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その魔王の魂は、ある奴隷の少年の肉体に宿った

掲載日:2019/05/19

 私は魔王だ。

 いや、“受肉した後はそう見做されることが多い”と言うべきか。私は憎しみや怒りを伴って崇拝されている。

 だから、

 “憎悪や怒りを喰らう者”

 などと今では呼称されることもある。だが、私は元はそのような存在ではなかった。ある民族で遥か昔から神の一柱として崇められていたのだ。確かに時には荒ぶりもしたが、それは一面に過ぎない。慈悲深く人間どもを救いもしたし、まるで指導者のように導きもした。

 それがどうしてそのような邪神の類のような位置づけとなり、受肉した際には魔王と見做されたのか、それは私を崇拝していた民族が、支配され、隷属を強要された事が原因だった。

 その民族は、自分達を支配した連中を憎み、その怒りを私への信仰としてぶつけたのである。それによって、私は支配者達への復讐を体現する存在へと変貌した。受肉すると、その力を用いて反逆者となった。そしてその凄まじい力を恐れた連中は、私を魔王と呼んだのである。

 

 ただ、いかに私の力が強大であったとしても、己のみでは連中を打倒するまでには至らなかった。差し向けられた刺客によって、私は倒されてしまった。

 しかし、倒されたのは飽くまで私の肉体だけだった。太古より生き抜くその魂までは滅されはしなかったのだ。

 肉体を抜け出た私の魂は、復活を誓い国中を彷徨った。私が宿るに相応しい肉体を見つける為に。

 そして私はある奴隷の子供に目を付けたのだ。

 その子供は痩せた少年だった。力なく震えている。どうやらあまり優秀ではないらしい。肌の色が浅黒いのがその奴隷の少年の民族の特徴だったが、気力が萎えている所為か、その肌の色はより黒く思えた。

 表情は曇り、変化がまるでない。感情が失われてしまったかのようだ。

 奴隷の立場で知恵も体力もなければ、利用価値なしと見做され迫害される。その姿からはありありとそれが感じられた。

 ――おあつらえ向きだ。

 それで私はそう判断した。

 私の肉体として重要なのは能力ではないのだ。私の存在を知っている事と、その負の感情にこそ意味がある。

 私の存在を知っていれば“憎悪と怒り”がキーとなり、私に力が注がれる。少年の生命エネルギーが私に流れ込んでくる。もちろん、子供の力など高が知れているが、時間をかけて少しずつ力を蓄えていけば問題ない。この少年ならば、恐らくは容易く私の糧となってくれるはずだろう。

 

 しかし、私は少し観察して、その少年の肉体に入ることを躊躇った。

 その少年は虚ろな瞳で、往来を眺めていた。首輪を付けられ、鎖で繋がれている。売られているのだ。考える力さえ失っているようだった。どうやらろくに飯も与えられていないようだ。しかし、にもかかわらず、少年は店頭に立たされていた。

 どう考えても目玉商品には思えないのに。

 それで私はこう考えた。

 奴隷商は粗悪な商品であるその少年が死んでしまう前にさっさと売りたいと思っているのではないか?

 だから店頭に立たされているのだ。

 行き交う人々の中にはそんな少年を気に留める者もおり、侮蔑の表情で眺めたり、同情のこもった瞳で見つめたりしていたが、誰も買おうとはしなかった。

 これではいけない。

 この少年の肉体に入っても、直ぐに死んでしまったなら何の意味もない。

 だから私はそこでしばらく様子を見てみることにしたのだ。やがて少年は足をよろめかせて転びそうになった。立っているのも辛いくらいに衰弱しているらしい。少年が倒れそうになっているのを見つけると、店主は平手で彼を打った。

 「商品が倒れるんじゃねぇ! ますます売れなくなるじゃねぇか!」

 そう言って。

 飯も食わせていないのは自分だろうに。

 酷い。

 もしも、この少年の身体に私が入っていたなら、その理不尽な暴力によって芽生えた怒りで力を得られていた事だろう。そう思ったのだが、少年は何の反応もしなかった。怒りを覚える余裕さえ、既に失ってしまっているのだ。

 それを見て私は思う。

 これは、もう駄目かもしれない。

 だが、そんなところである女がその店を訪れたのだ。

 

 「……なんだい、お嬢さん?」

 

 店主はそう言った。

 そこにはいかにも優しそうな女が立っていた。何故か声を出さず、身振り手振りだけで伝えようとしている所為で、店主は戸惑っているようだったが、どうやらその女はその痩せた少年を買いたいと訴えているらしい。

 「こいつを買ってくれるんですかい?」

 ようやく意図を察した店主はそう言って驚き、直ぐに嬉しそうな表情を浮かべた。女は大きく頷く。そして、奴隷の少年に向けて優しそうに微笑みかけた。

 恐らくは、少年の恐怖心を少しでも和らげる為だろう。

 しかし私はその笑顔を信じなかった。

 まやかしだ。

 奴隷の子供に憐れみを向ける必要など、一体、どこにある? 連れて帰るまでの間に抵抗されると厄介だから、そうして騙して安心させようとしているだけだ。家に帰ればこの女は豹変するに違いない。少年を酷使するに決まっている。

 今度こそ救われると勘違いをしたこの奴隷の少年は、悲しい裏切りを受けることになるのだ。

 ただ、少なくとも命は奪われないだろう。食糧は与えられるはずだ。

 私はそう考えると、少年の肉体に入っていった。

 これでいい。

 奴隷として酷使されれば、やがてその憎悪と怒りとによって私は復活するだけの力を手に入れられる。

 少年はその女の企みに気付いているのかいないのか、ただただ不思議そうにその微笑みを眺めていた。

 

 その女はとても変わっていた。決して口を利かないのだ。身振り手振り、視線や表情だけで意思を伝える。ハンデを抱えているのかどうなのかは分からないが、或いはだからこそ奴隷を欲しがっているのかもしれない。

 その女の家は決して大きくはなかった。奴隷を買えるような身分とは思えない。しかし疑問に思うまでもない。そんな身分でも買える額で少年が売っていただけの話だ。だからこそ女は少年を買ったのだろう。奴隷が欲しかったが、普通の奴隷の値段では手が出なかったから、仕方なくこの少年を選んだのだ。

 私の予想に反して、家に着いても女は少年を酷く扱わなかった。腹にやさしいスープとパンを用意し与え、それが終わると風呂に入れ、汚れた身体を綺麗にしてやっていた。

 ただ、それも特に不可解な行動ではない。

 体力が回復する前に酷使してしまったら、下手すれば死んでしまう。それに、初めに優しく接し、忠誠心を植え付けるというのも奴隷を有効に使役する手段の一つだろう。女はそれを分かっているのだ。

 実際、少年は恐らくは生まれて初めて味わうだろうその(嘘とはいえ)愛情に心の底から感動しているようだった。

 少年の肉体に宿っている私にはそれが如実に感じ取れた。

 当然、私には少しも力は入って来ない。

 が、私は少しも慌てなかった。

 何故なら、女から裏切られた時、この少年が感じている愛情は反転し、より深い憎しみと怒りとに変わるのを知っていたからだ。

 私はその女主人…… イノマタという名らしい女が少年を家畜、或いは便利な家具の一種のように扱い始めるのを楽しみにしていた。

 この少年は要領が悪いはずだ。それを知ったなら、恐らくは機嫌を損ね、イノマタは少年に辛く当たるようになるだろう。

 きっと、その反転はその時に起こる……

 ふふ。

 本当に楽しみだ。

 

 数日が過ぎた。

 少年はすっかりとイノマタに懐き、今では夜中イノマタのベッドに潜り込んで一緒に眠るようにすらなっていた。

 イノマタもそれを拒絶しない。

 まるで深い愛情があるかのように受け入れ、少年を包み込んでいる。

 

 ……少し、おかしくないか?

 

 そこに至って、私は初めて疑問を覚え始めた。

 少年を都合良く使役する為に安心させる時期は疾うに過ぎている。そろそろ家事労働、或いは外に働きに出すなど、奴隷として使い始めなくてはこの少年を買った意味がない。まるまる損になるではないか。

 一応、このイノマタという女は、少年に家事手伝いをさせてはいた。しかしそれは親が子供をしつけるのと大差なく、彼女が負担している分の方が多かった。自分は外に働きに出ているにも拘らず、だ。

 虚ろだった少年の死んだ瞳は、そのお陰で今ではすっかり生気を取り戻していた。親のようにイノマタを慕い……、いや、実際にこの少年にとっては親と変わらなかったのだろうが、同年代の子供が親に甘えるような態度を彼女に見せている。

 奴隷として売られていた時は分からなかったが、少年は本来は丸い大きな目をしているらしく、嬉しいことがあるとそれを輝かせて笑う。イノマタはそんな笑顔を少年が見せる時、心の底から嬉しそうにした。

 安心しているように見える。

 彼女が少年を買った当時は、今にも死んでしまいそうだったからだろう。直ぐに死ぬのではないかと、私だって思っていたのだ。

 このイノマタという女が少年を扱う態度は、どうにも奴隷に対するものとは違う。

 私は考えを改めた。

 このイノマタという女は、奴隷として少年を買った訳ではないようだ。恐らくは愛玩動物を飼うような感覚で、少年を買い求めたに違いない。

 ――なるほど。

 と、私は思う。

 ただそれでも大きな問題はないと私は考えた。

 予定は狂ったが、少年が自分がペットとして扱われていることに気が付くのは時間の問題だと判断したからだ。

 ある程度成長すれば、その違和感は反発に結びつき、少年はイノマタに対して怒りを覚えるようになるだろう。

 子供と親の関係というのは、手前勝手な愛情では成り立たないものなのだ。いずれ、自分の手から離れ、独り立ちできるように促さなくてはならない。ペットとして愛玩するのが目的の行為にはそれがない。実際、イノマタは少年に教育を受けさようとはしていない。その窮屈さに少年は耐えられなくなるだろう。

 愛情が伴っているからこそ、それはより歪んだ形で発露してしまう可能性だってある。

 そして、その時こそ、私が魔王として復活する時だ。

 

 フハハハハ!

 

 イノマタよ!

 人間をペットとして扱う事の罪の重さを思い知るが良い!

 

 私はそう思っていた。

 思っていたのだが。

 

 ある日、イノマタは少年を学校に連れて行った。教員の一人がその相手をし、そしてその教員は不可解な視線を少年とイノマタに向けていた。

 それはイノマタが、口を利かないことばかりが原因ではないようだった。

 「……えっと、この奴隷を、誰かの従者として入学させたいって話ですかね?」

 それを聞くとイノマタは首を横に振った。

 「違う?」

 と、教員が尋ねると頷く。

 「つまり、一般生徒としてこの奴隷の子を入学させたいと仰るのですか?」

 それに、イノマタはにっこりと笑って頷いた。

 「いやいやいや」と、それに教員。

 「いくらなんでもそれは常識外れでしょう、お嬢さん」

 すると、イノマタは首を傾げた。

 「いえ、“どうして?”と言われましても」

 わずかの間で教員は彼女のボディランゲージに慣れたようだった。普通に対応している。これは教員の順応力が高いと言うよりは、実は彼女の方が凄いのかもしれない。

 「あなただって、その少年を奴隷商から奴隷として買ったのでしょう? なら、分かっているはずだ。この子は飽くまで奴隷の子であって人間としては扱われないのです。学校で一般生徒と一緒に教育なんてとんでもない!」

 ややオーバーアクションで、その教員はそう言った。

 まぁ、この教員の言っている事は正しい。この国ではそれが常識なのだ。

 イノマタは無反応だった。その無反応の意図を教員は直ぐに察したらしく。

 「“分からない”って、分かるでしょう? 分かってくださいよ! 頼むから!」

 イノマタはそれを聞いて悲しそうな表情を浮かべた。そのままの瞳でじっと教員を見つめている。

 「そんな目で見つめられても困るんです」

 と、教員。

 続ける。

 「それに、です。もし仮に…… そんな事は天地がひっくり返っても有り得ないですが…… もし仮に入学を認められたとしても、その先、この子は非常に苦労する事になりますよ?

 絶対に、いじめられるからです。しかも教師達だってそれを止めないでしょう。いえ、むしろ一緒になっていじめるかもしれない。それを咎める人もいない。奴隷とはそういった立場なのですよ。その子の為を思うのなら、学校になんか通わせない方が良い」

 その言葉に、イノマタはショックを受けているようだった。何故なのかは分からないが、彼女には教員の言った言葉が予想外であったらしい。

 固まっている。

 教員もそれを察したのか、何も言わなかった。

 その膠着状態を動かしたのは、少年だった。

 イノマタの服の裾を掴み、目でもう諦めようと訴えている。自分の事なら気にしなくて良いから、と。

 イノマタはその視線を受けると、小さくこくりと頷いた。ただ、その目は先ほどよりも更に悲しそうだったのだが。

 

 ……その時、少年がどれだけ事情を察していたのかは分からない。しかしそれでも、イノマタが自分の為に苦しんでいる事だけは理解しているようだった。そして彼女を苦しめているのが、この目の前の教員…… いや、自分を奴隷として差別するこの社会そのものである事も、なんとなく。

 その時、私は初めてこの少年が激しい憎悪と怒りを抱くのを感じた。生命エネルギーが、私へと流れ込んでくる。

 ただし、それは私の予想していた質の憎悪でも怒りでもなかった。少年はイノマタを悲しませた事に対して憎悪と怒りを覚えていたのだ。

 

 ……どうやら、完全に私の予想は外れていたようだった。まさか、少年を学校に連れて行こうとするとは。

 その出来事で、私はそう考えた。

 これは本物の愛情だ。

 イノマタという女は本気で奴隷の身分の少年を健全に育てようと考えているらしい。どうしてなのかはまったく分からないが。

 

 学校に少年を通わせるのを無理だと悟ったイノマタは、それから誰か個人で少年に勉強を教えてくれる人がいないかと探し始めた。

 私にはそんな人間がいるとは思えなかったが、もしいるのなら、今度こそチャンスかもしれない。

 イノマタというこの慈悲深い女の庇護の下にいる状況下では、少年が感じる憎悪や怒りは微々たるものに過ぎない。これでは私が復活するのに何年かかるか分からない。

 が、しかし、外で学ぶのならば話は別だ。

 どんな人間が教師になるのかは不明だが、よほどの変わり者でない限り、奴隷の立場の少年を平等に扱うとは思えない。

 学校の教員も言っていたが、生徒達だけでなく、教師も一緒になって少年を差別するのが普通だ。虐待さえするかもしれない。

 そうなったら、少年が自分の立場と社会を憎悪し怒りを抱くのは必然だろう。

 この国の人間ならば、それが当然の奴隷への対応なのだから。

 ――そうこの国の人間ならば。

 

 「これからよろしくお願いします。僕はオリバー・セルフリッジといいます。あなたに勉強を教える人間です」

 

 何処からどうやって探して来たのかは分からないが、ある日、イノマタは少年に勉強を教えてくれるという男を見つけて来た。

 奴隷に勉強を教えるような物好きはこの国にはいないだろうと思っていただけに、私はそれを意外に思った。

 が、教師だと紹介を受けたその男を見て私は驚いてしまった。

 “やや痩身で長身。そして、金髪で碧眼の持ち主”

 そう。

 その男はこの国の人間ではなかったのだ。外国からこの国の文化を研究する為に訪ねて来た学者で、名をオリバー・セルフリッジというのだとか。年齢は三十代といったところで、見た目ではいかにも“お人好し”といった感じだった。私塾を開いているらしい。

 恐らくは、他の文化で育って来たからこの男は少年を奴隷と捉えはしなかったのだろう。知識としては知っていても、それが性質として染みついてはいない。だから少年に勉強を教えることについて抵抗がなかったのだ。

 ただ、それでも周囲は、奴隷に勉強を教えている彼を白い目で見るだろう。

 そう思っていると、案の定だった。

 少年にセルフリッジが勉強を教えるという早速初日、何者かは知らないが、男が訪ねて来てそんな馬鹿な事は止めろと彼に抗議をして来たのだ。

 

 「――どうして、馬鹿な事なのです?」

 

 それにオリバー・セルフリッジという男は困ったような顔でそう返した。気の所為かもしれないが、その表情には侮蔑の感情が微かにあったように思えた。

 「“どうして”って決まっているじゃないですか。奴隷が学問なんか学んだって、どうせ何の役にも立たない」

 それにセルフリッジは首を横に振って応える。

 「僕は逆だと思いますけどね」

 「逆?」

 「はい。彼は奴隷というハンデを背負っている立場です。そのハンデを乗り越える為に、むしろ学問は必要なのです。それはこの子の人生に、光明を見出してくれることでしょう。少なくとも僕は文字の読み書きは必ず彼に身に付けてもらおうと思っています」

 それに対し、抗議をして来た男は、眉をひん曲げでこう返した。

 「先生は外国から来たから知らないかもしれないが、奴隷が読み書きなんかできたって生意気だって却って嫌われるだけですよぉ」

 どうにもその男にとっては、セルフリッジの奴隷に対する態度は、あってはならないものであったらしい。

 それこそ、アイデンティティの根幹に関わるような……

 

 そのやり取りを受けて私はこう考えた。

 ……今のところ、このセルフリッジという男に少年を奴隷と軽んじる気配はまるでない。

 しかし、或いは、これからこの社会に染まれば、このセルフリッジという男もいずれは奴隷を差別するようになるのではないか?

 人間とは弱いものだ。周囲の影響で容易に変化してしまう。

 しかし、初日の授業が終わりそうなタイミングだった。奇妙な女が現れ、私のその考えを否定したのだ。

 セルフリッジとは異なり、黒髪で茶色い瞳を持っていたが、どうやらその女も同じ国の出身らしい。

 この女は魔女だな。

 一目見た瞬間、私はそう直感した。そして向こうも同じ様に奴隷の少年の中に宿るこの私に気が付いたようだった。

 「ふーん」

 そう言う。

 「どうしたのですか? アンナさん」

 セルフリッジが、魔女のそんな様子を不思議がってそう尋ねた。

 どうやらその魔女はアンナというらしい。

 何故かは分からないが、そのアンナという魔女はセルフリッジの元で手伝いをしているらしかった。20歳前後といったところで、少し歳は離れているが、恋人同士なのかもしれない。

 「いえ、なんでもありません」

 と、セルフリッジに応えると、アンナは少年に向って…… いや、私に向ってゆっくりと近づいて来た。

 そして小さな声で言う。

 「もしかしたら、セルフリッジさんが奴隷の身分であるあなたに酷い事をすると考えているのかもしれませんが、安心してください。

 あの人はそんな事をするような愚かな人物ではありません。彼の国では魔女は差別を受けていますが、彼は一切気にしないで私を受け入れてくれました」

 言い終えると、怪しげににっこりと笑う。

 どうやら私の存在を完全に見抜いているだけでなく、私が憎悪と怒りを喰らう魔王である事も察しているらしい。優秀な魔女だ。

 それからアンナはこう続けた。

 「あなたも辛い立場でしょうが、どうか憎悪や怒りに囚われないように気を付けてくださいね」

 今度は少年に向けて言ったのだろう。

 ただ、少年は何の事か分からなかったらしく、キョトンとした表情で魔女を見返していたが……。

 

 そのアンナという魔女の言う通り、それからもセルフリッジは態度を変える事はなかった。

 公平に少年を扱っている。

 ただ、セルフリッジの塾生はわずか5人だけとはいえ、他は全て支配階級の子供達だけで占められており、その中で否応なく少年は孤立してしまっていた。のみならず、その生徒達は、セルフリッジが監視している状況下であってもなお軽い嫌がらせを少年に対して行っていた。

 それにより少年の心に憎悪と怒りが芽生えてはいた。

 もっとも、それは早急に私が復活できる程のものではなかったのだが。

 

 それからしばらくは何事も起こらず少年は順調に成長していた。

 私としては面白くない傾向だ。

 ただ、それでも私は変化の兆候を少年の中に見出していた。

 イノマタは相変わらず少年を庇護し続けていた。だが、成長するに伴い、少年はそれが特別な行為で、決して自然ではないのだと理解するようになってしまっていたのだ。

 そして彼女が分からなくなった。

 どうして彼女が他の支配者側の人間達のように自分を奴隷として扱わないのか。どうして養ってくれるのか。どうして教育まで受けさせてくれるのか。

 そんな中、ある日、近所の中年の女が彼女の家を訪ねて来た。“いい話”があるとそう言って。

 どうやら「彼女を気に入った資産家の男がいる」という話らしかった。

 「……ただ、」

 その時、その話を持って来た中年の女は、何か妙に嫌悪感を覚える視線を私に、いや、少年に向けた。

 「あなた、奴隷の子と一緒に暮らしているでしょう? しかも、なんだか塾にまで通わせているって言うじゃない。

 その資産家の方も奴隷を持つ事には反対じゃないのよ? だけど、持つにしたってもっと質の良い奴隷を持つべきだし、それに教育を受けさせるなんて無駄だと思うの。

 ね? この際だから、その子を手放しちゃいなさいよ」

 その中年の女は明らかに少年に聞こえると分かってそれを言っていた。声が大きかったのだ。単に少年の存在など気にも留めてないだけなのかもしれないが、或いはわざと少年に聞かせようと大きな声で言っていたのかもしれない。

 嫌がらせの為に。

 その話が本当であるのかどうかは分からない。或いは、奴隷である少年に教育を受けさせている事に反感を抱いている一部の人間達が、彼女を騙そうとしているだけの嘘なのかもしれない。

 だが、少年にとってはそれが嘘でも本当でも関係なかった。何故なら、イノマタならその話を断ると分かっていたからだ。

 そしてその通りに、イノマタはその申し出を断った。

 首を横に振り、困ったような顔をしつつ押しのけるような仕草で全力で拒絶を表現している。

 イノマタは優しい女性だ。だから、口を利けないというハンデを抱えていても、彼女を気に入る男は少なくない。実を言うのなら、これまでも何人かの男が彼女に求愛をしているのだ。結婚を前提に付き合って欲しい、と。そしてその度に彼女はそれを断っていた。もちろん、それは少年の為だろう。支配者側の男と一緒になることで、奴隷である少年が辛い立場にならないようにと配慮していたのだ。

 ただ、その時の彼女の態度はいつもとは少しばかり違っていた。

 普段から一緒にいる少年でなければ気が付かなかったかもしれないが、どうやら彼女は怒っていたようなのだ。

 私はそれに驚いていた。彼女にも怒りという感情があったのか、と。彼女が怒るのを私は初めて見た。

 そして、少年も私と同様に驚いていた。

 そして、それによって、軽い苛立ちのようなものを覚えてもいた。

 もちろん、そこにはこの残酷な世の中に対する反発もあったのだろう。だが、それだけでなく、無力な自分、ただ庇護されているだけの自分に対しての苛立ちも多分に含まれているようだった。

 もっとも、少年はそれを自覚していない。その自覚していない点が重要だ。だからこそ、少年のその苛立ちは、自分を庇護しているイノマタに向かってしまっていたからだ。

 傷つけたくない。そう思っている対象のイノマタに。

 或いは、イノマタが少年を家で庇護しているだけであったのなら、それはとっくに爆発してしまっていたのかもしれない。

 しかし、そんな私にとって都合の良い展開にはならなかった。

 何故なら、オリバー・セルフリッジの存在があったからだ。

 あの男とあの男の授業が、上手く緩衝材の役割を果たしていたのだ。

 

 オリバー・セルフリッジの授業を通して、少年はまずは読み書きを覚えた。すると、世界が一気に広がった。街中に書いてある文字の意味が分かる。セルフリッジから本を借りて読んでみるとやはり内容が分かる。面白い。自分の力が上がっていく確かな実感は、少年から無力感を払拭させていた。

 これならば、イノマタに頼らずとも生きていけるかもしれない。いいや、逆にイノマタを護ってやる事だってできるかもしれない。

 その感覚は少年にとって喜びだった。

 それだけではない。

 セルフリッジの行った“世界の様々な社会”についての授業は、少年にこの世の中を客観視することを教えてくれた。

 世界には様々な社会があり、やはり自分の国のように差別を行い、ある民族が別の民族を支配し奴隷化するといった社会も存在するが、なんと、それを乗り越え、協調している社会もあるのだという。

 

 「――異なった民族が争い合うのでも、支配するのでも支配されるのでもなく、互いに協調行動を執った上で結びついているという国も存在しているのです」

 

 そうセルフリッジは語った。

 その説明に少年は目を輝かせた。

 セルフリッジの説明は続く。

 「そして、どうやらそういった協調行動を執る社会の方が強いらしく、今、世界では協調行動を執る社会が急速に成長しています。

 争い合う社会は、互いに足を引っ張り合うのに対し、強調する社会は足りない部分を補い合えるのですから、それも自明なのかもしれませんが」

 そしてそう説明し終えると、彼は生徒達の反応に満足げな表情を浮かべた。皆、興味深そうにしていたのだ。その中でも、彼は特に少年の反応に満足をしているようだった。その時、少年は知る喜びだけではなく、蒙が啓けたかのような感覚を味わっていたのだが、少年の様子からそれを察していたのだろう。

 生徒の一人が手を挙げた。

 「あの、先生。協調した方が良いのなら、どうして、争い合う国の方が多いのですか?」

 それにセルフリッジは「うむ。良い質問です」とそう返す。

 「協調行動というものは、争い合うより高度なのです。だから、簡単には実現できません。

 だからこそ、それが難しい相手に対し、生物は敵意を持って挑んでしまうのです。協調できない場合は、その方が生き残るのに都合が良いですから。

 差別や支配欲求とはそのようにして発生するものなのです。そしてだからこそ、協調行動の方がメリットがあると知ったとしても、少し油断すれば人間は差別や支配を行いたがってしまうものなのです。

 ――ですから、充分に気を付けなくてはいけません」

 正直に告白するのであれば、そのセルフリッジの話す内容は私にとっても興味深かった。一つの民族にばかり関わっていた私には、知りようもない話だったからだ。

 少年は、そういった授業から得られる新しい感覚の中で己の立場とこの社会に対して、何か希望のようなものを抱いたようだった。

 

 少年は読み書きが自由にできるようになると、外に働きに出たいとイノマタに申し出た。通常のやり方で奴隷が外で働くなどできないが、“イノマタが奴隷を貸し出す”という形でならば可能だったのだ。

 そして、イノマタは少年の望みを尊重し、その手続きを行ってくれた。

 ただ、どうやら本当は少年が心配だったらしい。

 外で辛い目に遭わないか。

 何か失敗をしないか。

 その心配を少年は少しばかり煩わしく感じていたようだったが、それでいて、彼女の愛情を再確認できたかのような安心感も味わっていた。

 読み書きのできる奴隷は重宝されるらしく、少年を雇いたいという人間は意外に多かった。だから少年が働き口に困る事はなかったのだが、それでも奴隷という名目では稼げる金額は少なかった。イノマタが働いて稼ぐ額には遠く及ばない。彼女の収入に比べれば、小遣い程度しかなった。もちろん、それでは生活などできない。相変わらず、少年は彼女に護られているしかなかったのだ。

 初め、イノマタを養えるくらい稼げるのではないかと期待していた少年の心は、そうした現実の壁にぶつかり、打ち砕かれてしまった。

 そして、この社会に絶望し、怒りを覚えた。

 それが己の能力の所為とは思えず、社会が悪いからだという方向に考えが向かったからだった。

 この自分の民族を“奴隷”と差別するこの社会が。

 それはもちろん正しい。

 ……だが、例え正しかったとしても、それが良い結果へと結実するは限らない。少年は苦しんでいるようだった。

 

 奴隷制などない世の中の方が、もっとずっと高度で素晴らしいのに、何故、それが分からないのだ?

 

 セルフリッジの教えも思い出し、そんな煩悶をする。

 それは、私が欲していた憎悪と怒りに直結していた。

 私に力が流れ込んでくる。

 ……ただ、私は、それを複雑な思いで受け止めていたのだが。

 

 外で働くようになった少年が経験したのは絶望ばかりではなかった。外で働くことで、彼は自分と同じ奴隷と知り合う機会を得たのだ。彼が知っていた同年代の子供は、塾で知り合った支配者側の人間達ばかり。同じ奴隷の身分の子供達と知り合う事は、彼にとって孤独感を癒せる素晴らしい出来事だった。

 ただし、他の奴隷に比べれば随分と恵まれていた自分の立場は、彼に疎外感のようなものを抱かせてもいたのだが。

 つまり、奴隷の仲間の間でも、彼は浮いた存在だったのだ。

 そして、その思いはイノマタの庇護を疎ましく思う感情にも結び付いた。まるで、彼女が自分を邪魔しているかのように感じるように彼はなってしまっていたのだ。

 もちろん、それでもまだ彼女に対しての感謝や愛情の方が上だった。もっとも、彼が少年と呼べる時期を超え、青年期に入るとそれも徐々に怪しくなってしまったのだが。

 

 「――それ、つまりペット扱いってやつだろう?」

 

 ある日、少年…… いや、青年はそうある奴隷仲間から言われた。

 ペットと聞いて彼は驚く。

 裕福な人間達の間の一部では、猫や犬を飼うように奴隷を“飼っている”人間がいるのだそうだ。

 その言葉に、彼は動揺をした。

 もしもそれが事実であるのなら、イノマタは支配者側の人間であるという立場を利用して、自分を無理矢理に庇護下に置いているという事になる。

 もちろん、彼はそれを否定した。イノマタは自分に教育だって受けさせてくれたのだ。それにそんなに裕福でもない。が、その奴隷仲間はそれを信じない。そんな支配者側の人間がいるなんて考えられない、「騙されているんだよ」と断言する。

 「質の良いペットを好む奴だっているんじゃないのか? それにその女は金だってお前のお陰で少しは稼げているんだろう?」

 青年はそれを聞いて黙る。

 彼の稼ぎの半分は自分の物だったが、もう半分はイノマタに渡していたのだ。もっとも、それは彼が自ら申し出たのだが。

 黙っている青年を見て、その奴隷仲間は言った。

 「まぁ、ペットの方が楽だから良いって奴もいるけどな。でも、俺は御免だね。なんか、馬鹿にされているみたいじゃないか」

 その言葉が彼の中の自立を求めるプライドを刺激したのは言うまでもない。その奴隷仲間が自分を侮蔑しているのだというのは明らかだったからだ。それで、まるでイノマタまで自分を侮蔑していると錯覚する。

 その頃には、彼の中で、人間関係の比重はイノマタよりも奴隷仲間達の方が大きくなっていた。孤独は嫌だ。仲間から認められたい。そんな想い。

 だから、自分だってペットは嫌だと、彼はそれにそう返してしまったのだった。言葉にすると、まるで呪詛のようにそれは彼の意思を上書きしてしまう。

 その時、青年はイノマタの庇護に対して、明確な敵意を覚えてしまっていた。

 自分は守られなくてはならないような弱い存在ではない。自分を奴隷にするこの社会がなければ自分の方がイノマタよりも能力は上だ……

 

 仲間達だって認めてくれるはずだ!

 

 イノマタはそんな彼の変化を敏感に察していた。自分に対する態度にトゲがある。ただ、どうすれば良いのかは、彼女にはまるで分からなかった。

 ただ、戸惑うだけ。

 外から帰って来ると、イノマタはご飯が準備できていると青年に示す。青年はまるで怒っているかのような不機嫌な態度でそれに応える。お礼も言わずに飯を食べ始める。食べ終えると、イノマタが片付けようとするのを拒否し、自分で皿を洗う。

 もちろん、彼女を労わっての行動ではない。彼女の世話になりたくなかっただけだ。

 もしも、彼が奴隷の立場ではなく、問題なく自立できるような社会的地位を持っていたならば、それは或いは健康的な人間の成長の過程の一つとなっていたのかもしれない。その怒りはイノマタの元から巣立っていく為の原動力なっていたのかもしれない。しかし“奴隷”という二文字が足枷となり、それを許さなかった。

 彼はそれを強く憎んでいた。

 

 ――魔王である、私に力が流れ込んでくる。

 

 私の復活に向けて、力が順調に溜まっていた。

 ……ただそれは、私が想定したような、私が望んだような、感情によるものではなかったのだが。

 

 ある時、青年はカミナシというある富豪の職場を紹介された。どうもそのカミナシという富豪は奴隷を使役する事を好んでいるらしく、奴隷の立場でありながら、読み書きに堪能で、学問まで学んでいるという青年に興味を覚えたのだそうだ。

 その男はいわゆるコレクターだった。

 ペットとして奴隷を飼うのに似ているが、それよりももっと趣味が悪かった。ペット扱いする場合は、それでも愛情のようなものは存在していたが、彼の場合にはそれがない。ただただ珍しい奴隷や、役に立つ奴隷を自分の所有物にしたいだけだった。

 カミナシは青年を自分の下で二、三日ほど働かせると、直ぐに青年を気に入ったようだった。そして、彼の持ち主であるイノマタに「譲ってくれ」と交渉をした。

 イノマタはもちろんそれを拒絶した。

 が、しかし、青年は違った。そのカミナシという富豪の下で働きたいと彼女に申し出てしまったのだ。それは自分の仕事が富豪に認められたという勘違いが、彼の自立心と結びついた結果だった。彼はその富豪の下で働き、成果を出し、自分を仲間に認めさせたいとそう思っていたのだ。もっとも、青年自身は、それに気が付いてはいなかったが、最も認めさせたかった相手は、本当はイノマタだったのだが。

 イノマタは当初それに反対したが、青年の意志の強さに押され、更にここ最近の青年の変化から説得は難しいと感じたのか、結局はそれを認めてしまった。

 ただ、認めてしまった後で激しく後悔をしていたようだった。

 青年が本当の奴隷という立場がどんなものなのかを理解していないのは明らかだったからだろう。

 青年は侮っていたのだ。かつて、奴隷商の下で商品として売られていた頃の記憶は遠く薄れてしまい、実力を身に付けた今とあの頃とでは違うと思い込んでしまっていた。

 いや、或いはそれは単なる願望だったのかもしれない。

 そして、イノマタの悪い予感通り、希望に胸を膨らませて勤め始めたカミナシの下で、彼は辛い境遇に立たされる事になってしまったのだった。

 首輪と足掛けをつけられ、朝から晩まで働かされ、食事は粗末で量が少なく、寝室も狭くて汚い。おまけにプライベートもなかった。多人数が、狭い部屋の中に押し込まれているような部屋だったからだ。

 どうやら、カミナシは青年が最初に働いた時は、彼を騙す為に良い労働環境を装っていたらしい。

 青年は後悔していた。

 ただ、自分が後悔していることを認めたがってはいないようだった。そして、それまで自分を恵まれた環境で養ってくれていたイノマタへ感謝の気持ちを抱くことも全力で拒絶していた。

 そういった感情を抱くことが、ペット扱いされていた自分を肯定しているかのように錯覚してしまっていたからだ。

 もっとも、同時にイノマタがそんな女ではないことくらい彼は分かっていた。その葛藤の中で、彼は揺れ、煩悶していた。

 そしてだからこそ、彼は彼女を頼るまいとしていた。ただ、それでも心の何処かで、本当に自分が危なくなれば、彼女が助けに来てくれると思ってもいたのだが。そんな甘えるような気持ちを潜ませていたのだが。

 

 ――そんな状況が、ある日変わった。

 

 それは同じ奴隷部屋の住人の一人だった。その仲間は酷い病に侵されてしまっていて、そしてその事を必死に隠そうとしていた。

 「頼む。言わないでくれ。言ったら、俺は隔離されて殺される!」

 他の奴隷に病が感染すれば大損害だ。だから彼らの所有者であるカミナシがそれを知れば、その奴隷を隔離する事は目に見ていた。ただし、治療は施さないだろう。それどころか、真っ当に食事が与えられるかどうかすらも怪しい。

 ――使えなくなった道具に、金をかけてまで直す価値はない。

 酷薄なカミナシが、そのように考えるのは明らかのように思えたからだ。

 奴隷仲間達には、もちろん、彼を庇いたい気持ちはあった。だがしかし、このままでは自分達にも病が感染してしまう恐れがある。放っておく訳にはいかない。そしてそうして手をこまねいている間にも、彼の病状はどんどん悪化していった。このままでは、そもそも隠し通す事も難しいだろう。

 「いっそのこと、全員が感染すれば良いんじゃないか? カミナシも、まさか、全員を見捨てはしないだろう」

 そんな主張をする者もあったが、そうなったなら、カミナシは一部の使える奴隷やお気に入りの奴隷だけを助ける可能性の方が高そうだった。

 そして、そんな膠着状態の中、さんざん煩悶した挙句、遂に青年は皆にこんな提案をしたのだった。

 ――自分の元の雇い主ならば、助けてくれるかもしれない。薬を貰えないか、頼んでみよう。

 藁にも縋る思いだった奴隷達は、その提案に直ぐに賛成した。どうしてもっと早く言わなかったのかと文句を言う者までいた。そして青年は久方ぶりにイノマタに手紙で連絡を取ったのだった。

 “仲間の一人が病に侵されてしまった。助けたいので薬を届けて欲しい。代金は自分を売った分の金でお願いしたい”

 それは、そのような文面だったのだが、その手紙の内容は、そのまま彼が彼女に助けを求める言い訳にしたものでもあった。

 ――そう。

 イノマタに自分が依存している訳ではない。ただ、自分を売って稼いだ正当な取り分を貰うだけだ。

 そんな言い訳を彼はしていたのだ。

 そしてイノマタは、もちそん、そんな青年の助けを求める訴えに直ぐに応えてくれたのだった。

 イノマタから届けられた薬によって、病に罹った奴隷は無事に回復した。

 イノマタのお陰で救われた。

 ただし、青年はこれを最後に二度とイノマタを頼るまいと心に誓っていた。自分はペットではないのだから、と。だが、それは周りの仲間達が許さなかったのだった。

 

 「お前の元の飼い主は、お前にとことん甘いんだって? 何でも言う事を聞くって耳にしたぞ?」

 

 ある日、奴隷達の間のリーダー格の男から、青年はそのように話しかけられた。少年はそれを否定する。

 あの人は飼い主じゃない。自分はペットじゃない。自分達は対等な関係だ。

 だが、リーダー格は頭を振って、「そんな事は言わなくていい」と言う。

 「どうだろうが、お前の頼みを聞くって事実に変わりはないんだろう? なら、それで充分なんだよ」

 その言葉に青年は不安を抱いた。リーダー格の男は続けた。

 「協力してくれ。そいつを使いたい。計画があるんだ。上手くいったら、この今の俺達“奴隷”の状況をひっくり返せるぞ」

 青年はその頼みを最初は断っていた。しかし、リーダ格の男以外からも「お願いだ」と頼まれる。「どうして協力してくれないのか」と訊かれ、青年はもうあの人には頼りたくないのだとそう応えた。自分はペットではないのだから。

 それを聞いて、奴隷の一人が言う。

 「なんだ、そんな事か。なら、話が逆だよ、逆」

 と。

 青年はその言葉に動揺する。

 どういう意味だ?

 その奴隷は続けた。

 「だからこそ、逆に利用してやるんだろう? そのお前の飼い主が、これまで支配者側の立場でお前をいいようにしてきた復讐をしてやるんだよ」

 ――復讐?

 そんな言葉を、青年はまったく想像していなかった。イノマタに復讐をする? 一体、何の?

 たが、

 「なんだ、それともお前はご主人様に忠誠でも誓っているのか?」

 そう仲間達から言われて、青年は復讐という言葉を否定することができなかったのだった。

 弱い心だ。

 そうして結局は、青年は彼らに協力をすると約束してしまったのだった。

 

 ……ある日、イノマタはこっそりと青年に工具一式を届けに来た。もちろん、青年に頼まれた物だ。仕事でどうしても必要なのだが、カミナシが用意してくれない。どうにか手に入らないだろうか?と青年は彼女に相談したのである。

 イノマタはまるで買い物袋でも抱きかかえるような持ち方で、工具一式の入った袋を抱えていた。久しぶりに青年に会えるからか、心なし嬉しそうにしているように見える。ただ、同時に青年が自分にどんな態度を見せるのか不安を覚えているようにも思えた。

 青年はそんな彼女の様子と、彼女を騙している事に対して申し訳ない気持ちを抱いていた。

 抱きかかえるようにして持って来た工具一式。彼女にとっては重かっただろうそれを青年はぎこちなく受け取る。

 青年がお礼を述べるとイノマタは嬉しそうな表情を見せた。そして、青年を見ながら後ろに一歩下がると軽く手を振る。

 相変わらずだな、この人は、とそれを見て青年はそう思った。そして、青年も手を振り返す。

 彼女を見てそのように和やかな気持ちに彼がなるのは数年ぶりの事だった。

 もし仮に、支配者側と奴隷側という垣根さえなかったなら、この二人は仲の良い姉弟にでも見えていたかもしれない。

 それからイノマタは名残惜しそうにその場を去って行った。

 その様子を覗き見ていたリーダー格の男は、工具を受け取って戻って来た青年に向けてこう言った。

 「まさか、こうもあっさり言うままに従ってくれるとはな。やっぱり、女はこうじゃなくっちゃいけねぇ。しかも、少々間抜けそうだが、いい女じゃないか。お前を育てたっていうから、もう少しとうが立っていると思っていたが、全然、ありだな」

 青年はリーダー格の男が、イノマタを馬鹿にしている事にも、性の対象として観ている事にも不快感を覚えたが、それでも何も返さなかった。

 ペットと罵られるのが嫌だったからだ。

 そして大人しく工具一式を渡してしまう。

 「よし。こいつさえあれば、反逆を開始できるぞ。見てろよ、連中を叩きのめして、逆に奴隷にしてやるぜ」

 その工具を確認しながら、リーダー格の男はにやりと笑った。

 

 或いは、彼らを捕えていたのが普通の富豪だったなら、彼らの計画は不可能だったかもしれない。奴隷の数もそのスキルも限られていたからだ。

 しかし、カミナシという富豪は違った。

 奴隷コレクターであるが故、かなりの数の奴隷を一か所に集めている。加えて、特殊なスキルを身に付けている奴隷も多い。その中には工業系のスキルを持った者もいたのである。

 それからイノマタが届けてくれた工具を使い、工業系のスキルを持つ奴隷達が、奴隷達一人一人の首輪や足枷を外し始めた。ただし、完全には外さない。少し力を込めれば、簡単に外れるような状態にしておいて、監視役達が気が付かないように工夫をしたのだ。

 ほぼ全員が自由になれる状態をつくって、一気に反逆を開始する。奴隷達はそのような計画を立てたのだった。そうじゃなければ、潰されてしまうのは分かり切っていたからだ。

 奴隷達はゆっくりと慎重に事を進めた。絶対に気付かれないように。いつでも自由に動ける奴隷達を充分な数にするまでは。

 そして、一か月程が過ぎた辺りで、彼らは大半の奴隷達の首輪と足枷に細工を施し終えたのだった。

 

 ――カミナシ邸。

 ――それは月のない深夜のことだった。

 おぞましい気配が、暗闇の中を蠢いていた。まるで暗闇そのものが動いているかのように青年は感じていた。

 もっとも、青年自身もその暗闇の一部と化していたのだが。怒りを持った意思ある暗闇の一部に。

 奴隷達の人数は多くて二百人といったところだろうが、視界が明瞭ではない所為で、青年にはその十倍以上にも感じられた。他の奴隷も同様に感じていたとするのなら、それは奴隷達の自信となっていたかもしれない。自分達にはこんなに大勢の仲間がいる、だから恐れる必要はない、と。

 通常なら、不安を喚起するだろう闇が、彼らの力になっている。狙ってやっているのだとすれば、リーダー格の男は中々に策士かもしれない。

 その奴隷達の集団は、暴徒と呼ぶのは相応しくなかった。その動きは無秩序とは言い難かったからだ。ただし、兵隊のそれとも違う。闇夜に紛れて動くその形態は、暗殺集団を想起させたが、どちらかと言えば盗賊団といった方が近かったかもしれない。

 いずれにしろ奴隷達は静かに行動した。音を発てないように監視役達を殺したり、動きを封じたりし、必要最低限の人数で屋敷に入ると、屋敷内の人間達を同じ様に処理していってしまう。そうして、やがては外の人間達には気づかれないまま、カミナシ邸を占拠してしまった。

 捕らえられた主のカミナシは、「この奴隷めらが! こんなことをしてタダで済むと思うなよ!」と激昂したが、彼らはそれを嘲笑った。そしてそれから、同じ様に闇に紛れ、彼らはカミナシ邸の外へと向かったのだった。それはまるで意思を持った闇が街の中に染み広がっていくかのようだった。

 街は静かに平穏を失っていた。何かが起こったいることには恐らくは多くの人間が気付いているだろう。しかし、それが何かまでは分かっていないのではないか。わずかながら、奴隷達が反逆を起こしたことに気が付いた人間もいたかもしれないが、アナウンスされるまでには至っていないようだった。

 恐らくは、支配者側の人間達がほぼ無抵抗な状態のまま、奴隷達の闇は静かに燃え広がっている。

 

 青年はカミナシ邸を出ると、真っすぐに自分の家を目指した。

 戦闘が苦手な彼は、見張り役をやっていたのだが、他の奴隷達を解放し終えてようやくその任を解かれたのだ。

 彼が自分の家に向っていたのは、もちろん、イノマタを心配していたからだ。反逆者達に何かしら危害を加えられないとも限らない。

 もっとも、彼女は裕福ではないので狙われ難いだろうし、彼女を見て危険だと判断する人間は少ないだろうから、大人しくしてさえいれば無事だろうが。

 ところが、家に近付いて彼は俄かに強い不安を覚えたのだった。何故か家のドアが微かに開いていたからだ。イノマタは戸締りは確りとするタイプだ。おかしい。

 ドアを開けて、そのまま居間に駆け込む。そこで彼は思わず目を見開いた。固まってしまう。

 「よぉ! 来るんじゃないかとは思っていたぜ」

 そう言ったのは反逆者達のリーダーだった。他にも数人の仲間がいる。そしてイノマタは、首輪を付けられ、足枷をはめられた状態で、彼らの直ぐ傍に座らされていた。

 どうして、ここにいるのか、彼女に何をしているのかと尋ねる青年にリーダーはこう応える。

 「なに、この女が間違って殺されないようにと思ってな。なんて言ったって、今回の功労者の一人だ。丁重に扱わなくちゃ」

 それからイノマタの首輪に付けた鎖を引く。彼女は表情を歪めた。

 「こうして俺らが捕まえておけば、殺されたりはしないだろう?」

 青年は静かに、彼女をどうするつもりなのかと問うた。

 リーダーは楽しそうに笑う。

 「心配するな。俺はこの女が気に入ったんだ。俺の女にしてやるつもりだよ。ま、俺専属の奴隷だな。

 今まで、こいつらは、さんざん俺らを奴隷としてこき使って来たんだ。それくらい当然だろう?」

 そしてまた首輪の鎖を引く。イノマタが青年に反応したのが分かったからだろう。反抗するな、と言っているのだ。

 青年は身体を震わせていた。

 イノマタは声を出せない。ただ、仮に声を出せたとしても、彼女は青年に助けを求めたりはしないだろう。実際彼女はそんな青年に対して、ほんの少しだけ微笑みを浮かべた。心配しなくて良いと言っている。自分は大丈夫だから、と。

 もちろん、青年に心配かけまいとしているのだ。

 「それとも、ペットのお前は、自分のご主人様が他人に奪われるのは嫌か? なら、考えてやらない事もないがな」

 青年の反抗的な視線に気が付いたのか、リーダーはそう言った。するとそれに合わせて周りの仲間達が笑う。

 青年はしばらく歯軋りをしていたが、イノマタが再び優しそうな瞳を青年に向けると、その笑い声から逃げるように、家の外に駆け出していってしまった。

 笑い声は彼が家の外に出ると直ぐに聞こえなくなった。だが、イノマタの自分を慮る声だけはいつまでも彼の頭の中に残った。彼女は声を上げられない。だからこそ、その声はどこまで逃げても付いてくる。

 路地裏にまで来ると、彼は頭を抱えた。

 自分はペットじゃない。だから、イノマタを助ける必要なんかない。自分はペットじゃない。だから、イノマタを助ける必要なんかない。自分はペットじゃない。だから、イノマタを助ける必要なんかない。

 自らに呪いをかけるように、そう連呼する。

 しかしその間も、イノマタが連中から凌辱されている場面が思い浮かぶ。その中では、彼女は青年を心配しながらも、やはり助けて欲しいと願っていた。

 “お願い、助けて”と。

 そのイメージを振り払うかのように、青年は首を横に振った。

 イノマタから注がれたたくさんの愛情。美味しかったご飯。冬の日、凍えた身体を温めてくれた。塾に行かせてくれた。誕生日プレゼント。そんなものはすべて気にする必要はない。自分をペット扱いしていただけだ。

 自分はペットじゃない。

 だから、イノマタを助ける必要なんかない。

 自分に呪いをかけている。

 

 「はぁ……」

 

 そこで私はため息をついた。

 ――本当に情けない。

 ――何なのだ、この男は? こんな男が私の宿主かと思うと心底嫌になる。

 青年は私のついたため息に驚いているようだった。彼が気の所為と思いかけたタイミングで私は再び声をかける。

 「お前は自己欺瞞が得意だな。ここまで来ると、滑稽を通り越して称揚に値する」

 青年は驚いていた。自分が声を発している。しかし、その声は自分のものではない。自分の意思でももちろんない。

 ――なんだ?

 こう訊いて来た。

 「誰だ、お前は?」

 「今更、“誰だ?”もないだろう。お前は気が付いていたはずだ。私はずっとお前の中にいた。お前の中にいて、お前と一緒に成長をして来た」

 青年はそれを聞いて黙る。青年は私の存在を感じていたが、それをもう一人の自分だと勝手に解釈していたのだ。

 青年は言った。

 「そうじゃない。一体、何者なのか? と尋ねているんだ」

 私はそう尋ねられて、正体を明かすべきかどうか悩んだ。だが、結局私は「魔王。“憎悪や怒りを喰らう者”だ」とそう告げた。時間がない。この男は情けないのだ。

 「魔王?」

 「そう。お前が憎悪する度、怒りを覚える度に、私に力が流れ込んでくる。知っているだろう?」

 青年はそう言われて思い出した。ずっと小さな頃に聞いた魔王の話を。元は自分達民族の神であったというその存在の事を。

 「そんな話、信じろというのか?」

 青年のその言葉を無視して、私はこう問いかける。

 「私の存在がどうであろうが今は関係ない。 お前はこのまま今のこの状況を放っておくつもりでいるのか?!」

 それが何を意味するのか、青年はもちろん分かっていた。

 「僕はペットじゃない!」

 そう返す。

 「そうだ。ペットじゃない。だが、それとお前があの女を助けに行かないこととに、どんな関係がある?」

 「ペットじゃないから、飼い主気取りのあの人を助ける必要もないんだ!」

 「飼い主気取りぃ?!」

 私はそれを聞いて笑った。

 「お前はあの女がお前の飼い主気取りでいると本気でそう思っているのか!?

 お前を養う為に仕事を増やし、将来のことを考え教育まで受けさせ、お前の為を思って結婚までも諦めた!

 それが本当に飼い主気取り故の行為だと思っているのか? 自分の傍から離れた後も、頼まれれば薬を届け、騙されて工具まで届けた。それが本当に……」

 「うるさい!」

 そこまでを聞いて青年は叫んだ。しかし、それから後は何も言葉を続けない。青年自身にも充分に分かっているのだ。彼女がそんな人間ではないことくらい。

 俯く。

 私はそんな青年に向けて言った。

 「私は“憎悪や怒りを喰らう者”だ。お前が憎悪や怒りを抱く時、私に力が注ぎ込んでくる。今、こうして私の力がここまで顕現されているのは、お前が憎悪と怒りを抱いているからだ。

 お前が、一体、何に対して憎悪し怒りを抱いているのか教えてやろうか?」

 私は一度そこで言葉を止めた。私が言うよりも先に、青年がそれを理解したのが分かる。だがそれでも私は続けた。託宣を施してやる。

 「――お前、自身だよ。

 お前は、お前自身を憎悪し、怒りを抱いているのだ」

 青年はそれを聞くと俯いていた顔を上げた。覚悟を決めた表情。私には何も返さず、無言で走り出す。

 私はそんな青年に対して言った。

 「イノマタを助けに行くのなら、力を、貸してやろう」

 彼にその言葉が届いているのかどうかは分からなかったが、どうであれ、彼は走り続けた。きっと、届いていてもいなくても、変わらなかっただろう。

 

 イノマタの家の中に青年は駆け入った。

 相変わらず、リーダーもイノマタも彼女の家にいた。片手で首輪の鎖を無理矢理引き、もう片方の手でその身体を抱いている。イノマタはそれに嫌悪しているのか、怯えているのか、竦んでいるようだった。

 「やめろ」

 その光景を見るなり青年はそう言った。

 リーダーとその仲間達はそれで青年に一斉に目を向ける。イノマタはそんな青年を見て、悲壮な表情を浮かべた。

 “お願い、逃げて”

 そう訴えている。

 青年は頭を振った。

 「大丈夫」

 と返す。

 「なんだ? ペットがご主人様を助けに来たのか?」

 リーダーがそう言った。

 青年はそれに「違う」と返す。

 「僕はペットじゃないし、その人はご主人様じゃない」

 「はぁ?」と、それにリーダーとその仲間は一斉に言う。

 「じゃ、なんだよ?」

 「その人は“母さん”だ!」

 それを聞いた瞬間、イノマタは目に涙を浮かべた。瞬く間に溢れ出して来る。頬を伝った。彼女は青年からそう言われた事を、心の底から喜んでいるようだった。

 「何言っているんだよ? 奴隷の身分と支配者側で親子になんかなれるはずがないだろうが?!」

 「なれる。その人が証明してくれた」

 それを聞いてリーダーは「はぁ」と、ため息を漏らした。少々、苛立っているように思える。

 「お前にとってこの女が飼い主だろうが、母親だろうが、どうだっていいんだよ。これからこの女は俺の奴隷だ。その事実には変わりはねぇ。

 もちろん、この女だけじゃない。今まで俺らを奴隷にしてきた連中は、これから全員、俺らの奴隷だ。

 やり返してやるんだよぉ!」

 青年は静かに首を横に振る。

 「それじゃ、駄目だ」

 「あ?」と、リーダー。

 「母さんが教育を受けさせてくれたから僕は知っている。この世界には、支配とか支配されているとかを乗り越えられている人達がいるんだ。

 そして、お互いに足りない部分を補い合い、とても強い社会を形成している。

 僕らが目指すべきなのはそんな社会だ。そうしないと、支配者側になれたとしても簡単に壊れてしまう」

 青年がそう語り終えると、リーダーは不機嫌そうな表情を見せた。

 「お前、むかつくな? 教育を受けて来たことをそんなに自慢したいのか?

 そんな理想じゃ、この現実はどうにもならないんだよ! やられたらやり返す! 醜い争いがこの世の中の常だ!」

 「だから、ちゃんと憎悪を乗り越えられている世の中があると言っている。それは難しくより高度かもしれないが、不可能じゃない」

 そう言い終えると、青年は指でイノマタを示してからこう続けた。

 「ここにも生きた証拠がある。母さんは僕を自分の子供として育ててくれた。……立派な人間になれたかどうかは分からないけど」

 イノマタはそれを受けて、首を何回か横に振った。青年は立派な人間に成長していると伝えようとしているのだろう。

 「ほぉ…… 憎悪を乗り越えられるねぇ」

 青年の主張を聞くと、リーダーは苛立った顔を凶悪に歪ませた。そして、短刀を取り出すと鎖を引き、イノマタの自分の懐にまで寄せる。

 「なら、お前が証明してみせろよ、今から。俺がこの女を殺してやるからよ!」

 リーダーは短刀を引き寄せた彼女の首に突き立てようとしていた。

 「やめっ……!」

 青年はそう言いかける。もう間に合わない。そう思った。

 だが、そうはさせない。

 そう。

 ――私の出番だ。

 

 「やめんかぁぁぁぁ! この痴れ者がぁ!」

 

 私はそう怒鳴った。

 どす黒い魔力がその瞬間、一面から溢れ出した。壁を埋め、床を埋め、リーダーとその仲間達を捕らえる。

 私は、魔力で捕らえたままリーダーの腕を捻り、短刀を振り落とさせた。そして、壁に向って叩きつけ、同時に鎖を断ち切るとイノマタだけを掬うようにこちらに引き寄せた。

 もちろん、ほんの少しも傷つけさせてはいない。

 「なんだ、これはぁぁ?」

 連中はそう騒いだ。

 私は淡々とそれに返す。

 「嘆かわしい。自分達の神の力も忘れたか。奴隷に落とされた民よ。

 私は今は魔王と呼ばれる者。

 “憎悪や怒りを喰らう者”。

 魂となった私は、この男がまだ子供だった頃、その肉体に入り、この男と共に育って来た。そして、今宵、復活を遂げたのだ!」

 リーダーが言った。

 「何を馬鹿な。そんな事があるはずが……」

 しかし、連中の一人がそれを遮るように言う。

 「いや、オレは覚えているぞ。オレは近くで見た事があるんだ。確かに魔王様だ。支配者連中を恐れさせたその力、声、まったく同じだ!」

 リーダーはそれを聞いて信じられないといった表情を浮かべる。

 私は続けた。

 「この女は私を育てた恩人。殺そうなどとは罰当たりも甚だしい」

 そう言って、更に魔力を強める。

 部屋に充満しているどす黒い魔力の量が増えた。

 「ヒィィ!」

 と、連中は悲鳴を上げた。

 今や、部屋は完全に魔力で埋没している。連中は逃れようもなく、その中に沈んでいった。

 ただし、イノマタの周囲にだけは何もなかった。そんな中、イノマタは戸惑っていたが、それでも私を恐れてはいなかった。流石だ。

 もう連中は完全に身動きが取れなくなっており、恐れ慄いていた。

 そんな連中に向けて私は言った。

 「この私が宿った男が先に言っていた事は本当だ。奴隷にされたからやり返す。恨みを晴らす為に殺してやる。そんな発想では、例えお前達の反乱が成功したとしても長持ちはしないだろう。伝令を出せ。例え恨みがあろうと、捕らえた人間を決して殺すな、と」

 リーダーは私に怯えながらもそれにこう反論した。

 「そんな理想論で、俺の仲間達が納得をするか!」

 それを聞いて私は笑った。

 「は? 理想論? 馬鹿馬鹿しい。お前は思っていたよりも頭が悪いな。

 違う。これは戦略だ。余計な殺戮を抑える事で、国際社会の反発を防ぐのだよ。私達が節度ある行動を見せれば、交渉次第では必ず私達の味方につく国が出て来る。それとも、世界中を敵に回して勝つつもりでいるのか? だとするのなら、滑稽なピエロだ」

 リーダーはそれを聞くと、口をつぐんだ。

 ……これは、オリバー・セルフリッジの所で得た知識によるものだ。私にとってもあの教育は役に立った。

 反抗する気が失われていることを認めると、私は連中を自由にした。そして、

 「さっさといけ! 手遅れになる前に“殺すな”と指示を出すのだ!」

 そう命令する。

 連中は青い顔のまま「はいぃぃ!」とまるで悲鳴のように返事をすると、イノマタの家の中から駆け足で出て行った。

 イノマタと私は二人きりになる。

 そしてそれから私は意識を青年に返した。私だって空気くらいは読める。二人ともお互いに会いたいはずだ。

 それから、床の上に座り込み、あまりのことに茫然としている彼女に青年はゆっくりと近づくと、強く抱きしめた。

 「良かった。無事で……」

 そう呟く。そして彼女はそれに応えるように、青年のことをゆっくりと抱きしめ返したのだった。

 うん。本当に良かった、無事で、と。

 

 ――それからしばらくが過ぎた。

 

 青年とイノマタは、問題なく日々を過ごすことができていた。以前とは逆で、青年がイノマタの為に外で働ているが、それ以外の状況は変わらない。

 いや、以前よりも、上手くやれているかもしれない。心理的な障壁を乗り越え、カタルシスを迎えたのだろう。二人の生活は和やかだった。

 ただし、世間は激動に揺れていた。

 反乱軍はなんとか革命を成し遂げ、国の態を創り上げることには成功していた。ただ、それでもまだまだ不安定で、先行きは不透明と言わざるを得なかった。一縷の望みがあるとすれば、私が授けた作戦が功を奏し、反乱を起こした私の民族と交渉をしたいと申し出る国が現れていた点だろうか。

 それには、長年、恨みを溜めていたにもかかわらず、大量殺戮にまでは及ばなかったその理性ある対応が信頼されたという一面があった。

 しかし、その理性がいつまで保てるかは分からない。

 反乱軍だけに任せていては、いずれは間違いを犯すだろう。恨みを晴らす為の奴隷化や、酷い差別で、協調行動のメリットを捨て去ってしまうかもしれない。

 ――導いてやらなくては。

 そんな事を私が思っているところに、アンナというあの魔女が青年の元を訪ねて来た。オリバー・セルフリッジを手伝っていたあの女だ。

 「セルフリッジさんから、そろそろだろうから行ってやるようにと言われまして」

 そうアンナという魔女は言った。

 「そろそろ?」

 「ええ」と、魔女は頷く。

 「その彼の肉体から、魔王であるあなたの魂を解き放つ手伝いをしに来ました。もう受肉は必要ないでしょう?」

 それを聞いて私は笑った。

 「ハハハッ あの男もなかなか食えんな。この展開を予想していたか」

 「まぁ、あなたの魂が、彼に宿っていることを伝えたのはわたしですがね」

 私は大きく頷いた。

 「良いだろう。手伝ってくれ。

 ただし、一つ訂正がある。私は魔王ではない。そう呼ばれていただけだ。本来、私は神の一柱だ。様々な側面を持ち、慈悲深く民を導く役割も果たす」

 魔女はそれに頷いた。

 「ええ、知っていますよ

 神の座から魔王にまで堕ちてしまったあなたは、イノマタさんという母胎で育まれ、セルフリッジさんによって賢慮と理性を獲得し、より成長した神として再誕するに至ったのでしょう?」

 私はそれに少し反発した。

 「バカにするな。そうではない。単に思い出しただけだ。自分の神としての役割を」

 それに魔女は冷たい目を向けた。

 「まぁ、そういうことにしておきましょう」

 神である私にここまで言えるとは、この女もなかなか大したものだ。

 「もっとも、彼女らの働きが役に立った点だけは認めるしかないがな」

 私がそう付け加えると、魔女は少し笑った。それから、「では、背中を向けてください」とそう告げる。

 「ちょっと待て」

 と、そこで私は言った。

 「なにか、心残りでもありますか?」

 「いや……」

 「ああ、イノマタさん達のことですが。心配いらないと思いますよ。あの二人なら」

 私はそれに頷いた。

 「……そうか。そうだな」

 二人と別れなくてはいけないのを、少し寂しく思っていたことは、照れくさいので伝えなかった。

 「では」

 と、それから魔女は言った。私の背中に掌を当てる。魔女の透明感のある魔力が注入されると、押し出されるようにして、私の魂は空に解き放たれた。

 

 青。

 

 ……これから、私は人々を導いてやらなくてはならない。

 もっとも、私ができるのは手助けくらいだ。本質的には、人々が自分達自身の手によってそれを為さなければならない。

 ただ、

 青年やイノマタのような人間達がいるのなら、大いに希望はあるのではないか。そう、私は考えているのだが。

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