2
2話連続投稿です。
はっと目が覚めた。何かを言おうとして、結局声が出なくてひゅうと喉が掠れた音がした。足に力が入らなくて、その場に座り込む。
目を射抜く光。
衝撃。
身を焼くような熱。
幻覚なんてものじゃなかった。あれは全て、現実に起きたことだと最期の記憶が叫ぶ。制服だってあちこち擦り切れて、血を吸ってごわついている。
(じゃあなんで、今ここにいる私はかすり傷一つないんだろう)
ふっと湧いた疑問は当然のもの。だけど深く考えようとすると、息苦しくなって胸のあたりがぎゅっと痛んだ。いけない、これは今はあまり考えないほうがいいやつだ。
「大丈夫」と呟いた声は、滑稽なほど震えていた。ばくばくと暴れる心臓をなだめながら、意識してゆっくりと呼吸を繰り返す。
わけがわからないことだらけだ。でも、ここでパニックになるべきじゃないことは確かだった。
わからないといえば、今いるこの場所もわからない。
事故にあったあの交差点に立っていたならともかく、そこは見知らぬ森だった。森に知ってるも知ってないもないけれど、少なくとも家の近くにこんな森があるとは思えない。
しかも、駅を出た時点で夜の10時を過ぎていたのに、なぜか日が射している。木々の葉に遮られて少し薄暗いけど、絶対に夜ではない。
スマホの表示はどうなってるのかな、とポケットからスマホを取り出す。
「…っ」
液晶を見て一瞬取り落としそうになったものの、なんとか堪えた。
液晶画面は、無数の亀裂が入って蜘蛛の巣みたいになっている。改めて、あのトラックに轢かれたんだなと実感した。
幸運にも液晶以外には被害が無かったらしい。電源ボタンを押せばロック画面に設定していた猫のリリが表示された。小さいころから知っているリリの姿に、ほんの少しだけ心が落ち着きを取り戻す。うん、大丈夫。
電話もメールもネットも全滅だった。まあわかりきった話だったので驚きはしない。それより、時刻表示が何度確認しても22:07のままで、少し不気味だ。
大丈夫、ともう一度呟いて立ち上がった。
とにかく、人を探さないと。
その場から動いてはいけない、というのは遭難時の鉄則だ。でも待っていたからといって捜索隊が迎えにきてくれるなんてことはないだろうし、そもそもこの状況を遭難と呼んでいいものか。
このまま夜になって森で夜を明かすリスクを鑑みても、せめて森の外に出たい。
胸元のスカーフを引き抜いて、近くの木へ近づく。今から進もうと思っている方を向いている枝へしっかりと結んだ。
さて、人の手が入っていない森を歩いたことがある女子高生というのは、どれくらいいるのだろうか。私は初めて歩いた。驚きの歩きづらさ。
草や茂みは好き放題に伸び、石や枝どころか倒木が進路を塞いでいることもあった。ようやく履き慣れてきたローファーでは、足を取られて遅々として進まない。スニーカー通学すればよかったかもしれない。
ソックスに覆われていない部分を引っ掛けたのか、脛のあたりがピリピリと痛んだ。その痛みが、これが現実だと突き付けてくる。
正直何度も泣きたくなった。それでも涙は流れなかった。
何度かの小休止を挟みながら、どれほど歩いただろうか。
苔で滑り、石や枝に躓き、バランスを崩しては尻餅をつきながら、自分の運動神経を呪った。歩けるようになりたての幼児なみに危なっかしい。
体感では半日にも感じる時間を歩いた。さすがに半日とまではいかずとも、辺りが随分と暗くなってきたので数時間はたっている。
目下最大の問題は、このままでは森の中で夜を明かすこと。ここが日本かどうかはともかく、いや絶対に日本ではなさそうだけど、これだけ自然に近い森なら確実に危険な野生動物も生息しているはずだ。むしろ、ここまで獣の類いに出会わずにいたことの方がよほど幸運だったと言える。
運良く野生動物に出くわさずに朝を迎えることができたとしても、問題はそれだけではない。
夜になれば気温が低下する。今は動き続けているため暑いくらいだが、暗くなればどこかでじっとしていなければならなくなる。汗もかいたので、あっという間に体温を奪われてしまう。
ぐらっとよろけた体を支えるため、咄嗟に近くの木の幹に手をついた。ごつごつした樹皮の感触を予想していたのに、なぜかごわごわしている。
はっとして手を引き、目を凝らす。胸ほどの高さのところに、動物の毛が絡み付いていた。
二呼吸ほど瞬いて、ざっと血の気が引く音がした。やばい。
動物が幹へ体を擦り付ければ、こんな風に毛がつくこともあるだろう。だが、毛の付いていた位置がやばい。最低でも胸程の体高がある動物が、この近くにいるかもしれない。
ぱきり。
「っ、」
違う。私は動いていない。
ならば、今、枝を踏み鳴らしたのは。
ゆっくりと首を回す。
ひぅ、と喉がか細く鳴る。
それは静かにそこへ立っていた。
僅かに差し込む陽を吸い込むような黒の毛並み。
暗闇に溶けそうな姿の中で、三つの目玉だけがぎょろりと金色に光っている。
成人男性を軽く越すような体高と、幹のように太い四本の足。
鋭い牙は、人間など容易く噛み砕くだろう。
初めて見る生き物だった。一番近いのは狼だけど、ここまで大きく、しかも目玉が三つもある狼なんて見たことがない。
その狼もどきは、三つの目でじっとこちらを見つめていた。
ぐあり、とその大きな顎門が開いた。
《ーーーーーーーーーー!!!!!》
音の塊に全身を殴られるような衝撃だった。ビリビリと空気が震えている。
腰が抜けてしまいそうだったが、ぐっと足に力を入れて踏ん張った。カチカチと勝手に鳴る歯に力を込めて食いしばる。
死にたくない。たぶん、きっと、気絶したほうが楽になれるけど。でも絶対に、こんなところで食い殺されるのは嫌だ。
だからと言って何が出来るというわけでもないけど、じっと狼もどきの動きに注視する。
飛びかかってきたら、何とか避けてこの場を離れる。ぽんこつと自認する運動神経でそんな器用なことができるのか、という点については置いておく。脳内イメージでは完璧だから。
ぐ、と狼もどきが足に力を込めた。次の瞬間、黒い塊が迫ってくる。(今っ!)と地面を蹴ったが、思うほど距離を出せない。愚策だとわかっていたが、思わず目を瞑った。
「【氷よ】」
耳に届いた見知らぬ声に、恐る恐る目を開いた。
一瞬前までこちらに襲いかかろうとしていた狼もどきは、青く透き通った氷にその身を貫かれていた。傷口が凍りつき、出血はしていない。まさか。
あまりにも突然の現実離れした光景だ。氷の彫像を見ているような気さえしてくる。
ぽかんと目と口を開けていたが、ざくりとこちらへ近づく足音にはっと意識を戻す。足音は後ろから聞こえた。
その人は見慣れぬ銀の髪と、ルビーのような赤い目をしていた。右側だけ長く伸ばされた前髪の下からは、髪よりも鈍い銀の仮面が覗いている。
晒された左側の顔は眉をひそめて怪訝な表情を隠しもしない。
そう、人だった。この数時間たった一人で森を彷徨い歩き、狼もどきに襲われ、ようやく出会えた人間である。
「!?おい…!」
何やら慌てたような声が聞こえたが、確かめることは出来なかった。
人に出会えた安心感は、とっくに限界を迎えていた体を動かしていた気力を切るには十分だった。