022「奪還」
――昼下がり。うっかり振り向いたのが運の尽きだったと思う。原稿の続きもあり、時間差で店を出ないと変な噂が立つこともあるというシュバルツさんの配慮で、先にカフェをおいとまさせてもらった私は、太陽光線をまともに浴びずに済む場所を探していた。すると、レストランの前で白いエプロンで、首元に赤いバンダナをアスコットタイのように巻いたロッソくんに声を掛けられた。……そして、現在に至る。
「見習いシェフだったんですね、ロッソくん」
――カフェでお茶したばかりだから、全部はいただけないわね。ちょっと休憩しよう。
半分ほど食べ進めたオムレツから視線を上げ、アキミが側に立つロッソに話しかけると、ロッソは自慢げに胸を張りながら話す。
「ヘヘン。この世を美食で満たすため、日夜、研究に研究を重ねているのです。そう。まだ見ぬマドマーゼルの喜ぶ顔が見たくてね」
そう言ってロッソがアキミの手を握ろうと片手を伸ばすと、とっさにアキミはナイフとフォークを持ち、オムレツの端に切り込みを入れる。
――オッと、危ないところだった。そうそう同じ手は食わないわよ。
空振りした手を額に当てると、ロッソは吹き抜けの天井を見合上げながら、悲劇の主人公にでもなったかのようなオーバーアクションで嘆く。
「あぁ、愛と美の女神、ウェヌスよ。なぜ、今この刹那に目をそらしたのだ!」
――この男に微笑んでいたら、宇宙の均衡が崩れること間違いなしでしょうね。
アキミは、付け合わせの青パパイヤをフォークで口に運ぶと、話題をそらしにかかる。
「常に新しい美を求めて、いつもハイビスカスをお買い求めになるんですか?」
素っ気なく言うと、ロッソは額から手を離し、我が意を得たりという満足そうな顔で語りだす。
「花言葉を良く知っているね! その通りだよ、マドマーゼル・アキミ。だが、それだけじゃない。僕が十三歳から十九歳のあいだ、つまり、人生で最も多感で繊細な時代は、内乱によって灰色に塗りつぶされてしまった。きょうだいで助け合いながらも、なかなか満足に食べることも出来ず、街にも人にも、あでやかな彩りや潤いに乏しかったのだよ。花を買うのは、そうして傷を負って荒みきった心を癒す補償行為さ。ハイビスカスの華やかな美は、僕の精神安定剤であるといっても過言ではない」
――なるほど。ここにも一人、辛い過去を忘れないために、未来に幸せを求める人間が居るのか。
黙々と意味もなくナイフの端でオムレツを突きながら、話半分にアキミが聞いていると、不意にロッソはアキミの手からフォークを取り上げ、それを皿の上にひと口大に切られたまま放置された部分に突き刺して口に運ぶと、咀嚼しながら斜め上を見上げて軽く唸ったあと、続いてオムレツが乗った皿と一緒にナイフも取り上げ、店の奥へ運びながらさり気ない調子で言う。
「冷めると美味しくないな。今度は、もっと食欲が湧くものを持ってくるよ」
「えっ? いや、別に不味いから、ためらってたわけじゃないわ」
「いいから、いいから。これは、厨房で皿洗いしてる弟弟子どもに与えるさ」
――ちゃらんぽらんだけど、美と食に対するこだわりだけは、本物みたいね。