないか、と私は考えます。


 本当に築山殿の生涯や信康事件に関しては良質な一次史料が極めて乏しいようで、これが築山殿の生涯や信康事件の真相だといえることは永遠に無さそうな気が私はしますが。

 私としては、ここまで築山殿の生涯を追ってきて、もしも今川家と徳川(松平)家の仲がこじれて破綻しなければ、築山殿は徳川家康の正妻として生涯幸せな人生を送れたのではないか、と思いを馳せてしまいます。

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[良い点] 瀬名さんが今川義元さんの姪ではなく、養女ではないとの説、納得。 今川義元の養女という格では、松平家は釣り合わないですよね?守護大名から見たら松平家は、成り上がりの三河で多少大きめな国人。没…
[良い点]  おお拗れた行き違いの末に信康事件に至った(・Д・)読んでいてこれは本当に真相にもっとも近いように思えます、織田家へのあてつけに感じられないように家康さんの周囲はいろいろと隠蔽したんでしょ…
[一言]  大変興味深く拝読しました。歴史物は好きでも大河ドラマレベルの知識ですので、いろいろ知らない名前が出てきてその都度調べたりしながら読ませてもらいました。特に築山殿の最期は気になっていましたの…
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