伝説の合コンマスター
田中太志は、32歳で独身だった。
田中太志は冴えない男だった。中肉中背で、容姿は中の下だった。大学を卒業し、一部上場企業に勤めてはいるものの、これといった成功体験もなく、まさに平凡という字がぴったりの人生を歩んでいた。
彼の人生においてこれまで、浮いた話は一度もなかった。年齢=彼女いない歴であり、つまるところ童貞であった。彼が女性を避けているというわけではない。むしろ彼は女性を欲していたし、結婚を所望していた。熱烈に、結婚を望んでいた。四六時中そのことを考えては、美人の奥さん、可愛い子供、夢のマイホームでの生活を想像し、にやにやしたり切ない表情を浮かべ、周囲の者を気味悪がらせていた。
しかし彼は、女性と縁を持つことができなかった。その機会すらなかった。誰でも一度はモテ期というものがある。しかし彼にとってその話は、都市伝説の類と同じであった。バレンタインのチョコは当然、母親からしか貰ったことはない。友人に恋人ができるたびに、表面上は喜んだり幸せを願うふりをしたが、実際は家に帰ってハンカチを噛み、人知れず枕を濡らす夜もあった。
田中太志は、どうしてこうなのかわからなかった。周りの女性があからさまに、彼を避けるというわけではない。職場では普通に女性の同僚とも会話をするし、時には食事に行ったり、飲みに行くこともある。女性の友人がいないわけではなく、マッチングアプリも活用している。しかし、彼がおぼろげに恋心を抱き、恋愛対象として意識し始めた途端に、女性たちはことごとく彼から距離を置くようになるのであった。
人生の目的を見失い、自暴自棄になりかけている田中太志を見かねて、心優しい同僚たちは積極的に彼を合コンに誘うようになった。同僚たちは毎週合コンを企画し、田中太志を誘い、彼に恋人ができることを心から願った。田中太志も彼らの期待に応えるべく、脱毛サロンに通い、皮膚科でピーリングをし、ZARAの店員に服装をコーディネイトしてもらった。田中太志はモテるために、もてる力のすべてを使って自分を磨いた。
しかしどれほど合コンに参加しようと、田中太志に振り向く女性は皆無であった。女性たちは、ことごとく彼の同僚たちに振り向いた。女性たちはみな、高身長で高学歴、イケメンぞろいの同僚たちと連絡先を交換したがった。田中太志も有名大学を卒業しており、学歴では遜色はなかった。しかし、それだけのことだった。それ以外の分野では、同僚たちは田中太志が逆立ちしても勝てる相手ではなかった。連絡先を訊かれるたびに、同僚たちは苦笑いをし、そして苦悶した。連絡先を訊く女性をいなし、やんわりと田中太志をすすめてみたりするのだが、どれもこれも暖簾に腕押しだった。ある時、某有名広告代理店に勤める直情径行型の女性は、同じように田中太志をおすすめされた際に、「こんなパッとしない男のどこがいいっての? おまえなんか、左にスワイプだ」と言って、左手を左に振った。その女性はぐでんぐでんに酔っており、つい最近恋人に振られた鬱憤もあって口走ったのだったが、その言葉は田中太志の心に深く、広い傷をつけた。その傷の深さはマリアナ海溝よりも深く、広さはカスピ海を凌ぐかと思われるほどだった。
その夜、田中太志は家に着くと、服も着替えずベッドに倒れ込んだ。身体から力が抜け、もはや何もする気力が起きなかった。田中太志は、男泣きに泣いた。泥酔女が放ったあの言葉が、彼の脳内で壊れたラジカセのように再生され続けた。
「どうして俺ばっかりこんな目に・・・」
田中太志は枕に顔を埋め、呟いた。ツイッターを開き、同じ言葉をツイートした。それから彼は考えた。もう、恋人を探すなんて馬鹿な真似はやめよう。自分が傷つくだけだし、世間に恥を晒すだけだ。同僚たちには申し訳ないが、俺の人生はそのように決まっていたのだ。嗚呼、むべなるかな。俺にはもう、戦う気力はない。世間というのは恐ろしいものだ。人生は、舵を持たない小舟のようなものだ。世間という荒波に翻弄され、飲まれ、沈んでゆく運命なのだ。俺はもう、この航海を続けることはできない。俺はこの絶海の孤島の中で、独り、静かに生きてゆくしかないのだ・・・。
田中太志は孤独であった。これまでに経験したことのない、果てのない孤独が彼を襲った。彼は、無人島に取り残されたようなものだった。難破し、孤独という大海が周囲を包囲する島に取り残され、身動きのとれなくなった遭難者であった。遥か向こうには、大陸が見える。霞みがかる水平線の向こうには、豊饒な大地が見える。しかし、田中太志には航海を続ける舟も、気力も、勇気もなかった。彼は、この島から脱出することは不可能であることを悟った。海を割るモーゼでも現れぬかぎりは・・・。
田中太志はいつの間にか、深い眠りについていた。彼に眠りをもたらしたものは、酒の酔いと深い絶望であった。眠りは絶望のもたらす効能の一つである。彼は、底のない深淵へ落ちてゆく感覚に身をまかせた。さて、こうして彼は現実の軛から逃れることに成功した。しかし、彼の自我はどこまでも彼を追い、執拗に責め立てることをやめなかった。彼の過剰な自意識は夢の世界へまで侵入し、彼を苦しめる悪夢を見せた。
彼は夢の中で植物園にいた。彼は花を愛する繊細な心を持っていた。実際、嫌なことがあると彼はよく、地方に足を運んでは植物園に行っていた。行き場を失った彼の心は、夢の中で癒しの場を求めたのだ。彼は一つの美しい水仙を見つけると、その場にしゃがんでそれに魅入った。水仙は凛として咲き、瑞々しい芳香を辺りに漂わせていた。
「まったく、俺の心を癒してくれるのはおまえたちだけだよ」
彼は目を細めながら、水仙に語りかけた。それで心の孤独を埋めようとした。彼の心は愛に飢えていた。そして、花が愛を与えてくれることを知っていた。彼はもう、それで十分だと思った。人間の女性に愛されるよりも、自然に愛されよう。そして俺も、自然を愛そう。なぜならば自然を愛することで、人間をも愛することができるのだから・・・。彼は、そのように考えた。
「おまえなんか・・・」
彼が詩人のような感傷に浸っていた時、どこからともなく声が聞こえてきた。彼は驚き、周囲を見回した。しかし、どこを見渡しても人の姿はなく、その気配すらなかった。彼は首を捻った。
「気のせいか・・・」
彼は気を取り直し、再度、水仙を愛でることにした。するとまた、
「おまえなんか・・・」
と、声が聞こえてきた。今度は彼の背中に戦慄が走った。その声は幻聴などではなく、確かに、間違いなく存在していた。しかも彼の感じたところでは、その声は水仙から発せられていたのだ。
「おまえなんか・・・?」
彼は生唾を飲んだ。続きを促すように、水仙に向かって語りかけた。一体この水仙は、俺に対して何を言おうとしているのだろう? 何か、言いたいことでもあるのだろうか? 彼は緊張した面持ちで水仙が返答するのを待った。喉が引き攣り、頬に一筋の汗が流れた。
「おまえなんか・・・左にスワイプだ・・・」
彼は絶句した。驚きのあまり後ろにのけ反り、その勢いで尻もちをついた。彼は水仙を見つめた。すると水仙は風に揺られるようにして左方向に動き、そのまま静止した。彼は悲鳴を上げた。
「パッとしない男・・・左にスワイプ・・・」
再び声が聞こえた。それはもう、二度と聞きたくないセリフだった。彼は両耳を押さえ、絶叫した。
「もうやめてええええええ」
恐ろしい恐怖と混乱が、彼の精神を錯乱の渦に飲み込んだ。大地が崩れ、前後の感覚を失った。彼は暗い深淵の中へ落ちて行こうとした。
だがその時、天から一筋の光が下り、スポットライトのように彼を照らした。そして白く長い手が伸び、彼の腕を掴んだ。そのまま上へと引っ張り上げ、彼は眩い光の粒子に包まれて何も見えなくなった・・・。
彼は目を覚ました。全身が汗でびっしょり濡れていた。天井の蛍光灯を少し眺め、それから夢を見ていたことに気づいた。着替えもせずベッドに倒れ込んだことを思い出した。
「なんだ・・・夢か・・・・」
彼はホッと安堵の息を吐いた。それから水を飲もうと思ったが、横に誰かが立っていることに気づいた。
「目が覚めたか?」
そこには男の老人が立っていた。老人は頭が禿ていて、白い髭がもじゃもじゃで、紬を着ていた。背後には後光のようなものが光っている。
「うちには金目のものはないぞ!」彼は声を震わせて叫んだ。この老人を、強盗だと勘違いしたのだ。
「ほっほっほっ」と老人は笑い、それから「あっひゃっひゃっ」と笑った。彼の小心者ぶりが、よほど面白かったと見える。それから柔和な声をつくり、「助けに来たのだ」と言った。
「助けに来た・・・?」彼はしばらく思案し、それから叫んだ。「もしかしてあなたは、海を割るモーゼ様ですか?」
「儂の顔に見覚えはないか? よーく見てみなさい」
そう言うと老人は自分の顔を指さした。彼は、まじまじと見つめた。どこかで見覚えあるよな・・・と考えてから、ついに気づいた。
「あ、おじいちゃんだ!」
そう、そこに立っている老人は彼の祖父だったのだ。彼は、祖父を写真でしか見たことがない。とうの昔に亡くなっていたのだ。「チベットに修業に行ってくる」と言ったまま消息を絶った祖父は、一族の中でも伝説的な存在であった。
「ほっほっほっ」と祖父は笑った。
「どうしてここに・・・?」彼は初めて見る祖父に問いかけた。
「おまえがあまりにもモテないから、助けに来たのだ」
不甲斐ない孫を助けてやろうと、祖父は天上の世界から降りてきたのだ。さっきの悪夢から救ってやったのも、この祖父の力だった。誠に深い慈悲心であった。しかし彼はそんな祖父の気も知らず、有頂天になっていた。
「やったあ! おじいちゃん、ありがとう! それじゃあさっそく、美人で優しくてスタイルの良い奥さんを一丁こしらえてください。顔は北川景子似がいいです。身長は僕より少し低いぐらいがいいです。で、モデルか何かをやってた子がいいなあ。でも世間離れはしてなくて、手料理が上手でしっかりと家事をこなせる子ね。やっぱりこのご時世、共働きしないと将来が不安だから、パートぐらいはやってもらった方がいいよね。もしパート先にイケメンの若い男なんかがいても、そんなの見向きもしないでずっと僕だけを見てくれるような・・・」
「この馬鹿もんがあ!!」
老人が怒鳴った。それは雲を集めるゼウスの如き怒声であった。彼は股間が縮み上がり、寿命が少し縮んだ。身を屈めて、ブルブルと震え出した。
「甘えるなこの童貞が! そんなんだから、おまえはいつまで経っても童貞なんだ!」
彼はしくしくと泣き始めた。初めて会った祖父に面罵されたこと、しかも彼が一番傷つくNGワード「童貞」を2回も言われたことに、深く傷ついた。
一方の祖父は、呆れていた。目の前にいる孫、身を屈めて両手を合わせ、「なむあみだぶ、なむあみだぶ」と唱えている孫を見ながら、呆れ返っていた。しかし、この孫には頑張ってもらわないといけない。もしこの孫が子孫を残せなければ、一族は絶えてしまうことになる。この孫を助けるのは、先祖代々一族の意思であった。
「明日の夜、銀座のバーに行け」
「バー?」彼は顔を上げた。
「銀座の某所に『苺畑で会いましょう』というバーがある。そこに行って、伝説の合コンマスターと接触するのだ」
「合コンマスター?」
「そうだ。合コンマスターが、おまえを導いてくれる。彼の助言に従うのだ」
「その店は銀座のどこにあるのですか? どうやって合コンマスターを見つければよいのですか?」
「案ずることはない。日が暮れる頃、おまえは銀座に行くだけでよい。後はすべて、成るように成る。しっかり耳の穴をかっぽじって助言を聞くのだ。いいな?」
「はあ・・・」彼は気の抜けた返事をした。
一通り話し終えると、祖父は帰っていった。眩い光に包まれて消えるわけでもなく、普通に玄関から帰っていった。祖父がいなくなった後、彼は考えた。合コンマスターとは、一体何者なのだろうか? しかし彼は、その異名から期待しないものがないわけでもなかった。彼は少しウキウキしながら、ベッドに潜った。悪夢を見たばかりだというのに、彼はすやすやと眠りについた。
翌日、彼は銀座を歩いていた。時刻は夜の7時だった。祖父の忠告を遵守し、日が暮れてから銀座を散策した。彼は銀座に来ることはほとんどなく、土地勘はまったくなかった。何度か路地を曲がり、適当に歩いていたところで「苺畑で会いましょう」という看板を見つけた。それは、4建てのビルの2階にあった。彼はビルに入り、階段を登り、入口の前に立った。木製の扉を開けると、カウンターの向こうに立っている男が見えた。他に、客の姿はなかった。
「いらっしゃいませ」男が笑顔で迎えた。どうやらこの店のマスターらしい。
彼はカウンター席に腰を下ろした。メニュー表を見ようとしたが、見当たらなかった。
「すいませんメニュー表をください」彼はマスターに言った。
「うちの店は、メニュー表がないんです。ドリンクは、私がお客様を見て選ばせてもらっています」
風変わりな店だった。どうやら客は酒を選べないらしい。しかしそれは、マスターの自信の表れのようにも見えた。
「じゃあ、お任せします」
彼がそう言うと、マスターは首を縦に振った。それから何かの液体をシェイカーに入れて、しゃかしゃか振りだした。
「お待たせしました」マスターが白い液体の入ったグラスを差し出した。
「これは何ですか?」
「カルピスです」
「カルピス・・・?」
「そうです。さあ、早いうちに召し上がれ」
「お酒は出してくれないのですか?」
「お客様は、カルピスです」
「私はカルピスを飲むとトイレが近くなるのですが・・・」
マスターは無言だった。その表情には断固とした意志が表れており、彼は諦めた。まったく、どうしようもない店主だと思った。風変りを通り越して、もはや変人であった。
彼が泡立ったカルピスを口に入れた時、突然店の扉が開き、一人の男が入ってきた。その男はドカドカと大股で歩き、ドカッと彼の隣に腰を下ろした。彼が横を向くと、そこには赤いキャップを被った男が座っていた。ボサボサの髪に赤いキャップを被り、眼鏡をかけていた。太っていて、ダボダボのパーカーにジーンズという格好をしている。彼はパッと見て、オタクだと思った。モテないオタクが、バーにやってきたと思った。
マスターは頷き、シェイカーを振りだした。このオタクに何を出すのか興味津々に思っていると、彼を見たオタクが口を開いた。
「貴様、童貞だな?」
彼はびくんと身体を震わせた。そして、オタクをまじまじと見た。
「い、いきなり何を言うんだ!」
オタクは差し出された酒を飲んだ。よくわからないが、緑色の液体だった。
「貴様は、俺のことを探してたんじゃないのか?」
その言葉を聞き、彼ははっとした。
「もしかして・・・あなたが伝説の合コンマスターなのですか?」
「1万回」オタクは静かに口を開いた。「俺が開催した合コンの数だ。そして、ラインにはそれ以上の女の連絡先が入っている。俺は、合コンで負けたことがない」
そう言うとオタクはスマホを取り出し、画面を見せた。確かにラインには膨大な数の女性が入っている。彼は認めざるを得なかった。この男が、合コンを極めた伝説の男なのだと。
彼は頭を下げた。「お願いします! どうか私に、合コンの極意を教えてください!」
オタクは彼を一瞥すると、静かに口を開いた。
「俺と貴様は星のようなものだ。惑星の軌道が交差するように、いずれは出会う運命にあった。まるで見えない引力にお互いが引っ張られるかのように・・・。そして俺は、貴様にとっての北極星となるだろう。童貞を卒業する道程の、導きの星としてな」
何を言っているのか理解できなかったが、とりあえず彼は神妙に頷いた。早くも、カルピスによる尿意が彼を襲い始めていた。
「貴様は真理を知りたいのか?」オタクが問いかけた。「恋愛における真理を知りたいのか? 恋愛における真理は、花の蕾の中に隠されている。貴様は、なぜ女が花を見て笑うか知っているか?」
「知りません」彼は正直に答えた。
「答えは簡単だ。花が美しいからだ。女は花を見て、花が美しいから笑うのだ。男は花を見ても笑わない。むすっと腕を組んで、花の形相だとか、質料だとか、そんなことを考える。花の背後にあって花たらしめているもの、花の奥に隠されている真理を探そうとする。しかし女は、真理は表面に表れることを知っている。花を見て、花の表面だけを見て、その美しさに純粋に笑う。かつてシレジウスはこう言った、『バラは何ゆえなしに在る それは咲くゆえに、咲く』。これが、恋愛における真理だ」
「あの、まったくわからないのですが」
「つまり、女が花を見て笑うように、女に接する必要があるということだ。女は花を見た時、何も考えていない。そして、何も考えていないからこそ笑うのだ。我々もその境地に達する必要がある。花を見る時、女は芸術家である。花の美、花の表面にある美的なものと、女の内にある美的感性とが自然に照応し、共鳴するのだ。ところが男というものは、生来の欠陥としてこの美的感性が欠如している。男女の根本的な違いはここにある」
「はあ・・・」
彼はもう、帰りたいと思った。尿意も段々と強くなってきた。しかしオタクは、そんな彼の気も知らずに滔々と喋り続けた。
「男が一人の女では満足できない原因は、この違いにある。男が合コンに行く、女を見る、その時に考えることは『ワンナイトしたいな。セフレにできないかな』とまあ、こんなところだ。この心理状態は、美的感性の欠如から生じている。美しいものを軽視する姿勢が、このような軽薄な言動を生むのだ」
「あの、もう少し具体的な話を・・・」
「だが俺は、貴様の中に完成された美的感性の存在を感じる」
「えっ・・・」
「現代は、腐った男が増えた。ワンナイト、セフレ、ヤリ逃げ、浮気、不倫、二股、やりたい放題だ。真理は敗北した。秩序は崩壊した。このような時代にあって、童貞は意志の象徴、不屈の信念の肩章である。貴様は現代に生きるナポレオンだ。ナポレオンのあの気高い言葉、『勝利は、もっとも忍耐強い人にもたらされる!』を思い出せ!」
「つまり、童貞であることに自信をもてってことですか・・・?」
「そういうことだ」オタクがグラスに口をつけた。「貴様は童貞であることを前面に押し出せ。そうして女からの信頼を勝ち取るのだ」
「わかりました」と言って、彼は席を立った。すでに、膀胱が限界を迎えていた。彼はトイレに駆け込み、咆哮を上げた。恍惚の表情を浮かべた彼が戻った時には、すでにオタクの姿は消えていた。彼は代金を払って帰ろうとしたが、オタクの分の代金も請求された。舌打ちし、仕方なく払い、それから店を出た。彼は歩きながら、オタクの言葉を考えた。
「本当にそれで上手くいくのだろうか・・・」
彼は半信半疑だった。オタクの言ったことは、むしろ逆効果でさえあるように思えた。しかし、他に選択肢はなかった。ダメ元でやってみよう・・・彼はそのように考えた。
翌日、都内の某居酒屋で合コンが開かれた。個室には男女6人が集まり、その中には彼の姿もあった。彼、同僚、同僚の知人の女性が集まり、宴は開かれた。合コンは作法に従い、まずは自己紹介から始まった。
同僚たちが自己紹介をしていくなか、彼は緊張していた。オタクの助言に従おうとも、いざその場面が訪れると並々ならぬ緊張があった。初対面の女性に童貞を公言することは、非常な勇気が必要だったのだ。彼の足はガタガタ震えた。酒はまだ届かないので、水をガブガブ飲んだ。だが、ここまできたら後戻りすることはできない。彼は自分の番が回ってきた時に決意を固めた。
「初めまして。田中太志、32歳です。趣味は植物園に行くことと、読書です。そして、童貞です」
場が一瞬、静寂に包まれた。同僚は目を見開き、彼の腕を肘で突いた。しかし彼は、神妙な表情を崩さなかった。それは余裕の表れでもあった。その時の彼は、心地よい春風のような解放感に包まれていた。世間に対して童貞を公言することがこんなに気持ち良いとは、彼は知るべくもなかった。彼は軛を断ち切った。彼は真の自由を得た。もはや彼には何も失うものはなく、何も恐れるものはなかった。
「ごめんね、いつもはこんな感じじゃないんだけど・・・」
友人の失言をフォローしようと、同僚が口を開いた。しかし女性陣は両手を合わせ、目をうっとりさせていた。
「すてき・・・」
女性陣の口から嘆息が漏れた。それを聞いた同僚たちは驚きの表情を浮かべた。唯一表情に変化がなかったのは、彼だけであった。
「どうして、童貞なのですか・・・?」一人の女性が彼に訊ねた。その声音には、艶っぽい色が含まれていた。
「童貞であることは生きることであり、愛することであり、悩むことです。つまり、人生そのものです。童貞は、決して世間に対して背を向けるような、アナーキーな行為ではありません。むしろ、人生を謳歌すること、青春を謳歌することです。私は人生を愛しています。そして、童貞であることに誇りをもっています」
彼は泰然として言った。その姿は自信に満ち溢れた男、隠し立てをしない堂々とした男として女性陣の目に映った。彼は猛き勇者のようであった。いや、実際にそうだった。あらゆる障壁を取り払い、彼は告白をやってのけた。もう、彼を阻む壁は存在しなかった。
その夜は彼の独壇場だった。女性陣の関心は彼に集中した。同僚たちは予想外の展開に苦笑したものの、彼が人気を得たことを素直に喜んだ。その晩は女性陣の全員が彼とラインを交換したがったため、彼は誰とも交換せずに帰ることにした。しかし、誠に実り多き夜であった。
しかしそれから、彼の苦悩が始まることになる。彼は合コンに参加する度に、女性たちから好感を持たれた。時には彼の取り合いになることや、喧嘩まで起きることもあった。そうまでして女性たちは彼を求めた。彼は最初は、それを嬉しく思った。しかし、時間が経つにつれて味気ない思いが彼の胸を襲った。彼は味覚を失ったように感じた。それまで甘いと思っていたデザートが、口に運んでみると実は無味乾燥な食品サンプルであったような・・・。女性とデートも重ねたが、彼には虚無感がつきまとった。
そうして浮かない表情をしていた会社での昼休みのことだった。彼はいつも会社の敷地にあるベンチで弁当を食べ、その後に缶コーヒーを飲む習慣がある。その時も缶コーヒーを飲みながら景色を眺めていた。すると突然、彼の視界に一人の女性が現れた。西園寺玲子だった。
西園寺玲子は彼の幼馴染だった。幼稚園から大学まで一緒で、今では同じ会社の同じ課で働いている。まさに腐れ縁とも言うべき相手であった。そして彼女は、とてもブサイクだった。名前はとんでもない美人を想像させるが、実際はとんでもないブサイクだった。そして彼は、彼女をあまり視界に入れたくないと思っていた。そのぐらい、ブサイクだった。
「太志くん、最近浮かない顔してるわね・・・」彼女が隣に腰を下ろした。
「そうかな・・・?」彼は少し、距離を取った。
「そうよ、そう見えるわよ。何だか最近は沈んだ顔ばかりして、以前の太志くんとは別人・・・」
「そんなことないよ。僕は元気さ」
「もし何か困ってることでもあるのなら、話してほしい。少しでも、太志くんの背負っている荷物を軽くしてあげたい」
なぜこの女は恋人みたいな物言いをするのだ、と彼は苛々した。そのためもあってか、彼は少し冷たい態度をとってしまった。
「もし仮に元気がなかったとしても、それは玲子さんには関係のないことだよ・・・」
彼女は手を口に当てた。そして、しくしくと泣き始めた。彼は、心の底から面倒くせえと思った。
「太志くんは、気づいてるんでしょ?」
「何が?」
「私の気持ちに、気づいてるんでしょ?」
そこで彼は横を向いた。彼女の顔を見た。泣いている彼女はいつもより醜く、やっぱり目を逸らそうかと思ったが、我慢した。
「どういうことだい・・・?」
「私は幼稚園の頃からずっと、太志くんのことを想い続けてきたのよ。太志くんはそれを知ってて、私の気持ちを無視して、平気な顔して合コンばっかり行ってる・・・」
「どうして合コンのことを知ってるんだい・・・?」彼は驚いた。
「そのぐらい、知ってるわよ」彼女はハンカチを取り出し、鼻をかんだ。「社内でえらい噂になってるんだから。田中が合コンでモテまくってるって、酒池肉林だって・・・。その話を聞いた時の私の気持ち、考えたことある・・・?」
「ちょっと待ってくれ、誤解だよ」
「何が誤解なのよ! どうせスケベ心で色んな女に手を出してるんでしょ? 今悩んでいるのも、女のことなんでしょ? もう太志くんなんか、性病にかかって死んじゃえばいいんだわ! 見るのも汚らわしい!」
「僕は、僕は童貞なんだ!」
彼の弁解も聞かず、彼女は泣きながら去っていった。すれ違う女性社員たちが驚いて避け、それから彼のことを見た。その目には多分に批難の色が含まれていた。西園寺玲子はブサイクではあったものの、優しく気の細やかな性格をしており、同性の社員たちからは人気を博していた。彼は、自分の立場が危うくなりつつあることを感じた。彼女に、荒唐無稽な噂話を広められたりでもしたら、たまったもんじゃない・・・。
しかし、彼の胸中には焦りとはまた別の感情も芽生えていた。西園寺玲子が、俺のことを愛している? しかも、幼稚園の頃から・・・?
彼は左手を心臓に当ててみた。鼓動は早鐘を打っていた。
その夜、彼は『苺畑で会いましょう』に来ていた。どうしても飲みたい気分だった。
酒を飲みたいと言うと、マスターはウイスキーを出してくれた。彼は酒は強くなかったが、ダブルで何杯もあおった。
「お若い方の飲み方ですね・・・」マスターが苦笑した。
「今夜は酔いたいんです」
「何か嫌なことでもありましたか?」
「いや、そういうわけでは・・・」
店の扉が開き、男が入ってきた。オタクだった。オタクは彼の隣に座り、同じくウイスキーを注文した。
「この間の会計、僕が払っておきましたよ・・・」
「授業料だ」オタクはにべもなく言った。
「あなたの助言は正解でしたよ。僕は今、毎週違う女性とデートしています」
「じゃあ、もう童貞は卒業したのか?」
「まだです・・・」
「貴様は何のために合コンに行っているのだ?」
「結婚相手を探すためです。僕は、結婚がしたいんです」
オタクは何も言わなかった。続きを促しているのか、僕の話に興味がないのかわからない。それでも僕は、喋らずにはいられなかった。
「昔からの夢でした。平凡でも、温かくて幸せな家庭をつくることが。そのために今日まで童貞を守っていたわけじゃないんですけどね・・・。今日、幼馴染の女から酷いことを言われました。僕が合コンでモテるようになって、汚らわしいって言うんです。まるで人のことを遊び人みたいに。僕は決してそんなことしてないのに・・・。その女は僕のことが好きだって言いました。ずっと昔から好きだったって・・・。きっと、嫉妬してるんでしょうね。そいつ、めっちゃブサイクなんですよ。僕が急にモテるようになって、面白くないんですよ。まったく、つまらない女です。顔がブサイクなうえに内面までブサイクだったら、もう手の施しようがありません・・・」
「貴様はどうして、その女と結婚しないのだ?」
オタクは驚くべきことを口にした。彼は苦笑し、顔の前で手を左右に振った。
「冗談はやめてくださいよ。あんなブサイクな女と結婚できるものですか。本当にブサイクなんですよ。魚みたいな顔してて、ニジマスによく似ています」
「このばかちんがあ!!」
と叫び、オタクは彼の頬を張った。思い切り張った。パアンという乾いた音が店内に響いた。彼は打たれた頬を押さえ、驚いた顔でオタクを見た。オタクは静かに口を開いた。
「俺は以前、貴様を美的感性をもつ男と評価したが、とんでもない誤解だったようだな。貴様は取るに足らない、くだらない男だ。童貞の風上にも置けない男だ」
「どうして・・・?」彼の目が涙に濡れた。
「俺の直感によると、その女は美しい心をもっている。最も完成された、洗練された美的感性をそなえている。それなのに貴様は、顔がブサイクだとか、ニジマスに似ているとか、そんな取るに足らない些細なことに固執して、肝心なものを見失っている。俺からすれば、その女よりも貴様の心の方がよっぽどブサイクだ。このブサイク童貞」
「彼女は、そんなに美しい心をもっているのですか・・・?」
「この前の話で俺が言いたかったのは」オタクはウイスキーをあおった。「一人の人間を愛し続けること、それこそが真理だということだ。一人の人間を愛し続けることほど、美しいものはこの世に存在しない。その最も美しいものを純粋に愛することが、この世界の最大の真理なのだ。美しいものを愛せない人間は、一人の人間を愛し続けることはできない。その女は、美しいものを愛する心をもっている。人間を愛し、そして人生に幸福を与えることのできる女だ」
オタクの言葉を聞き、彼は視界が開ける気分になった。雲間から光が射し込み、山間にある霧を夕風が吹き払うかのごとくであった。確かに彼女は、自分のことをずっと愛し続けていると言った。しかも、幼稚園の頃から・・・。彼女が胸にきざした情熱の火を絶やさず、今日まで自分のことを愛し続けていたことが、まるで奇跡のように思えた。その尊さに気づいた。
「どうやら僕は、今まで洞窟の中にいたようです。見えない幻想に心を惑わされ・・・まるで、プラトンの『洞窟の比喩』のようです・・・」
「良いところに気がついたな」オタクが初めて笑顔を見せた。「それなら、貴様のとるべき行動はわかっているだろう?」
「ええ、もちろんです」
彼も笑った。それから静かに席を立とうとした時、オタクに呼び止められた。
「貴様は幸福な奴だ。一生愛し続けることのできる相手を見つけたのだからな。俺はまだ、旅の途中だ・・・至高の真理へ辿り着くまでの旅は、まだまだ続く」
「つまり、童貞ってことですか?」
オタクは何も言わなかった。しかし、その沈黙は肯定の沈黙であった。オタクもまた、童貞であったのだ。グラスの液体を反射し、セピア色に輝くオタクの瞳をしばし見つめ、彼は店を後にした。
それから田中太志は西園寺玲子と結婚し、マイホームを建て、子供を二人もうけた。男の子と女の子で、家族四人で今でも幸せに暮らしている。あれからオタクに会うことはなかった。そして、祖父が夢枕に立つこともなかった。彼は息子に、源太郎という名をつけた。それは、亡き祖父の名であった。今でも、どこかで祖父が見守っていてくれると感じる。庭に咲いている水仙が、一陣の風に舞って揺れていた。幸福な家族の姿を見て、微笑んでいるかのようだった。