人間
少女の細い腕に鮮血がほとばしる。
痛い
怖い
いたい
こわい
思考は痛みと恐怖で支配され、地面に横たわるその身は自分のものである筈なのに思うように動かない。
視界には真っ赤な液体を、その口と牙から滴り落とす野犬の姿。
ただその野犬の禍々しい姿は、双方の瞳から溢れ出る涙により少女には霞んで見えるのが幸いな事と言うべきだろうか。
野犬の数は五匹。
少女を取り囲むそのあり方は、獲物をいたぶる様そのものであった。
タスケテ
少女の切なる胸の内の叫びは、ガチガチと歯が鳴るばかりで声にならない。
「ギャン!!」
一匹の野犬が鳴きと腹から大量の血飛沫を上げ、空を舞ったかと思うと、内蔵をぶちまけて地に伏した。
「ラヴィ!! 大丈夫か!?」
声の主は農作業用の鍬を手にした少年。
「う、あ……」
「生きてるならいい!」
少年は簡潔にやり取りを済ませると、残り四匹の野犬に意識を集中させた。
仲間が殺られた野犬達は、標的を少年に切り替える。
少年の方は不意打ちで野犬を一匹仕留めたが残り四匹、無傷の野犬を相手にしなければならないのだ。
今朝は霧が深い。
夜明けが近くなり霧が晴れ始めてきたとはいえ、まだ視界が悪いことに変わりがなく、鼻の利く野犬相手に距離は取れない。
強いて利点を上げれば、ここが民家の集中した場所じゃなく、畑の脇にある足場が慣らされた、そこそこの広さがある場所という所であった。
いつも通り目が覚めて、いつも通り村の中心にある井戸へと水を汲みに行った少女を家の裏で出迎える、それが少年の一日の始まりで、今日もそうである筈だった。
川の水と魚を引き換えに物々交換が少年の家の主な生業だったが、それが出来なくなってからは、村の護衛団の一員としての見回りと畑を耕し野菜を栽培することで生計を立てている。
理不尽な言い分で生活に急激な変化を強いられる事になってから一年、同じ境遇である隣人達や村の仲間の協力のもと、なんとかやり繰りをし、最近では畑の拡張の話をして過去の生活を振り切ろうともしていた。
平和な日々と言っていい。
魔物がいれば理不尽に命を奪われる恐怖に縛られるのだから、それの有る無しでは雲泥の差と言えよう。
少年が魔物を実際にその目にしたことは無い。
ただ少年よりも年長の少年たちは、大人達に混じって魔物の討伐に向かい、帰ってこなかった。
だから大魔王を倒してくれた光の勇者には感謝をしている。
魔物の驚異を取り払ってくれた事に関しては……
それがただの村人である少年の変わらない日常。
幼い少女の恐怖に怯える叫び声を聞くまでは……
悲鳴を聞き付け家を飛び出し、手直にあった鍬を持ってはいるがただの農作業用用具、一人で野犬四匹は体力的にも武器的にも無理がある。
何より怪我をした、幼い少女であるラヴィの容態が心配だった。
早く安全な場所に移動させて、治療してやらないと最悪な結果になりかねない。
少年は村の入口にある護衛団の詰所に母親を走らせたが、今朝の深い霧を考慮すると、助っ人が来るまで五分以上はかかるだろう。
「分が悪いったらありゃしねぇ」
愚痴を言っても状況が変わるはずもなく、少年は鍬の柄を握りしめ、腰を落として足の裏に体重を乗せて地面に身体を固定すると、歯を食いしばり腹を据えた。
四匹の野犬が次々と駆け出し、少年に襲いかかる。
少年は正面からの一匹を鍬の刃で捌き、凌ぐ。
少年は軍人でもなければ、騎士でも剣士でもない。
村の護衛団の一員として、ほんの少し大人達から剣術の手解きを受けているだけで、一人で多数相手の戦術など知りはしない。
少年にできることは、野犬を一匹ずつ確実に仕留めて行くこと。
野犬にとっては四対一の優位性と、誰が獲物を仕留めるかの遊びたっだのかもしれないが、野犬が同時に仕掛けて来なかったその状況は、少年にとって僥倖であった。
一拍遅れで襲いかかって来る残り三匹の野犬を、血脂で切れ味の悪くなった鍬の刃と長い柄を振り回し、なんとか致命傷を防ぐもその牙と爪から完全に逃れられるはずもなく、少年の身体はその肉を至る所引き裂かれ、自身の血で染まっていく。
だが少年は倒れなかった。
生まれて間もなく両親を失った幼い従妹を守るのは従兄である自分の役目。
叔母のお腹が大きかった時から決めていたことである、この命を守るのだと……
「てめぇら魔物の好きにさせてたまるかよ!!」
「犬は魔物じゃない!!」
少年の叫びに、思ってもない方向から返事が戻ってくる。
そもそも少年は返事が欲しかったわけでは無い。
突然過ぎる事に少年は危機的状況を忘れ、鳩が豆鉄砲を喰らったような顔になった。
少年の目の前には藍色のフードローブを纏った、綺麗な顔をした幼い子供がいる。
その子供の足元には、頭蓋骨を踏み抜かれた野犬が一匹。
頭蓋骨が陥没した勢いで眼球が飛び出し、血塗られた地面に転がっている。
残り二匹となった野犬が、突如現れたソレから距離をとると、低い唸り声を上げた。
「さて、一昨夜ぶりかな?」
サイズの合っていない藍色のフードローブの余り余った裾を翻し、黄金の瞳が野犬を見据える。
地面も少年の身も血塗れなのに、何故か藍色のフードローブには一切の穢れが見受けられない。
「君達には御礼がまだだったね」
ヒュッと野犬たちの喉が鳴り、ジリジリと後退り始める。
「お、おいガキ、一人じゃ無理だ!」
痛む身体を押して、少年は藍色のフードローブの横に並ぶ。
「無謀は勇気とは言わないぞ、人間」
藍色のフードローブの黄金の瞳が愉しそうに嗤う。
「無謀で結構、生まれつきだ」
少年は鍬を構えた。
とはいえ正直なところ、手にしている鍬で倒せるのは、あと一匹が限度。
二匹の野犬を倒し終えた鍬の刃と柄の繋ぎ合わせ部分は既に限界で、あと一撃使用すれば鍬が壊れてしまうことは火を見るより明らか。
「そっちもあの犬共と因縁があるっていうのなら、残り一匹ずつ始末するってのはどうだ?」
少年は自分より幼い姿の藍色のフードローブに、顔を向けずに声だけで問いかけた。
本来の少年なら自分よりも幼い者を戦いに巻き込むような真似はしないが、先程目にした野犬の頭蓋骨を踏み抜いた事実が、見た目通りに扱う事が逆に間違いだと感じさせたのである。
少年の言葉に反応することなく、藍色のフードローブを纏う子供はなんの危機感も持たずに、テクテクと野犬へと向けて歩を進めた。
慌てて少年も野犬との距離を詰める。
野犬は距離を保つべく、後退りを開始する。
「ラヴィ!!」
少年は野犬と自分たちの間に倒れ伏した、少女に手を差し伸べた。
偶然にしては運が良すぎるかも知れないが、少年は野犬から視線を外す事も躊躇わずに、混沌の中にいる従妹をそっと抱き上げる。
もう野犬の視界には藍色のフードローブの姿しか写っていないことを、少年も理解していた。
悔しくない訳では無いが、認めなくてはならない。
藍色のフードローブを纏う存在が、己よりも格上だと言う事を。
少年は少女の負傷した左腕を看る。
かなり出血が酷い、直ぐに傷口を塞ぎ止血しなくては幼い少女の身ではこれ以上体力は持たないだろう。
しかし少年の身体は血に染まりズタボロである、清潔な布でなくては傷口が化膿し、悪化する。
従妹の衣服も土誇りにまみれて、決して清潔とは言い難い。
傷口の上腕部分を縛っての止血くらいしかできないだろう。
「え……」
少年は目を見開いた。
止血に戸惑った瞬間、少女の腕の傷口が凍結したのである。
「ん、冷た……い」
「ラヴィ?」
恐怖と出血により動かなかった少女が身動ぎし、声を発した。
「大丈夫……なの、か?」
少年の問いかけに、少女は自分も訳が分からないといった感である。
「う、ん……さっきまで、凄く痛くて、怖かったんだけど……」
「そうか……立ち上がれそうか?」
少年は立ち上がり、少女を立ち上がらせる。
「うん、大丈夫みたい」
少女はしっかりとした足取りで立ち上がった。
「じゃぁ、後ろに下がってろ」
「え、でも」
「大丈夫。なんて言っても、俺が役に立つかは分からんが」
少年の視線の先には藍色のフードローブの背中がある。
「オグル……あの子は?」
「恩人だ」
「え?」
従兄オグルの言葉に従妹ラヴィは首を傾げた。
少年オグルに確証があった訳では無い、だが他に考えられ無かったからである。
光の勇者の仲間には体術に優れ、尚且つ回復魔法に精通するモンクやシノビと呼ばれる格闘系僧侶がいるという。
だからといって傷口を凍結させるとか聞いたことがないが……
「ありがとな、助かった」
オグルの口から素直に礼の言葉が零れ落ちた。
「一匹ずつだっけ?」
歩み寄り、再び並び立つ藍色のフードローブを纏う存在から届く声は、実に愉快と言った感じだ。
「ああ」
どうやら少しは当てにして貰えるらしいことに、オグルは思わず笑を零した。
こんな王都から遠く離れた辺境の村の人間にとって、正体不明の存在の来訪など厄介この上ない事である。
実際に目の前にいる存在は“そういう類の者”で、決して諸手を挙げて迎え入れていいことではないだろうとオグルも感じていた。
決して魅入られてはならないもの……
それでもなお――――
少年オグルは自身が望んだ形ではない平和な日常に、終止符を打ちたかったのだ。
「あ、そうだ、預かってて」
藍色のフードローブを纏う姿が振り返り、ラヴィに向かってソレを天高く放り投げた。
「は!?」
並び立つ隣の不可解な行動に、オグルは間抜けな声をあげた。
その隙を見逃す野犬達ではなく、襲撃に転じる為に地を蹴る。
勿論、野犬二匹の標的は不用意に背を向けた、藍色のフードローブを纏う存在。
「させるかよ!!」
オグルは咄嗟に駆け出し、野犬との間合いを一気に詰めた。
とはいえ、オグルが相手にできるのは野犬一匹のみ、もう一匹は藍色のフードローブの方になんとかしてもらうしかない。
正直にいえば、自分が手を出さなくても余裕っぽいので、オグルには自分の行動に虚しさもあった。
だがそんな自分のちっぽけな見栄と意地に付き合ってくれたのが、藍色のフードローブを纏う存在である。
「男に二言は無い!!」
オグルは鍬の刃の腹で一匹の野犬の腹をすくい上げ自分の方へと誘導すると、横殴りの形で宙を移動し体制を崩して地面に着地した野犬の首目掛け、鍬の刃を振り落とした。
「ギャン!!」
野犬の断末魔と共に、オグルの手にした鍬の刃と柄の繋ぎ目が外れた。
✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕✕
スライムは突然、浮遊感に襲われた。
リトルデヴィルと出会ってから、よく起きる現象である。
どういう訳だが、いつの間にか宙に浮いてた。
真っ白な霧の中を上昇中。
上へ
上へ
上へ
…………。
どこまでも上昇するスライム。
いや、まさか、霧の外には放り出さないだろう。
もうすぐ夜明けだし、それでなくても世界はスライムの身を焼く光の粒子、人間の勇者による光の加護で満たされている。
リトルデヴィルの冷気によって発生した霧が充満する地上付近ならいざ知らず、霧の影響外となるであろう上空は、スライムにとって死活問題と考えられる。
大丈夫。
スライムはリトルデヴィルを信じている。
信じている。
信じている……
が、怖いものは、怖い。
上へ
上へ
上へ
いくらなんでも、そろそろやばいんじゃね?
思わず魔結晶を取り出すスライム。
不意に重力を感じる。
スライム落下。
あ――――――――れ――――――――
落ちる
落ちる
落ちる
落ちる
急降下。
霧の外に出なかったので一安心。
魔結晶を仕舞い込む。
のほほんと地面めがけて落下中。
地面?
このまま地面に突撃したら潰れるんじゃね?
スライムだし、潰れても平気。
だけど……
潰れて平気だからといって、潰れたいわけじゃないスライム。
慌てて魔結晶を再度取り出す。
霧を抜けたスライムの前に地面が現れた。
つ――――ぶ――――れ――――る――――
すぽん。
すぽん?
スライムは白い布に包まれている。
何はともあれ、潰れることは回避できたようだ。
スライムの上方から影が落ちる。
落ちてくる影にスライムが意識を向けた。
大きな黒い瞳とはち合う。
人間である。
…………
…………
…………
…………
人間!?
スライムは身体を紫色に変色させる事無く、潰れた。
六話です。
まずは野犬たち、お疲れ様でした!!
しかしこんなに早く上げられるとは……
次話投稿予定は未定です。
悪しからずご容赦くださいませ。
web版オーバーロードを読み始めました。
ネタから作者の趣味趣向は汲み取れたし、似たような経緯もみうけられる(相関関係の走り出しがテンプレです。自分もそうです、わかります)けど結局は人間の思考に都合が良いのが……あと個人的にうんちくがウザイ(あくまでも個人的に)
オバロは鈴木悟、転スラは三上悟……
思わず白眼視……いろんな意味で勉強になります。