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後編

女装して彼女に近づいた仁は、成り行きで彼女と同居することになる。連日、仁美として振舞う仁に、次々と襲い掛かる難題。仁は、一生一度の恋を成就することができるのだろうか???

コンクールは無事に終わり、まりえは第二位を受賞し、コンクールで入賞したのは初めてだったので受賞の瞬間に、ステージ上のまりえは感激の涙を流していた。それを見ていた北条婦人もそっと涙をハンカチで拭った。

 授賞式を終え、取材陣に取り囲まれえるまりえをロビーで待ちながら、コンクールのことで四人の話題は持ちきりだった。

 「おばさん、まりえの努力が報われましたね。」

 「達彦さん、あの娘ったら泣いたりして。よほど嬉しかったのでしょうね。」

 「僕の目から見てもまりえは頑張っていましたから。自分が努力した分だけ初めての入賞という結果に繋がったということが、尚更嬉しかったのでしょう。」

 「あの娘の心の持ちようが変わったことで、音色にも変化が現れたのだろう。」

 「そうですね、おじさん。今夜の演奏は、まりえの本来持っていた素直さに、ダイナミックさが加わった音でしたね。一年前に私と軽くセッションした時の音とは、明らかに違っていました。」

 「大川さん、それは、良い方に変わったということでしょうか?」

 「仁美さん、以前のまりえなら、賞が取れることはなかったでしょう。今夜はとてもいい音でした。」

 「大川さんに誉められたら、まりえは何より嬉しいと思います。その言葉、まりえに直接言ってやってください。」

 「仁美さんは、まりえのことは、何でも分かっているのですね。」

 達彦は、言ってから焦った。嫉妬や嫌味に聞こえやしないかと。

 「いえ、私は、家族とは違って、少し離れた場所から、まりえを見ることが出来るので、気が付くことがあるだけです。私には家族を超えることは出来ません。」

仁美の中の仁と、達彦の静かな戦いであった。

 「大川さん、大川検事ですよね。」

 達彦は、全く知らない男に声を掛けられて、振り向いた。

 「どちら様でしょうか?」

 「週刊静寂の記者で、青木守と言います。」

青木守は、自己紹介をすると名刺を差し出した。

 「週刊誌の記者が、どうして私をご存知なのでしょうか。」

達彦は怪訝そうに、そう言いながら名刺を受け取った。

 「今、大川検事が抱えていらっしゃる田原女子大生バラバラ殺人事件のことを調べています。何れ大川検事にも、インタビューをお願いしようと思っていました。まさかここでお会い出来るとは。」

 「お待たせ。」

 取材を終え、ドレスやバイオリンを抱えて、まりえが出て来た。

 「おや、あなたは先程、バイオリン部門の第二位に選ばれた北条まりえさんですよね。大川検事とは、どう言ったご関係なのですか?」

 「君には関係ないじゃないか。私は、インタビューはお受け出来ませんから。」

達彦は、北条の方を見て

「行きましょう。」

と言った。

達彦は、様子が理解出来ないまりえの背を押して、少しでも早くその場から離れることを促した。

 「達っちゃん?」

まりえが見上げた達彦の表情は、とても強張っていた。


受賞のお祝いを兼ねて、北条夫妻と達彦とまりえと仁美は、行きつけのレストランで食事をすることになった。仁美は頑なに断ったが、どうしてもと言う北条の誘いに根負けしてしまったのだ。

 「達っちゃん、今抱えている事件、とっても大変そうなんじゃない?」

 「田原女子大生バラバラ殺人事件と言えば、三年前の事件で、やっと容疑者が見つかったのだったね。達彦君が、担当していたとは。」

達彦は、北条の顔も見ず、まりえの方も向かず、食事の手も止めずに話し始めた。

 「担当していた先輩検事が、突然退職したので、急遽私が後を引き継ぎました。この事件は根が深く、恨みも深い。それ以上は言えませんが、検事としての私の行く末を試されることになる事件であることは間違いないでしょう。」


 翌日、仁は、大学の近くの本屋に立ち寄った。昨日の「週刊静寂」の記者が気になって仕方がなかったからだ。あまり馴染みのない週刊誌の名前であったし、どのような内容の記事が掲載されているのかを、どうしても確かめたかった。

 本屋の雑誌コーナーに「週刊静寂」はあった。表紙は、巨乳のグラビアアイドルが、水着姿で大きな胸を誇張している。表紙で、硬い雑誌ではないことがすぐに分かった。手にとってペラペラとページをめくっていく。

『田原女子大生バラバラ殺人事件の元担当検事自殺』の大見出しが目に飛び込む。仁は、時間を忘れて読みふけった。

本屋を出た仁は、マンションに帰るために、明のアパートに立ち寄った。仁美に変装しなければならない。明から合鍵は借りているので、家主がいようといまいと勝手に入って、勝手に出て行く。

 仁が、ガチャリと鍵を開けてドアノブを回すと、鍵がかかっている。

 「あれえ、おかしいな。」

仁は、もう一度鍵を開けて、ドアノブを回した。今度はドアが開いた。

 「仁か?」

中から明の声がする。

 「明、先に帰っていたのか。」

中に入りながら明に話しかけると、明はダイニングキッチンの奥の部屋にいた。

 「うん。お前、途中でいなくなったから、てっきり先にアパートに帰ったかと思って急いで戻ったんだ。」

 「そうか。悪かった。」

奥の部屋で、ラグに座ってテレビを観ていた明は、仁の方を見上げた。

 「仁、どうした?顔色悪いぞ。」

 「いや、ちょっと。」

明は仁の方へ向き直った。

 「どうした?何かあったのか?俺には何でも隠さずに言えよ。」

仁はしばらく躊躇していたが

 「・・・・・・まりえのコンクールの日に、“週刊静寂”という雑誌の青木っていう記者に声を掛けられた。」

 「お前が、か?」

 「いや、大川さんだ。その後、皆で食事に行って、さっきの記者の話が出たんだけど、大川さんが今担当している田原女子大生バラバラ殺人事件の元の担当検事が急に辞職して、自分が急遽担当検事になったと言っていたんだけど、その時はそれで話は終わって、俺自身が引っかかっていることが幾つかあって、ここに来る前に本屋に寄ってみたんだ。“週刊静寂”って雑誌が、どんな雑誌なのか気になって。雑誌自体はどの記事も酷い内容だったけど、その田原女子大生バラバラ殺人事件のことだけは、詳しく調べてあって、しっかりとした記事だった。」

 仁は、一冊だけ買った「週間静寂」を明に見せた。

 「それで、どうした?お前が落ち込むことがあるのか?」

 明は、雑誌を手に取りながら言った。

 「大川さんの前の担当検事だけど、辞職して直ぐに自殺しているらしい。」

 「自殺?」

 「ああ。自殺の動機は不明だけど、殺された女子大生には、双子の妹がいて、その妹との深い関係が辞職の原因らしい。」

 明は、雑誌の表紙の大見出しを確認する。

 「まあ、担当検事と被害者の家族じゃあ、体裁は良くないかもしれないけど、辞職するまでのことではないだろう。」

 「いや、それが、その双子の妹が、自殺した担当検事に騙されたと、レイプされたと、訴えたから、話が大事になってしまったようだ。」

 「それは、本当なのか?検事が、嫌がる被害者の家族を無理やりってことあるのか?普通は考えにくいけど。」

 「そうなんだ。だけど、絶対ないとは言い切れないし、今となっては、真相を知る者は、その双子の妹だけになってしまったから、全く分からないよ。姉は殺されてバラバラにされて捨てられて、妹はレイプされた。ゴシップ好きのこの手の雑誌にとっては最高のネタだよな。」

 「自殺した担当検事も反論しなかったのか?違うならはっきり言い切ることだって出来ただろう。なにも辞めたり死んだりしなくても。」

 「したようだよ。不当だと言って、その双子の妹を訴えるとまで言っていたようだ。でもそうする前に自殺してしまった。検察庁で穏便に済ましていたにもかかわらず、この双子の妹が、この雑誌に自分の記事を売り込んだ。そして、追い込まれた元担当検事は自殺した。」

 明は雑誌のページをめくりながら、

 「怖い女だな。そんなに美人なのか?ここまでしておいてブスだったら、死んだ検事も浮かばれないよな。」

 「美人だったよ。写真も載ってる。」

 「そうか。でも、それとお前が落ち込む理由とどう結びつくんだ?」

仁は、一層躊躇った素振りをしたが、意を決っして、明に話を始めた。

 「まりえから、今朝、相談を受けた。夕べ食事をした後、まりえは大川さんの車で送ってもらったんだけど、その時に、自分の物ではないピアスを拾ったと。気になって、助手席のサンバイザーのミラーを確認したら、鏡にうっすらと、口紅の付いた手で拭いた跡があったらしい。」

 「ええっ、あの大川さんが。まさか、でしょう。」

明は心底びっくりしたように大きな声を上げた。

 「そのまさか、だよ。まりえは落ち込むし、こんな時に限って気の効いた言葉も見つからないし。俺も何かの手がかりになればと思って雑誌を読んだら、逆に、疑惑を肯定するような内容だったから、帰って、どうやってまりえに心配させないように言えばいいのか、そう考えたら気持ちが落ちこんた。」

 「そうだよな。もしかしたら、そのピアスの持ち主も口紅の跡も双子の妹かもしれないよな。そうなると、大川さんもやばいってことだし。わあっ、どう言えばいいんだろう。難し過ぎる。」

 「……俺、まりえに掛けてやる言葉がないよ。」

 「・・・・・・」


その日の二人の会話は、そのまま現実の心配となった。

 まりえは、コンクール以来、音楽雑誌にひっぱりだこで、大学とレッスンとの合間に、雑誌の取材を受けていた。ちょっとした有名人にもなっていた。それは、青木にとっては好都合で、満を持して発表した次号により、達彦と被害者の双子の妹、そしてまりえの存在までが掲載された。本屋で、最新号を手にした仁は、ショックを隠せず、ただ、まりえの目にだけ触れなければいいと願わずにはいられなかった。

 その雑誌には、達彦が自分の車に、被害者家族の双子の妹を乗せている写真やホテルのロビーで待ち合わせをする二人の写真が掲載されていた。

そして、実名や写真は載せていなかったが、達彦には、有名なバイオリニストのお嬢様が婚約者であることが触れられていた。また、前回同様、当事者である双子の妹のインタビューも載せられている。達彦に逃げ道はない。仁は、有り金をはたいて、その書店の週刊静寂を全て買いあさった。

そして、その足で病院の北条を訪ねた。

突然の仁の来訪に、困惑しながらも、忙しい北条は時間を作って、会ってくれた。

 「君は、仁美さんの双子の弟さんかな。」

仁美ではなく仁が現れたことに、北条は緊急的なものを感じていた。

 「そうです。姉がいつもお世話になっています。今日は突然に申し訳ありません。」

挨拶をする仁を院長室のソファに座るよう促しながら

 「本当によく似ているね。初めてお会いするのに、初対面じゃない親近感を覚えるよ。」

 「僕もです。今日、お伺いしたのは、この週刊誌のことです。」

仁は、「週刊静寂」を、北条に見せる。

 「これは……どういうことだね。」

北条は、週刊誌の表紙を見て驚いた。

 「仁美から、相談を受けていました。まりえさんが、大川さんに女性がいるのではないかと心配していると。その矢先のことでしたから、僕も慌てて、大学の傍の書店の週刊誌は全て買い占めました。まりえさんの目に触れる確率が高いと思ったものですから。」

 「それは、本当にありがたい。なんとお礼を申し上げてよいのか。」

 「いえ、大変なのはこれからです。まりえさんが知ってしまうのは、遅かれ早かれ近いうちになるでしょう。まりえさんも、あのコンクール以来、有名人になりましたし、この記事にも触れられています。今、まりえさんの存在自体がかっこうのネタでしょうから。今日、仁美じゃなく僕がここへ来たのは、仁美に連絡を取る時間さえ勿体ないと思ったからです。一刻も早く、おじさんの耳に入れておきたかったからです。まりえさんを守るために、僕たちは、何をしたらいいのでしょうか?」

 「……普段どおりの生活を心がけるように仁美さんに言ってください。あの娘は勘のいい子ですから。」

「はい。この後仁美に会いに行きます。その時に、話します。」

「達彦君に会ってみよう。彼の口から聞いておきたい。その後のことは、それから考えたい。」

 「分かりました。」

 「週刊誌は、こちらも手配して、出来るだけ買い占めるようにしよう。大っぴらに動くと、それもネタにされかねない。まりえには、マンションの外に出ないように言いたいところだが、あれのことだ、黙って言うことは聞かないだろう。あくまでもいつも通りの生活を続けるしかない。」

 「はい。」

北条は、そう言いながら記事を読み始めた。

 「幸い、まりえの実名や写真は載っていないようだが、安心してもいられない。すぐに嗅ぎつけられるだろう。そうなることだけは避けたい。」

 その時、院長室の電話が鳴った。北条は、ソファから立ち上がると受話器を取った。

 「分かった。換わってくれ。」

 電話に出た北条は、軽く仁に頭を下げて、電話を優先させて欲しいと、態度で示した。

 「ああ、大川さん。ご無沙汰しています。ええ、週刊誌は見ました。まりえはまだ知らないと思います。一度、達彦君と会って、じっくり話してみたいと思っていました。そうですか、是非、お願いします。まりえのことは、ご心配なく。達彦君のこと、よろしくお願いします。では。」

電話を切って、北条はソファに座りなおした。

 「大川グループの会長で、達彦君の父親からの電話でした。大川会長も、週刊誌を見て、心配していました。明日、大川会長も含めて、三人で会うことになりました。大変なことになりましたよ。この彼女は、以前もいろいろと問題を起こしているようですし、これ以上困ったことにならなければいいのですが。達彦君については、ここまで、はっきりとした写真が載ってしまうと、さすがの大川会長にも手の施しようがないでしょうし。この写真などは(記事の中の一つの写真を指差す)彼女が手引きをしたと考えざる負えない。一体、何が目的なのか。」

 「おじさん、心配ないですよ。明日、大川さんの口から、きちんとした弁明が聞けますから。」

 「そうですね。あなたたちご姉弟には、本当に助けていただくことばかりですが、まりえのこと、どうぞよろしくお願いします。」

北条は、深々と、仁に頭を下げた。

 「おじさん、やめてください。僕らは、まりえさんのことを大切な友人と思っています。ですから、迷惑だとも思っていません。まりえさんが、傷つくことがなく、いつも笑っていられるように、そう願うばかりです。」

 「仁君は、本当に仁美さんと性格まで瓜二つだね。今度、お二人で家の方にもいらしてください。妻も喜びますから、お食事でもご一緒しましょう。」

 「はい、落ち着きましたら。」


仁は、病院を後にし、明のアパートに帰った。

明のアパートでは、明と春美が心配して、仁の帰りを今か今かと待っていた。

 「仁、何処へ行っていたんだ。この週刊誌見たのか?」

 「見た。それで、北条のおじさんに会いに行って来た。」

 「お前、仁の格好で行ったのか?」

 「ああ。仁美に着替える余裕がなかった。早くおじさんに知らせたかったし。」

 「それで、どうなった?」

 「丁度、大川会長から電話があって、明日、大川会長と達彦さんとおじさんで会うらしい。大川グループの会長が本格的に動き出せば、あの記者も、これ以上手出しは出来ないだろうし、まりえに危害が及ぶこともないだろう。」

 「そうか、大川会長が動くか。そうだな、もう心配ない。俺は、まりえさんの同居人のお前まで調べられて、記事にされやしないかと、そればかり考えてハラハラしたよ。」

 明も春美もほっとしたように手にしていた雑誌を置いた。

 「よかったわ。仁と仁美が同一人物だなんてことが、世間に知られたら、まりえさんも今回のことを含めてダブルショックでしょう。私も明も、どうしようもなくて心配するばかりで。」

 「春美、悪かったな、心配かけて。明日の結果次第では、俺も身を引かなくちゃならないだろうな。これ以上、まりえや北条のおじさんを窮地に陥れることはできないから。」

 「仁……」

 春美は心配げに仁の顔を覗き込んだ。

 「取り敢えず、俺、帰るわ。まりえのことが心配だし。おじさんは、週刊誌を買い占めると言ってくれたけど、何処でまりえの目に触れているとも限らないから。早く帰って様子見るわ。」

 「何かあったら、いつでもいいから、携帯鳴らせよ。いつでも出られるように準備しとくから。」

 「サンキュウー、明。じゃあ、着替えて帰るわ。」

 仁は努めて明るく振舞った。

 「私、メイク手伝ってあげる。」

春美は、肩を落とした仁のために、何かしたかった。


仁美は、急いでマンションに帰ってみると、まりえはもう帰宅していた。

 「ただいま。」

 「仁美、お帰りなさい。遅かったね。」

 まりえの声はキッチンから聞こえる。

 「まりえこそ早かったね。」

 「うん、父から電話が入って、コンクールも終わったことだし、たまには早く帰って、仁美に何か美味しいものでも作って待っているように、って言われたの。そう言えば、お料理からお迎えまで、随分、仁美には負担を掛けちゃったから、感謝の気持ちをこめて、お料理して待っているのもいいかもと思って、今日は早目に帰ってきたの。シチュー作ってみたんだけど、初めて作ったから、美味しいかどうか自信ないの。仁美、食べてみてくれる?」

 「へえー、まりえがねえ。それは楽しみ。」

 仁美は鍋の中のシチューを覗き込んだ。

どうやらまりえは何も知らないようだ。北条が上手くフォローしたと、仁美は、北条に心の中で感謝した。

 その夜は、何事もなく更けていった。


翌日、北条と大川親子は、大川グループの傘下の一つであるホテルの一室で会うことにした。北条は、約束の時間よりも早く着いたので、部屋で落ち着かずに待っていた。大川会長も、気が気じゃないのか、北条が着いてから、間もなく部屋を訪ねてきた。

 「北条さん、この度は、達彦が本当にご迷惑をお掛けしまして、なんと申し上げてよいか。本当に、申し訳ありません。」

 大川会長は、部屋に入るなり北条の姿をみると、深々と頭を下げた。

 「大川さん、まだ、達彦君が何かしたと決まった訳ではありません。頭を上げてください。」

 北条は、ソファから立ち上がると慌てて大川会長に近寄った。

 「しかし。」

 「これからのことを考えるのは、達彦君の話を聞いてからにしませんか。」

 大川会長は、北条の様子に少し安心したようで、二人は向かい合ってソファに腰を下ろした。

 「まりえちゃんは、大丈夫ですか?」

 「はい、ルームメイトがいまして、その娘がカバーしてくれますので、まだ何も知らないと思います。心配いりません。」

 「そうですか。それが一番気がかりだったので、安心しました。」

 そこへ達彦が、時間通りに部屋に入ってきた。

 「遅くなりました。」

 二人を見て、しっかりと頭を下げた。

 「いや、私たちも今来たところだから。達彦君も、仕事が忙しいのに悪かったね、呼び出してしまって。」

 「いえ、おじさん。僕こそ、このようなことになってしまって、本当に申し訳ありません。」

直立不動のまま、倒れこみそうなくらいにまた、頭を下げた。

 「達彦君、掛けたまえ。今日は、あの記事の内容について、詳しく私たちに教えてもらえないだろうか。」

 「はい、そのつもりで来ました。お話する前に、まりえの方は大丈夫でしょうか?あの記者や、週刊誌を読んだ別の雑誌の記者に何かされていないか心配しています。僕が、傍にいてやれればいいのですが、僕は見張られていますから、まりえに連絡を取ることもままなりません。」

 達彦は、大川会長の横に腰掛けた。

 「まりえはまだ、何も知りませんよ。心配要りません。それよりも、君の口から真実が聞きたい。そして、折角こうして会えたのだから、これからの対応を決めておきたいと思っている。せかして申し訳ないが、話してくれないだろうか?」

 北条はソファの背もたれから身を乗り出していた。

 「……あの記事は……全て本当です。僕は彼女と深い関係になりました。」

 「達彦!」

大川会長は、拳を振り上げると、達彦の頬を殴りつけた。その反動で、達彦は、座っていた椅子から飛ばされた。

 「大川さん、やめてください。最後まで話を聞きませんか。達彦君、大丈夫か?二人とも冷静に最後まで話をしましょう。私は、これ以上何を聞いても驚かないから。」

北条の一言で、大川会長も達彦も、もう一度席に着いた。

 「はい。前の担当検事が辞職して、僕に担当が廻ってきたのは、偶然のことだと思っていました。たまたま、僕が抱えている事件がなかったものですから、それで僕に白羽の矢が当たったと思っていました。彼女とは、裁判のことや事件前後のことで会う機会が多くなり、彼女の背負っている悲しみの大きさを感じるようになって、彼女に同情するようになりました。初めはただの同情だと思っていましたし、先輩検事の助言もあり、彼女のことは警戒もしていました。ある日、この記事を書いた青木と言う記者が、彼女を執拗に追いかけ廻しているのを知り、その場面にも遭遇することもあり、何度か彼女を助けたりもしました。そのお礼と言って検察庁に頻繁に彼女が会いに来るようになり、いつしか彼女のことばかり考えるようになっていました。彼女と深い関係になったのも自然な成り行きだったと思います。しかし、僕が大切なのは、今までもこれからもまりえただ一人、それには変わりはありませんが、まりえにはない、愛情を彼女に感じていたのも事実です。」

 「お前は、まだ言うか!」

大川会長は、再度拳を振り上げた。

 「お父さん、僕は、今回のことで、この事件の担当から外されました。近いうちに内示が出て、何処か地方に異動になると思います。おじさん、まりえへの気持ちは変わりません。もし、まりえが付いて来てくれると言うのなら、僕は直ぐにでも、籍だけでも正式に入れておきたいと思っています。」

 達彦は席を立つと北条に向って頭を下げた。

 「達彦君、君とまりえの結婚となると、家同士のことでもあり、今この渦中で結婚を発表することは出来ない。ほとぼりが冷めてからでないと、私としても許可することは出来ない。まりえの気持ち次第だが、そんなに急ぐことはないと思うよ。」

 「おじさん、これだけは信用していただけませんか。本当に、まりえに対する僕の気持ちに嘘偽りはありません。彼女に、好意を持ったのは事実ですが、僕は彼女にはめられたと思っています。これは後で分かったのですが、彼女が僕を担当検事に指名したそうです。彼女は、初めから、僕を狙って罠を仕掛けてきたのです。そう知った時は、もう手遅れでした。」

 「どうして、お前を狙ってくるのだ。大川の跡取りだからか。」

 「そうです。そして、大川グループに、恨みを持っているからです。彼女のご両親は、彼女が小さい頃に自殺しています。その両親を死に追いやったのは、お父さん、あなたであり、大川グループなのです。」

 「私が?」

 大川会長は達彦の口から出た真実に驚いた。

 「そうです。彼女のご両親は、小さな町工場を経営していました。小さいけれど、とても業績が良く、当時としては珍しいICチップを作っていました。そこに目を付けたのが大川グループであり、お父さんだ。言葉巧みに合併の話を進めておいて、実際は、合併ではなく、乗っ取りだった。全てを失ったご両親は、町工場で首を吊ったのです。」

 「あの工場の娘だったのか。」

 「前の担当検事は、本当に彼女を愛していたようですが、彼女には、僕や大川グループへの復讐があるし、双子の姉を殺した犯人の行く末を見届けなければならない義務もある。彼女はとことん鬼になって、彼に冷たく当たり、彼のことを雑誌にまで売り、彼はその愛情の深さ故に、人生を悲観して死を選んでしまったのです。僕たちは、一体、何人の命を奪ってしまったのでしょうか。彼女のような悲しい人間を何人作ってしまったのでしょうか。彼女だってあなたの犠牲者なんだ。僕の体の中に流れる大川の血を思うと、僕はこれ以上生きていることが耐えられなくなります。」

 「達彦……」

 大川会長は、寂しそうに達彦を見つめた。

 「でも、まりえを置いて逝くことは出来ません。まりえは、僕の全てです。」

 「お前が大川の犠牲になっていたことは分かった。お前も苦しんだことだろう。しかし、お前のしたことを、私はどうしても許すことは出来ない。今日限り、お前とは親子の縁を切る。大川に繋がる全てのものへの立入も禁止する。勿論、まりえちゃんとの結婚も白紙に戻す。」

 「大川会長、それはあまりにも酷な話です。聞けば達彦君も犠牲者だ。今回のことは水に流して、これからのことを考えませんか。達彦君も、まりえを好いていてくれているようだし、まりえの気持ちさえ定まれば、日を待って、結婚の話を進めるのもいいと思っています。親子の縁まで切ってしまったら、達彦君の救いがなくなってしまうではありませんか。」

 「北条さん、ありがとうございます。娘を持つ父の身でありながら、今なお、こんな奴のことを思って庇ってくださる。本当にありがとうございます。しかし、これはけじめです。例え息子といえども、けじめは付けなくてはなりません。達彦は、自分の置かれている立場を理解していなかったのです。大川の跡取りという立場と検事という立場、どちらも生半可なことでは済まされない重責です。例え北条さんやまりえちゃんが許しても私は許すことが出来ません。達彦には、全ての責任を取る義務があります。」

 「いいんです、おじさん。僕も大川から離れて生きてみようと思っていました。ただ、気がかりなのは、まりえのことです。今回のことを知ったら、まりえはどうなってしまうのだろうか、それだけが心配でなりません。こんな時こそ、僕が支えにならなければいけないはずなのに、僕がまりえを苦しめることになるとは。」

 北条にも答えることは出来なかった。

 「……」

 沈黙が続き、大川会長はホテルの部屋を後にした。

そして、北条も、達彦の肩をポンと叩くと、後を追って部屋を出た。


 ホテルからの帰りの車の中から、北条は、仁美に電話を掛けた。大学の講義中だったが、仁は、教室から飛び出て、電話を取った。

 「仁美さんですか?」

 「そうです。」

 「今、大丈夫かね?」

 「大丈夫です。今日、お会いになったのですよね。どうなりましたか?」

 「……あの記事は、全て事実だったよ。」

 「えっ。」

 北条は、大川グループのしたこと、例の彼女の策略や生い立ち、そして達彦が勘当されたことを、順番に話した。仁美として話を聞いている仁は、言葉にならなかった。

 「まりえの様子はどうだね。」

 「はい、今回のことはまだ知りません。今朝も普通でした。」

 「そうか、よかった。しばらく、まりえをうちに帰してくれないだろうか。こんな時にまりえと離れているのは心配だ。目の届く所に置いておきたいのだが。」

 「分かりました。まりえに、実家に戻るように伝えます。」

 「よかったら、君も来ないか。部屋なら幾つも空いているし、妻も喜ぶよ。」

 「しかし……」

 「無理にとは言わない。考えておいてくれないか。勿論、まりえがこちらに帰って来ても、あの部屋は、今まで通り、自由に使ってくれて構わないから。まりえも、ほとぼりが冷めたら、帰ると言い出すだろうしね。」

 「はい、ありがとうございます。」

 仁は、その電話を切ってから、深い、深いため息を付いた。


その夜、仁美は、まりえに本当の理由は話さず、しばらく実家に戻るように勧めた。まりえは、頑なに拒否していたが、仁美の説得に応じることにした。心配している両親に、顔だけでも見せに行こうと言う仁美に促され、二人は、まりえの実家を訪ねることにした。仁美は、心配しているであろう北条に、まりえの様子を少しでも早く見せて安心させておきたかったのだ。

夏に向かっている六月の午後七時は、比較的明るい。二人は、散歩がてら歩くことにした。

 しばらく歩いて、住宅街からオフィスビル街に入った頃、まりえの足がピタリと止まった。

 「まりえ、どうした?」

仁美が声を掛け、まりえの視線の先に目をやると、仁美も固まってしまった。

 達彦と例の彼女が言い争っているのだ。遠くて会話は聞こえないが、男女の痴話喧嘩のように見える。

 そして次の瞬間、彼女が達彦の胸に飛び込み、達彦が彼女を腕に抱きしめた。

 そして、カメラのフラッシュが光った。

青木という記者も一部始終を見ていたのだ。そして、決定的瞬間をフイルムに収めた。

 「まりえ、行こう。」

ショックから身動き出来ないまりえの手を引いて、仁美は、元来たマンションへ引き返す。このままこの場所にいれば、まりえが達彦の婚約者であることが分かり、まりえも、かっこうの餌食にされてしまう。仁美は、それだけは避けたかったのだ。

マンションに戻っても、まりえは一言も口を開こうとはしなかった。仁美も、どう声を掛けていいのか分からない。あの後、達彦たちはどうなったのだろうか。それも心配だったが、自分が連れ出したせいで、一番見せてはいけないものを見せてしまったことが、悔やまれて仕方がなかった。

 「仁美のせいじゃないのよ。」

まりえが始めて口を開いた。ソファに座り込んで身動きさえしない。

 「まりえ、ごめん。」

 仁美はそれしか言えなかった。

 「仁美のせいじゃないから。おかしいと思っていたのよ。急に、父が戻って来いと言い出すし、最近、仁美はそわそわしているし、多分、達っちゃんのことで何かあるのかなと思ってはいたのよ。」

 「……」

 「車の中のピアスとか口紅のこともあったし。」

 「いや、まりえ、それは違うよ。今夜のことだって何かの間違いだよ。達彦さんには、まりえだけだから。」

 「あの雰囲気で、あれは誤解で、あの二人には何もないと、本当に仁美は思っているの?」

 まりえは部屋に帰って来てから、始めて仁美の方を向いた。

 「達彦さんに限って何もないよ。」

 「仁美、私の目を見てもう一度言ってみて。本当にそう思っているの?」

仁美は、努力しても、まりえの目が真っ直ぐに見られず、同じ言葉をもう一度、言うことは出来なかった。

 「しばらく一人にして貰える?」

 「分かった。」

 まりえは自分の部屋に閉じ篭ってしまった。仁美は、一人リビングに残され、次々と襲って来る後悔の念に、苛まれていた。

 そこへまりえの電話のベルが鳴る。

 「もしもし、おじさん。」

 「今、大川会長から連絡があって、達彦君、また彼女と会っていたらしい。あの青木とかいう記者が、大川会長を脅迫してきたそうだよ。そっちは大丈夫か?何か変わったことはないかね。」

 「おじさん・・・・・・、実は、その現場に居合わせてしまったんです。」

 受話器の向こうからでも北条の驚きが、手に取るように分かる。

 「なんということだ。」

 「まりえを連れ出して、北条の家に行く途中でした。まりえはショックで、帰ってから部屋に閉じこもっています。」

 「そうか……なんとタイミングの悪い。」

 「本当にすみません。私が連れ出したばっかりに。」

 「いや、仁美さんのせいではないよ。達彦君も、今日、あれほどまりえのことを案じていると言っていたのに、舌の根も乾かないうちに、彼女と会って、こんなことになるとは。」

 「おじさん、どうしたらいいでしょうか。まりえに、どう声を掛けたらいいでしょうか。何も思いつきません。」

 「取り敢えず、そちらへ向かうよ。そのまま様子を見ていてくれないか。」

 「はい。」

 「君もこれ以上自分を責めないで。しばらく、まりえを連れて帰るつもりだから、今日の昼、電話で話した通り、よかったら一緒に我が家においで。まりえもそのほうが安心するだろうから。」

 「はい。」

 「直ぐに出掛けるから、用意して待っていてくれないか。まりえには、私から話すよ。」

 「はい。」

 電話を切って、仁美は、直ぐに荷造りを始めた。自分の正体がばれる危険性よりも、一時でも長くまりえの傍にいたいと、それだけを思った。

 その時、エントランスホールのドアのチャイムが鳴り、確認すると、明と春美だった。

仁美は鍵を開けると、明と春美を、マンションの部屋に招きいれた。

 「どうしたんだ?二人揃って、ここに来るなんて珍しいじゃないか。」

 「仁、大丈夫か?」

 「何が?」

 「隠しても無駄だよ。今夜、春美が全部見ていたんだ。春美が、別の支店に勤務だって、その帰りに、あの遣り取りを見てしまったんだ。お前たちがいたことも知っている。」

 「本当か、春美?」

 焦りながら仁美は春美に問いかけた。春美はこくりと頷いた。

 「あの時間に、あんなに往来の多い場所で。大川さん、どうしちゃったんだろう。」

 「春美から聞いて、慌てて来たんだ。まりえさんは、大丈夫なのか?」

仁美はまりえの部屋を指差し、

「ずっと篭っているよ。俺も、どう声を掛けていいのか分からない。」

 「そうか。そうだよな。」

明は、リビングに詰め掛けの荷物を見つけた。

 「この荷物、どうするつもりなんだ?」

 「おじさんが、もう直ぐまりえを迎えにここへ来る。俺も一緒に家に来ないかと言われている。」

 「仁、お前、馬鹿じゃないのか。あの家に行ける訳ないだろう。いい加減に目を覚ませよ。」

 明は仁美の身体を揺さぶった。

 「明、放っておいてくれ。まりえを一人では帰せない。」

 「まりえさんは、親元に帰るんだ。これ以上、安心な場所はないだろう。仁は、ここへ残れ。絶対、行かせないからな。」

 明は荷造り途中のバッグを手に持った。

 「触るなよ。お前の指図は受けない。俺は、一緒に行く。」

 仁美は、明の手からバッグを取り上げた。

 「マンションでの同居の時に、もっと反対しておけばよかった。仁、こんなこと言いたくはないけど、まりえさんとお前とでは、住む世界が違うんだ。仁美となら、友達でいられるだろう。でも、お前とはそうはいかない。お前の中に、まりえさんへの気持ちがある限り、友達ではすまないだろう。まりえさんは、大川さんの所へ何れは帰って行く人だ。大川さんだって、遠回りしても、最後はまりえさんの元に戻って来るだろう。離れられない二人の間に挟まれて、身動きとれなくなるのはお前なんだ。仁、潮時だよ。ここで身を引こう。これ以上、お前の人生を掛ける価値はないと思う。」

 明はもう一度仁美からバッグを取り上げた。

 「何も分かっていやしないくせに。明は、俺とまりえの何を分かっていると言うんだ。まりえは、絶対、大川さんには渡さない。まりえも大川さんの所には戻らない。今、まりえが必要としているのは、俺なんだ。俺が傍にいないと、まりえは崩れていってしまうんだ。」

 「まりえさんが、異性として必要としているのは、大川さんだけだ。裏切られても、大川さん以外には考えられないだろう。もう一人必要とされているのは、お前ではなく、仁美だ。」

仁美の姿の仁と明は、お互いに一歩も譲ろうとはしなかった。

 そして、もう一度ドアのチャイムが鳴り、合鍵で北条夫妻が、マンションの部屋に入って来た。

 「仁美さん、まりえは何処かね?」

 「部屋にいます。」

 「そうか、しばらく私たちだけにしてくれないか。」

 「はい。」

仁美と明と春美は、もう一度リビングに戻ると、ソファに腰掛けたまま、誰も口を利こうとはしない。

 そのうち、まりえの部屋から、まりえの号泣が聞こえ、北条の宥める声が、時折聞こえてきた。仁美は、まりえの泣き声を聞く度に、胸が引き裂かれる思いがし、耳を塞いでしまった。その仁美の丸まった背中を、春美がトントンと軽く叩き、仁美は、少し救われた。

 長い時間が過ぎ、まりえの声も聞こえなくなると、まりえの部屋のドアが開く音がして、中から三人が出て来た。

 北条はリビングに入ると、仁美に向かって、

 「仁美さん、まりえを連れて帰ります。仁美さんは、どうしますか?」

 「行きます。荷物も出来ています。」

 「それはよかった。では、車を下に待たせてあるので、直ぐに出ましょう。」

 「はい。」

 仁美はバッグを手に取ると、もう玄関で母親にしなだれかかって待っているまりえの方に急いだ。

 「待ってください。仁美は行かせられません。」

 「明、やめてくれよ。」

 明は、仁美の前に立ち塞がった。

 「北条さん、仁美は行かせられません。これは、北条家と大川家の問題です。仁美には関係ありません。仁美をこれ以上、巻き込まないでください。お願いします。」

明は、北条に深々と頭を下げた。

 「私は、そのようなつもりで、仁美さんを誘ったのではないが。」

 北条は玄関で靴を履いて待っている。

 「いいえ、仁美がいれば、まりえさんのことも任せられると思っているでしょう。仁美がいれば、まりえさんの気持ちを察して、親子の橋渡しになると思っていやしませんか。仁美には仁美の人生があり、明日があります。俺は、どんなことをしても、仁美を行かせることは出来ません。」

 「明、失礼じゃないか。私がいいと言っているんだから、いいんだよ。おじさん、行きましょう。」

仁美は、明を払いのけて歩き出す。明は、仁美の手からバッグを奪い取る。

 「明、いい加減にしてくれないか。」

 「仁美は、責任を持って、俺たちで預かります。仁美も傷ついているのを分かってください。お願いします。」

 「仁美さん、私たちは、あなたに甘えすぎていました。まりえのことが気になったら、いつでも遊びに来てください。それじゃ、私たちは行きますね。」

 「おじさん。」

北条は、そう言い残すと、妻と娘を連れて帰って行った。

 ドアの閉まる音が、部屋中に響くと、仁は、明に殴りかかった。

 「気が済むまで殴れよ。」

明は抵抗しない。春美は、必死に止めに入った。

 「抵抗しない者を殴れやしないよ。」

仁は、かつらを投げ捨てると、明に背を向けて、ソファに腰を下ろした。

 「仁、うちへ来いよ。まりえさんがいない今、ここにいる必要もないだろう。今まで、無理していたんだ。少しの間、元の西原仁だけのお前に戻って、普通の生活をしないか。最初の気持ちに戻って、これからのこと考えてみないか。俺も一緒に考えるから。」

 「……」

 そのまま仁は、背中を震わせながら、声を殺して泣いた。明も春美も一緒に泣いた。


まりえが北条家に戻って一ヶ月が過ぎようとしていた。仁は、明に言われて、マンションへも北条の家にも行かないようにしていた。この一ヶ月の間、テレビや雑誌で、大川グループや達彦の姿を見ない日はないぐらいに、世間を賑わせていた。勿論、まりえの近辺も騒がしかったが、北条の家に帰したおかげで、まりえはしっかり守られている。仁は、親元に帰したことや、自分が付いて行かなかったことが、逆に、まりえを守ることだったと、明の選択に感謝した。

 「また、ワイドショーでやっているな。北条の家も毎日見ていると、見飽きたよな。」

大学から帰って、テレビを点けていた仁に、明が話しかけた。

「明、あの時は、悪かったな。」

照れ臭いのか仁は明の顔が見れなかった。

「どうしたんだよ、急に。気持ち悪いじゃないか。」

言われた明も照れ臭かった。

「あの時は、まりえと一緒に行かせてくれなかったお前を随分恨んだけど、今は、行かなくて良かったと思ってるよ。あのまま俺が一緒にいたら、大川さんのことで嗅ぎ付けてきた記者たちに、女装している俺のことまでばれて、北条の家にもっと迷惑を掛けるところだった。まりえを助けたいと言いながら、あの時の俺は、自分のことしか考えてなかったと思うよ。」

 「仁、お前って本当にいい奴だな。」

明は、仁にガシッと抱きつくと、最近、緩くなった涙腺を、またまた緩ませた。

その頃、達彦は、四国の高松へ転勤を命じられていた。大川家から絶縁され、例の彼女とは、四六時中の尾行により疎遠になり、今の達彦に、職を失う勇気はなく、転勤を受け入れるしかなかった。

 辞令を受けた夜、達彦は、意を決っして、北条家の門をくぐった。

 「達彦君、ここへ顔を見せるとは、非常識にも程があるじゃないか。」

北条は、達彦を家に入れたものの、まりえには会わそうとはしない。

 「おじさんに顔向け出来ないことは分かっています。北条の家にも、どれ程ご迷惑をお掛けしたか、ここへ顔を出せる立場にないことも分かっています。今日、転勤の辞令が下りました。四国の高松に赴任が決まりました。まりえに、一緒に行って欲しいと思っています。身勝手なことは十分、分かっています。しかし、僕には、まりえしかいません。まりえを心から大切に思っています。まりえを本当に愛しています。まりえに会って、彼女の気持ちを聞きたい。まりえに会わせてはいただけないでしょうか?」

 達彦は、玄関から先には上げてはもらえなかった。

 「達彦君、あの女性とはどうなっているのだ?噂では、まだ切れていないようだが。」

 「……」

 「見損なったよ。君は、大財閥の跡取りにしては骨のある、いい男だと思っていた。こんなに立派な男が、可愛がられて育った我侭な一人娘の婿になってくれるとは、本当にありがたい話だと、私たち夫婦は喜んでいたのだよ。君は、ここでは、まりえを愛していると言い、彼女の前では、違うことを言う。同じ男として情けない。恥ずべき行為だ。君には、一生、まりえは会わさないつもりだから、二度とここへは来ないで欲しい。勿論、婚約の話も結婚のこともなかったことになる。」

 大川グループのホテルの一室での北条の態度とはうって変わっていた。あれ程達彦を擁護

していた北条だったが、信じていた達彦に裏切られたことが、どうしても許せなかったのだ。

 「おじさん、父にも謝るつもりです。そして、勘当を解いてもらいます。ですから、まりえとの結婚を許していただけませんか?」

 「達彦君、確かに、この結婚話は、大川と北条の家同士の利害が絡んでいないと言えば嘘になる。しかし、みすみす不幸になると分かっている所に、娘を嫁に出す親はいないだろう。君が、その性根を入れ替えない限り、まりえとは会わさないし、大川会長もお許しにはならないだろうね。万が一、大川会長が君をお許しになったとしても、私は決して君を許しはしない。親なら、我が子は可愛いものだ。大川会長とて同じだと思うが。」

 「まりえー!まりえー!」

 北条のその言葉を聞き終わるやいなや、達彦は、会わせてはもらえないと確信し、家の中へと入ると、勝手知ったる北条家の、まりえの部屋への階段を昇り始めた。

 「よしなさい。達彦君、よしなさい。」

北条は、追い掛けるが追いつけない。たまたま用事があって呼ばれていた、北条の運転手や男の秘書たちに取り押さえられ、達彦は、まりえに会えないまま、北条家の敷地の外に連れ出された。

 まりえは、達彦が自分を呼んでいたことに気が付いていた。何度も部屋から飛び出そうとするが、決心が付かない。一ヶ月前の、あの光景が頭から離れず、ましてやまだ続いているかもしれないことは知っていたため、昔のように、達彦を受け入れることは出来なかった。ただ、達彦が、自分の名前を呼んで、必死に自分に会いたいと願っている気持ちは、まりえにも届いていたし、胸が潰れる想いに涙が止まらないことを思えば、達彦を愛していることに間違いないと、まりえは再認識せざる負えなかった。達彦を、どうしても許せない気持ちと、達彦に恋焦がれる気持ちの狭間で、どちらを取ることも出来ず、もがき苦しむしか術がなかったのだ。

 まりえは、おもむろに携帯を取り出し、仁美を選んで、電話を掛けた。

 「もしもし、仁美?私よ、まりえよ。」

仁は、携帯が鳴っている時から、まりえからの電話であると分かっていた。

 「どうした?元気?」

仁には、言葉が見つからない。

 「うん、元気よ。仁美こそ、元気?どうして一度も電話してくれないの?」

 「ごめん。ちょっと、大学が忙しくて。」

 「そう。」

 「まりえは、単位、大丈夫なのか?」

「ええ、殆ど3年までに取ってしまったから、卒業は心配ないわ。」

 「そう、よかった。……」

 何から話していいかも分からず、会話も途切れがちだ。

 「……」

 「仁美、何か話してよ。」

 「何かって言っても。」

 「大学のことでも、友達のことでもいいから。」

 「まりえ、本当は話があったんじゃないの?」

 「……」

 「言いにくいことだったら、今度聞くよ。」

 「……仁美の声、聞きたかったの。達っちゃんに裏切られて、この地球上で、私はたった一人になってしまったと思った。」

 「あんなに心配しているおじさんやおばさんもいるじゃないか。」

 「達っちゃんを一番信用していた。」

 「……」

 「いつからか、達っちゃんのお嫁さんになることが、私の将来の夢になった。その終着点に向かって行く途中に、バイオリンがあって、大学の講義があって、私の毎日の生活があったの。それが、ある日突然、見えなくなってしまった。今になって、達っちゃんの代わりが何もないことを、思い知らされただけだった。」

 「大川さんのこと、愛しているんだろう?」

 「これって、愛していると言うの?」

 「愛しているから、裏切りを許せないんだろう?」

 「だって、まだあの女性とも繋がっているのよ。私とあの女性を、天秤にかけているのよ。私は、達っちゃんの特別ではなかったのよ。わたしにとっては、達っちゃんは、特別な存在だったのに。」

 まりえの声がかすれていく。

 「相手に対する愛情が深いほど、悲しみも深く、苦しみも大きい。まりえ、相手の裏切りを責めるばかりじゃなくて、もし、このまま大川さんを失ってしまったらと、考えてみないか。大川さんを失う悲しさと、大川さんの裏切りに対する悲しみ、そのどちらが大きいかを、一度まりえ自身で、考えてみないか。自ずと答えは出て来るし、きっと、まりえにとって一番大切なものを、失わずに済むと思うよ。この答えを導き出すまでは、誰の意見も聞いちゃだめだよ。まりえが、まりえだけで考えるんだ。そうしないと、一生後悔すると思うから。答えが見つかったら、また電話して。」

仁は、そう言うと、自分から携帯を切った。まりえの答えは分かっている。まりえ自身も、とっくに分かっている。ただ、嫉妬という感情が、邪魔をするのだ。


季節は遅い梅雨に入り、毎日ジトジトと雨が降り続いた。あれから、まりえからの電話は掛かってこない。仁は、トイレにまで、携帯を持ち込んでいたが、電話は鳴らなかった。

最近の仁の日課は、大学の帰りに、遠回りしてマンションの様子を見に行くことだった。もしかしたら、北条と大喧嘩して、マンションに戻ってきているかもしれないと、妙な胸騒ぎを覚え、必ず外から一度は確認するようにしていた。


その日も雨が朝から降り続いていた。仁は、いつものように、マンションの下から、部屋に明かりが灯っていないかを確かめに来ていた。毎日見ても、毎日真っ暗な部屋がそこにあるだけで、仁の予感は、外れたかのように思えていた。外れてがっかりするほうが、当たって心配するよりもいいと、窓を見上げながら思っていた。

 だが、今夜は違っていたのだ。明かりが点いている。何度も部屋を間違っていないか、確かめるが、やっぱり、あの部屋に明かりが点いている。仁は、持ち歩いていたマンションの鍵をポケットから出すと、急いで部屋へと向かった。

 しかし、部屋の前で、この合鍵で開けることに戸惑いを覚えた。自分自身が、仁の姿であることも、その理由の一つであったが、まりえと離れていた時間があまりに長くて、以前のように、まりえが迎え入れてくれるかどうかも心配だったのだ。

 「今日は探りを入れてみよう。」

仁は、独り言を呟くと、鍵をポケットに仕舞い、部屋の前のドアチャイムを鳴らした。

 「はあい。」

ドアを開けて、中から出てきたのは、やはり、まりえだった。

 「あら、仁君。(仁の辺りを見回す)一人?仁美は?」

 「俺、一人だけど。」

 「そう。どうぞ、上がって。」

 「うん。」

仁は、濡れた傘を玄関に立てかけると、久しぶりの我が家に足を踏み入れた。懐かしいリビングに通される。まりえが号泣して、この部屋から出た夜と何も変わっていない。

 「はい、これで髪とか拭いてね。」

まりえは、仁に、タオルを手渡した。

 「ありがとう。」

 タオルを受け取ると濡れた髪や服を拭き始めた。

 「今日は、仁美は?」

仁美のことばかりである。

 「いつも様子を見に来ていたのは仁美なんだけど、今日はどうしても寄れそうにないからと言うんで、俺が様子を見に来た。」

 まりえは、キッチンでコーヒーの用意をしながら、

 「ええっ!毎日、仁美が様子を見てくれていたの?そうだったの。仁美ったら、あんな冷たい電話の切り方して、本当に訳が分からないわ。」

 「仁美は、いつでも、まりえさんのことを考えているよ。もしかしたら、自分のことを考える時間よりも長く思っているかもしれないけど。」

まりえは、沸かしたてのコーヒーを差し出し、仁は、ソファに腰掛けて、それを口に運んだ。

 「まりえ、コーヒー淹れるの上手くなったね。」

そう言って、仁は、コーヒーカップを、手から滑らせそうになった。

 「びっくりした!仁美がいるのかと思った。今の言い方、仁美にそっくりよ。やっぱり双子よね。」

 「そうなんだ、よく間違われるんだ。」

まりえが天然で助かった。

 「ところで、今日はどうしてここへ?仁美が心配しているから、ここへ戻っているなら、電話してやればいいのに。」

 「仁君が訪ねて来る、ほんのちょっと前に着いたの。それに、電気を消して、居留守を使わないと、父が探しに来ても困るから。」

 「やっぱり、おじさんと喧嘩して、出てきたんだ。」

 「仕方なかったんだもの。仁美にだって責任はあるんだし。」

 「責任って何だよ。」

 「仁美がね、達っちゃんを失うのと、許すのと、どっちが悲しいか考えてみろ、って言うから、私にしては珍しく真剣に考えたのよ。誰にも頼らずに、自分自身で。そうしたらね、達っちゃんのいないこれからの生活の方が、悲しいって思ったの。だから、達っちゃんの言う通り、達っちゃんの赴任先の四国の高松に一緒に付いて行こうと決めたの。それを、父に言ったら、またまた軟禁されそうになったから、その前に飛び出して来たのよ。」

 まりえもコーヒーを口に運びながら答えた。

 「相変わらずハードな親子喧嘩しているよな。どうしてもっと話し合おうとしない。おじさんだって、まりえが可愛いから、大川さんのしたことが許せないんだろうし、その可愛いまりえが、必死に頼んだら、娘の幸せを考えてくれるはずだよ。元々、おじさん自体、大川さんのこと嫌いじゃないんだし。」

 まりえは、コーヒーを口に運ぶ手を止めた。

 「ねえ、仁君って、どうしてそんなに、仁美にそっくりに話すの?それに、私のことや父のことまでどうしてそんなに分かっているの?仁美もきっと同じこと言うと思うわ。」

 「双子だから、仁美の考えていることくらい手に取るように分かるよ。」

嫌な汗を背中にかく。

 「仁君と私って、あんまり話をしたことなかったし、仁美がいる時は、仁君はいつも用事があって、私とこうして話すの、初めてだよね。」

 「今、仁美が乗り移ったんだ。仁美の想いが強くて、俺の身体を借りて、仁美が喋ったんだよ。」

 「あははっ。」

まりえは、お腹を抱えて笑った。

「可笑しい。仁君って面白い。仁美はそんな寒いギャグ言わないから。あははっ。」

誤魔化せたと一安心しながら、やっぱり自分で自分の株を落としていることを、実感してしまう仁であった。

 「仁美に電話してみるね。」

 「ええっ、今から?」

 「だめかな。」

 「多分(時計を見る)今頃、コンサートに入っているから、電話に出られないと思うよ。」

 「ええっ!コンサートなの?誰の?」

 「大学の後輩とか言っていたよ。仁美も付き合いいいからね。」

 「そうなの。じゃあ、もっと遅くに掛けてみるわ。」

 「そうしてよ。」

二人は、少し冷めかけたコーヒーを飲みながら、少しの間、談笑した。仁にとっては、凄い進歩である。仁の姿である時には、一言も話が出来なかったまりえと、こうして同じ時間を共有している。仁が話す言葉に、まりえが笑っている。それが、自分には幸せだと思った。

 「そろそろ帰るわ。」

 「うん、今日はありがとう。雨、まだ強く降っているみたいだから、気をつけて帰ってね。」

 仁がソファから腰を浮かした瞬間、エントランスホールからチャイムが鳴った。

 「誰かしら?父かも。ちょっと待っていてね。」

仁にそう声を掛けると、まりえは、恐る恐るカメラで確認する。画面には、達彦の姿があった。

 「達っちゃん。」

直ぐに鍵を開けて、達彦が部屋まで上がってくるのを玄関で待ちわびている。

 「達っちゃん、どうしてここへ?」

 「この下を通ったら、部屋の明かりを見つけて、もしや、まりえがいるのでは、と思って。」

 「私もさっき来たところなの。さあ、上がって。」

まりえに促されて、リビングまで進んだ達彦は、そこに仁がいることに気が付いた。

 「こんばんは。」

先に挨拶をしたのは、仁だった。

 「どうして、君が此処へ?」

明らかに、不快を表している。

 「仁美に言われて、俺も毎日この部屋を見に来ていました。俺もさっき来たところですが、もう帰るところです。」

 「ああ、そう。じゃあ、気をつけて。」

 「大川さん、まりえさんは、一大決心をして、ここへ帰って来たのですから、必ず大切にしてください。約束してください。お願いします。もしも、まりえさんを悲しませるようなことをした時には、俺と仁美が許しませんから。何処にいても、必ずまりえさんを取り戻しに行きますから。」

仁は、達彦にそう告げると、一礼をして、マンションの部屋を後にした。

 帰り道、もう一度マンションの部屋の明かりを見上げた仁は、まだ、達彦の気持ちを疑わずにはいられなかった。何事もなく、二人の気持ちが落ち着いてくれればいいがと思う一方で、まりえを諦めきれない、もう一人の自分の存在も認めざる負えなかった。


仁が、明のアパートの部屋に入ると同時に、まりえからの電話を知らせる携帯が鳴った。

 「もしもし。」

 「仁美?私よ。」

 「うん、マンションに帰っているんだって。」

 「そう、仁君から聞いた?」

「今、聞いたところ。達彦さんとも会えたんだって。」

 「そうなの。私ね、達っちゃんの転勤に付いて行こうと思っているの。ちょっと遠いけどね。」

 「そうか……。それでいつ発つの?」

 「明日!」

 「明日?あまりにも急過ぎない?」

 「もう決めたから。」

 「そうか。じゃあ、見送りに行くから。何時の飛行機?」

 「ううん、仁美は来なくていい。仁美の顔を見ると、決心が鈍るから。」

 「まりえ……」

 「達っちゃんね、今お風呂に入っているから、電話しているんだけど、まだ、例の彼女と切れていないみたい。達っちゃんはね、聞いたら否定するけど、分かるのよ、何となく嘘だって。そこが達っちゃんのずるいところ。憎らしいけど、私には、なくてはならない人だから、許すしかないの。」

 「まりえ……」

 「仁君がね、まりえを悲しませるなって言ってくれたのよ。嬉しかった。私ね、仁君には嫌われていると思っていたから。」

 「仁が、まりえのこと嫌いな訳がないじゃない。むしろ、あいつは照れ屋だから、無愛想に見えるだけで、まりえのこと、本当に心配しているよ。」

 「ねえ、仁美が男だったらよかったのにね。」

電話の向こうのまりえの声は、だんだん涙混じりに聞こえてくる。

 「仁がいるじゃない。私とそっくりだよ。仁じゃだめなのかな?」

 「仁美じゃなきゃだめなの。仁美の代わりには誰もなれない。……高松ってね、おうどんが美味しいらしいよ。達っちゃんが、お休みの日には、食べ歩きしようって言ってくれたの。それに雨も少なくて、地震も少ないらしいから、怖がりの私には住みやすい場所だと思うの。きっと、直ぐに慣れるわ。」

 「遊びに行くよ。」

 「来ないで。仁美の顔見たら、ホームシックになるかもしれないから。だから、住所も教えないし、手紙も書かないよ。」

 「そして、美味しいうどん屋も教えないのか。まりえって、けちだな。」

 「そうよ、今頃分かったの?もう逃げ道は作らない。今度、仁美に会う時には、仁美がびっくりするくらい、大人になって帰って来るから。だから、それまで“さようなら”するね。」

 「……うん。」

 仁は、今度会えることがあるのだろうかと思った。

 「仁美、ずっとありがとう。ずっとごめんね。」

 「まりえ、元気でね。手紙はいらないから、メールは時々送って。“元気です。”とか“生きている”とか、面倒臭かったら、空メールでもいいや。いつも、まりえのこと想っているから。」

 「うん、分かった。私も、いつも仁美のこと想っているわ。また会う日まで、ちょっとだけ“さようなら”するね。」

 「達彦さんに大切にしてもらいなよ。ずっと、信じて付いていくんだよ。」

 「分かっている。じゃあね。」

プツンと、電話が切れた。まりえの最後の言葉は、殆ど聞き取れないくらいに、まりえは泣いていた。

「じゃあね。」

と言うのも精一杯だったのかもしれない。これで本当に、仁美の役目は終わったのだ。


 翌日、仁は、高松行きの飛行機の出発時刻を全て調べ、その時刻になると、空を見上げて、まりえの無事を祈った。

 だが、仁の感傷も、そこまでだった。当初の予定通り、明は、玉砕した仁を、飲みに連れ歩いた。仁が感傷に浸る隙も与えないほどに、毎日、馬鹿騒ぎして過ごした。元々、ルックスも良く、もてるタイプの仁が、放っておかれることはなく、女にも、遊びにも不自由はしなかった。

 しかし、その状況を不快に思う人物もいた。


 「漁夫の利ね。」

 ある日、明のアパートを訪ねて来た春美が、二日酔いの明に向かっていった。

 「なんだよ、それ。」

 「だって、そうじゃない。仁を慰めるとか言いながら、ちゃっかり、もてる仁に言い寄って来る女どもをいただいているじゃない。これが“漁夫の利”でなければ、このことわざはおかしいわ。」

 「あ〜あ、低俗だな。俺をその程度の男と思ったのか。」

 「思った。いかにもスケベな男と思った。」

 「あのなあ、お前にそこまで言われたくないよ。第一……」

言い掛けたところで、仁が起きて来た。

 「五月蝿いよ。頭が痛いんだから、静かにしろよ。」

 「そこまで飲むことないのに。」

 明と春美は、向かい合ってダイニングテーブルの椅子に腰掛けている。

 「春美、来てたのか。夕べの合コン盛り上がって、思わず深酒をしてしまった。」

 仁は、冷蔵庫からミネラルウオーターのペットボトルを取り出すと、音を立てて飲んだ。

 「鍵も掛けずに寝ているんだもん。無用心よ。」

 「いいんだよ。時々、勝手に入って来る奴もいるし。」

 仁は、飲みかけのペットボトルをダイニングテーブルの上に置くと、よっこらしょと言わ

んばかりに椅子に腰掛けた。

 「私以外にも、この部屋に出入りする女がいるの?」

 春美の顔色が変わった。

 「いるよ。勝手に来て、勝手に泊まっていく時もある。」

 仁は悪びれる風でもない。

 「仁、どうしちゃったの?明ならともかく、仁まで。少し前の仁なら、こんなこと絶対しなかった。」

 仁は髪を掻き揚げながら答える。

 「つまらない男だったからな。」

 「私が好きなのは、そのつまらない男だったのよ。私は、見た目によらず、不器用な仁が好きだった。一途な仁が好きだったの。」

 仁は、飲みかけのペットボトルのミネラルウオーターを取り落としそうになりながら、

 「春美……。」

 「とうとう言っちゃったよ。」

傍で見ていた明には、止めることも出来なかった。

 そこまで言うと、春美は、アパートから駆け出して行った。仁は、ペットボトルを握り締めたまま、ずっと口を開こうとしなかった。

 「俺、早くから春美の気持ち知っていたよ。仁はやめておけ、って言ったこともあった。でも春美は聞かなかったよ、俺の言うことなんか。」

 「明、春美はお前の彼女じゃなかったのか?」

 「一番彼女に近い友達だと思っていた。だけど、春美はお前を好きになった。そして、俺は、今頃、春美の大切さを思い知らされた。」

 「俺はてっきり、お前の彼女と思っていたし。本当に仲が良くて、羨ましかった。俺もいつか、まりえとそうなれたらって、お前たち二人を見て、ずっと思っていた。」

 「馬鹿だよな、俺たちって。全部の矢印が一方通行でさ。どれか一つでも、反対に向いてたら、上手くいくのにな。」

 寂しそうな声の明を仁は見つめた。

 「明、俺の恋は終わった。だからって、春美を女として、見ることは出来ない。春美はお前に任せる。俺の大事な友達だから、お前に預ける。だから頼むよ。春美をよろしく頼む。俺が言うのもおかしいけど、春美が悲しまないように、助けってやってくれ。」

仁は、明の手を取って、頭を下げた。

 「お前に頼まれなくても、大事にするよ。今は、お前を好きでも、必ず俺を好きにしてみせるから、仁は心配するな。この俺様のテクニックを、しっかりと見届けて参考にしろよ。」

 「明……お前って、本当に馬鹿だな。馬鹿だとは思っていたけど、筋金入りだよな。」

 「超が付くほどのお前には言われたくないよ。」

仁と明は、大声で笑いあって、二日酔いの頭痛が酷くなった。


 そして、この夜から、夜遊びもやめて、ドアの鍵も閉めて寝るようになった。

翌日、明は、春美の勤める美容院を訪ねた。

 「何しに来たのよ。」

 受付で顧客リストを書きながら、明は答えた。

 「カットに来たんだよ。」

 「指名までしちゃって、偉そうに。」

 「悪いかよ。お前に切ってもらったら、悪いのかよ。」

 「悪くないわよ。私も仕事なんだから、どんなに嫌〜なお客さんにも、愛想は振りまくし、きっちり仕事はさせていただきます。」

 「夕べは、ごめんな。」

明の髪をカットしながら、

 「なんのこと?」

 「お前の気持ち知っていながら、止めること出来なくて。」

 「もう、いいよ。済んでしまったことだから。」

 「鍵……掛けて寝ているから。夜遊びもやめたから。」

 「どうして私にそんなこと報告するのよ。二人がどうしようと、どうなろうと、私には関係ないじゃない。」

 春美はお構いなしに、明の髪をガシガシと切っていく。

「関係あるよ。俺は、お前のこと好きだから。」

 「……」

明の短い髪のカットは、直ぐに終わった。

 「お客様、こんな感じでどうでしょうか?」

春美は、他人行儀に、努めて言葉を選び、併せ鏡で後ろ姿を見せた。淡々と接客をする春美に、明は、ポケットからアパートの合鍵を取り出して見せた。

 「これ、アパートの鍵だから。いつでもこの鍵で開けて入って来ていいから。」

 明は、春美の掌に合鍵を握らせる。

 「いらない。」

 春美は、合鍵を明に突き返す。

 「この鍵、ここへ来る途中で作ってきた。春美はどう思っているか知らないけど、あの部屋の鍵を持っているのは、俺と仁だけだ。今日からは、春美も持つようになるけどな。」

 「嘘。」

 「嘘じゃない。夕べ、仁が春美に渡せって、自分の鍵を出したから、新しいのを作って渡すって、言って出て来た。仁が、頑張れって。春美は大事な友達だからって、言って送り出してくれた。」

 「残酷ね。私の気持ちを知りながら。二人して、私を笑っているのね。」

 「違う、それだけは違うと信じて欲しい。仁は、まりえさんとの恋に破れて、春美が好きだと言ってくれて、心が揺らいだって言っていたよ。きっと、春美となら、苦しまずに、楽しい恋が出来るだろうって。でも、心はまだ、まりえさんにあるから、春美のこと、大切過ぎるくらいに大切だから、春美の気持ちを利用することは出来ないって、言っていた。仁のこと、諦めろとは言わないし、俺のことを好きになってくれとも言わない。ただ、いつでも春美が幸せでいられるように、そういう環境を作りたい。居心地のいい場所に、俺自身がなりたいと思っている。だから、何も心配せず、何も気負わず、この鍵を受けってくれ。そして、気が向いたら、自分の部屋に帰るつもりで、来てくれていいから。」

明は、春美の右手の掌に、もう一度合鍵を乗せると、しっかり握り締めさせた。

 「じゃあな。仕事、頑張れよ。」

明は、精一杯の格好良さを振りまいて、店から出て行った。

残された春美の掌には、しっかりとアパートの鍵が握り締められていた。

 「俺って、格好良すぎ。」

明は独り言を言いながら、走ってアパートまで帰った。


その夜、仕事帰りの春美が、幾つものスーパーの買い物袋を提げて、アパートの前で、何度も行ったり来たりしながら、左手に握り締めている合鍵を、使うか使いまいかと悩んでいる姿があった。何度も何度も、鍵穴に差し込もうとしては戸惑い、ドアチャイムを鳴らそうとしては戸惑う姿があった。一大決心をして、合鍵でドアを開けると、何事もなかったように、いつもの明の部屋が春美を待っていてくれた。

 「お帰り。」

仁のその言葉を聞いた春美は、その場でうずくまって泣き崩れた。

 「お帰りって言葉、暖かいよね。」

春美は、大きな声で

 「ただいま。」

と返してみた。その一言で、蟠りが解けた気がした。


 梅雨が空け、夏が来て、やがて夜は秋模様になっていた。初めて、まりえの演奏会に招待されて、食事に出かけてから、早一年が経ったと、仁は秋空を見上げながら想いに更ける。まりえが、達彦とともに高松に発ってからも、早三ヶ月が経とうとしていた。

 仁は、大学の帰り道、久しぶりにマンションに立ち寄った。外から見るだけでも、生活臭がしない部屋である。鍵を開けて中に入る。薄暗いマンションの部屋の中、しばらく住人がいないことは、一目瞭然だ。仁は、カーテンを開け、窓を開け、締め切った部屋に新鮮な外の空気を入れる。そのまま仁は、ベランダに出て、部屋と一緒に外の風にあたる。風が気持ちよかった。

 「やばい、気持ちいい〜。」

人目をはばからず、仁は、ベランダで大きな伸びをした。

 その時、仁の携帯がポケットで鳴った。

急いで取り出して、画面を見ると、北条からだ。

 「どうしたんだろう。」

独り言をいいながら、携帯電話に出た。

 「もしもし。」

 「仁美さんですか?」

久しぶりに聞く名だ。

 「そうです。ご無沙汰しています。おじさん、どうかしましたか?」

 「言いにくいのだが、まりえがこっちへ帰ってくることになりました。」

 「えっ、大川さんと何かあったんですか?」

 「いや、正式に結婚が決まったよ。」

 北条の声は、抑揚もなく、あまり嬉しそうではない。

 「そうですか。それは、よかったですね。おじさんも安心したでしょうね。」

 「……大川会長の承諾はいただいていないし、達彦君の勘当も解けていない。仁美さんもよくご存知だろうが、まりえは言い出したら聞かない娘だから、親の私が折れるしかないのだ。妻にも泣かれたよ。面目ないことだ。」

 「私は、おじさんが折れてくれてよかったと思っていますよ。まりえは、無鉄砲ですが、世間知らずですから、おじさんに親子の縁を切られでもしたら、生きていけませんよ。まりえは、温室栽培のバラですから。」

 「温室栽培のバラか。それは面白い例えだね。仁美さんに、そう言ってもらえると心強いよ。親馬鹿過ぎて、自分が情けないと思っていたところだから。そう考えると、大川会長は、偉いね。あそこも一人息子だし、大財閥の跡取り息子を、いとも簡単に勘当したのだから、大川会長の心情をお察しするよ。」

 「男ですねえ。大川会長は、父親である前に、会長なのでしょうね。大川達彦の父である前に、大川グループの父であったと言ったほうが適切でしょうか。憧れますね。でも、許す勇気も大変なものですよ。おじさんの勇気も尊敬します。」

 「ありがとう。仁美さん、まりえは帰って来たら、あなたに一番に会いに行くと思います。あの娘に会ってやってもらえますか?迷惑ばっかりかけて、我侭な娘ですが、あなたを信頼し、心から会いたいと願っています。あの娘が選んだ道は、きっと茨の道でしょう。それでもあの娘は歩むことを決めたのです。ですからまた、あの娘の背中を押して迷わず歩むように言ってやってください。」

 「おじさん……」

 「まりえから、近いうちに連絡があると思います。結婚のことを先に私から聞いたことは、内緒にしておいてください。まりえに怒られますから。きっとあなたに一番に報告したいと思っているでしょうから。では、今度、ゆっくり食事でもご一緒しましょう。」

 「……はい。」

携帯電話を切った後、仁は、まりえに会いたいと、不思議に思わなかった。このまま、まりえに会わないほうが、自分自身も楽な気がするのだ。忘れようと努力して、忘れられなかったことが、時間の経過とともに癒されていく。まりえを知らずにいた頃の自分に、まりえを失ってからの自分が交じり合って、本当の自分を作り出したような心地良さ。まりえに会えば、叶わぬ恋に、もう一度引き戻されて、心をかき乱されるだけだろう。

そして、傷を癒すのに、また幾日も幾時間もを、必要とするのだろう。愛おしいまりえには会いたいが、会いたくない気持ちもある。これが仁の本音なのだ。

マンションのガラス窓に鍵をかけ、カーテンをきっちりと閉め、最後に部屋を見渡す。

そして、ドアの鍵を掛けて、エレベーターで一階に降りる。

「すみません。」

仁は、マンションの管理人室のガラス越しに声を掛けた。

 「おや、705号室の北条さん所の。」

 「管理人さん、この鍵を預かってもらえませんか?近いうちに、あの部屋の住人が帰って来ますから、その時、この鍵を渡してもらえませんか?」

仁は、マンションの管理人に部屋の鍵を渡した。

 「預かるのはいいですが、あなたが困るでしょう。この鍵がなければ、部屋には入れないでしょう。」

 「しばらく……そう、しばらく出掛けるので、無くすと困りますから。預かっておいてください。」

 管理人は鍵を受け取りながら言った。

 「そうですか。分かりました。そう言うことでしたらお預かりしますよ。北条さんが帰って来たら、渡しておきますね。」

初老の、このマンションの管理人は、とても人柄の良い人で、住人からも慕われており、仁美もよく話をしていた。管理人は、時折部屋を訪ねて来る仁のことを見知っていたので、不信には思わず、鍵を受け取ってくれた。

 「それじゃあ、よろしくお願いします。」

仁は、これで本当に、まりえにも仁美にも、別れを告げたのだ。会いたいと思っても、唯一の繋がりだったマンションの部屋の鍵を、今、手放した。

そして、ピリオドを自ら打った。


北条からの電話を受けてから、一週間ほどが経った頃、まりえから携帯に電話が入った。 

 「もしもし。」

 「仁美?私よ、まりえ。お久しぶりね。元気にしていた?」

 「こっちはみんな元気だよ。まりえは?」

 「私も元気にしているわ。高松にも慣れてきて、やっと一人で買い物にも行けるようになった。あっ、ここね、自転車が多い街なのよ。だから、私も自転車を買って、それでスーパーとかに出掛けているわ。」

 「へえっ、まりえが自転車ねえ。乗れたの?」

 「失礼ね。前から乗れたわよ。乗る機会がなかっただけよ。」

 「大川さんは、優しくしてくれる?」

 「うん、優しいよ。仕事もね、東京にいる頃よりは楽になったみたいで、早く帰れる時もあるの。こっちに友達がいないから、家で一人で待っている私のために、なるべく早く帰るように努力しているみたい。」

 「そう、それはよかった。幸せそうで安心したよ。」

 「仁美、来週には、そっちに一旦帰ろうと思っているの。父がね、結婚を許してくれたから。結婚式自体は、私の卒業式が終わってからだから、三月になると思うけど、その前に、お式の打ち合わせとか、色々準備をし始めようって、父が言ってくれたの。だから、一旦東京に帰ろうと思っているの。」

 「おめでとう、まりえ。幸せになりなよ。」

 「ありがとう。それに、私には、東京に帰るもう一つの目的があって、それは、仁美に会うことなの。もう、何年も会っていないような気がする。帰ったら、電話するから、会ってくれないかな?」

 「時間が合えばね。おじさんたち、まりえが帰って来たら、喜ぶだろうから、しっかりと親孝行しなよ。私はいつでも、まりえのこと考えているから。」

 「私だって、仁美のこと考えない日はなかったわ。決心が鈍ると思って、見送りを断ったくせに、ずっと、仁美に送り出してもらえばよかったと、後悔していたし。仁美を思わない日はなかったわ。」

 「大川さんが聞いたら、焼きもち焼くかもね。」

 「また、電話するから。仁美、会える日を楽しみにしているからね。じゃあ。」

 「じゃあ。」

久しぶりのまりえの声だった。記憶の中のまりえの声は、もう薄れていたが、こうして電話を通して、まりえの声を聞くと、愛おしさが込み上げてくる。結婚式まで決まった女に、今更、何もできやしない。ただ、幸せを祈るだけなら、引っ掻き回すようなことはせず、このまま会わずにおくほうがいいと、仁は自分に言い聞かせた。


そして、まりえが達彦と共に帰って来た。

 しかし、達彦は、三日間ほど北条家に滞在すると、仕事の関係で、先に高松に帰った。まりえは、一人で北条家に残った。

 そして、仁美の携帯電話を鳴らしたが、その日も、次の日も、またその翌日も、仁美が携帯電話に出ることはなかった。一日に、何度も掛けてみたが、一度として、電話が繋がることはなく、それどころか、通知して掛けていても、リターンで掛かってくることもなかった。まりえは、だんだん不安を覚え始めた。仁美に何かあったのだろうか。それとも、仁美を怒らしてしまったのだろうか。どんなに考えても理由が思いつかず、悶々とした日々を過ごしていた。


 携帯電話が繋がらずに四日目が過ぎた頃、二人で住んでいたマンションを訪ねることにした。もしかしたら仁美に会えるかもしれない。淡い期待を持ちながら、まりえは、家の車でマンションに送ってもらった。

マンションの駐車場に車が停まり、運転手に待つように指示をすると、エントランスホールに入って行く。

 「北条さん。」

エレベーターを待っていると、管理人に声を掛けられ、まりえは振り向いた。

 「管理人さん、ご無沙汰しております。」

 まりえは、軽く頭を下げて挨拶をした。

 「長く留守にされていましたね。どちらかにお出かけだったのですか。」

 「ええっ、ちょっと。」

 「時々、あの綺麗な女性の弟さんが見えて、部屋の空気の入れ替えをしていましたよ。」

 「そうですか。仁君が。仁美のほうは来ませんでしたか?」

 「女性のほうは、私は見掛けていませんね。ひょっとしたら、時々見えていたのかもしれませんが。ああ、そうでした。ちょっと、ここで待っていてください。」

管理人は、そう言うと、管理人室に入り、中から小さな茶封筒を持って出て来た。

 「これを預かっていました。」

 管理人は、その茶封筒をまりえに突き出した。

 「私に、ですか?」

 「弟さんのほうでしたか、来られて預けて帰りました。」

 「仁君が?」

まりえは、小さな茶封筒を開けて、中身を確かめると、部屋の鍵が入っていた。

 「これは……本当に、仁君がこれを?」

 「はい、あなたに渡して欲しいと言って。私が、ないと困るでしょうと言うと、しばらく出掛けるから、落とすと困るからとおっしゃって。」

 「いつのことですか?」

 「その封筒に日付を書いていませんか?えっと、ほらこれです。九月二十一日ですね。」

管理人は、茶封筒の表にボールペンで書かれた日付を指差しながら答えた。

 「九月二十一日……もう一ヶ月近く前じゃない。どうして……」

まりえは、そう言うと、降りてきたエレベーターに飛び込み、自分の部屋へと慌てて走った。

 震える手で鍵を開けて、玄関のドアを開くとシーンと音がしそうなくらい、静かな部屋が広がった。いつものように長い廊下を歩いて、リビングに入る。食卓の上に鍵を置くと、五ヶ月以上も無人だったとは思えないほど、部屋の中が綺麗だと気が付いた。

 「管理人さんが言うように、時々掃除をしに来てくれていたのかしら。」

カーテンを開け、窓を開け、仁がしたように、ベランダに出て、伸びをする。気持ちがいい。思わず唸りたくなるほどだ。

 「仁美は、あれからここへ来たことがあるのかな。仁君は、どうして鍵を預けたりしたのかしら。それは、仁美の指示なの。」

考えれば、考えるほど、分からないことばかりで、こうして、ベランダで息を吸っている私と同じように清清しい気持ちでいたのなら、仁君が、鍵を預けて行った真意が全く分からない。仁美の気持ちが、全く掴めない。

 考えていても本当に埒が明かないし、嫌なことばかりが、頭の中を駆け巡るので、まりえは、もう一度、仁美の携帯に電話を掛けてみた。何度か呼び出し音が鳴ると、プツンと言って繋がった。

 「もしもし、仁美?」

 まりえは焦って話しかける。

 「もしもし、まりえさんですか?」

「そうですけど、あなたは?これ、仁美の携帯ですよね。」

 仁美と違う声が電話の向こうでしている。

 「明ですよ。仁の友達の。」

 「あっ、明君、お久しぶりです。お元気でしたか?」

 「はい。まりえさんも相変わらず、元気そうですよね。」

 「あのう、仁美はいませんか?」

 「いますよ、ちょっと待ってくださいね。」

明は、トイレから出て来た仁に、携帯電話を渡した。

 「まりえさんからだ。」

 あれだけまりえからの電話を無視していた仁は不意打ちを食らった。

 「お前、出たのかよ。」

 「早く出てやれよ。待っているぜ。」

仁は、ごくりと唾を飲み込み電話に出た。

 「もしもし。」

 「仁美なの?」

 「仁だけど。」

 素っ気なく言う。

 「仁美は?仁美はどうして電話に出てくれないの?」

 「姉貴は忙しくて、出られないんだよ。代わりに俺が聞くよ。何?」

 仁はもっと素っ気なく言った。

 「どうして、仁美が出られないの。仁美に何かあったの?それとも、私が仁美を怒らせちゃったの?」

 「違うよ、どれも。ただ、忙しいらしいよ。用件は、何?俺から、姉貴に伝えておくから。」

まりえは、少し切れた。

 「分かったわ。じゃあ、仁君、ちゃんと伝えてね。仁美がこのまま会ってくれないなら、私の父は、本当の父じゃなくて、私は、母が浮気して出来た娘だと、あんなに私を可愛がってくれている父に、私が真実を知っていることをばらすと言ってくれない?マンションで待っているから、今日中に、仁美が会いに来てくれないなら、父に言うと伝えてちょうだい。じゃあ、ちゃんと伝えてね。よろしく。」

まりえは、プツンと電話を切った。仁は青冷めた。

 「まじかよ。」

 「どうした、仁?まりえさん、何て?」

 「……」

 仁は言葉が出なかった。

 「仁、大丈夫か?」

 「明、俺、もう一回だけ、仁美になるよ。そして、きちんとまりえに“さようなら”を言ってくる。」

そう言うが早いか、仁はテキパキと支度をすると、マンションまで走って出て行った。


マンションに着く頃には、仁の息も絶え絶えだった。ずっと明のアパートから走って来たのだ。

 そこからどうやってエレベーターに乗ったのか、どうやってチャイムを押したのか、覚えていないくらいに慌てていた。

 「仁美、やっと会えたね。」

ドアを開けて、中から出て来たまりえは、悪戯っぽく笑った。

 「まりえ、さっきの電話での話しは本当のことなのか?」

 「さっきの話?取り敢えず立ち話もなんだから、中に入って。」

まりえに促されて、仁美はリビングのソファに腰掛けた。

 「淹れたてのコーヒーよ、どうぞ。」

 まりえは仁美にコーヒーを勧めた。

 「先に、水をもらえない?ずっと走って来たから、喉が渇いちゃって。」

 「いいよ。」

まりえは、キッチンに戻り、仁美にコップ一杯の水を用意して来た。水を飲んでいる仁美の向かいに、まりえも腰を下ろした。

 「やっぱり来てくれると思ったわ。」

 「あの話、本当なのか?冗談、きついよな。だって、あのおばさんに限って、浮気なんか。それに、おじさんだって。嘘だよな。」

 仁美の向かいに座っているまりえは、にんまりと笑っている。

 「嘘よ。私は、正真正銘、あの両親の娘よ。」

おちゃらけて言うまりえの態度にカチンと来た仁美は、ガラスのコップを、ドンとテーブルに置くと、

 「いい加減にしろよ。冗談にも、ほどがある。言っていい冗談と悪い冗談がある。今のまりえの嘘は、絶対許せない嘘だ。帰る!」

 仁美はソファから立ち上がった。

 「待って!こうでも言わないと、仁美、私に会いに来てくれなかったじゃない。私が何をしたの?教えて。私が何か知らず知らずのうちに、仁美を傷つけていたの?どうして電話に出てくれないの?どうして、この部屋の鍵を返してきたの?ねえ、どうしてなの?」

まりえは、立ち上がって帰ろうとしている仁美の前に立ち塞がって、食い下がった。

 「疲れた。」

 仁美は立ち上がったまま、下を向いて言った。

 「えっ?」

 「疲れたんだ。まりえが高松に行って、前の生活に戻った時、最初は寂しくて、寂しくて、やりきれなくて、まりえがいない生活に慣れてきたら今度は楽になった。まりえといる時には、ずっと自分を抑えていたんだ。まりえの生活に合わそうと、必死で無理していたんだ。昔には戻りたくない。そう思ったら、会いたくなくなった。」

 「嘘、それこそ嘘よ。信じられない。」

 「これは嘘じゃないよ。本心だよ。一日の殆どの時間を、まりえに捧げていた頃とは違って、今は自由なんだ。自分の時間は、自分が使える。だから、もう会わないと決めていた。けれど決心がついたのは、この前の電話でだ。久しぶりに、まりえの声を聞いたらもう引き戻されたくないと思った。」

 「嘘よ、絶対、嘘だわ。」

 まりえは声を一層張り上げている。

 「ほら、今だってそうだろう。そっちこそ勝手に嘘付いて、こうして人の時間を操作している。まりえは、万事が万事、自分が中心じゃないか。そうだろう。だから、疲れた!」

 「仁美……」

 まりえの目から涙が零れる。

 「帰る。まりえ、結婚おめでとう。これからは、私のこと考える暇があったら、大川さんのこと考えなよ。そして幸せになりなよ。今までありがとう。じゃあ、さようなら。」

その場に泣き崩れるまりえを尻目に、仁美はマンションを出て行った。ここまで言うつもりはなかったのに、深くまりえを傷つけてしまった。仁美は、後悔したがもう遅い。言葉にしたことは取り消せやしないし、後戻りは出来ないから、このまま悪者になって、そっと姿を消すしかないのだ。仁美は、元元存在しない人間で、初めから、いつか消えてしまう存在なのだから、いついなくなってしまってもいいのだ。消滅の日が、今来ただけのことだ。仁は、珍しく誰も通らない帰り道でかつらを脱ぐと、手に持って振り回しながら、明のアパートまで帰った。

 「かつらないほうが、風が気持ちいいぜ。」

そう言いながら、帰り道が見えないくらいに、涙で目の前が霞んでいた。


それからしばらくして、講内の噂で、まりえの結婚式が、翌年の三月三日になったと聞いた。卒業式まで、こちらには帰らないことも聞いた。

 でも、悲しくはなかった。最後にまりえを傷つけてしまったことを後悔はしたが、追っても追っても仕方がない相手だし、まりえの幸せを一番に考えたら、達彦との結婚が最良の選択であることは、誰の目にも明らかで、仁にとっては、いいタイミングで踏ん切りが付いたのかもしれない。立ち直れないと思っていた仁の心を、時間が癒してくれる。今は、その、時の魔力に身を任せてみたかった。


 もう十二月が近づいている。なんだか肌寒くなった。

それからの仁は、勿論マンションに行くことも、そちら方面に行くこともなく、三回生になると言うのに、最近始めたアルバイトが楽しいらしく、少しもじっとしていない。明も春美も、まりえのことは吹っ切れたのだろうと思っていた。

 しかし、当の仁は、恥ずかしい女装までして欲しがった女のことを、そんなに簡単に忘れられることもなく、忘れた振りが上手になっただけで、親友の明にさえ、本心を隠して過ごすことに慣れっこになっていた。時々襲って来る虚無感や淋しさを埋めることは出来ず、ただ、ぽっかりと開いた心の穴だけが、少しずつ大きくなって、終いには不感症になっただけだ。

 最近の明と春美は、いい関係と言っていいのだろうか。あれから何度か言い争いや小競り合いを繰り返し、好きだの、嫌いだのと、その時々で気持ちが変わって、くっつくのか、離れるのか、微妙な位置を保っていたが、ここのところは、やっとお互いの気持ちを認め合ったようで、受け入れ態勢が出来たようだ。仁は、ハラハラしながら見守っていたが、春美の気持ちを知っていながら、明を薦めることも出来ず、傍でやきもきするばかりであった。これでやっと、肩の荷が降りたようだ。

 アルバイト先の居酒屋では、同じバイト仲間の女の子からデートに誘われたり、お店のお客さんに、仕事の終わりを待ち伏せされたりと、相変わらず女に不自由はしない毎日だったが、春美の気持ちを考えると、適当な遊びも出来ず、品行方正に過ごす仁であった。本当に律儀な奴である。あまりにも誘いを断り続けるので、いつしかホモ説まで囁かれたが、それは、仁に振られた女どもの腹いせであり、仁自身は、何とも思っていなかった。きっと、心の奥底を未だに占領している、まりえへの想いが、どんな中傷も平気にさせていたのだろう。


それから、冬が来て、恋人たちにとっては、クリスマスからバレンタインデーまでの、楽しい行事目白押しの日々に突入し、周りは、急にカップルで溢れたが、仁は、平気で一人を楽しんでいた。明や春美がいたし、バイト先の居酒屋でも友達が出来、顔に似合わず気さくで、付き合いやすい仁は、とても周りに慕われた。これも、まりえとの恋を経験して、人間としての幅が広がったお蔭だろうと、仁は思っていた。


 三月一日。

朝から、何度もカレンダーを見てしまう。車屋で貰ったカレンダーの今日には、随分前から、大きな赤丸が付いている。今日は、大学の卒業式なのだ。まりえが、今日、卒業する。

そして、明後日のお雛様の日に、結婚式を挙げる。まりえは、どんなことがあっても、今日は、卒業式に出るだろう。知り合った頃から、今日の卒業式の着物のことや、その後の謝恩会のドレスのことを、楽しみに話していたし、謝恩会では、バイオリンの弾き語りも予定されている。仁は、遠目からでも、最後に一目、まりえを見たいと思った。

気が付くと、音楽堂で開かれている卒業式に紛れている自分がいる。大勢の人の中でも、直ぐにまりえを探し出すことが出来た。赤い振袖を着ている。やっぱり、着物を着たんだなと、仁は思った。長い髪をアップに結って、美くしいうなじを見せている。久しぶりに再会する友達と、あっちでしゃべり、こっちで笑い、ころころと表情を変えながら、まりえは、直ぐそこにいる。仁は、変わっていないまりえの姿に安心して、音楽堂をそっと出て、キャンパスを校門に向かって歩き出した。

 「待って、仁美、待って。」

パタパタという草履の音と、聞き慣れた声に後ろを振り向くと、振袖の袂を、捲し上げて走って来るまりえの姿があった。

 「仁美、待ってちょうだい。」

 「まりえ……」

仁は立ち止まって、まりえが追いつくのを待った。

 「はあ、はあ」

息が上がっていて、声にならない。

 「もう卒業式始まるよ。」

 「音楽堂を出て行く横顔を見つけて、慌てて追って来たの。仁美かと思ったら、仁君だったんだ。そっくり過ぎて紛らわしいくらいね。」

 「悪かったね、俺で。仁美は来ないよ。喧嘩したんだろう?」

 「喧嘩……と言うか、私が仁美を傷つけたのよ。仁美は優しいから、自分が私を傷つけたと思っているでしょうけど、罪深いのは、私のほう。あの日も、嘘を言って、仁美を呼び出した。仁美の人の良さを利用したの。そして、本当は、達っちゃんのこと相談するつもりだったの。でも、言えなかった。言えなくて良かったのかもしれない。あの日、達っちゃんのこと私が相談していたら、仁美は、達っちゃんの元へ送り出した自分を責めたと思うわ。だから、これ以上、こんなにいい人を困らせないでと、神様が、私の口を噤ませたのかもしれないわ。」

 「何?大川さんと何かあったのか?」

 「……あの女性も、高松に呼んでいたの。達っちゃんにとっては、私もあの女性も同じくらい大事みたい。私たち女二人、お互いのない処を庇いあって、達っちゃんに尽くしてきた。それで、達っちゃんが居心地がいいならと、自分の心は押し殺してきた。もし、あの女性とは別れてと言ってしまえば、きっと、私の処には、帰らなくなると思ったから。そう思うと、失うくらいなら、このまま黙って知らない振りをしようと決めたの。でも、こっちへ帰って来て、仁美のこと思い出したら、我慢出来なくなって、仁美の胸を借りて、大きな声で泣きたかった。」

 「まりえ……明後日、結婚式だろう?いいのか、それで。」

 「……私には、達っちゃんしかいない。ずっと小さい頃から。」

 まりえは自分に言い聞かせるように呟いた。

 「結婚って、そんなものなのか?俺が、幼過ぎるのかもしれないが、もっと結婚って、夫婦って、唯一無二の存在で、お互いに助け合って、支え合って、一番の理解者で、どちらかが我慢して成り立っている存在じゃないと思っている。それって、ただの理想論なのか?」

 「仁君、私を迷わせないで。いつの日か、私だけのものになると信じているし、達っちゃんと、私の年月は、他の誰にも邪魔されない特別なものだと信じているから。」

 「まりえ……」

 「一つだけお願いがあるの。これを、仁美に渡してもらえないかしら。」

小さなハンドバッグの中から取り出した、白い封筒の中身は結婚式の招待状だった。

 「いつ、何処で、仁美に会っても渡せるように、いつも持ち歩いていたの。是非、出席して、私の幸せの門出を祝ってくれないかしら。きっと、仁美が来てくれるだけで、私は勇気が出ると思うの。」

 仁は、まりえから招待状を受け取った。

 「……分かったよ。渡しておくよ。」

まりえは、仁のさらさらの前髪を、そっと撫でながら、

 「その瞳さえも、仁美にそっくりなのね。仁美が男だったら、まさしく仁君だろうね。仁美が男だったら良かったのに。」

「もし、仁美が男だったらどうする?」

 「もし、男だったら、仁美を愛すると思うわ。もし、仁美が男だったらね。でも、ないない、そんな都合のいい話。」

 「俺では、だめなのか?」

 仁は、全てを打ち明けるつもりで問いかけた。

 「ごめんね、仁君。私は、仁美じゃなきゃだめなの。仁君は、顔も声も背丈まで、仁美にそっくりよ。でも、仁美じゃないの。私にとっては、仁美のコピーなのよ。私は、仁美が欲しい。私には、仁美が必要なのよ。それ以外は、例え仁君でも……ごめんなさい。」

まりえは、そう言うと、とぼとぼと音楽堂へと戻って行った。仁は、まりえが踵を返していなければ、そのまま正体をばらしてしまうつもりだった。

「仁美は、俺だよ!」

って、喉まで出掛かって、言葉を押し殺した。


明のアパートに戻り、まりえの結婚式の招待状を、机の上に放り投げた。今日は、バイトもない。このまま明が帰って来るまで、引き篭もろうと思っていた。

 「ただいま。あれ、仁、もう帰っているのか?」

明の問いに答えられない。

 「どうした?卒業式を見に行ったんじゃなかったのか?」

 明は、点いてもいないテレビを眺めている仁に話しかけた。

 「知っていたのか。」

 「分かるよ。(車屋のカレンダーを指差して)あんなに大きな赤丸を、カレンダーに付けていたら、察しが付くだろう。それで会えたのか?」

 「(こくりと頷く)会えた。」

 明は、胡坐をかいて座っている仁の正面に向き合って座った。

 「そうか。良かったな。それで話しをしたのか?」

 「した。仁美に間違えられたけど。」

 「そうか。まあ、いいじゃないか。卒業を祝ってあげられた訳だし。」

 「あっ、卒業おめでとうって言うのを忘れた。」

 「言わなくても分かっているよ。それで、まりえさん、なんて?」

 「仁美に明後日の結婚式に出席して欲しいと頼まれた。机の上に、招待状もある。」

明は、机の上の招待状を、封筒から取り出して読んだ。

 「それから?」

 「仁美が男だったら、良かったって言われた。」

 「それで?」

 「俺ではだめかって言ったら、コピーではだめだと言われた。」

 「まりえさんにとっては、仁は仁美のコピーでも、仁美もお前なんだから、へこむことはないじゃないか。そろそろ正体を明かしてみたらどうだ?」

 「嫌だよ。まりえの弱身につけこんだみたいなこと、俺には出来ない。それなら、いっそ、お墓まで、この秘密は持って逝くよ。」

 「仁らしいな。そう言うと思ったよ。でも、明後日の結婚式には出席してやりな。まりえさんも待っているよ。まりえさんだって、いざ結婚となると心細いこともあるだろうし、大川さんには、例のことで不信感も持っているだろうし。一大決心をして、高松まで追い駆けて行ったとしても、不安や猜疑心はあると思うよ。」

 明には何でも分かるらしい。

 「……まりえ、仁美のこと思って言えなかったらしいけど、大川さん、例の彼女を、高松に呼び寄せているらしい。」

 「まじで?」

 明は、仁の口から出た言葉に驚いた。

 「(こくりと頷く)それでも、いつか自分を選んでくれると信じていると言っていたよ。」

 「仁、いいのか?それじゃあ、まりえさんは、ちっとも幸せになれない。お前が愛して、これ程までに大切にしてきた人を、みすみす不幸になると分かっていて、結婚させていいのか?」

 「俺に、そんな権限はない。まりえが自分で選んだことだから。」

 「違う。まりえさんは選んでない。選ばされたんだ。自分で選んだと錯覚しているだけだ。自分で選択した道ならば、仁に愚痴ることもないし、これでいいんだと言い聞かせることもしない。複数にある選択肢の中から、たった一つの選択しかないと思っているだけだ。このままでは、まりえさんは幸せにはなれない。お前は、ずっと先でも同じように悩み続けている彼女を、平気な顔で黙って見ていられるのか。年月とともに深くなる傷を負っていく彼女に、何もせずにいられるのか。もし、平気だと言うのなら、俺はお前を見損なったよ。愛する人を守れないで、どうして、命懸けの恋なら何でも出来るなんて言ったんだ。その程度の気持ちなら、偉そうに言うなよな。」

 明は、仁が必死に守ってきたまりえが不幸になることが、どうしても許せなかった。

 「明……」

 「ごめん、言い過ぎたよ。でも、これだけは分かってくれ。俺は、仁が大好きで、仁には、誰よりも幸せになってもらいたい。そして、その仁が愛したまりえさんにも、幸せになって欲しいんだ。ただ、それだけだ。……頭冷やしに、春美の所に行ってくる。」

 明は、コートを手に持つと、車で出掛けて行った。

 「明、ごめんよ。お前の気持ちはありがたい。だけど、仁美の秘密は言えないよ。まりえのショックを思うと……言えない。ごめん、明。」

もういない明に向かって、仁は謝った。

 その夜、明は帰って来なかった。


三月二日、今日もバイトは休みだ。どうして休みを入れてしまったのだろう。こんな気持ちの時ほど、何かに熱中して気を紛らわせたい。

仁は、休みでもいいかと思いながら、バイト先の居酒屋を訪ねた。

 店は、とんでもなく混んでいて、店員は、みんなてんてこ舞いをしている。仁の姿を見つけた店長は、

 「仁、今日は休みだろう?することなくて店に来たのなら手伝ってくれないか?勿論、バイト料は出すから。」

と、天の助けのように言った。

 「店長、いいですか?俺、家にいても暇だったので来たんです。直ぐに着替えて来ますから。」

仁は嬉しかった。忙しければ忙しいほど、何も余計なことは考えずに済む。店長の一声は仁にとっても天の助けのように聞こえた。

 着替えを済ませて店に入り、早速暖簾をくぐったばかりのお客に

 「いらっしゃいませ。」

と、大きな声で挨拶した。

 「仁。」

 「なんだ、明と春美か。」

 「夕べは悪かったな。」

 「俺こそ、こっちの席空いているから、座れよ。」

 「仁、もう一人つれがいるんだ。」

 明が振り向いたその後ろには、まりえが立っていた。

 「仁君。」

 「まりえ……。」

 「俺が誘った。」

 「まりえ、何しているんだ、こんな所で。明日は結婚式だろう。早く帰れよ。」

仁は、まりえの腕を掴むと、店の外に出そうとした。

 「待てって。俺が連れて来たんだ。時間が来たら返すよ。」

まりえは、泣きそうな顔で仁を見た。

 「仁、お客様だろう。席にご案内しなさい。」

店長は、店先で揉めている仁を叱った。

 「はい、すみません。明、こっちだ。」

仁に案内されて、三人は、店の奥の席に座った。注文を済ませ、料理が一つずつ運ばれてくると、まりえの表情も落ち着きを取り戻して来た。

仁は、店内が忙しく、明たちを構う暇もなかったが、まりえの心配そうな視線だけは、時々感じていた。

 そのうち、店の忙しさも一段落が着き、常連のお客さんも、ちらほらと席を立ち始めた。女三人で、時々来る看護士さんたちも、レジを済ませる。この看護士たちは、仁がお目当てのようで、今夜も、たまたまレジに入っていた仁に誘いを掛けてきた。

 「仁君、アルバイト何時に終わるの?」

 「今日は、助っ人なんで、何時か分かりません。」

 「いつも冷たいのね。何時になってもいいから待っているわ。電話掛けてきてくれないかな?」

 仁は、おつりを渡しながら言う。

 「今日は、つれがありますので、また今度にしてください。」

そう断る仁に、まだ尚誘ってくるが、その様子を見ていた別の看護士が、まりえのことに気が付いた。

 「止めなさいよ。ほら、あそこに仁君の彼女が来ているじゃない。今日はどんなに誘っても無理よ。大人しく帰りましょう。」

そう言って、肘でツンツンと突いて、まりえの方を見た。

 「あら、本当だわ。仕方がないわね。また今度ね、仁君。」

しつこく誘っていた看護士のお姉さんも、まりえの姿を見ると諦めたようだ。

 「あなた、元気になった?急患で運ばれて来た時は、意識もなくて、熱も高くて、仁君ったら、寝ずの看病をしたのよ。どっちが病人だか分からないような顔色して、ねえ。」

 「そうそう。なのに、朝方急にいなくなって、それから一度も顔を見せないから、仁君こそ倒れてしまったのじゃないかって、ナースルームで噂していたのよ。」

この三人は、あの救急病院の看護士だったのだ。

 「この店で、アルバイトしている仁君を見つけて、本当に私たちびっくりしたんだから。でも良かったわ。彼女と仲良くしているみたいで。」

まりえには、何が何だか分からない。半年以上前のあの夜、まりえがマンションで倒れて、病院に運んだのも付き添ったのも、仁だったと言うのか。達彦ではなかったのか。達彦は、否定しなかったが、あの時看護士が言っていた、あの夜の彼は、達彦ではないことだけは、間違いないらしい。

 「仁君……どういうこと?仁君が、私の看病をしてくれたの?」

 レジから厨房に入る仁の腕をまりえは掴んだ。

 「いや、あれは仁美が……。」

 「ううん、私思い出したの。あの日、倒れた夜の翌朝、さっきの看護士さんが私に言ったの。綺麗な顔をした彼だったって。彼女だったとは言わなかった。」

 「仁美は、男に間違われるからな。」

 「嘘。あの夜は、仁君、あなただったんでしょう。どうして隠そうとするの?私は、今のいままで、達っちゃんだとばっかり思っていたわ。達っちゃんも否定しなかったし。どうして、隠そうとするの?どうして?」

 仁はまりえの腕を振り払った。

 「俺、まだバイトがあるから。明、今日の分は俺の奢りだ。早くまりえ連れて帰ってくれないか。」

 「仁……」

 「明日、結婚する花嫁を、いつまでも連れ歩いている訳にはいかないだろう。俺は遅くなると思うから、お前が、まりえを送り届けてくれよ。」

「仁……分かったよ。まりえさん、春美、そろそろ出ようか。」

明は、自分のコートと、まりえのコートを手に取ると、店を後にした。まりえは、何度も仁の方を振り返ったが、仁は、一度として、まりえを見ようとはしなかった。

 店を出て、まりえは、心の中に沸いた疑問を打ち消すことが出来ず、明に詰め寄った。

 「明君、さっきの看護士さんたちの話はどういう意味なの?あの人たちが嘘を言っているの?それとも仁君が嘘つきなの?」

 「まりえさん、今夜はすみませんでした。あなたは、明日花嫁になる人です。何も余計なことは考えずに、明日、幸せな花嫁になってください。」

 「明君、どうして誰も何も教えてくれないの?マンションで倒れた私の看病を、何故仁君がしたの?どうして仁美は本当のこと言わないの?ねえ、どうして?」

 「まりえさん、俺の口から言えることは一つです。仁を信じてやってください。これから先、どんなことがあっても、仁だけは信じてやってください。お願いします。」

 「まりえさん、私からもお願いします。仁の言葉に嘘はありません。色々な事情があって言えないことはありますが、嘘は言っていません。お願いします。仁のことだけは信じてあげてください。」

 明も春美も頭を下げた。

 「あなたたち、みんなで何を隠しているの?私を翻弄して何が面白いの?仁美だって……。私は、もう何もかも分からなくなった。送ってくれなくて結構よ。自分一人で帰りたい。一人にして。」

まりえは、叫び声に近い言葉を発すると、一人で家の方へと走り出した。明も春美も、まりえの気持ちを思うと追い駆けられず、背中を見送った。

 三月三日、まりえの結婚式。

まりえは一睡も出来ずに、朝を迎えていた。仁も同じであった。あんなにきついまりえを見たことがない。泣いたり笑ったり、怒ったりと、自分の前では表情をコロコロ変えて見せたが、あんなに冷たい顔は初めてだった。

 「嘘!」

と、仁の心を探ってきたあの言葉あの瞳が、目に焼きついて眠れなかった。

 「眠れないのか?」

 「明……ごめん、起こしてしまったか。」

 「いや、俺も眠れなくて。」

 「そうか……」

 「まりえさんの、あんな顔初めて見たよ。俺、思わず全部言ってしまいそうになった。何も言わないことが、彼女を余計に苦しめているんじゃないかって、そう思うと、いてもたってもいられず、洗いざらいぶちまけて、今日の結婚式をぶち壊してしまいたい。」

 「明。」

 「分かってるよ。そんな馬鹿なことしないから。心配するな。お前がしないことを、俺が出来る訳ないじゃないか。お前が育ててきた愛なのに、俺が踏みにじることなんて出来ない。分かっているから。」

 「ごめん、明。俺……ごめん。」

 「泣くなよ。仁が泣くと俺まで悲しくなるから。」

アパートのベランダから、昇り行く朝日を見ながら、仁と明は涙が止まらなかった。

 同じ頃、まりえも眠れずに、部屋に掛けてあるウエデイングドレスを眺めていた。真っ白のドレスを着て、達彦の元に嫁ぐ日を、子供の頃から何度、夢に見たことだろうか。とうとうその日がやって来たのだ。人生最高の日である。

 しかし、まりえの心は晴れない。大きなとげが刺さって、チクチクと心をいたぶる。とげは大き過ぎて抜けず、抜けてしまうと、なんだか大事な者を失いそうで怖い。まりえは、このままこのドレスに袖を通していいのかと自問自答を繰り返し、気が着くと、明のアパートの前に立っていた。


 「仁、腹減っただろう?俺、コンビ二で何か買って来るわ。」

 「明、俺が行くよ。寒いから中で待ってなよ。」

 仁は、着替えると、コンビ二に行くために部屋のドアを開けた。目の前に、まりえが立っている。

 「まりえ!どうしたんだ。こんな時間にどうしたんだ。」

 「仁君、仁美は何処にいるの?今すぐ、仁美に会わせて。」

 「仁美はここにはいないよ。寒いから、取り敢えず部屋の中に入ろう。」

仁は、着ていたコートをまりえに掛けると、アパートの部屋の中に、まりえを入れた。

 「まりえさん、どうしたんですか、こんなに朝早く。今日は、結婚式ですよね。」

 「明、暖かいコーヒーでも淹れてくれないか。こんな薄着で、身体が冷え切っているよ。」

 「ああ。ちょっと待ってて。」

仁は、まりえをストーブの前に座らせた。まりえは、部屋着のようなワンピース一枚に、コート姿で、いつから部屋の前に立っていたのだろうか。

 「仁美は、どこにいけば会えるの?お願い、仁美に会わせて。そして、本当のこと全部教えて欲しいの。仁美は、どうしていなくなったの?仁美はどうして私の傍にいてくれないの?私は、これからどうすればいいの?」

まりえは、仁にすがりつくと、大きな声を上げて泣きじゃくった。仁は、まりえの髪を撫でながら、震える肩を抱きしめたい衝動を、抑えるのに必死だった。

 「コーヒー入ったよ。」

明が、コーヒーの入ったカップを二つ運んで来た。

 「まりえ、明が淹れたコーヒー飲もうか。温まるから。」

まりえは頷くと、泣き止んで、カップを手にした。

 「まりえが、こんな風に泣くの二度目だね。でも、もう泣くなよ。今日からは、幸せな花嫁になるんだから。」

 「どうして二度目なの?仁君の前で泣くのは、今日が始めてよ。」

 「……」

 「仁君、あなたと仁美の姉弟は、一体何を隠しているの。」

 「まりえには関係ない。」

 「今すぐ、仁美に会わせて。ここに仁美を呼んで。」

 「仁美は、ここへは来ない。まりえの結婚式には出席すると思うから、まりえは、これを飲んだら帰るんだ。家の人たちが心配しているよ。」

 「こんな気持ちのままじゃ結婚出来ないわ。ここに(心臓を押さえる)大きなとげが刺さって、私を苦しめるの。何かが忘れるなって、私を責めるの。その答えを、仁美が知っているような気がして、仁美に会って確かめたいの。そうでないと、結婚出来ない。」

 「我侭言うな。誰もまりえを責めたり、苦しめたりしないから。だから、幸せになってくれよ、頼むから。まりえの幸せが、俺の願いだから。そうでないと、俺……」

 「そうでないと、どうなるの?ねえ、仁君、どうなるの?」

 「明、まりえを車で送ってくれないか。」

 仁は、明の方を向いて頼んだ。明も仁の気持ちを察して頷いた。 

 「まりえさん、もう八時だ。家の人たちが心配しているから、帰りましょう。さあ、送って行きますよ。」

 「仁君?」

 「仁美は、結婚式に行きますよ。」

 「仁君?」

 仁は、二度とまりえの方を向くことはなく、明は、まりえの手を引いて、車に乗せた。

 そして、まりえは家に戻り、真っ白なウエデイングドレスを身に纏い、教会へと向かった。心の蟠り。心に刺さった棘。その棘で、白いドレスが赤く染まっていても、まりえ以外には見えない。達彦を愛しているのかも、達彦を愛していたのかも分からないほどに心は掻き乱されていた。

 「まりえさん、送って来たよ。」

 「悪かったな、明。」

 「北条の家では、まりえさんがいなくなって大騒ぎしていたよ。」

 「だろうな。結婚式の当日に、花嫁がいなくなるなんて前代未聞だろうし。北条のおじさんだって、大川家から勘当の身の達彦さんとの結婚を、心から祝福している訳ではないし、不安で仕方がなかったと思うよ。」

 「不安なのは、まりえさんだって、お前だって一緒だろう。不安で仕方がないから、まりえさん、あんな格好でここまで来たんだ。本人には自覚なんてなくて、足が自然とここへ向かわせたのだろう。」

 「まりえの不安は、今日の結婚式が終われば解消されるさ。」

 「本気でそう思っているのか?俺には、自分に言い聞かせようとしているとしか思えない。お前だって、不安だから、俺にまりえさんを家まで送らせたんだろう?何故自分で送ろうとしなかったんだ。それは、まりえさんとお前は、同じ答えを探しているから。その答えを見つけるのが怖いからだ。」

明は、先程までまりえが座っていたストーブの前から離れようとしない仁に向かって言った。

 「俺たちに答えなんてないよ。まりえは、初めから仁のことは眼中にないし、ひたすら仁美の影を追っている。しかし、その仁美はこの世に存在しない。ない者を追っている者を愛しても、二人して平行線を辿るだけだし、お互いのためにはならない。ただ、傷つくだけだ。」

 「本当にお前は馬鹿だ。こんなに馬鹿だとは思わなかったよ。なあ、仁。まりえさんがここに訪ねて来た理由は、仁美のことだけだと思うか?それだけじゃないはずだ。真実を知りたいんだ。彼女は、傷ついても後悔しても、本当のことが知りたいんだ。彼女もうすうすは何か感じているはずさ。それでも、知りたいんだよ。」

 「知ってどうなる!初めから存在しない人間がいなくなるだけだ。誰にも知られずいなくなって、その内に、記憶からも忘れ去られる。それでいいんだ。」

 「それは違うわ。知って傷つくほうがいいと思う時だってある。一緒に傷つきたいと思う時だってある。なにも知らされないよりは、ずっとましよ。」

 「春美。」

 いつも間に来たのだろうか、春美が立っていた。

 「仁のことだから、どうせうじうじと考え込んでいるだろうと思って来てみたら、案の定ね。仁は偽善者なのよ。誰も傷つけたくないと言いながら、自分も傷つきたくないの。だから、自分の思考の檻から出られないのよ。いくら明が鍵を壊しても、自分自身が出ようとしなければ同じことだわ。」

 「春美、言い過ぎだよ。」

 「いいの、明は黙っていて。私には言う権利があるから。仁、後悔しなさいよ。これから先、ずっと悔いて生きなさいよ。でも、やって後悔しなさいよ。何もしないで悔いるのは、やって後悔するよりも辛いことだから。だから、等身大の自分をまりえさんの前に曝け出して、しっかり大恥を掻いて来なさい。私たちは、いつでも同じ場所で、仁を待っているから。だから、今の仁を悔いないで。今までの仁を無駄にしないで。仁美の最後の花道を、今日と言う日で仁が飾ってあげて。」

そう言うと、春美は綺麗に整えられたかつらを差し出した。仁は黙って頷くと、春美は最後の化粧を仁に始めた。

 「出来たよ、仁美。」

 「サンキュウー、春美。明も悪かったな。」

 仁は何かを吹っ切ったようだ。

 「いいよ。ちゃんと、花嫁、掻っ攫って来いよ。」

明は、仁の肩を叩いた。

 「ああ。まりえの趣味が悪ければな。」

 「仁、もうだめだって思った時、もう一歩だけ頑張って踏み出してみてね。後悔しないために。」

 「分かった。じゃあ行って来るから。」

 「後から俺たちも行くよ。」

仁美は、笑顔で二人に手を振ると、まりえが結婚式を挙げる教会へと、走り出した。


 教会では、結婚式が厳かに執り行われていた。北条と共にバージンロードを歩み、祭壇に向かい達彦と並ぶ。神父の言葉に続いて誓いの言葉を復唱し、マリッジリングの交換をし合う。順調に結婚式が進んでいた。達彦側の出席者が少ないことを除けば、全ては順調だった。

 「では指輪の交換です。」

 神父は達彦に、まりえの指輪を渡す。達彦はリングクッションからそれを手に取ると、まりえの左手の薬指に入れようとした。

 と、突然、爆音と共に落雷し、教会は一瞬にして暗闇と化した。出席者から悲鳴が上がる。轟音を上げて、雨が降り始めた。

 「この近くに雷が落ちたらしいな。それで停電したのだろう。」

 「いやあねえ、凄い雨の音。春の嵐ね。」

外は、まだ昼だと言うのに真っ暗だ。やがて、電気が復旧したが、雷と雨はやみそうになかった。

 「では、指輪の交換です。さあ、新郎は新婦の指に、指輪を入れてあげてください。」

神父の一言で、ざわついていた出席者たちにも静寂が戻り、達彦は、まりえの左手を取って、薬指に指輪を入れようとしていた。

 「ちょっと、待った!」

 教会の大きなドアが、ギイーッと音を立てて開くと、全身ずぶ濡れの仁美が立っていた。

 「仁美。」

 「その指輪、ちょっと待ってください。」

そう言うと、仁美は、ほんの数十分前に、まりえが歩いたバージンロードを、雨の雫で汚しながら祭壇へと向かって歩いた。

 「誰か、タオルをください。」

まりえは、壇上から降りると、教会の職員に声を掛けた。

 「まりえ。」

達彦が呼び止める。

仁美は、最前列に座っている北条夫妻の前に進んだ。

 「おじさん、今まで騙していて申し訳ありませんでした。仁美は俺です。俺が仁美なんです。」

仁美はそう言うと、北条の前で、びしょびしょに濡れているかつらを取り、既に雨で化粧は剥がれ落ちた、素顔の仁を曝け出した。

 「君は……」

北条は驚きで、言葉にならない。まりえも、持ってきたタオルで、仁美を拭こうとして手が止まった。

 「ひ、仁美……」

 「ああ、動きにくい。」

仁は、雨で濡れて身体に纏わりつくワンピースをその場で脱ぎ捨てると、下に着ていたTシャツとGパン姿になった。

 「おじさん、謝りついでにもう一つ、まりえを俺にください。駄目でもこのまま連れて行きます。」

そう言うと、仁は、なにが起こっているのか理解出来ないでいるまりえの手を引いて、教会の外へと走り出した。

 外は、大雨である。一歩出ただけで、びしょ濡れになるだろう。仁は、手を引いて来たまりえの顔を見た。

 「走れるか?」

仁は微笑む。

 「はい。」

まりえも微笑む。そして、二人は雨の中に消えて行った。

 達彦は、まりえが教会から姿を消してしまって、やっと我に返った。

 「まりえ。」

バージンロードを逆走したまりえの後を追い駆ける。

 「達彦さん。」

教会のドアの影から、達彦の名前を呼んで、教会の中に入って来たのは、あの彼女だった。

 「あの二人は、この雨の中を走って行ったわ。ここにいた私に気づいて、彼が“見失うなよ”って声を掛けてくれたの。」

まりえを追い駆けようと走っていた達彦の足が止まった。達彦は、彼女にもたれかかり、彼女はそっと、達彦の背中を抱いた。

 教会の中では、突然、式の途中でいなくなった娘を思い、北条夫人は、ただオロオロしていた。その横で、北条は微かな笑みを浮かべていた。

 「あなた?」

 「やっぱりな。そうじゃないかと思っていたのだ。」

 「あなた?」

 「いや違うな。そうあって欲しいと思っていたのだ。」

何故だか幸せそうな北条の微笑みに、北条夫人もつられて、何故だか笑顔になった。

 大雨の中を、手をしっかりと繋いで走りながら、まりえは何度も仁の横顔を見た。

 「仁。」

教会の階段を降りると、明が車で待っていた。

 「明?」

 「早く乗れよ。大事なお前の花嫁さんに風邪を引かせられないだろう。」

明は、運転席の窓越しに、出来もしないウインクをした。

 「ありがとうな。」

仁とまりえは、明の車の後部座席を占領し、二人で座ったが、握り締めた手は離さない。

 「ねえ、仁君が仁美で、仁美が仁君で。じゃあ、私は誰なんだろう?」

 「まりえは、俺だけのまりえさ。一生かけて謎を解いてやるよ。」


END


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