014「上陸」
――二泊三日の船旅のあいだに、真摯な女医の看病のおかげもあり、瞬く間に貧血は治まった。
「ここがアングレーズ領、ブリタニア島か」
浴衣に下駄履きのアキミは、片手を額に当てて庇にし、照りつけるような日差しを遮りつつ、ボストンバッグを片手にタラップを渡る。
――矢絣袴や編み上げブーツでは、この暑さに耐えられなかったわね。気前の良いお姉さんに交換してもらって正解だったわ。
もやい結びのロープをボラードに引っ掛けて係留された船の脇を通り過ぎると、あたりに混沌で猥雑な活気に満ちた極彩色と喧騒の街が広がりはじめる。
――わっ、凄い。この暑さに負けないくらい、熱気が溢れてるわ。
アキミが立ち止まり、バッグの外ポケットからメモを取り出そうとすると、足元に一匹の猫がすり寄る。猫はペルシャ種に似て、ずんぐりとした身体つきに、扁平で愛くるしい顔を持ち、長い毛で覆われている。首回りには、紫と緑のリボンが結ばれている。
「あら、可愛い白猫ちゃんね。お散歩してるの?」
アキミがバッグを足元に置いて猫に手を伸ばそうと屈むと、猫は外ポケットに挟んであったメモを口にくわえ、見た目からは想像の出来ない軽やかな身のこなしで雑踏へと走っていく。
「あっ、待って。それは、あげられないのよ」
アキミは、急いでバッグを持ち、カツカツと軽快な音を立てながら、必死に猫を追いかけはじめる。
*
半時間ほどして、猫は花屋の前で立ち止まると、店先で丸イスに座るケルト人風の年配の女の膝に飛び乗った。
「おやおや、ミルキー。また、性懲りもなく悪戯をしてきたんだね?」
女が、眉をハの字に下げつつ猫の口からメモを引き抜いていると、アキミが追い付き、ゼエゼエと息を切らしながら女に片手を差し出しながら言う。
「そのメモ、私のなんです」
「あらあら。そんなに髪を振り乱して、汗だくで。その様子だと、おおかた港のほうから追いかけて来たんでしょう? まぁ、ここへ座りなさい。お茶を持ってくるわ」
「いえ、あのっ」
アキミが何か言おうとするのを無視し、女は猫を抱えて立ち上がり、店の奥へと向かって行った。
――穏やかで上品な淑女みたいだけど、マイペースな人ね。
自分から何かアクションを起こしても無駄だと悟ったアキミは、大人しく丸イスに座り、女を待つことにした。