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前編

 俺は、男のくせに綺麗な顔をしているらしい。自覚したことはないが、小さな頃から、女どもに「綺麗な顔」と、頭を撫でられたり、前髪を触られたりと、好むと好まざるとに関わらず、いじられたような気がする。女は嫌いではないし、むしろ好きなほうだと思うが、周りの友人達が言うような「相手を求める」とか「相手を大切に想う」という気持ちを感じたことはない。

だが、不自由もしない。それが「綺麗な顔」の特権らしい。

 西原仁にしはら じんは、剃るほども生えない髭を剃りながら、鏡に映った自分の顔をまじまじと見つめていた。

「あほくさ。さっさと学校行くぞ。」

仁は、鏡に映った自分自身にそう言うと、アパートの部屋を後にした。向かうは、アパートからほど近い大学である。

この大学で、全身全霊を傾ける運命の相手に出会うなど、当時の醒めた仁自身は、知る由もなかった。


「今日、夕立が来るって言ってなかったよな。」

突然の夕立で、激しい雨にさらされ、仁は大学のキャンパスを走りながら、雨宿りの場所を探していた。運悪く、雨が降り出した時に、校舎から離れて居たため、なかなかいい場所が見つからず、既にずぶ濡れの状態であった。

 その時、仁の目に、音楽堂が飛び込んで来た。広いキャンパスの外れにある音楽堂は、階段が3段程あり、入口前には、屋根つきの広いホールもある立派な建物である。仁は迷わず駆け込んだ。

 雨宿りの場所も確保し、一先ず安心すると、中から何か心地よい音楽が聞こえてくるのが気になった。仁は、そっと音楽堂の扉を開けて、中を覗き込んだ。遠目からでも分かる美しい女性の奏でるバイオリンと、優雅な物腰の男性の弾くピアノが、まるで一枚の絵を見ているようだった。仁は思わず見とれてしまった。目が二人から離せなくなった。

 するとピアノの音が止まり、男性が女性に声を掛けた。仁は、慌てて扉を閉めた。

「今日はこのくらいにしよう。」

「ええ。すっかり夢中になってしまって。達っちゃんとセッションするのが久しぶりだったから。」

「まりえ、いつの間にか雨が振っているよ。」

窓の外を確認した達彦の言葉に、まりえも外を見た。

「本当だわ。すごい雨ね。全然、気が付かなかったわ。」

「おばさんが心配するといけないから、止むのを待ってはいられないな。僕が車を取って来るから、まりえはホールで待っていて。」

「はい。」

 その頃、扉の外では、仁の心臓が口から飛び出しそうな勢いで高鳴っていた。バイオリンを弾く彼女の姿が目に焼きついて離れない。

“なんなんだこれは……”

戸惑う仁の後ろで扉が開き、二人が中から出て来た。

彼は「ここで待っていて。」と彼女に言うと、雨の中を走って行った。

 仁は焦った。近くで見ても美しい彼女に見とれた。彼女は、じっと見つめる仁の視線に気が付くと、軽く微笑んで見せた。

 “まじでやばい。”心が叫んだ。自分でも顔が赤らむのがよく分かる。

 “まるで変体じゃんか。止まれ、心臓。赤くなるな、顔”仁の心は忙しかった。

 そんな仁を尻目に、彼の車が音楽堂の前にキーッと停まると、雨に濡れないように大事そうに胸にバイオリンのケースを抱えて、彼女が走り出し、彼の車の助手席に体をすべりこませた。ほんの一瞬の出来事だった。その一瞬で、仁は彼女の虜になってしまった。


「また考えているのか。」

その雨の日から半月程経っていたが、彼女とは二度と会うことはなかった。音楽堂にも何度も足を運んでみたが、もう一度会えることはなかった。

 しかし、頭から片時も彼女のことが離れない。そんな仁を見かねて、高校時代から仲が良かった明が、お昼の学食カフェテリアで声を掛けた。

「やっぱ、幻だったのかな。」

その言葉を聞いてか聞かずか、

「北条まりえ。うちの大学の三年で、北条病院の超箱入りの一人娘。男嫌いというか、男の免疫がないので通っている。彼女の清楚な美しさに近寄っていく男どもも多いが、軽く近づいても、敬遠されるだけらしい。だが、唯一、小さい頃に親同士が決めた婚約者の、大川グループ御曹司の大川達彦だけは、一人っ子同士ということもあり、兄妹のように育って、本人同士もゆくゆくは結婚することに何の疑いも持っていないようだ。北条さんの卒業と同時に結婚することまで決まっているらしい。仁、お前の入る余地は残念だがない。真剣になって、後戻り出来なくなる前に彼女のことは諦めろ。」

「明、お前、そこまで調べてくれたのか。お前っていい奴だなあ。北条まりえさんか。名前も美しい。」

「ああ、だてに女の子たちと遊びまわっていやしないだろう。それよりも、分かっているのか。一瞬の憧れだったんだ。一生一度の運命の相手でもないんだから、大やけどをすると分かっていて二人の間に割って入ろうなんて思うな。」

「明……運命の相手だったら、大やけどしても飛び込むだろう?一生一度の相手なら、絶対に諦めないよな。」

「仁……。お前,、今はのぼせているだけだ。冷静になれよ。一度しか見たことのない、言葉さえ交わしたことのない女に、一生一度の運命と決め付けるのは早急しやしないか。少し落ち着け!」

「運命の相手って、そんなもんかもしれないだろう。俺は諦められない。あの日から毎日毎晩、彼女のことばかり考えている。その存在はどんどん俺の中で大きくなっていくんだ。とことん好きになって、俺っていう人間を知ってもらった上での撃沈なら仕方がないと諦めきれるけど、同じ土俵にも上がっていないうちからはどうしても諦めきれない。」

「お前ってば、顔はいいし、背も高いし、そこそこ何でも出来て女には不自由しなくて、これで性格悪かったら嫌な奴だと思っていたけど、まじでお前って純粋で単純なんだな。とことん醒めた奴だと思っていたけど、ほんと馬鹿というか大馬鹿っていうか。本気にさせたら怖いタイプだよ。…・・・分かった。すっぱりさっぱり玉砕しろ。玉砕するのは決まっているんだから、とことんやってみるか。まず、彼女になんとか近づく手立てを考えないと。真正面からの正攻法では絶対無理だな。」

「明。」

「仁、男同士で顔つき合わせて考えていたって埒が明かない。今から春美の所へ行こうぜ。この場合、女の意見を聞くことも重要だ。」

明は、仁の初恋を放ってはおけなかった。親友なら、今の段階で殴り合いの喧嘩をしてでも諦めさせるのが本当の友情なのかもしれない。

 しかし、明は仁と一緒に居すぎて、仁の気持ちが分かり過ぎる。仁が言うように、同じ土俵で戦って、思いっきり玉砕して、その後一緒に、浴びるほど酒を飲んだり、女たちと遊び回ったりすればいい。明は、仁の気の済むようにしてやろうと思った。そして自分は、出来るだけのフォローをしたいと思ったのだ。その手始めが春美だった。春美は、明の彼女ではないが、今一番仲の良い女友達で、カリスマ美容室に勤める駆け出しの美容師だ。二人は、春美の仕事が終わるのを待って、春美のアパートを訪ねた。


 突然二人してアパートを訪ねて来た様子に、春美はただならぬ気配を感じていた。特に、この日が仁とは初対面でもあったし、春美は怪訝そうに、二人を部屋に招きいれた。

そして、一通り明から話を聞いた春美は、

「話は分かったわ。何かいい手立てって言っても何かある?」

仁と明は顔を見合わせた。

「それを聞きに来たんだ。俺らだって全く検討がつかない。」

 春美は、二人のためにコーヒーを淹れながら他人事のように軽く続けた。

「そうよね。とんでもない相手に恋しちゃったわね。・・・…でも、仁君って、明がいつも言っていた通り、本当に綺麗な顔しているのね。」

そして、仁に顔を近づけて、まじまじと見つめた。

「これで背が低かったら、女の子でも通るよね。」

「春美、それだ。」

明はオーバーアクションで自分の膝をポンと打ち鳴らしながら言った。

「それって何よ、明。」

春美は、明の声にびっくりして、コーヒーカップを取り落としそうになりながら尋ねた。

「仁が女になればいいんだ。ちょっと背が高すぎるが、でかい女も最近はいるし。化粧して、かつら被って、スカート履いたら女に見えないこともない。男として近づけないなら、女として近づいて、仲良くなってから、正体をばらして、本当のことを分かってもらえばいいじゃないか。」

明のその突拍子もない言葉に、今まで黙っていた仁が、大きな声で反論した。

「何、言ってんだよ。俺に女の真似なんか出来る訳ないだろう。明、お前、適当なこと言うなよ。人事だと思って。いい加減にしろよな。」

「明、それっていい考えかも。うん、それっていいかも。仁君、私が手伝ってあげる。お化粧の仕方から仕草まで、みっちり女の子に見えるように仕込んであげるから。それしか方法はないわね。」

我ながらいい考えだとばかりに満足気な明に春美まで同調している。

「あんたまで、どうにかしているよ。」

「仁、お前、一生に一度の運命の相手だと思っているんだろう。なら、何でも出来るよな。何でも出来ないなら、本当に好きじゃなかったんだ。簡単に運命の相手だのって言うな。お前はただ恋に恋しているだけだ。その程度の気持ちなら、悪いことは言わないから、今、ここで諦めろ!」

「明、いくら運命の相手でも、出来ることと出来ないことがあるだろう。女装だぜ。化粧してスカートはくんだぜ。無理だ。無理に決まっているだろう。」

二人は背中を向け合った。

「じゃあ、ものは試しで、一回やってみない?それで変だったら、この企画は中止ということで、別の方法を考えるとする。それならどう?」

「俺の女装なんか見られたもんじゃないよ。」

「見られたもんかどうかやってみないと分からないじゃない。」

仁はぶすけている明の方にちらっと眼をやると、収まりをつけるためにもしゃーないかと半分は投げやりになって言った。

「物は試しにって言うのなら、一回だけ。そうでもしないと納得しないだろう。ただし、お前ら気持ち悪くなっても知らないからな。」

「お前の女装なんて期待してないよ。間違っても惚れたりしないから安心しろ。」

明は機嫌を直して仁の方に向き直った。

「OK.メイクとかは私に任せてよね。」

「ああ。好きにやってくれ。」

 春美は、自分の洋服の中から、丈の長いフレアースカートを仁に履かせると、店から練習用に持って帰っていた、巻き毛のロングヘアーのかつらを被せ、念入りにメイクを始めた。メイクが済み、そっと仁が目を開けると、明と春美は息を呑んだ。

「綺麗。」

春美の溜息にも近い声が零れる。

「お前って、やっぱ綺麗だったんだ。」

明まで、あんぐり顔だ。仁は、傍のドレッサーを覗き込んだ。確かに、そこに映っているのは、大柄な美女だ。女で通る。

「これが……俺か……」

自分で頬を撫でてみる。鏡に映った女も頬を撫でている。

「やっぱり俺なのか……」

身長180cmという、女にしては大柄なことを除けば、確かに二人の言うように完璧に女である。

「なんか皮膚呼吸が出来なくて気持ち悪い。自分が化粧臭くて酔いそうだ。でも、これしかないよな。彼女に近づく方法は、これしか。」

男嫌いの超箱入り娘を好きになってしまったら、男では近づけない。女で責めるしかない。というよりも、女友達で近づいて、それから男に戻って告白するしかないだろう。仁は、自分に何度も言い聞かせていた。

「俺って、唯一、親に感謝するとしたら、髭が薄いことだよな。これで髭が濃かったら、もっと気持ち悪いよ。」

自分を慰めるように仁は言った。

「仁、心配するな。俺も春美もお前を見捨てたりしないから。お前が女になってもずっと友達だぜ。」

仁を茶化しながら、明も自分に言い聞かせていた。突拍子もないことを言ってしまったが、これしかないのだと、必死に言い聞かせていた。明自身も不安を感じていることを、仁にだけは気づかれたくなかった。

「ねえ、このままちょっと外を散歩してみない?」

メイク道具を片付けながら春美が提案してきた。

「馬鹿、こんな格好で恥ずかしくって、外なんか歩けねえよ。」

「何、言ってんのよ。この格好に慣れなくちゃ。もう夜も遅いし、外は暗くて、あなたが男だって、誰にもばれやしないわ。度胸試しにはぴったりのシチュエーションよ。」

仁も明も、唐突な女だと春美のことを思いながら、確かに度胸試しには丁度いいかもしれないと、顔を見合わせていた。 


春美に引きずられるように、二人も夜の街に出た。ぶらぶらと歩いてみたが、不信がられることもなく、三人は、結構大丈夫なものだと勢い付いていた。

「化粧って怖いよな。女が化粧して人格変わるのが、分かる気がするよ。違う自分になったようだ。」

仁は、時折、ショーウインドウに映る別人の自分を横目でちらちらと確認している。

「そうよ。お化粧すると違う自分になれるの。自信がなくて俯きがちな女の子も、きちんとお化粧してあげるとね、顔を上げてしっかり前を向いて、歩いて行くのよ。仁君も女装している時は、西原仁ではなくて全くの別人になったと思えばいいんじゃない。例えば……仁美とか。」

「いいね、仁美か。いい名前じゃないか?なあ、仁。」

「ああ……(気のない返事である)」

「喉、渇かない?私、何か飲むもの買ってくるから、ここで待っていて。」

行き交う男たちが、仁の美しさに振り返る。

しかし、仁本人だけはそれに気がつかないようだ。

 晴美が飲み物を買いに行っている間、仁美と明は、ガードレールに腰を下ろして待つことにした。

「やめてください。触らないで。」

とその時、少し離れた薄暗いほうから、聞き覚えのある女の声がする。仁と明は顔を見合わせると、声のする方へと走って行った。

「やめてください。あなたたちとは、お付き合い出来ません。」

数人の危なげなお兄ちゃんたちに囲まれているのは、北条まりえである。

「北条さん。」

言うが早いか、仁は、男たちとまりえの間に割って入ると、背中にまりえを隠した。

「なにするんだ。綺麗な姉ちゃんも一緒に付き合ってくれるのか。」

仁は、背中にしがみ付いている、まりえにそっと声を掛けた。

「北条さん、この人たち、知り合い?」

まりえは怖くて声が出ないようだったが、首を横に振った。

「そうか、分かった。」

女装して、動きにくかったが、仁はあっと言う間に男たちを蹴散らした。こう見えても空手の有段者である。勿論、喧嘩は御法度だが、今は緊急事態だ。

「大丈夫?」

「……(黙って頷いた)」

まりえは、ぐっと仁美の洋服を掴むと、顔をうずめて震えた。

 「大丈夫だよ。もう心配ないから。」

思わず、仁美もぎゅうっと、まりえを抱きしめた。

「今夜は遅いし、危ないから、このまま送って行きますよ。」

「はい。ありがとうございます。」

少し落ち着いたようだ。かすかに微笑んで見せた。

「仁、大丈夫か?」

明と春美が近寄って来る。

「大丈夫だ。今から北条さんを家まで送って行くから。」

「ああ、気をつけて行けよ。」

「分かっているよ。」

「あの……あなただって女の子なのに、いくら強いからって、一人歩きはだめよ。」

まりえのその言葉で、仁と明、春美は、仁が女装中だと思い出した。

「(顔を引きつらせながら)そうですよね。仁美、みんなで北条さんを送って行きましょうよ。みんなでいれば大丈夫ですよね。」

春美は必死にフォローを入れる。

「はい。」

既にまりえは、いつものまりえらしい笑顔に戻っていた。

奇妙な四人は,ゆっくりと歩き始めた。まりえの家はこの近くにあるようだ。

「バイオリンのレッスンの帰りだったんですか?」

仁は、まりえのバイオリンケースを見て、努めて女言葉で問いかけた。

「はい。家からレッスン場が近いので、一人で行くことも多いのですが、今夜はたまたまこんな怖い思いをしました。これからレッスンに通うのが、不安になりました。」

「時間を教えてくれたら、帰りくらい、いつでも送ってあげますよ。」

「ありがとうございます。でも見ず知らずの人に、そこまで甘える訳にはいきません。次からは家の者にお願いします。ところで、私のことを、何故ご存知なのですか?」

「えっ?」

「さっき、絡まれている時に、私のこと北条さんって名前で呼びましたよね。」

「あ、あれは……大学で。」

「あら、同じ大学なのですか?」

まりえは足を止めて仁美の顔を覗きこんだ。

「いえ、同じ大学では……」

堪りかねて、明が会話に割って入る。

「僕が、北条先輩と同じ大学で、仁美も時々キャンパスに遊びに来るので、何処かで北条先輩を見掛けて、それで知っているのでしょう。」

「同じ大学の方だったのですか。それは心強いです。今度、キャンパスでお会いしましたら、是非、声を掛けてくださいね。」

十分程歩くと、大きな邸宅の前で、まりえが足を止めた。

「ここです。送ってくださって、ありがとうございました。みなさん、気をつけて帰ってくださいね。」

こんな都心に、でかいと言う表現がよく似合う家があっただろうか。三人が、家に見とれている間に、にこにこと手を振りながら、まりえは門を開けて、家の中へと入っていった。

「仁、彼女、中へ入ったぞ。俺たちも帰るか。」

「そうだな。」

仁はずっとまりえの後姿を見送った。仁にとっては、思いがけない女装デビューの夜だった。そして、思いがけない、まりえとの初接点だった。


翌日、大学のキャンパスを、仁と明は次の講義に向かって歩いていた。

「夕べはありがとうございました。」

仁は、突然、後ろからぎゅっと肘を掴まれたかと思うと、まりえが二人の前に回り込んで来た。

「あー。」

仁は、そこら中に響き渡るような驚きの声を上げた。

「すみません。人違いでした。(ぺこりと頭を下げる)知人に、とっても横顔が似ていたものですから。私の探している人は女の人なのに、本当にすみませんでした。(もう一度頭を下げる)」

「あー。」

今度は、明が変な声を上げた。

「(合点したように)北条さん、夕べの彼女は、こいつの双子の姉で仁美というんですよ。こいつは仁。西原仁と言います。夕べ俺たちと居たのは、仁美のほうです。なあ仁、仁美はお前の双子の姉ちゃんだよな。」

明は促すように、仁を肘で突付いた。

「(気が付いた)ああ、そうです。夕べは、姉貴です。俺じゃありません。似ているけど。」

「そうなんですか。どうりでそっくり。だって背丈から、声の感じまで似ているので。双子って、本当に似るのですね。」

仁と明は、まりえが素直で疑わない性格で良かったと思った。

「あの、お姉さんに、きちんと夕べのお礼を言いたいのですが、何処に行けば会えますか?」

「あっ、えっと、それは、あの。」

仁は、憧れのまりえの前で、緊張してしまって会話にならない。

代わって、明が答えることにした。

「仁美は、色々と忙しい奴なので。大学も違うし。」

「そうですか……。もう一度お会いしたかったのに、残念です。では(気を取り直して)このチケットを渡していただけませんか?急で申し訳ありませんが、今度の日曜日に、うちの大学の音楽堂で定期演奏会があります。私も、バイオリンを弾きますので、是非、仁美さんに見に来て欲しいのです。変に思われるかもしれませんが、仁美さんとは、お友達になれそうな気がします。もう一度お会いして、ゆっくりお話しもしたいです。弟さんやお友達のあなたも、仁美さんを誘って、よかったら見に来てください。」

まりえは、仁に、三枚のチケットを手渡した。

「仁美さんに、演奏会の後、お食事でもご一緒しませんかと、お伝えください。じゃあ、日曜日を楽しみにしています。」

結構、強引なお嬢様らしい。天使の笑顔に、反論する隙を与えられないまま、まりえは去って行った。

「おい、仁、しっかりしろ。」

チケットを握り締めたまま、呆然としている。

「うん。」

仁と明は、さっき渡されたチケットに眼をやった。

「取り敢えず、今夜、また春美ん家でミーテイングしよう。今日が火曜日だから、日曜日までに、服とか靴とか、用意しとかないとな。何と何が要るのかよく分からんけど。春美ん家で、今夜、作戦練ろうぜ。」

仁は、ちらりと明の横顔を見ると、子どもの様にわくわくとしているようだった。

「お前、面白がってないか。」

明はあからさまにムッとした表情になり、

「仁、さっきだって、折角のまりえさんとのお近づきのチャンスだったのに、お前ったら一言も話せないで変に思われるだろう。俺が見かねて助け舟ださなかったら、このチケットだって手に入らなかったんだぜ。感謝して欲しいくらいだ。」

「悪かったよ。」

明は、そう言うとまた、少し膨れて見せたが、仁の推測通り内心は興奮していた。

どうも春美も同じらしい。妙に楽しそうだ。

「そうだったの。よかったね、仁君。これぞ棚ぼた。よし、私に任せて。日曜日までにばっちり準備しとくから。」

春美は、

「そうだったの。」「そうだったの。」

と独り言を繰り返し、やっぱり楽しそうだ。せっせと、かつらの巻き毛を整えている。

「春美も演奏会に来いよ。」

仁は、春美の前にチケットを1枚差し出した。

「いいの?行っても。」

「うん。三枚貰ったし、俺は行けないだろう。だから、春美も来いよ。店、休んでも大丈夫か?」

「お店のほうは大丈夫よ、一日くらい。わあ、演奏会なんて始めて。すっごく楽しみだわ。」

「春美、眠たいだけだぞ、クラッシックなんか聞いたって。」

明は冷めたように言った。

 春美は、チケットを仁から受け取ると嬉しそうに眺めながら

「いいの。私ね、大学行きたかったんだけど、家の都合で行けなかったから、一日だけでも大学生の気分を味わいたかったの。何を着て行こうかなあ。今時の大学生って、どんな感じの洋服を着ているんだろう。」

「春美、俺の服も考えてくれよな。」

あまりの春美のはしゃぎように、仁は、誘って良かったと、少しだけ日曜日が楽しみになった。明は、仲の良い仁と春美の様子を見て、胸がちくちく痛むのが分かった。仁ほどはもてたりはしないが、女友達に不自由はしないし、春美と同程度の付き合いの女なら他にも沢山いる。春美を、ただの女友達の一人だと思っていたのだが、仁と春美の様子を見ていると、無性にいらいらする自分に気が付き、内心は複雑だった。


九月最初の日曜日。定期演奏会当日である。仁がまりえと運命的な出会いをしてから、約一ヶ月が過ぎようとしていた。

 演奏会の前に楽屋を訪ねると、仁美の姿を見つけて、まりえは大はしゃぎした。

「仁美さん、来てくださったのね。ああ、よかった。強引にお誘いしたから、来てくださらないかと思いました。なんだか今日の演奏会、とっても力が入るわ。」

子どものようにグッと拳を握ってみせる。仁美は、思わずくすりと笑った。

「演奏会が終わったら、ご一緒にお食事でもしませんか?先日のお礼に、是非、ご馳走させていただけませんか?」

「まりえ、それならばお父さんたちがご招待しなければいけないのではないか。先日は、娘が危ないところを助けていただきまして、ありがとうございました。」

きちんとした身形の、少し白髪の混じった、すっきりとした紳士が仁美に深々と頭を下げた。

「仁美さん、私の父です。」

「あっ、あの、西原仁美です。こちらこそ本日はご招待いただきまして、ありがとうございます。」

仁美の中の仁は、焦りまくっていた。こんなに早く父親の登場だ。横に居た春美は、仁の様子に気が付くと、そっと小声で呟いた。

「あなたは仁美よ。ひ・と・み。別人だよ。」

仁は、その言葉で思い出した。今は、仁美という別人の姿なのだと。

“そうだ、別人なんだ。今、ここにいて北条さんたちと話しているのは、俺じゃない。そうだ、違う人間なんだ。”

仁は、無意識に、ポンと手を打っていた。

「お父さん、今日は私たちだけでお食事に行きたいの。仁美さんともゆっくりお話をしたいし。お父さんが居たら、皆さんが緊張するじゃない。」

「そうだね。では、残念ですが、今夜は私たちは遠慮することにしますよ。次の機会に是非、ご一緒してください。」

「はい。」

北条と仁美は、もう一度頭を下げあった。

「達っちゃんも、今夜は遠慮してね。」

北条夫妻と並んで立っている達彦に、まりえは釘をさした。

“げっ。天敵が出た。こいつが噂の婚約者か”仁は心の中で明の言葉を思い出していた。

「仁美さんですか。先日は、まりえがお世話になりました。また、今日はまりえが、わがままを言ってすみません。申し訳ありませんが、少しの間、彼女にお付き合いをお願いします。」

「はい。ちゃんと家まで送り届けますから。心配しないでください。」

「ところで(腕を組むとじっと仁美を観察している)とてもお綺麗な方ですね。しかし、失礼ですが女性にしては、大柄で骨太ですね。」

「(顔が引きつる)はい、両親ともに大きくて骨太なので、家系です。」

「声も女性にしては、ハスキーですよね。」

仁美は負けられないと思った。

「はい、母も声が低かったので、よく電話で、父と間違えられていました。ねえ、明君。」

突然話を振られて焦る明。

「あっ、うん。そうなんです。おじさんかと思ったらおばさんだったりして、間違って話しかけて、失敗したことあったよ。なあ、仁美ちゃん。」

「そうそう、これも家系で。ちなみに双子の弟とは、体系も声も似ていて、やっぱり双子なんだと、弟を見る度思います。ねえ、明君。」

「(また来た)そうなんです。僕たち幼なじみなんですけど、小さい頃なんか見分けつかなくて。今も時々分からなくなる時ありますよ。仁美ちゃんは、ちょっと男勝りだし、髪でも伸ばしてないと、まるで仁そのものでして。」

明は、雄弁過ぎるくらい雄弁だ。達彦は、

「ふううん。」

という感じで、不信感を持っているのは間違いなかった。やっぱり、“俺の天敵だ!”と,改めて仁は思った。

 そこへ水を注したのが、まりえだった。

「達っちゃん、いい加減にして。私のお友達が、気を悪くするじゃない。」

「ごめん、ごめん。つい悪いくせで。」

「仁美さん、本当にごめんなさい。達っちゃんは、大学で法律を学んでいて、今は検事をしているのです。だから、すぐに人を観察したり、疑う癖があるのです。本当にごめんなさいね。気を悪くなさらないで。」

「大丈夫ですう。北条さん、私たちは席に着きますから、演奏、頑張ってくださいね。」

 仁美は思いっきりぶりっこして、そう言うと、明と春美の腕をがっちりと掴んで、そそくさと楽屋を後にした。

「あいつ、只者ではないと思ったけど、まじかよ。検事かよ。」

「仁、お前上手だった。よくやったよ。」

「本当。上手だったわ。この調子なら、男だって、ばれないって。大丈夫よ。」

「お前、仁の時には一言も話せないくせに、今日はよくあれだけ対等に話せたな。」

「やっぱ、化粧とかすると人格変わるわ。春美がさあ、俺じゃない、仁美なんだって言ってくれた時、恥掻いても、俺じゃない、仁美なんだと思うと,俄然勇気が出て来た。元々、存在しない仁美がいくら恥じ掻いたって、いなくなったら終わりだろう。そう思うと自信が出たっていうか、居直れるって言うか、いい感じに楽になった。」

それから、三人は、指定席に着き、それなりに演奏会を楽しんだ。それなりに。

 二時間程度の定期演奏会が終わると、三人は、ホールでまりえと待ち合わせた。まりえが支度を済ませて出てくるまでの間に、まりえの両親や達彦が先にホールに現れた。まりえの両親は、にこりと微笑み軽く会釈をすると、達彦の運転する車で帰って行った。達彦は、やはり怪訝そうである。

「お母さんって、めっちゃ北条さんに似てねえ?」

仁美は、新しい発見をした子どものように、無邪気に笑って見せた。

「瓜二つだよな。お前と仁美より似ているぜ。あっちは本物の肉親だからな。」

明もおどけたように笑った。

「聞こえるよ、そんな大きな声で男言葉使っていたら。仁美、ちょっと周りを見てご覧なさいよ。」

春美に言われて、仁美は始めて、辺りをきょろきょろと見回した。

「何?」

「悔しいけど、さっきから仁美のこと、結構男の人たち見ているよ。大柄美人で目立つんだから、言動には気をつけなくちゃ。」

「男に好かれたって、嬉しくないよ。気持ち悪いだけだよ。」

だが、確かに人目を引くらしい。女性にしては大柄だが、モデル並みのスレンダーなプロポーションに、整った顔立ち。男でなくても振り返る。

「お待たせして、すみませんでした。」

まりえが支度を整えて出て来た。

「ちょっと支度に手間取ってしまって。随分、お待たせしてごめんなさい。じゃあ、行きましょうか。」

四人は、仁美とまりえが並んで歩き、後ろに明と春美が続いた。

「何か食べたいものとかありますか?」

まりえは仁美に尋ねた。

「別に……。」

「無ければ、いつも両親と行くお店でいいですか?」

仁美は、後ろから付いてくる明と春美の顔を見た。二人は揃って、堅苦しいのは苦手だと顔に書いてあった。

「あのう、高級な場所は苦手なので、もしよかったら、私たちがいつも行くお店に行きませんか?北条さんのお口には合わないかもしれませんが。」

“いくら仁美の格好だからって、調子に乗ってなんてことを言ったんだろう。お嬢様のまりえさんを、俺たちが行くような、そんな場末の店に連れ込むなんて。”

仁美の中の肩身の狭い仁が、自分の口から出た言葉に慌てていた。

「本当ですか。私、一度でいいから大学生が行くお店へ行ってみたかったんです。是非、連れて行ってください。」

仁美も仁美の中の仁も焦った。

「いいんですか?北条さんには似つかわしくない所ですよ。ざわざわして五月蝿いし、汚いし。」

「はい。そこがいいんです。」

まりえの表情が高揚している。好奇心で溢れているようだ。

「仁美、どうする気だ。」

明が後ろから背中を突いてきた。

「勝手に口から出ちまったんだから、仕方ないだろう。いつも行く居酒屋はまずいよな。汚いし、それに大学の奴らが誰かしらいるだろうし。」

「かといって小奇麗な行きつけの店って、知っているのかよ。」

「何で、あんなこと言っちまったんだろう。俺って、馬鹿だ。」

「仁美、私よ、私。どうせ言うなら、私って馬鹿だわって言って欲しかったわ。そんなことより、いいわ、この前、お店の子たちと行った所が落ち着いていて雰囲気も良かったし、堅苦しくもなかったから、そこへ行きましょうか。」

「春美ぃ、お前って本当にいい奴だな。恩に着るよ。」

「あなたって本当にいい子ね。感謝するわ。よ。」

春美は、いちいち仁美の言葉使いに添削しながら、今度は,明と春美が前を歩き、仁美とまりえを、店まで先導した。


大学からは結構歩いたが、四人は苦痛を感じなかった。九月の夜は、まだまだ暑かったが、とても心地良かった。

「ここよ。」

春美が指差した店は「RENCONTREランコントル」と言う名前で、表から階段を数段降りていく半地下にあった。

「レンコンとる?」

仁美がぽつりと呟いた。

「ランコントルよ。」

春美が拳を握った。

「フランス語で、出会いを意味する言葉。今日の私たちにぴったりなお店ですね。」

まりえは、また,にっこりと微笑むと、楽しくて仕方がないというようだ。

「全く、仁美はぼけているのか、天然なのか。折角のいい雰囲気が台無しじゃない。」

「春美さん、いいお店ですね。早く入りませんか。」

「そうですね、まりえさん。お腹も減ったし。早く入りましょうか。」

明は、最後に店に入る仁美に向かって、

「ばあか」

と口を動かして見せた。

 確かに春美が言うように、店の中は落ち着いた雰囲気で、それでいて何処かしら、開放的だった。料理も美味しくて、お酒が進んだ。お酒が進むと、口も軽くなるようだ。まりえは、ぽつりぽつりと、今まで、誰にも話したことがないであろう、自分自身のことについて語り始めた。

「達っちゃんはね、私より五歳年上で、幼稚園から同じ学校に通っていて、家も近いし、一人っ子同士で、本当に小さい頃から仲が良かったの。だから、達っちゃんとの結婚話が出た時も、全然不思議じゃなくて、今も結婚するなら達っちゃんしかいないと思っているの。それは、私たちだけじゃなく、周りもごく自然にそう思っていたし、いつも私の傍には達っちゃんがいたから、こうして他の誰かと食事をしたり、話しをしたりすることが今までなくて。大学にも友達はいるけど、ただ、学校やサークルだけの付き合いで、心から話せる相手は今まで誰もいなかった。男の子とのお付き合いにしてもそうだったの。いっつも達っちゃんが睨みを効かしていたから、誰も近寄っては来てくれなかったし、私はものすごい人見知りだから、自分からは声も掛けられなくて、色々誤解されることも多かったわ。例えば、男嫌いとか、お高く留まっているとか。何とか誤解を解こうと努力したこともあったけど、その内に自分を偽って相手に合わせていることに疲れてしまって、最近では、《どうぞお好きなようにおしゃってくださいな》って思うようになったの。」

「じゃあ、北条さんは、大川さん以外に好きな人がいたんですか?」

明は酔っていた。

「いましたぁ。(元気良く手を挙げる)恐れ知らずの男の子も居て、告白されたりも一応人並みにありました。気になっていた男の子から告白されると、すっごく嬉しくて、でも、いっつも最後は達っちゃんと比べてしまって、誰とも上手くいきませんでした。」

まりえも、とても酔っている。

「もう一つ聞いてもいいですか?大川さんにも、北条さん以外に好きな人が過去にはいたんでしょうか?」

明、すっごく酔っている。

「う〜ん、たぶんいたと思う。だってね、達っちゃんって、すっごくもてるの。あんなに無愛想なのにね。結婚するのは私と、って決めていても、他の人を好きになることってあるんじゃないかな。誰か、別の人を好きになるのは、私の代わりを探しているのではなくて、私でいいんだと、確認しているのよ。私がそうだったように、《達っちゃんでよかった》って、誰かと付き合うたびに比べてしまって、改めて達っちゃんの存在の大きさを実感したし、前よりも大切に感じたし。そのために達っちゃんも他の女性を好きになることは必要なことなのよ。」

言い終わると、まりえはビールのグラスに口をつけた。

「それって可笑しいだろう。それじゃ、まるで、あんたたちを好きになった誰かってあんたたちの愛情を深めるための道具じゃねえか。人を好きになるのって、めっちゃ勇気がいることだし、一生懸命だし、自分自身の全精力を傾けてるんだ。自分よりも大切な誰かのために、いつも必死なんだ。」

今まで一言も喋らなかった仁美が、バーンと机を叩いて大声を張り上げた。

「仁美、酔ってるよ。」

慌てて春美が止めに入る。春美の酔いは一気に醒めた。

「酔ってねえよ。」

春美の手を払いのけて、ぶすけて椅子に座り込む仁美。

「まりえさん、すみません。仁美、酔っているみたいで。」

そう言いながら仁美のグラスを見ると、泡も消えてしまった、全く減っていないビールが入ったままだった。

「私こそ、酔ったみたいで。変なこと言ってしまってごめんなさい。楽しくて思わず、図に乗り過ぎたみたい。」

ビールのグラスを置いて、しゅんとするまりえを慰めるように春美が声を掛けた。

「いいんですよ、まりえさん。お酒は楽しく飲まなくちゃ。それなのに、ちょっと、仁美が堅物なんです。」

そう言うと仁美を見た。まだぶすけている。

「まりえさんは、仁美の双子の弟の仁君を覚えていますか?」

「はい。大学のキャンパスで、私が仁美さんと間違えて声を掛けた人ですよね。」

「そうです。仁君がね、リアルタイムで苦しい恋をしているんです。許婚のいる人を好きになって。本当に、一生懸命で。仁美はずっと傍で見ていて、片思いの苦しさがよく分かるから、思わずまりえさんの話の相手が、仁君と重なってしまったんだと思います。まりえさんに対して怒っているんじゃありませんから、心配しないでください。」

「そうだったんですか。私ったら。私の不用意な一言が、仁美さんを傷つけてしまったわ。仁美さん、本当にごめんなさい。」

まりえは、申し訳なさそうに頭を下げた。

「お……私も悪かった。つい大きな声を出してしまって。」

「もういいじゃない。折角楽しく飲んでいるんだから。さあ、二人とも、湿っぽい顔は止めて飲みましょう。ね。明は飲みすぎ。寝ちゃだめよ。」

明は、言うだけ言って、酔うだけ酔って、寝てしまったようだ。

「仁美、今日からそう呼ばせてくれませんか。私のこともまりえでいいから。あなたとは初めて会った時から、ずっと前から知っているような不思議な感じがしているの。それに、あなたみたいに、はっきり私に向かって自分の気持ちを言ってくれた人、初めてだった。嬉しかったわ。私はね、一人じゃ何にも出来ないの。何にも知らないの。外での食事と言えば、両親と行ったレストランしか知らないし。電車やバスの切符の買い方が分からないから、出掛ける時は、運転手に送ってもらうか、タクシーに乗るしか方法を知らないの。例え困難にぶつかったとしても、父が盾になってくれるし、これからは達っちゃんが盾になってくれる。だから私は、自分の力で生きる方法を知らないの。ただ、父や達っちゃんに、大事に守られて生かされているだけなのかもしれない。」

「どうしたいの?」

仁美は、まりえの方に向き直って尋ねた。

「自分の足で生きてみたいの。達っちゃんと結婚して、達っちゃんに守られて生きていくことに不安はないけれど、私だけが寄りかかってしまったら、達っちゃんは、誰に寄りかかるんだろうって思う時があるの。二人で助け合っていくのが夫婦のあるべき姿なら、ただ守られるだけの私は、彼の妻になる資格がないわ。」

「手始めにどうしたいの?」

「手始めにって?」

「したいことがあるから、自分の足で立ちたいと思ったんじゃないの?何がしたいの?」

「(少し考えて)私ね、取り敢えず一人暮らしがしたい。」

「一人暮らし?」

「そう。誰にも邪魔されずに好きな時間まで起きていたいし、お米を買い忘れて、ご飯を我慢したりとか、色んな経験をしてみたいの。そして、打たれ強い自分になりたいの。」

“何か違う。飯を我慢して、打たれ強い?何か違うぞ。”と、仁美は心の中で思った。

まりえのお嬢様らしいピントがずれた言動に、仁美は呆れて言葉が続かなかった。

「本当はね、分からないの。何がしたいのか、どうしたいのか。分からないから、まず,一人暮らしをしてみたいの。そして困って、一つずつ自分の手で解決して、それで生きているって実感したいの。それぐらいしか思いつかない。」

「絶対、許可して貰えないだろうな。」

仁美は、自信たっぷりに言った。

「どうして?」

まりえは理由が分からないと言わんばかりに聞いてきた。

「ちょっと考えないと、自分がしたいことが分からないようじゃ、危なかしくって、一人暮らしなんかさせられないだろう。お……私が父親だったら、許さないと思うな。」

「じゃあ、どうしたらいい?仁美が、私の父なら、どうすればこの真剣な気持ちを分かってもらえる?確かに浮付いて聞こえるかもしれないけれど、私は私なりにすごく真剣で、真面目に考えたことなの。お願い。どうしたらいいか教えて。」

“教えてと言われても、かなり困る。”

仁美は、春美と顔を見合わせた。

「まりえさん、その答えは、仁美には出せないわ。ここにいる私や明にも無理よ。仁美の家とまりえさんの育ってきた家庭環境があまりにも違い過ぎるもの。」

春美は思わず口を挟んだ。

「少しでいいから自立してみたい。この気持ちをちゃんと父に分かってもらいたいの。自分自身と向き合って生きてみたいの。」

きっと、まりえが何かを欲しいと思ったのは、生まれて初めてなのではないかと、仁美も春美も思った。自分から欲することもなく、与えられてきた今までの年月は、仁美や春美にとっては羨ましい一面もあるが、その反面、たった一つのことさえ、自分の思い通りにはならない現実に、まりえの心の中の淋しさを見た様な気がした。

「分かってもらうための努力はしたの?誰かに何かを分かってもらいたいと思った時は、それなりの覚悟も犠牲も必要だと思うし、中途半端な気持ちでぶつかっても、相手には、中途半端な気持ちでしか伝わらないと思う。ただ、口先だけで分かってとせがんでみても、種のない実の様なもので、決して結果と言う花を咲かせることはない。今は諦めないで、じっくりと、まりえの気持ちを分かってもらえるように根気強く説得するしかないよ。根気強くね。」

「そうね。そうだよね。私のこの気持ちを理解して欲しいと思うばかりで、努力はしていなかったかもしれない。いいえ、何もせずに、父が私の気持ちを汲み取って、また与えてくれるんじゃないかと待っているだけだったかも。誰かが助けてくれるかもしれないんじゃないかって、また何かに頼っていたのかもしれない。私、やってみる。仁美、ありがとう。私、やってみるね。」

まりえは、仁美の首に両手を廻して抱きついた。途端に、赤面する仁美。

「ちょっ……と。」

まりえの髪からも、首筋からもいい匂いがしていた。仁の姿ならば言えなかったことも、仁美の姿なら素直に言える。自分の気持ちの中の突破口を開いたようで、大いにはしゃぐまりえを見つめながら、仁美の中の仁は、“この姿も結構捨てたものじゃない”と、思っていた。


大宴会の翌日から、大学のキャンパスで、まりえの姿を見掛けなくなっていた。日頃、そうそうは遭遇しない仁とまりえであったが、一週間が経過しても、まりえの姿を、ちらりとも目にすることはなかった。仁は、無性に不安になってきた。この前の夜、あれだけ意気込んでいたまりえのことだから、何かとんでもないことを思いついて、とんでもないことをやらかしているのではないかと。ある意味まりえは、極端から極端へと考えが飛んでしまう帰来があるようで、危なっかしくて、仁は言いようのない不安にかられていた。

 そう考え始めると、いた堪れなくなった仁は、まりえとよく行動を共にしている大学での友人にも色々聞いてみることにした。

「ここ一週間ほど、まりえは大学に来てないわね。」

「そうそう、掲示板にも、教授からの呼び出しメモが貼られているし。講義にも出ていないんじゃないかしら。」

「どこの掲示板?」

「うちの学部の教務室の掲示板よ。あそこよ。」

指差された掲示板に行ってみると、確かにまりえを呼び出すメモが数枚貼られている。違う名前の教授から、幾日かに渡っているようだ。一番古いもので、あの夜の三日後のものがある。

「水曜日から大学を休んでいるんだ。」

仁は、独り言を呟いた。今日が火曜日だから、もう一週間になるではないか。

仁は先程よりも不安が増してしまい、思わず、まりえの家の方向へ足が向いていた。

「あなた、西原さんじゃない?」

走り出した仁を呼び止める声がした。

「やっぱり西原さんよね。双子のお姉さんに、本当にそっくりだわ。」

「あの……あなたは、まりえさんとコンサートの日に一緒にいましたよね。」

「えっ。あの夜、弟さんもいたっけ?」

「(やばい。俺はいないんだった。)あの、俺に何か?」

「そうだった。仁美さんに、お姉さんに伝えてくれない?まりえね、今、お父様に軟禁されているのよ。」

「軟禁?」

軟禁とは、ただ事ではないようだ。

「そうなの。一人暮らしをしたいって、お父様に迫ったらしいんだけど、許可してもらえなくて、それで親子喧嘩を派手にやったらしいわ。まりえにとっては生まれて初めてのことでしょうけど。それからお父様から外出も禁止されて、携帯も取り上げられているらしいの。いくら電話しても出ないから家まで行ってみたら、お手伝いさんがそっと教えてくれたわ。まりえね、お父様に対抗して、ハンストしているらしいのよ。」

「ハンストって、あの飯を食わないっていう?」

「そうなの。すごくお手伝いさんが心配していたわ。まりえがここまでするとはねって。聞いた私もびっくりして、信じられないの。」

「それで、まりえさんの様子は、どうなんですか?」

「体のほうは心配ないわよ。お父様が大病院の院長ですもの。ただ、親子でお互いに引き下がれなくなっているんだと思うの。どこかで折り合いをつけないと、お互いにしんどいばかりだし。でもね、当事者間ではここまで意地の張り合いをしたら、解決は無理だと思う。そこで、まりえがとても信頼している仁美さんに、まりえを説得してもらえないかしら。もう少し冷静にお父様とお話しをするように、言ってもらえないかしら。」

「仁美には無理だよ。まりえは、見かけとは違って頑固だから。いくら仁美が言ったって聞き入れやしないよ。」

「そうなのよね。ああ見えて頑固なのよ。あなた、まりえのこと、よく分かっているのね。」

「(まずい。)そんな気がしたんだ。仁美から話は簡単に聞いていたし。仁美には、一応、俺から言ってみます。何にも出来ないだろうけど。かと言ってこのままにもしておけないし。教えてくれてありがとうございます。」

「仁美さんに、まりえを宜しくお願いしますと伝えてください。まりえにとって仁美さんは、知り合って日は浅いけど大きな存在なのだと思うの。そういうことってあるじゃない。何故か気が合うとか、惹かれ合うとか。月日の長短ではなくて。仁美さんとまりえには、そういう“絆”があるのだと思う。まりえをちゃんと引き上げる力が私にはないのが残念だけど。」

しょんぼりとしている様子を見かねて、仁は、

「今、こうして引き上げたじゃないですか。わざわざ家まで訪ねて、まりえさんの様子を伺ってきたし。俺にこうして話してくれた。仁美とは違う“絆”が、あなたとまりえさんの間にはあるんだと思いますよ。」

「(にっこり微笑んで)ありがとう。いい男ね、君って。顔もいい男だけど。」

この手のお姉さまには気をつけないといけない。


仁は、すぐにアパートに戻ると、仁美に化けて、北条病院の院長室を訪ねた。才色兼備な秘書らしい女性の制止を振り切って、仁美は院長室へ乗り込んだ。

「仁美さん。突然、何の用だね。」

突然の仁美の訪問に九月の定期演奏会とは別人のような対応であった。

「突然お伺いしたことをお許しください。今日はまりえさんのことでお願いがあって来ました。まりえさんの初めてのわがままを聴いてやってもらえませんか。家族の問題に口を出すようで心苦しいのですが、このままにしてもおけませんし。お願いします、今一度まりえさんと話し合ってもらえませんか。」

仁美は、咄嗟にその場に土下座していた。

「唐突になんだね。他人の家の内情にまで口を挟むとは、いくら君でも無礼ではないのか。」

「承知の上です。本当は、お……私だって口を挟みたくはないですよ。でも、まりえがハンストまでして、頑張っていると聴いて、放っておけなかったんです。」

「まりえのことは、親である私のほうが良く分かっている。あの娘の性格を考えると、ハンストされようとも、一時のわがままを許可する訳にはいかない。君にそこまで指図される必要もない。」

仁美は、北条の足元に土下座をすると、決して頭を上げようとしなかった。

「確かにまりえはお嬢様だし、世間知らずだし、今回のことにしたって、どうしてこうも極端から極端に考えが飛ぶのか、半分呆れています。でも、まりえとは知り合って日も浅いですが、きっと彼女にとっては、生まれて初めてのわがままじゃないかと思うんです。おじさんからみたら突拍子もないことかもしれないけれど、まりえなりに、今回のことはよくよく考えてのことだと思います。今の行動からすれば、思慮深いとは言えないかもしれませんが、お……私からみたら、まりえなりに一生懸命考えた結果だと思います。まりえがここまで何かを欲しいと強請ったり、何かを願ったりしたことがあったでしょうか。おじさんにとっては、いつまでも子供かもしれないけど、たった一度だけ、あなたの娘を信じてもらえませんか。たった一度でいいんです。まりえの話をゆっくり聞いてもらえませんか。まりえの願いを叶えてやってもらえませんか。自分で挑戦してみて、もし失敗してしまったらまりえ自身も納得出来ると思います。その時に改めて叱って諭しても遅くはないと思います。たった一度だけ、まりえの思う通りにさせてください。たった一度だけでいいですから、お願いします。」

北条は、仁美から目を離さなかった。

 そして、深くため息をついた。

「君がそこまでまりえのことを思ってくれるのは、ありがたいことだと思う。しかし、君には何の責任もない。失敗してからでは遅いこともあるのだよ。娘が間違った道を行かないように、叱ってでも分からすのが親の務めだ。」

「娘を信じてやるのも親の務めではないでしょうか。親にさえ信じられていないと思うことほど、辛いことはないと思います。」

「君は……」

「お……私は親でも兄弟でもないので、最終的な責任は何もとれないかもしれません。でも、お……私に出来ることがあれば、これから先ずっと、まりえさんの力になりたいと思っています。お願いします。もう一度だけ、まりえさんの気持ちを聞いてやってもらえませんか。お願いします。」

終始、仁美は顔を上げようとはしなかった。

「顔を上げてください。」

北条は、自らも膝を付き、仁美の手を取ると、立ち上がらせた。

「どうしてそこまで、まりえのために?知り合って間がないと聴いているが。君が自分のプライドを捨ててまで、どうしてまりえを庇おうとするのか、私には理解出来ない。」

「まりえさんは知りませんが、初めて会ったのは、バイオリンのレッスンの帰りの夜ではないんです。もっと前に、一度会っているんです。まりえさんは覚えていないと思いますが。」

「知り合ったのは、まりえを助けてくれた夜ではないと?」

北条は、仁美をソファに腰掛けさせながら聞いた。

「はい。大学の音楽堂で、バイオリンを弾いている姿を偶然見掛けました。ただそれだけのことなのですが、その日から、まりえさんのことが忘れられなくなりました。変に思われるかもしれませんが、運命を感じました。そういうことってありませんか?何故か気が合うとか、何故か虫が好かないとか。」

「あるかもしれないね。」

「あの夜もたまたま偶然通りがかって、気が付いたら、まりえさんの前に飛び出していました。」

「そうでしたか。」

「はい。それからまりえさんが、お……私を探してくれて、あの演奏会に誘ってくれました。そして、今に至っています。」

「まりえにとっても、あなたは運命の人だったのでしょう。あなたの気持ちは、よく分かりました。正直、安心しました。まりえとは、今夜、もう一度ゆっくり話をしてみましょう。」

「ありがとうございます。」

「ただし、条件があります。私もあなたやまりえの言い分を聞くのですから、私の言い分も聞いていただきますよ。」

「……」

「断ることは出来ません。あなたは、はっきりと自分に出来ることは何でもするとさっき言いましたからね。(意地悪く微笑んでみせる。)心配いりませんよ。大したことではありませんから。」

「……(ぐっと唾を飲み込む)」

「もし仮にまりえに一人暮らしを許可したとしましょう。その時は、仁美さんに同居していただきたいのです。」

「ちょつ、ちょっと待ってください。それは、ちょっと無理です。それじゃ一人暮らしになりません。」

仁美の中の仁が焦る。

「あなたは確かにその口で、自分の出来ることは何でもすると言ったではありませんか。それが、まりえの話を前向きに考える条件です。その条件以外は飲めませんね。」

“おじさんは,完璧に俺を女と信じている。まりえと同居なんて、そんなことしたら、狼の中に子羊を放り込むみたいなものだ。俺だって、理性が何処まで続くか自信ないし。”

「あなたの言葉は口先だけのでまかせだったのですか。その場だけの、親友の振りなら、私もまりえの話を真剣には聞けませんね。」

仁美の中の仁にとっては、苦渋の選択である。

「分かりました。一か八かです。今夜、まりえさんとゆっくり話をしてください。その結果次第では、私も出来る限りの努力・・・・・・いえ、協力します。宜しくお願いします。」

仁美はもう一度しっかりと頭を下げた。

「よく決心してくれました。今夜、まりえともう一度話し合ってみますよ。あの娘の言いたい事は分かっていますが。では私は早速、私なりに準備にとりかかりましょう。」

「あのう、住む所なら、本人に任せてやってください。彼女に探させてみてください。そこからが、独立の一歩だと思います。」

「そうですね。口出しをするのは、まりえが捜してきた物件を見てからにしよう。何からでも、ついつい口を挟むのは、私の悪い癖だ。」

「これからは、一つ一つのことが練習です。おじさんにとっても、まりえにとっても。」

「まりえは、いい友人を得たね。いつまでも仲良くしてやってください。」


「お前,馬鹿じゃないのか。信じらんねえ。」

北条の病院からの帰りに、仁は、明のアパートに立ち寄った。案の定、明は、声を荒げて驚いた。

「お前、一緒に住むということは、四六時中一緒にいることだぜ。今みたいに、用がある時だけ女装して出かける訳にはいかなくなるんだ。それがどういうことか分かってOKしてきたのか?」

「仕方がなかったんだ、なりゆきで。それが、まりえの望みを叶える唯一つの条件だって言われたら……仕方がなかったんだ。」

「お前なあ、朝起きてからの自分の行動を考えてみろよ。寝ぼけてようが、風呂上りだろうが、かつら被っていられるか?スカート履いていられるか?お前と架空の仁美とを区別するには、その二つしかないんだ。それが出来るかどうか、真剣に考えてみたのか?」

「……」

明の声はどんどん大きくなる

「いくら好きな女のためでも、仁美が存在しないってことがばれてしまったら、何もかも、今までの信頼関係も全て終わりなんだ。お近づきどころか、そうなったら、彼女のためにもならないし、お前のためにもならない。そこまでちゃんと考えたのか?ちゃんと考えて決めたことなのか?」

「……考えてなかった……」

仁はぽつりと呟いた。

「(呆れ果てた様子で)話になんないな。」

「明……どうしよう……」

「今更遅いよ。」

「明君……」

仁は猫なで声を出した。

「自分で考えろよ。自分が引き受けてきたんだから。」

「明君……」

もう一度猫なで声で迫ってきた。

「……仕方がない。春美に相談に行こうか。あいつなら、なんとかしてくれるかも。」

 二人は困った時の春美頼みのように、春美のアパートを訪ねた。

「えっー。無理。無理。二人で揃って来たから、またまた、嫌な気がしたけど。無理。無理。私だって考えられない。」

「はるみい。もう、お前しかいないんだ。助けてくれよ。」

明は大明神のように春美に手を合わせてみせた。

「明、無理だって。最低、まりえさんより先に起きて化粧して、まりえさんより後に寝るぐらいはしないといけないだろうし、女装して出かけて、明ん家で着替えて大学行かないといけないだろうし。それから、メイクを自分で出来るようにはならないとね。それから・・・・・・。」

「はるみい。やっぱり春美だ。そうだ、俺ん家に、仁の荷物置いとけばいいんだ。仁だって、二部屋も借りる財力ないだろうし。なあ。」

「ああ、助かるよ。取りあえず、今のアパートは引き払わないとな。俺って浅はかだ……」

「全く。」

春美と明は声を揃えた。


それからの三人は、またまた忙しかった。仁の引越しに仁美の引越し。綿密な生活スケジュールの計画。春美は仕事、仁と明は大学に行っている以外は、三人でいることが多かった。

「とうとう明日は引越しだ。」

綺麗に片付いた仁の部屋で、三人は最後の晩餐をしていた。

 仁の一言で、一同、一瞬静かになる。

「私、酔ったみたい。」

春美は、飲みかけの缶ビールを片手にベランダに出た。風が気持ちいい。

「もうすっかり秋の風だなぁ。」

明も缶ビール片手にベランダに出てきて、春美の横に寄り添った。

「そうね。演奏会を聞きに行った帰りは、まだ、風が暑かったのに。」

「あんなに暑かった夏の後に、ちゃんと秋はやって来るんだなあ。」

明は、酔ってぽおっと頬を赤らめている春美の横顔を覗き込んだ。

「どうしたの?」

春美は、ぶっきら棒に聞いた。

「いや、最近のお前って、なんだか楽しそうだよな。」

「えっ。何でよ。」

途端に焦りだす春美。

「なんとなく。いつもニコニコしているし。」

「そうかなぁ。」

「恋…・・・、しているみたいだ。」

明は溜めて言う。春美は、咄嗟に向き直った。

「な、ない、ない。絶対ないし。」

「そんなに力入れて否定しなくても。相手が誰とは言っていないだろう。ただ単純な感想と言うか。最近、綺麗になったと言うか……。」

明の顔は、酔っ払ってか、どんどん耳まで赤くなっていった。

「……。」

「……。」

目を逸らしたまま、二人は無言で缶ビールに口を付けた。

「あれれ、二人してこんな所で飲んでる。何が見えんの?」

仁は、二人並んでベランダから下を覗いているので、思わず気になって一緒に下を覗きこんだ。

「何も無いけど。」

仁は、本当に何もない目線の先を、今度は明と春美の方へかわるがわる向けた。

「仁、さあ、中でもっと飲もう。どうせ自分の部屋で思いっきり飲めるのは今夜が最後だしな。明日っからは、大人しいお嬢様を演じろよ。仁美ちゃん。」

明は、仁の肩に手を回すと、とってつけた様にしゃべり続けた。

春美は、ベランダに残って、缶ビール片手に夜空を見上げた。

「綺麗……か。」

今夜は酔えなかった。


翌日、一旦引き上げた春美は、トラックが来る午前九時前に、仁のアパートを訪ねた。男どもは、まだ寝ている。鍵も掛けずに。

「仁、明、起きた、起きた。トラックがもう来るよ。」

春美が言うのが早いか運送屋のチャイムが鳴るのが早いか、まだ夢の中だった仁と明は、目を覚ますと同時に次の行動を起さないといけなくなった。

「だから帰る時にあれほどトラックが来るのが朝早いんだから、深酒はだめよって言ったじゃない。本当に馬鹿なんだから。」

「ごめん。」

春美は、仁と明がぐちゃぐちゃにした部屋を片付けながら、世話女房の様に文句を言い、仁は照れながら謝った。

「すみません、もうこのダンボールとか運び出してもいいですか?」

運送屋の二人は、部屋の片方に積まれているダンボールを指差した。

「はい、こっちのダンボールは、3丁目のアパートに持って行く方なので手前に積んでください。この辺の物も。あとこっちのダンボールは(向き直って反対に積んである少量のダンボールと家財道具を指差し)隣町のマンションまで行く荷物なので、先にトラックに載せてもらっていいですか?」

「はい、了解しました。」

春美の手際よい指示で、運送屋の二人はテキパキと荷物を運び出した。

「ほら、せめて顔くらい今の間に洗ってくる。」

春美は、ボーっと突っ立っている仁の背中を押して、そのまま洗面所へ押し込んだ。

「早くね。」

そう言うと、まだ寝ている明の頬をぺちぺちと軽く叩きながら揺り起こした。

「もう少し。」

全く起きる気配がない。

「明、あなたがいないとアパートに荷物入れられないじゃないの。いい加減起きてよ。」

「はるみぃ。どうした?」

目ボケ眼の明は、春美の周りを見渡して驚いた。

「何?荷物がない。どうした?」

「だから夕べ言ったでしょう。トラックが来るのが朝早いって。運送屋さんたちは、もう来て荷物運び出しているよ。明のアパートへ先に寄るんだから、早く起きて支度してよね。」

「はい。」

明はまだ寝ぼけているが、むくっと起き上がると、立ち上がってボーっとしていた。

 作業は一時間程で終わり、何も無くなったガランとした部屋が残った。

「仁?」

部屋の中をじっと見つめる仁に、春美が声を掛けた。

「なんか、東京に出てきて、最初にこの部屋で過ごした夜を思い出した。」

「えっ?」

「手違いで、荷物が届かなくて、丸一日こんな何もない部屋だったんだ。」

「へえ。そうだったの。」

「ちょっとおセンチだ,俺。」

春美は仁の背中をそっと押すと

「仁。もう行こうか。トラック待っているし。明も先に車に乗っているから。」

「そうだな。」

仁は、もう一度だけ空っぽの部屋を見渡すと、踵を返してドアの外に出た。

明の車の後を、荷物を積込んだトラックが走る。仁のアパートから明のアパートは、目と鼻の先である。

 しかし、車で走るとなると、結構距離を稼ぐ。学生のアパートが軒を連ねるこの界隈は、路地が多いのだ。明は、出来るだけトラックの通りやすい、分かりやすい道を選んで走った。

「着いたな。」

明は車を駐車場に停めると、シートベルトを外しながら呟いた。

「荷物は、この部屋にお願いします。」

春美はとっくに車から降りて、運送屋の二人を部屋へ誘導していた。ちょっとセンチな仁と、まだまだ酔いが抜けきらない明とは対称的だ。

「明、早く部屋の鍵を開けてよ。」

「ああ、ごめん。」

明は、車の鍵を抜くと、一緒のキーケースに収まっている部屋の鍵で、アパートのドアを開けた。

と同時に、待ち構えたように荷物が運びこまれた。学生の割には、広い部屋を使用していた明の城は、あっという間に、仁の荷物の入ったダンボールで埋まった。

 しかし、一刻の猶予もない。直ぐに、隣町のマンションに荷物を運ばないといけない。まりえは、とっくに家を出発しているはずだ。

「仁、着替えるか。」

「ああ。」

仁は、手荷物にしていたボストンバッグから、女物の洋服やかつらを取り出すと、着替えを始めた。焦ったのは運送屋の二人だ。顔を見合わせると、そそくさと部屋の外に出た。

「やばい、おかまと間違えられたかも。」

「いいよ、いいよ。まりえさんにばれた訳じゃないんだから。それより仁、スカートは履かなくていいからね。いくら女の子でも、引越しの日にスカート履く子はいないから。上だけ着替えたら、こっちでお化粧するから来てね。」

「うん、分かった。」

仁は、玄関を入ってすぐのダイニングで着替え、春美は、その奥の部屋に入って、化粧道具を準備し始めた。明のアパートは、2DKの広さを持っていて、十分、仁の荷物にも耐えられる。

「春美、着替え終わったよ。」

仁は片手にかつらを下げて、奥の部屋に入って来た。

「あっ、仁、着替えたなら、こっち座って。急がなくっちゃ、まりえさん待っているよね。」

春美は、左の壁に掛かっているミッキーマウスの時計で時間を確かめた。もう十一時を廻っている。

「春美、俺、なんか自信ないよ。」

化粧をしてもらいながら、仁は言った。

「誰だって、仁と同じ立場なら自信持てないと思うよ。まして仁は、心も体も健全な男の子なんだし。」

ファンデーションを塗りながら、近づいていく顔と顔に、春美の心臓は高鳴っていた。

「俺って、馬鹿だよな。春美や明に迷惑掛けて。これからどうなるか分からない恋に、ここまでのめりこんじゃって。本当に馬鹿だ。」

「仁、いいじゃない。私も明も迷惑だなんて思っていないから。変な心配しないで、ね。」

「お前って、いつから俺のこと“仁”って呼び捨てにするようになったっけ?」

「えっ?そう言えば……まあいいじゃない、硬いこと言いっこなしで。仁は、仁なんだし。」

「そうだな、まあいいか。」

二人は、クスクスと笑いあった。

「お前ら二人、仲良くていいよなあ。俺は一人でダンボールと格闘してんだぞ。」

明は、ダイニングのテーブルの上やら冷蔵庫の前やらに詰まれた仁の荷物が入ったダンボールを、せっせと片付けていた。

「運送屋の兄ちゃんたちに手伝ってもらえばいいじゃないか。」

「馬鹿仁め。お前が、兄ちゃんたちがいる目の前で、スカートやらかつらやら取り出すから、身の危険を感じて中に入って来ないんだよ。この辺りの荷物だけでもどかしとかないと、冷蔵庫も開けられないぜ。」

「どうせ大きいばっかりで中身が入っていない冷蔵庫じゃない。今更、何を言ってんのよ。」

「春美、お前、俺ん家の冷蔵庫の中、いつ見たんだ。」

「見なくても分かるよ。いっつも仁の所か、沢山いるガールフレンドの所にいるじゃない。家でご飯なんか食べたことないじゃない。」

「お前、そんなことまでどうして知っているんだよ。さては、俺の後をつけてたな。」

「だあれが、明の後を付回したりするのよ。」

「夫婦漫才だな。」

手を止めて、ぎゃあぎゃあと言い争っている春美と明の間で、ぽつりと仁が呟いた。

途端に二人は口を止め、手を動かし始めた。反論もしない。しないと言うよりも出来ないのだ。明は春美に好意を持っている。付き合いは長いけれども、数々いるガールフレンドの一人で、自分の気分次第で会いに行く程度の女と思っていた。都合の良い女友達の一人だった。

 しかし、いつも俺だけを必ず見ていて、俺をいつも同じ場所で待っていてくれるはずの春美が、親友の仁に恋をしているらしい。そう気が付いた時から、明の心の中の波風は納まらない。春美に向けられていた穏やかな海の様だった明の心は、突然の嵐に見舞われ始めたのだ。嫉妬……まさにその言葉がふさわしい。人の物になるのが惜しい。そうかもしれない。おもちゃを盗られた子供と同じなのかもしれない。ただ、春美のことが気になって頭から離れないし、仁と春美が仲良さそうな様子を見ると、胸がチクチクうずく。つまらない気分になるのだ。

 片方の春美も言い返せない。春美は仁を好きになり始めている。何処まで行っても苦しい恋かもしれない。報われない恋かもしれない。仁がまりえに振られても、自分を見てくれるとは限らない。それでも心が惹かれていく。待つだけの恋には慣れっこだから。

「出来たよ。」

沈黙を破ったのは、春美の一言だった。

「それじゃあ、行こうか。」

明の力ない声で、一同は立ち上がった。

隣町へ向かうマンションへの車の中でも、終始無言の三人だった。明のアパートへ行く途中の車の中とは大違いで、メンバーが入れ代わったかのような静けさだった。運送屋の二人も、化粧してかつらまで被って出てきた仁の姿に、二度びっくりすると、明らかに距離を十二分に取っているようだ。

 しかし、三人にとっては、その程度のことはどうでもいいことだった。

トラックのノロノロ運転に付き合う内に、マンションに着いたのがお昼の一時近くになっていた。明の車に続いてトラックがマンションの駐車場に停まると、エントランスホールで待っていたのだろうか、まりえが直ぐに走って出てきた。

「仁美、いらっしゃい。待っていたのよ。」

「まりえ、遅くなってごめん。」

「いいの、いいの。私の荷物はもう入れてしまったから、仁美のお手伝いが出来るわよ。そう思って張り切って片付けちゃったし。」

「うん。」

「さあ運ぼうか。」

まりえは腕まくりをすると、トラックの荷台に向かって歩いた。

「いいよ、まりえ。危ないから。大丈夫だから。それよりダンボール開封したら、手伝ってよ。ね。」

「(しゅんとしながら)分かった。そうするわ。」

またまた運送屋の二人は、顔を見合わせると怪訝そうに首をかしげた。この人物の相関図が読み取れないらしい。

「まりえ、エレベーターのボタンを押しててもらっていいかな。」

仁美は大きな机を明と運びながら、まりえに声を掛けた。張り切っていた割には仕事が無く、手持ち無沙汰なまりえは、大喜びで、二つ返事でエレベーターのボタンを押した。家具類は多かったが、比較的荷物は少なかったので、引越しはあっと言う間に終わった。

 料金を支払って運送屋が引き払うと、四人が新しいマンションの一室に残された。新しいマンションは、建物自体も新しく、玄関を入ると奥のリビングに続く長い廊下があり、その両脇に仁美とまりえの部屋やサニタリースペースがある。台所は対面キッチンになっており、ちょっと豪華な明の部屋でさえ目じゃないくらいに立派だった。今日から住むはずの仁美でさえ、今、初めて中に入ったのだ。

「すご〜い!!」

まず、春美がリビングを見渡して声を上げた。

「テレビに出てくるような部屋だよな。」

明もきょろきょろしている。

「一体、家賃いくらするんだろう。」

仁美が続けた。

「家賃なんていらないわ。この部屋は私の物だもの。大家がいらないと言っているんだからいらないわ。」

「それはまずいよ。ちゃんと払うから。」

「仁美からお金なんてもらおうと思っていないわ。」

「それじゃあ、気が済まないよ。」

「もう怒るよ。仁美からお金もらったなんて知ったら、父からも叱られるわ。」

二人の遣り取りに危機感を感じた明が口を挟んだ。

「まあまあ、それくらいで。いいじゃないですか。まりえさんもああ言ってくれていることだし、同居初日から言い争いすることもないし、仁美は仁美の出来ることを、まりえさんにしてあげればいいじゃない、それで。これからのことは後でゆっくり考えるとして。そうしよう。な。」

「分かった。」

「明さんの言う通りね。初日から喧嘩なんかしたら、時間が勿体ないよね。仁美、ごめんなさい。」

「まりえ、私こそごめん。」

仁美とまりえはしゅんとしながらお互いに謝った。

「じゃあ、さっさと片付けて、引越し祝いでもしませんか。」

まりえは、この日のために用意したシャンパンや、家から作って持って来た料理を並べ始めた。広い台所には冷蔵庫が二つ並び、電子レンジが二つ並び、炊飯器も二つ並んで置かれた。

広いリビングの端っこで、ラグに座り込んで、四人はくつろいだ。明の酔いが廻るのが特に早い。いつの間にかごろりと横になって、ちびちびと飲み続けた。

「まりえさんって、結構アルコール飲めるんですね。」

「えっ、そうですか。春美さんは、あまり飲まないのですか?」

「私は……ビールを、ちょこっと飲む程度です。どちらかと言うと甘い物のほうが好きだし。だけど、ビールを飲みながらおつまみにチョコレートとかはだめなんですけど。」

春美の言葉で思い出したように、

「あっ、そうだった。チョコレート買っていました。忘れていました。」

まりえは、冷蔵庫から高級そうなチョコレートの箱を取り出すと、ニコニコとちょっぴり自慢気に、箱を開けて春美の前に置いた。

「このチョコレート、すっごく美味しいですよ。食べてみてください。本場ベルギーのチョコレートなんです。一個試しに食べてみてください。もう止まらなくなるから。」

春美は“さっきおつまみにチョコレートは苦手と言ったのに”と思いながら手を出しそびれていた。

「まりえさんって、チョコ好きなんですね。」

「えっ、そうですか。分かりますか?私は、ビールにチョコもOKだし、ワインにチョコも大丈夫なほうなんです。」

そう言いながらどんどん口に運んでいく。

「なになに、美味しいチョコレートがあんの?」

仁美が首を突っ込んで、手を突っ込んで、チョコレートを一つ口に運んだ。

「美味い。これ、すっごく美味いよ。」

春美は、仁美に肘鉄を食らわし、仁美はカクンと体が揺れた。

「仁美は、男兄弟だから、時々汚い言葉使って。」

「ああ、美味しいね、このチョコレート。」

慌てて言い直す。まりえは、男言葉だろうが女言葉だろうが、気が付かない様子だ。かなり酔っている。その様子を見た仁美は、まりえに小声で耳打ちをした。

「なあ、春美。まりえって、酔っていても分からないよな。あれ、大分酔っているみたいだけど。」

「うん、結構酔っているよね。顔とかに出ないタイプなんだ。」

明は缶ビールを握り締めたまま、ラグの上で眠り込んでしまった。

「明、明、もう帰らなくちゃ。」

春美が明を起そうにも、ぐっすりと眠り込んでしまっている。

「春美、このまま寝かせとこうよ。どうせ車の運転も出来ないんだし。帰れないんだから、このままお前も一緒に泊まれよ。」

「だけど。」

「まりえもこんなに酔っているし、春美がいてくれると助かるよ。」

「……うん。」

明の手から缶ビールを取って、クッションを枕代わりにしき、そっと毛布を掛けた。まりえは、仁が抱き抱えて部屋に運び、ベッドに寝かせた。

「春美、後は頼むよ。」

「分かったわ。」

仁美の後からまりえの部屋に入った春美に、まりえの世話を頼むと、仁美は明の横で、少しだけビールに口を付けた。今日は朝からおセンチだ。

 その時、突然、部屋のまりえの電話が大きな音で鳴った。みんなを起してはいけないと、慌てて仁美は電話にでる。

「もしもし。」

「ああ、仁美さんですか。北条です。」

「おじさん。」

「引越しは無事に終わりましたか?まりえは今どうしていますか?」

視線をまりえの部屋の方に移す。

「あのう、疲れたようで眠ってしまいました。」

「そうですか。夕べから、はしゃいでいましたし、毎日夜遅くまで、荷造りをしていたようですから、きっと疲れたのですね。どうですか、部屋は気に入っていただけましたか?」

「あのう、家賃をおじさんが受け取ってもらえませんか?今日早速、家賃のことでまりえと言い争いになりました。まりえにはこれ以上言えませんし、ただで住まわせていただく訳にもいきません。これからは、おじさんにお渡ししてもいいですか?」

「家賃のことなんていいじゃないですか。まあ、女性の二人暮らしなので、セキュリテイとか考えて少し張り込みはしましたが、大事な二人の身の安全を思えば、安いものです。あなたはそんなこと気にせずに、まりえとの楽しい同居生活のことだけ考えてください。」

「しかし……」

「また、いずれその話はしましょう。私は、仁美さんに、まだ子守のアルバイト料まで支払わなくてはと思っているくらいですから。」

「おじさん。」

「今夜は、あなたも疲れているでしょうし、明日は講義があるのでしょう。ゆっくり休んで、新しい生活に早く慣れてください。それからまた、話をしましょう。それじゃあ、まりえのことを宜しくお願いします。」

「はい、分かりました。失礼します。」

「お休み。」

受話器を置いた途端、大きな溜息が仁美を襲った。仁美というよりも、その中の仁を襲ったのだ。

“あんないい人を俺は騙しているのだろうか。俺が本当は男だったと知ったら、あの娘想いのおじさんのショックはいかばかりだろうか。

でも、今更嘘をついていましたと、引き戻せない。これが正しいんだと思い込んで前に進むしかない。今していることが間違っていたとしても。“

仁美はまた明の横に座って、新しい缶ビールの蓋を開けた。飲みたくないのに、ビールが進む。

「仁美、まだ飲んでいたの?」

まりえを寝かしつけて、春美が部屋からリビングに出てきた。

「今の電話、誰からだったの?」

「まりえのお父さん。」

「そう。罪悪感?襲ってきた?」

仁美は、まさに自分の気持ちを言い当てられて,のけぞった。

「何で分かるんだ。」

「仁美の考えていることくらい分かるよ。」

「単純だから?」

「いい人だから。」

春美も横に腰を下ろして、新しい缶ビールの蓋を開けた。

「こいつは、のんきでいいよなあ。」

仁美が明を見つめて、しみじみ言う。

「本当だね。本能のままというか、子供のままというか。今度生まれ変わるなら明がいいよね。」

仁美と春美は、幸せそうな寝顔の明を無言で見つめて、同時に頷いた。


そして、夜が明けた。

仁美も春美もいつの間にか眠ってしまっていた。目を覚ました春美の顔の横に、仁美の綺麗な寝顔があった。長い睫毛に整った唇。春美はそっと、仁美の頬を撫でてみた。仁美が目を覚まさないと分かると、そっと仁美の唇に自分の唇を重ねてみた。仁美は目を覚ましはしなかったが、春美の目から、一筋の涙が零れた。

 そのまま春美は起き上がると、キッチンに行き、仁美の冷蔵庫の中をまさぐって、朝食の用意をすることにした。今のキスは、自分だけの秘密であると胸にしまって。

 しかし、人の気配を感じて起きた明は、寝たふりをしていたが、春美の一連の行動を見てしまっていた。春美の気持ちを思うと、寝たふりを続けるしかなかった。心臓が高鳴り、

焼きもちという感情が湧き上がって来る。ここにも恋に愚かな男が一人居たのだ。

「おはようございます。私、いつの間にか寝ちゃったんですね。」

まりえが起きて来たので、明もタイミングを外さずに、今起きた振りをした。

「おはよう。ああ、よく寝た。」

大きく伸びをして立ち上がると、ダイニングの椅子に腰を下ろした。

「あれえ、春美、もう起きていたんだ。」

今知ったという振りまでした。

「おはよう、まりえさん、明。」

春美は、キッチンから朝食の用意の手を止めずに挨拶をした。

「うわあ、何、何?朝ごはん?美味しそう。これ全部春美さんが作ったの?」

「ええ。仁美の冷蔵庫の中、何にもなかったから、悪いと思ったんですけど、まりえさんの冷蔵庫も開けさせてもらいました。」

「いいですよ。どうぞ、どうぞ、自由に使ってください。お味噌汁にハムエッグにサラダに、すごいわね。」

「いいえ、簡単な物しか出来なくて。じゃあ、仁美を起して食べましょうか。お腹減ったでしょう。」

「あっ、私が仁美を起して来ます。」

「あっ、お願いします。」

起こしに行きかけた足を止めて、春美は、お茶碗の用意をする。

「春美さん、何でも適当に自由に使ってくださいね。」

「あっ、はい。」

まりえは、リビングのラグで眠りこける仁美を起こす。

「おはよう、仁美。起きて。」

まりえは跪いて、仁美の耳元で声を掛ける。

「なんだよ、明。五月蝿いから。」

「仁美、ご飯出来ているよ。ほら、早く起きて。」

「明、五月蝿いって。」

と目を開けた瞬間、仁美は「うわーっ。」と奇声を上げた。

「な、なんで、まりえがここに。」

「仁美、何、寝ぼけているの。昨日引っ越して来たでしょう。ほら、早く起きてみんなでご飯食べましょうよ。今朝は、春美さんが作ってくれたのよ。」

仁美は、自分の格好と辺りを見回すと、やっと現実に引き戻された。かつらがずれてないか、窓ガラスに映して確認する。これからの生活、万事が万事こういう危険と隣合わせだろう。仁美は、天使のような笑顔のまりえに微笑み返しながら、先行きの不安を隠せないでいた。

食事が終わり、後片付けを済ませると、春美は身支度を整えて、帰る準備をしている。

「それじゃあ、私はこれで。まりえさん、お邪魔しました。」

「春美さん、また是非、近いうちに寄ってくださいね。」

「はい、ありがとうございます。」

「春美、俺も一緒に帰るよ。車で送っていくから。」

明は上着のポケットから車の鍵を出しながら靴を履いている。

「明、今日は講義ないんでしょう。ゆっくりしていったら。」

明は、春美の顔も見ずに答えた。

「いや、急に補習が入ったから、今日は大学に行くよ。用意できたか。」

「うん。」

「仁美、後でな。」

「昨日はありがとうございました。明さんも春美さんもまた是非、いらしてくださいね。」

二人は、見送りに玄関まで出てきたまりえと仁美に挨拶をすると、一緒に玄関を出た。

マンションのエレベーターの中で、いつもと違って明が無言だ。

「どうしたの、明。いつもなら変なおやじギャグ言ってくるのに。」

「どうもしないよ。ちょっと眠いだけ。」

やっぱり春美の顔を見ようともしない。

「そう。運転、気をつけてね。私、若い身空で明と心中は嫌よ。」

「(目も合わさず)分かってるよ。」

エレベーターを降りて車に乗り込んでも明は無口で、春美のアパートに着いて、やっと口を開いた。

「送ってくれてありがとう。明も気をつけて帰りなよ。」

春美は車を降りると、運転席の方へ廻って窓越しに声を掛けた。

「春美、仁はやめとけよ。お前が傷つくだけだ。」

明は春美の顔も見ず、車のハンドルを握り締めたまま答えた。

「明、何、言ってんの。」

一瞬にして春美の顔色が変わる。

「まりえさんに振られて、振られるのは確実だけど、仁がお前のことを見てくれるって思っているのかもしれないけど、そんなことありえないから。そんな望みは持たないほうがいい。仁はこの恋に命掛けてるんだ。振られることも覚悟の上だし。だから、お前の方を見ることなんかこの先絶対ありえない。お前が仁のことだけをひたすら待ち続けても、ただ辛くなるだけだ。傷口が深くなる前に、あいつのことは諦めろ。」

「やめてよ。明にどうしてそこまで言われなくちゃならないの。明には関係ないじゃない。今まで通り仁の手伝いもするし、応援もする。それでいいじゃない。どうしてそんな酷いことを、言われなくちゃならないのよ。」

明は車から降りると、持っていたバッグを地面に投げつけて怒る春美の肩をぐっと抱き寄せた。

「馬鹿だよ、お前は。本当に馬鹿だよ。」 

「明。」

「仁も馬鹿だよ。こんなにいい女がいるのに。本当にあいつも馬鹿だ。でも、一番馬鹿なのは俺だよな。」

春美は、明を、ぐっと自分の体から引き離すと、地面のバッグを掴みアパートの部屋に走りこんだ。

 アパートの中に入っても、春美は玄関から動けないでいた。

しばらくして、明の車のエンジンの音が遠のいて行くのが聞こえた。

「今更何よ。今更。」

春美は全身の力が抜けて、ズルズルとその場に倒れこんで行った。

その頃、マンションでは、

「まりえ、大学行ってくる。まりえはどうする?」

明と春美が帰った後、仁美は大学へ行く用意をしながらまりえに問いかけた。

「私も今日は講義があるの。春のコンクールに向けて練習もあるし。早く行って少しでも練習したいし。」

「じゃあ、大学で会うかもしれないね。」

「えっ、仁美って同じ大学だったっけ。」

まりえは唇に人差し指を当てて、考えるポーズをした。まりえの癖である。

「あっ、仁、ほら双子の弟の仁が同じ大学だから、仁と会うかもしれないと思って。」

ひらすら焦る仁美。

「ああ、仁君ね。そう言えば、昨日もお手伝いに来てくれなかったけど、元気にしているの?」

「うん、昨日はデートか何か用があったみたいで。」

「そうなの。じゃあ、例の片思いの彼女とは上手くいったのね。仁君って、もてそうだから。」

仁美は成り行きとはいえ、仁を盛り立てるためにこんな格好までしているはずが、仁に彼女がいるような誤解を招く言動を自らしてしまったことを後悔した。

 しかし、時間は待ってはくれない。二人はせっせと身支度を済ませ、まりえは、仁に彼女の存在がいようがいまいがお構いなしで、気にしている素振りも全くなく、このマンションからの初登校に備えた。

 マンションの駐車場では、お迎えの車が待っている。まりえは、車に乗り込みながら、

「仁美、途中まで乗っていかない?」

と、声を掛けた。

「ううん、途中で寄る所があるから。またにする。」

「そう。じゃあ、気をつけてね。いってきます。」

「いってらっしゃい。」

二人はお互いに手を振り合い、まりえを乗せた車は、直ぐに見えなくなった。

「明のとこ行くか。」

まりえの車が見えなくなるのを確かめると、仁美は、明のアパートへと足を向けた。今朝の登校風景は感動的だった。まりえと一緒に部屋を出て、自分の持っている鍵で部屋のドアを閉める。鍵がかかったことを確認すると、安心したように見つめ合い、同じエレベーターに乗り込む。これが仁美の格好でなければ、恋人同士か夫婦か、いずれにしても最高の喜びに間違いない、はずだった。仁の姿でさえあれば。


 しかし、今朝

「これ、仁美の鍵よ、持っていて。」

と言って、まりえが合鍵を手渡してくれた時は、仁美だろうが仁だろうが天にも舞い上がるほどに嬉しかったなあ、などと考えているうちに、仁美は、明のアパートに着いた。

ドアチャイムを鳴らすと、上半身裸の明が髪を拭き拭きドアを開けた。

「シャワー浴びていた。お前も浴びて来いよ。」

「うん、サンキュウー。」

仁美は部屋に入るなり、全て脱ぎ捨てると風呂場に直行した。

「ああ、すっきりした。夕べっから化粧したままで、皮膚呼吸出来なくて死ぬかと思った。」

「大げさだな。ところで、今朝は一緒に部屋を出たのか?それとも、まりえさんが“いってらっしゃい”と見送ってくれたのか?」

仁は、冷蔵庫からミネラルウオーターのペットボトルを取り出しながら答えた。

「一緒に出たよ。まりえは車で大学行ったけど。」

「へえっ、どんな感じだった?」

「これ(着ていた上着のポケットから合鍵を出す)今朝、まりえがくれた。」

「とうとう同棲のスタートか。よかったな、仁。」

ミネラルウオーターを一口飲みながら、

「仁に渡してくれたのなら、もっと良かったんだけど。」

「贅沢言うな!一気に彼氏以上のポジションまで駆け上がろうとすると、落ちるのも加速が付くんだ。突然降って湧いた同居で嬉しい気持ちも分かるが、今は焦らず、ゆっくりゆっくり二人で確実な信頼関係を築くことが大切なんだ。ちょっとやそっとじゃ崩れないもの、それがお前の望みだろう。」

明は、飲みかけのミネラルウオーターのペットボトルを床に置いて、声のトーンを上げた。

「そうだな。まりえと暮らせることが嬉しくて、ついつい本来の目的を見失っていたよ。焦らずにいくよ。」

「お前が今しなくちゃならないことは、お前はお前自身のための一番のセールスマンになって、しっかりまりえさんに売り込むことだ。」

「そうだな。」

いつもはおちゃらけてばかりいる明が、今日はまともなことを言い、少し様子が変だったが、その原因が、春美との遣り取りであり、その一端を自分自身が担っているとは、この時の仁は知らなかった。


「ただいま。」

仁は大学の帰りに明のアパートに寄り、今度は仁美の格好に着替えると、明の夕食の誘いも断って急いでマンションに帰った。部屋は暗く、まだ、まりえは帰っていないようだ。時計は、午後七時を廻っている。

「カレー作って待っているか。」

仁美は途中のスーパーで、カレーの材料を買い、帰宅していた。

 しかし、カレーが出来上がっても、まりえは帰って来ない。

「遅いなあ。いつもこうなのか。」

仁美は心配で堪らなかった。

「前も遅くにバイオリンのレッスンに通っていたし。今日は、車の送り迎えがあるだろうから心配ないだろうけど。今朝は遅くなるようには言ってなかったしな。」

仁美の独り言が続いた。

 イライラしながら帰りを待っているうちに、十時を知らせる時計のベルが鳴った。何度も携帯に電話してみようかと、握り締めていたが、まりえにはまりえの交友関係もあり、仁美はまだ、まりえのことをよく知らず、テリトリーにどかどかと土足で入り込むような気がして、どうしても掛けられなかった。

「そこまで様子を見に行ってみるか。」

仁美は、上着を取ると、大学の方に向かって歩き始めた。

大学までは遠くはないとはいえ、歩くと結構距離はある。住宅街の中にあるマンションの辺りは、夜も遅くなると人気もあまりなく、仁美は益々心配になってきた。そこまで、そこまでと思いながら、気が付くと大学に到着していた。


静まり返ったキャンパスは不気味だ。どの部屋も真っ暗で明かりが点いている教室など一つもない。

「やっぱ、入れ違いになったかな。」

仁美はマンションに引き返そうとした。

その時、あの音楽堂から何か音が聞こえてきた。

 音楽堂に近づくと、どんどん音は大きくなり、人の気配も感じる。仁美は、そっと音楽堂の扉を開けて、中を覗き込んだ。中には、数人の男女がいて、練習をしているようだった。まりえもその中にいた。

「仁美。」

まりえは、目ざとく仁美に気が付き、その声で一斉にみんなが仁美を見た。

「どうしたの?こんな所まで。」

そっと覗くつもりが注目を浴びてしまったため、仁美は観念して中に入った。

「あんまり帰りが遅いから心配になって来てみた。」

「あっ、ごめんね。今朝言って出掛けてくるの忘れてた。コンクールが近いから練習していたの。」

仁美はほっと胸を撫で下ろすと、

「そう、だったらいいんだ。いつかのレッスンの帰りみたいになってやしないかと心配したんだ。」

「ごめんね、仁美。これからはちょっと遅い日が続くかもしれない。進級の課題も難しいし、色々教えてもらっているの。」

「北条さん、この美人は誰?」

「武田さん。私のルームメイトの仁美さんです。昨日から一緒に住んでいるのよ。」

声の主は、バイオリンを小脇に抱えた、背の高いイケメンである。まりえの周りの男は、大川達彦といい、この男といいイケメン揃いで心配だ。

「仁美、こちらは武田さん。私の一年先輩で、数々のコンクールで賞を総なめにしている凄い方なの。いつも練習を見ていただいているのよ。」

「仁美です。いつもまりえがお世話になっています。」

仁美はぺこりと頭を下げた。

「何処かでお会いしたことありませんか。以前お会いしたことがあるような。」

武田は、挨拶もそこそこに記憶を辿るように話しかけた。

「まあ、武田さんたら、仁美が美人なので口説いているのですか。」

「いやそうじゃなくて・・・・・・。そうだ、いつか女の子たちが噂していた一年の男に似ているんだ。」

「い、一年の男ですか?」

仁美は焦って聞き返した。

「そうそう、僕も一度遠くからだったが見掛けたことがある。その時一緒にいた女の子が教えてくれたんだった。なんて名前だったかなあ。」

武田は気になって仕方がないようだ。

「仁君のことじゃないかしら。」

「あっ、そんな名前だったよ。」

思い出してすっきりしたようで、一瞬、パッと顔色が明るくなった。

「やっぱり。仁美の双子の弟の仁君のことだわ。仁君って格好いいもの。」

「君の双子の弟?」

「は、はい。」

「背格好までそっくりだよね。」

「はい。声とかもよく似ているらしいです。よく間違われます。」

「ふうん。」

武田は、じろじろと仁美を眺め回すと、納得したようなしてないような不可思議な反応をみせた。

「武田さん、今夜は遅いので、そろそろ切り上げませんか?」

まりえが武田に切り出した。

「そうですね。熱中しているうちに、もうこんな時間になってしまいました。では、今日の続きはまた明日ということで。みんなも明日、いいかな。」

武田はそう呼びかけると、バイオリンを片付け始めた。

「まりえさん、送っていきましょう。」

「武田さんとは、方向が逆ですよね。仁美が来てくれたので大丈夫です。二人で帰りますから。」

「しかし、女性二人の夜道は危険です。」

「仁美はこう見えても空手の有段者なので心配ありません。」

仁美の方を見て、にっこり微笑みかける。

「それじゃあ、お先に失礼します。」


まりえと仁美は、音楽堂を出て、マンションへの帰路に着いた。

「ごめんなさい。ちゃんと言って出かけなくて。」

まりえは本当に反省しているようだ。

「心配したから。」

「本当にごめんなさい。これからは何でも言って行くようにするわ。」

「うん。まりえ、明日も今夜くらい遅くなるのか?」

「そうね、コンクール終わるまでは毎日遅いと思うわ。」

「車の迎えは頼んでないのか?」

「うん。車を頼むとね、父に私の行動が筒抜けでしょう。こんなに遅い時間まで練習しているのが分かると、父のことだから心配して、コンクールに出させてもらえなくなるわ。元々、たしなみ程度でいいと思っているみたいだから。」

「そうだな。おじさんは心配性だから。」

「私ね、今度のコンクールもだけど、出て実力を試してみたいの。父はね、大学を卒業したら、達っちゃんのお嫁さんになるのが決まっているから、バイオリンにしても何にしても、そこまで一生懸命になる必要がないって思っているけど、私は、遊びじゃなく自分を試してみたいの。だから、家の車のお迎えは頼めない。」

まりえの横顔に目を落とした仁美は、薄暗い夜道でもはっきり分かるほどに、まりえは真剣な目をしていた。

「分かった。コンクールが終わるまで、毎日、こうして私が迎えに行くよ。だから、まりえは悔いのないように練習頑張りな。」

「仁美。」

まりえは仁美の顔を見上げた。

「武田さんに、私も音楽堂で待たせてもらえるように頼んでよ。邪魔はしないからさ。」

「ありがとう、仁美。」

まりえは仁美の手を取って、ぎゅっと力強く握った。

「ただし、無理はしないこと。まりえは思い込みが激しいからな。一つのことを考え始めると、他の事が見えなくなる。」

仁美は照れながら続けた。

「うん、約束する。私、仁美と出会えて本当によかった。」

「急に何を言い出すのかと思ったら、変なの。」

二人は、また少し近づけたような気がして、仁美の中の仁は無性に嬉しかった。


それからは、雨の日も風の日も、夜遅くまで続く音楽堂での練習を見守る仁美の姿が欠かさずあった。二人は、時には傘を並べて帰り、時にはコンビニに立ち寄って帰り、色々な話をした。その二人の姿は、大学でもちょっとした話題になった。

「仁君って、双子のお姉さんがいたの?」

それを突破口に話しかけてくる女どもも沢山出没した。

「それが?」

その度に、冷たくあしらう仁。仁は、とっても機嫌が悪かった。と言うのも、まりえの体調が良くないからだ。毎日、から元気を振り絞って練習に出かけてはいるが、明らかに疲れている。悔いのないようにと許したものの、疲労を隠せないまりえの様子を傍で見ていながら、何も出来ない自分が腹立たしく、当たり所のない怒りが込み上げていた。

「お前も疲れてるんじゃないのか?」

明は、仁の気持ちを察したように声を掛ける。

「俺は大丈夫だけど、まりえが。」

「仁、まりえさんだって大人だから、自分の体調管理くらい出来るよ。心配するな。な。」

明は、まりえよりも仁の身体のほうが心配だった。慣れない二重生活をしているのだから。

「ああ。でも、あいつは思い込むと突っ走るタイプだから。」

しかし、仁にとっては、自分よりも何よりもまりえが一番だ。

「まりえさんが、お前に助けを求めて来た時に、必ず傍にいて手を差し伸べられるように、お前がしっかりしとかないとな。お前まで一緒に倒れてしまったら、まりえさんは心配でコンクールどころじゃなくなるだろうし、お前にも悔いが残るだろう。」

「分かっているよ、明。」


数日後、仁の予感は的中した。まりえが自宅マンションで倒れたのだ。

「忘れ物をした。」

と言って一旦帰宅し、再度出掛ける時に、倒れた。丁度、仁美がマンションに居合わせた時で、二次的損傷は免れたが、仁美のショックは大きかった。自分が傍にいて守ってやれなかったことや、体調不良を気づいていながら、どうすることも出来なかったことへのもどかしさも手伝って、自分自身が腹立たしかったのだ。

 まりえは、練習に行くために玄関で靴を履いていて、そのまま倒れた。発熱と貧血だ。見送りに丁度出ていたため、仁美が抱きとめて外傷はなかった。一人でいる時に倒れていたならと思うと、仁美はぞっとした。

 仁美は、すぐさま、まりえを抱き抱えるとベッドに運び、片っ端から往診を電話で頼んだ。夜も遅く電話の向こうでベルだけが鳴り響く。そうしている間にも、まりえの熱はどんどん上がり、一刻も早く医師の診断を仰ぎたい。仁美は、明に電話をすると、車で迎えに来てもらった。いくらまりえが華奢だと言っても、スカートでは抱き上げづらい。仁美は、意を決っして、かつらを脱ぎ捨て、服を着替え、仁へと戻った。

 そして、明に電話した。

「まりえさん、大丈夫なのか?」

マンションの玄関ホール近くに車を横付けした明が、まりえを毛布にくるめたまま抱き抱える仁に問いかけた。

「明、熱がどんどん上がっているんだ。早く車を出してくれ。」

「分かった。」

明は、まりえを抱いた仁を後部座席に乗せて車のドアを閉めると、急いで運転席に戻り、近くの救急センターがある病院へ向った。

「明、もうずっと意識がないんだ。時々、うわ言を言うけど、声を掛けても反応がない。どうしよう。俺が付いていながら、どうしよう。このまま、まりえに何かあったら、俺だって生きてはいられない。」

「仁、しっかりしろよ。大丈夫だ。もうすぐ病院に着く。そうしたら、まりえさんも落ち着くよ。仁、大丈夫だから、しっかりしろ。」

明は車を急がせながら、バックミラー越しに仁に話しかけた。

「明・・・・・・。」

仁の心は、車の中でも走っていた。気持ちはもう病院に着いているくらいに走っていた。

「着いたぞ。俺は車を駐車場に停めて来るから、お前はそのまま中に入れ。」

「分かった。ありがとう、明。」

後部座席のドアを開けながら、明は言った。

仁はその言葉の通りに、そのまま救急センターの中へ入っていった。

「まりえ、病院に着いたからな。もう大丈夫だからな。」

走りながら、仁は何度もまりえに話しかける。

「心配いりませんよ。過労で風邪をこじらせただけです。肺炎も併発していませんし、熱が下がれば意識も戻るでしょうし、もう大丈夫ですよ。」

診察した初老の医師は、心配そうにまりえの顔を覗き込む仁に向って微笑みかけた。

「ありがとうございます。ありがとうございます。先生、俺……」

初老の医師は、仁の肩をポンと叩くと、もう一度微笑みかけた。

「早く連れて来てくれてよかったよ。君は彼女の命の恩人だな。」

仁は、頭を垂れたまま、ぽつりと一つ涙を落とした。

 車を駐車場に停めるのに手惑った明が、診察室に駆け込んで来る。

「どうだった?」

「ああ、過労から風邪をこじらせたみたいだ。肺炎にもなっていなかったし。今晩はこのまま泊まりになるから、俺も付いていようと思う。」

明は安堵して大きな息を吐いた。

「そうか、よかったな、仁。大したことなくて。」

「ああ、よかった。」

車の中では、どちらが病人だか分からないほどに、顔色の悪かった仁の頬に赤みが差している。

「仁、お前が落ちこんでどうする。ほら、しっかりしろよ。」

「うん。」

「朝になったら、まりえさんの様態も落ち着いているよ。じゃあ、俺は帰るけど、何か俺に出来ることあるか?」

「いや。もうすぐ看護士さんが病室まで送ってくれるから、それまでここで待っているだけだし。明、ありがとう。無理言って悪かったな。」

明は、仁の肩をポンと叩く。

「親友だろう。俺にまで気を使うのはやめようぜ。それよりお前、夕飯を食ってないんじゃないか。何か買って来ようか。」

「いいよ、食欲ないし。明、気をつけて帰れよ。な。」

仁は明を見た。

「分かってるって、俺のことは心配するな。」

診察室を後にしながら、明は振り返って、思い出したように、仁に声を掛けた。

「そうだ。まりえさんのご両親には、このこと知らせといたほうがよくないか。心配させるかもしれないけど。」

その一言で、仁も明も、まりえが大病院の一人娘であることを思い出し、慌てふためいて救急病院を駆けずり回って探した自分達が、滑稽になってきた。

「そうだな。もう少し様子を診てから、連絡するよ。まりえは、親に知られてコンクールの出場を反対されることを、何より嫌がっていたから取りあえず朝まで待ってみる。」

「そうか、後のことはお前に任せるよ。じゃあな。何かあったら、どんな事でもいいから連絡くれよな。いつでも携帯に出られるようにしとくから。」

「分かった。ありがとうな。」

明は、ひらひらと手を振って診察室を出て行った。と同時に、看護士が迎えに来て、そのまままりえをベッドごと病室へと連れて行ってくれた。

病室も緊急対応用らしく、まりえ以外の患者はいなかった。真夜中のひっそりとした病室に、時折廊下を歩く足音だけが響いてきた。

「様子はいかがですか?」

看護士が見回りに来る。

「まだ熱が下がりません。」

看護士は熱を測り、病室の外に出たかと思うと、氷枕を抱いて帰って来た。

「これを頭の下に敷きましょう。」

看護師は、手早く氷枕をまりえの頭の下に置く。

そして、まりえに点滴を始めた

「少し様子を診てみましょう。何か変わったことがあったら、直ぐにナースコールを鳴らしてください。」

そう言って看護士は病室を後にした。氷枕を敷いたおかげで、まりえの表情から苦しさが和らいだように見える。仁は、思わず手を握り締めた。これ程までに、自分の中でまりえの存在が大きくなっていることに、仁自身も正直驚いている。自分の命よりも大事な存在になっている。これをただの“好き”と言う感情で片付けられないほどに、まりえへの気持ちは真っ直ぐに膨らんでいだ。仁は、まりえの熱で高揚した頬に手を当て、決して触ることのできない柔らかな髪を撫でる。ただこれだけのことなのに、仁は例えようもない幸せを感じていた。

 夜が明けた。

「目が覚めた?」

朝の検温に訪れた看護士が、目を覚ましたまりえに声を掛けた。

「私……どうしてここに?」

病室を見回してまりえは言った。

「夕べ、家で倒れてここに運ばれたのよ。熱が高くて、意識を失っていたから、覚えてなくて無理ないわ。」

看護士は、点滴のパックを取替えながら話を続けた。

「家で倒れたんですか。」

「そうよ。あら、彼は何処へ行ったのかしら。」

点滴のパックを取り替えると、仁が傍にいないことに気が付いた。

「彼?」

「ええ、ずっと一晩中あなたに付き添っていたんだけど。かいがいしく氷枕を取り替えたりして、本当に心配していたわよ。変ね。何処へ行ったのかしら。」

達っちゃんのことだろうかと、まりえは思った。仁美が達っちゃんに連絡してくれたのだろうか。

「二、三日寝ていれば良くなるわよ。もう大丈夫だから、大人しく寝ていてくださいね。」

まりえの布団を掛け直すと、看護士は、部屋から出て行った。

 と、そこへ達彦が入って来た。

「まりえ、大丈夫なのか?」

珍しく慌てている。

「達っちゃん。ちょっと熱が出ただけよ。今も看護士さんが、心配ないって言ってくださったわ。」

「そうか、よかった。しかし、どうしておじさんの病院へ行かなかったんだ。」

ほっとしたようで、達彦は傍のパイプ椅子に腰を下ろした。

「えっ、達っちゃんがここへ運んでくれたんでしょう?」

達彦は、まりえを運んだのは自分だと思っていると気づくと、今朝、仁美から連絡をもらって慌てて来たとは言えなくなった。

「ああ。慌てていて、気が動転していたんだ。」

「達っちゃんでもそういうことあるのね。安心したわ。」

まりえは、先程の看護士の言葉を思い出し、夕べの彼とは、やっぱり達彦だったと誤解した。

仁はその頃,マンションの部屋にいた。朝方、すっかり熱が下がったまりえの容態を確認すると、男の身形に戻っている自分自身に気が付き、誰にも言わずにマンションに戻っていた。

そしてこの部屋から、達彦に電話をしたのだ。本来なら、達彦が付き添うはずのその役目を、一晩だけでも代われたことで、それだけで、仁はよかった。

でも寂しい。自分を抑えきれないほどに寂しい。そう思い出した仁は、無性に春美の顔が見たくなった。


「仁、どうしたの?急に訪ねて来るなんて。」

仁は、春美のアパートに、ひょっこり姿を現した。

「最近、春美と会ってなかったから、どうしているのかと思って。今日は店、休みだろう。」

「ええ。私は、元気にしてるけど、仁は?なんか顔色悪くない?」

春美は、突然訪ねて来た仁の姿を見て、そう声を掛けた瞬間、仁は倒れた。春美の部屋で、春美の目の前で。

「仁。仁。」

春美の声が遠くで聞こえる。

仁が目を覚ますと、春美がベッドにうつ伏して添い寝をしている。

「春美?」

仁の呼びかけに、春美も目を覚ます。

「仁、気が付いたのね。よかった。」

「俺、どうした?」

「突然訪ねて来たかと思ったら、急に倒れてびっくりしたわよ。仁ったら、華奢に見えるけど結構重くて、ベッドに運ぶのも一苦労だったし、お医者さんを呼ぶのも一苦労だったのよ。」

「ごめん。迷惑掛けた。」

「倒れたのが、私の部屋で良かったわ。路上とかで倒れたらと考えるだけでもぞっとする。まりえさんの風邪をもらったのね、きっと。」

「えっ、どうして、それを?あっ、俺、何時間寝ていたんだろう。まりえが心配しているかもしれない。帰らないと。」

仁は、起き上がろうとするが、頭が重くて起きられない。春美は、布団を掛け直しながら、

「二日間も意識がなかったのよ。よっぽど疲れていたのね。お医者さんも一日に一度は往診に来てくれて、そう言っていたわ。それに、まりえさんには、仁美は私のアパートに泊まっていると言ってあるから、心配ないわ。まりえさん、もう退院したみたいで、自分のせいかもって凄く心配していたわよ。」

「ごめんな、春美。本当に迷惑掛けてしまって。」

「いいよ。迷惑だなんて思ってないから。」

「そうだ。仁の携帯に何度も明から着信があったから勝手に出ちゃった。」

そう言って春美は携帯を仁に手渡した。

明からの無数の着信履歴がある。

「明も心配してるよな。」

「毎日お見舞いに来てたよ。今日だって学校に行く前に寄って行ったし。私が仕事の時は、仁のこと看ていてくれたし。でも、仁って、本当に思考が、オンリーまりえなのね。本当に鈍感。」

「えっ。」

「なんでもない。それより何か作ろうか?お腹減ったでしょう。」

仁にとって春美との会話は居心地が良かった。

「春美って、本当にいい奴だよな。女にしておくの、勿体ないよ。」

「それって、私が男らしいってこと?」

春美は笑顔でキッチンから顔を覗かせて、仁に切り替えしてきた。笑顔のその後で、コトコト音がするお鍋の傍で、そっと春美は涙を流した。

「鈍感な大馬鹿野郎!」

お鍋の吹く音に隠れるように、春美は呟いた。どの恋の矢印も一方通行で、一つとして報われるものはない。どうして報われないと知りながら、人を好きになるのだろうか。苦しいと知りながら、人を好きになってしまうのだろうか。自分を愛してくれる人だけを見つめ、その人を好きになりさえすれば、辛いことも苦しいことも、きっとずっと知らずに済むのに。どうして人を好きになるのだろう。寂しいから好きになるのだろうか。人を好きになると、もっと寂しくなるというのに。この世でたった一人の運命の相手を探して、何度も何度も孤独と戦うのだろうか。

そして、風邪がすっかり治った仁は、まりえの元に帰り、ほんの数日間の恋人ごっこは終わりを告げた。まりえのマンションに帰って行く仁の後ろ姿を見送りながら、仁のお世話が出来たことを、何にでも感謝したいと春美は思った。


マンションに戻ると、何も変わらない毎日が待っていた。まりえは相変わらずコンクールのための練習は欠かさず、仁美もまた、まりえの迎えを欠かすことはなかった。達彦は、まりえの倒れた理由を知ってしまったが、今更止めても聞くはずもないことは、誰よりも分かっていたし、今回の入院についても北条の耳には入れず、仕事が早く終わった時などは、まりえと仁美をマンションまで車で送ったりもしていた。達彦がいると、やはり安心するらしく、まりえは子供のように無邪気に喜んだ。仁美の中の仁は、その度に、胸の潰れる想いを隠すのに必死だった。だから、今夜は達彦が迎えに来なければいいと、達彦の車が停まっていなければいいと、願わずにはいられなかった。


そして、暦は四月になり、仁と明は無事に二年になり、まりえは順調に四年に進んだ。

 まりえが照準を合わせてきたコンクールまで、あと、残すところ三週間程度となり、レッスンにも身が入る。と同時に、まりえは珍しく、緊張感からか精神的にピリピリしているように見えた。

 仁美は、いつものようにレッスンをするまりえを音楽堂の中で待っていた。

「北条さん、音の感じが変わったね。」

 声を掛けられて見上げてみると、武田がレッスンを見学に来ていた。

 「武田さん、卒業されて、外国のオケに就職したんじゃなかったんですか?」

 「ああ。北条さんのコンクールが終わる頃に行くことになると思う。今はこっちで準備中だ。」

武田は、仁美の横に腰掛けた。

 「まりえのバイオリンの音が変わったのは本当ですか?」

 「う〜ん、北条さんの音って、どこか可愛らしさや素直さが目立っているように思っていたけど、今日の彼女の音は、どこか違う。」

 「どう違うのでしょうか?」

 仁美は武田を見た。

 「緊張感、焦り、そういうものを感じる。適度には必要な感情だが、彼女ほど、こういう感情に似つかわしくないバイオリニストはいないだろうな。」

 「緊張感、焦り、ですか。」

 仁美は、視線を武田からまりえに移した。

 「北条さんの音は、お嬢様の域をどうしても超えることが出来ない、綺麗にまとまっている、そういう印象しかなかった。彼女もそれを分かっていたのだろう。だから、今までの自分の殻から抜け出そうと必死でもがいている。そんな気がする。このコンクールが北条さんにとっては正念場ってところだろうか。」

 「まりえの正念場ですか。・・・・・・もし、まりえがこの殻を打ち破れなかったら、まりえの音楽はどうなるのでしょうか?」

 「何かを極める時は、どんな人でも必ずスランプに見舞われる。より高く飛ぶためにはより低く身をかがめるように。冷たいようだが、後は、自分次第でしかない。乗り越えられるのか、乗り越えられないのか、自分次第。ただ一つ心配なのは、北条さんは超箱入り娘だから、きっと今まで色んなことで葛藤や苦しみを味わったことがなかっただろうから、僕たちが感じる以上のストレスを背負ってしまっていることだ。」

 「まりえに何かしてあげることがあるとしたら、何をしたらいいのでしょうか?」

 「仁美さんが、どんなに頑張っても、こればっかりはどうすることもできないよ。北条さん自身が掴み取ることだから、静かに見守るしかない。でも、苦しい時に一人じゃないってことは、北条さんにとっても心強いことだと思うよ。」

 「武田さん。」

 「偉そうに言っている僕だって、オケに加わるのが怖くて仕方がない。一つ山を超えても、また次の山が襲ってくる。時には姿を、谷や川に変えながら、超えてみろと迫ってくる。しょっちゅう、もうだめだと弱気になっているよ。」

 武田は、言いながらふっと笑った。

 「武田さんのように、若くして賞を総なめにしていてもですか。日本の若手バイオリニストの中じゃ、向う所敵なしで天才とまで言われているのに。」

 「追われる身も辛いんだよ。期待されているのかもしれないが、勝って当たり前の状況で、負けるかもしれないというプレッシャーとの戦いは、筆舌しがたいよ。」

 「そうだったんですね。武田さんは、いつも優雅に弾き熟し、非の打ち所のない演奏で“皇帝”という称号が似つかわしいと思っていました。」

 「違うよ、僕は天才なんかじゃない。自分の才能の限界は知っているつもりだ。しかし、上を目指し続けないといけない。自分の夢は、今より上にしかない。プラハのオケにだって、運良く参加出来たけれど、活躍出来るかどうかは分からない。だが、そんな中途半端なことでは日本の後輩たちに申し訳が立たない。僕が踏ん張って、後輩への道を開かなければ、今こうして頑張っているみんなに申し訳がたたない。大げさかもしれないが、僕はいつもそう思っているんだ。」

 武田は照れているようで、仁美の顔を見ようともしない。

 「格好いいですね。」

 仁美の中の仁も、武田の中に男を感じて、共感していた。

 「茶化さないでくれよ。ここまで弱音を吐いたのは、今日が始めてだ。仁美さんには不思議となんだか聞いて欲しかったんだ。お陰で気が楽になった。」

 「まりえも、武田さんのように色んなことを乗り越えていかないといけないんですね。バイオリンが好きならば。」

武田は、黙って頷いた。


その夜の帰り道、黙り込んで歩くまりえに、仁美は努めて明るく話しかけた。

 「まりえ、ちょっと寄り道して行こうか?」

 「えっ、何処へ?」

 真っ直ぐ帰りたいのか反応が悪い。

 「大学の傍にアイスクリーム屋がオープンしたんだ。遅くまでやっているし、美味しいと評判らしいから、寄ってみようよ。」

 「ええっ、今から。明日じゃだめなの?」

 まりえは、アイスよりも早く帰りたいと思った。

 「昼間は混んでるから。この時間なら並ばなくてもいいと思うよ。さあ、行こう。」

半ば強引に、仁美はまりえの手をひいた。

 「寒いし、お腹減ってないし。」

まりえは、行く道々文句を言い続けた。

 「まりえ、ここで待っていてくれる?」

仁美は、店の前にまりえを待たすと、一人で中に入って行き、アイスクリームを二つ持って、直ぐに出てきた。

 「はい。」

仁美が差し出したのは、イチゴのアイスクリームだった。

 「私、チョコがよかったな。チョコが一番好きなのに。」

仁美は知らん振りで、自分のアイスを黙々と食べている。

 「美味い!このアイス美味しいよ。」

時折、ニコニコしながら、まだ口をつけないまりえの横で、アイスを絶賛した。まりえも、仁美が満足げに食べているので、我慢出来なくなって、そっとアイスを一口、口に入れてみた。

 「美味しい。」

まりえは、強情を張っていることも忘れて、思わず微笑んだ。

 「だろう?」

 仁美はまりえを見て微笑んだ。

 「イチゴも美味しいね。初めて食べたけど。」

 思いがけず自分の口に合ったことで、まりえは二倍の美味しさを感じていた。

 「まりえは、こうでなければならないと決めつける癖があって、本当は、食べ物にしても、色々試してみたいのに、初めっから自分には合わないと思っている。自分で決めたこと以外は、全て失敗すると思い込んでいるんだ。」

 「そんなこと……」

 まりえは膨れて見せた。

 「まりえは一つじゃない。画一的に表現出来る人間でもない。色々な顔を持っていて、色々な心の中を持っている。可愛いまりえが出る時もあれば、怒りっぽいまりえが出てもいいと思うよ。それも全部まりえなんだから。」

 「仁美……」

 まりえは、今夜何故、仁美がアイスクリーム屋に寄ろうと言い出したのか分かったような気がした。

 「まりえの自分探しなら、いつでも付き合うよ。」

 仁美はおどけてウインクをして見せた。

 「仁美ったら。」

 「早く食べてしまおう。溶けてしまうよ。」

 「うん。」

 アイスを片手にウインクしてきた仁美に、ドキッとしたまりえは、それから仁美のその表情が忘れられなくなった。

 そして、自分の身体からスーッと何かが取れて軽くなったような爽快感も感じていた。

翌日から、まりえの音色が変わっていたのは誰の耳にも明らかだった。


 そして、四月二十九日、コンクールの日がやって来た。

「また、君に担がれたね。」

 コンクール会場に、妻を伴って現れた北条は、ホールの玄関で待っていた仁美に、開口一番こう言い放った。

 「おじさん、すみませんでした。(頭を下げる)今日は、来ていただいてありがとうございます。席にご案内しますので、どうぞ。」

仁美に席を案内してもらいながら北条は話を続けた。

 「コンクールの出場について、私は一言も聞いていなかったが、それはまりえの仕業か、それとも君の入れ知恵なのか?」

 「私です。このコンクールだけはどうしても出場させてやりたかったので。」

 「そうか。次々と、考えるものだな、君たちも。」

 「はい。まりえのおかげです。」

 「そうだな。あれであの娘もなかなか……。」

 「そうですよ。ああ見えてなかなか。」

北条は席に着くと仁美を見上げて二人は顔を見合わせて笑った。

 「おじさん、遅れてしまってすみません。」

達彦は、少し息を切らして席に着いた。

 「達彦君、忙しいのに悪かったね。」

 「いえ、私こそ急に来客がありご一緒できなくて失礼しました。」

達彦は軽く北条に頭を下げながら椅子に腰を下ろした。

「相変わらず大変そうだね。今も大きな事件を抱えているのかい。」

「はい。急に先輩検事が一人退職しまして、その後を任されましたので、少しバタバタしています。」

「そうだったのか。それなのに達彦君のことも考えず、まりえは我侭で本当に申し訳ないよ。」

「いえ、私も今日は楽しみにしていましたから。今日のコンクールに向けてまりえが珍しく本気でしたから、どれだけ上手になったかも気になりますし。」

 達彦は、いつの間にか、北条の家族と馴染んでいる仁美に、嫉妬心を覚えた。自分のテリトリーを侵されたような気さえした。

 「仁美さんも、まりえのために、毎日のお迎えをありがとうございました。」

達彦は、まりえの婚約者らしく振舞った。

 「仁美さん、随分ご迷惑をお掛けしたようだね。」

 「おじさん、大したことありません。それに、時々は、大川さんが車で送ってくれましたので、大変助かりました。」

 「そうか、達彦君も、忙しいのに悪かったね。」

 「いいえ。」

仁美は、北条と達彦の間に、親子に近い絆を感じ、自分には入り込む余地がないと感じた。

仁美はまりえの両親と達彦と並んで席に着くと、コンクールを観賞した。

 「次はまりえの番ね。」

北条婦人は、小声で北条に話しかけた。

 「そうだな。さすがに皆、優秀で甲乙つけがたい。まりえの歯が立つ相手じゃなさそうだ。」

北条婦人も頷いた。達彦は、その遣り取りを聞きながら何も語らずに、パンフレットに目を落とした。

 まりえがステージに現れると拍手が起こり、北条夫妻は目を見合わせた。

演奏がスタートする。

 「あなた、去年の大学での演奏会の時とまた、音色の感じが変わりましたね。」

 「君もそう思うか。まりえが弾いているのだが、音色はまるで別人のようだ。」

 「そうですね。」

達彦もまりえの音色が変わってしまったことを感じていた。それは、自分と一緒に作り上げた音とは違う音・・・・・・。達彦は、以前から心の中でくすぶっていた、まりえが自分から離れていってしまうのではないかという不安を大きくしていた。

 「仁美さん、まりえの弾き方が変わったのでしょうか。それとも私の耳がおかしいのでしょうか。まりえの音色が変わったような気がします。」

北条は、専門家ではない仁美に、こんなことを聞いても仕方がないと思いながら聞かずにはおれなかった。

 「食わず嫌いを克服したんですよ。」

 「?」

-つづく-

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