マーガレット喫茶店
まだ、鳥も鳴かぬ、まだ日も上っていない。
そんな早い朝、アリシアは出かける。
狭い路地をぬけ、町の一角にそのお店は存在する。
黒い戸を開くと、カランとドアベルが鳴った。
「おはようございます」
アリシアが大きな声で挨拶した。
「おはよう。今日もご苦労様」
マーガレットも笑顔で返す。
此方、マーガレット喫茶店。
店長マーガレット、助手アリシアのもと、今日も朝早くからパン作りが始まる。
食パン、リングパン、ウインナロール。菓子パン、スネークロール、編みパンやブリヨッシュ、ライ麦パン、グリッシーニ。それから、クロワッサン、デニッシュペストリー、野菜パン、揚げパン、ピッツァ、ラスク。
全部、前夜に下ごしらえしてあるので、後は、少し作業を行うだけ。
二人のコンビネーションは、抜群で、作業は順調に進んだ。
オーブンに、全てのパンを入れて、二人は、ふぅとため息をついた。
朝、八時になるころには、店内には美味しい匂いが立ち込めていた。
開店は九時。
それまでに、全てのパンを店頭に並べなくてはならない。
二人は、一生懸命働いた。
時計の長い針が十二を指した。
開店の看板を出すと、並んでいたお客さんが一人入ってくる。
顔なじみのお客で、少し剥げ掛かっているが、眼鏡の優しいおじさんだ。
店内の椅子には目もくれず、レジの横に並んだパンを眺めている。
「今日は、デニッシュペストリーにしようかな」
「はい、ありがとうございます」
アリシアは、おじさんからお金をもらうと、レジからお釣りを取り出して、渡した。
カランと音がして、おじさんが出て行った。
十時になると、マーガレットはカセットを持ってきた。
ボタンを押すと、店内は、サックスの音楽が流れる。
この音楽は、マーガレットの甥が演奏した物だ。
「もうすぐ、甥の誕生日でね、今度、ブリヨッシュをご馳走してやるんだ」
「そうですか。愉しみですね」
二人は、にっこり笑った。
また、カランと音がして、扉の方を向くと、子供が一人立っていた。
「いらっしゃい」
マーガレットが声をかけると、少年は無言で此方にやって来た。
「何がいいですか?」
彼は、何も言わずに、野菜パンを指さした。
「野菜パンね。百五十円になります」
ポケットをまさぐると、五百円硬貨を差し出す少年。
レジを打って、お釣りを出そうとすると、何故だかレジが動かない。
「あれ、どうして?」
仕方なく、ポケットから、レジの鍵を出そうとするが、いつも入れている筈の鍵が無い。
マーガレットが慌ててしゃがみこみ、下を探してもどうしても見つからない。
「困ったわね」
少年は、ちょっと微笑んで、
「じゃあ、あと食パンをもらってもいい?そうしたら、丁度五百円になるから」
と小さく言った。
「ありがとう。じゃあ、おまけに揚げパンもつけるわ」
少年が去った後、臨時休業の看板を出し、店を閉めるマーガレット。
「さてと、鍵を探さなくてはならないわ」
「でも、何処に行ったんでしょう。昨日は確かにあったのに」
二人は手分けして鍵探しを始めた。
一時間、過ぎても二時間過ぎても鍵は一向に見つからない。
「はあ。どうしたらいいんでしょう。あれがなくちゃ、店を開けられない」
マーガレットは肩を落とした。
「あ!」
突然、アリシアが叫び声をあげた。
「確か、鍵を壁に掛けた時、ゴキブリが出たんで、私びっくりしてひっくり返ったんです。その時、ボウルをひっくり返したから、その拍子に、鍵が入ったかも。探して来ます」
アリシアは、ボウルをひっくり返した。
かくして、鍵は、ボウルの中だった。
「すみません。私の失態です」
アリシアは頭を下げた。
「いいのよ」
マーガレットは手を振った。
時計を見ると、十三時を指していた。
マーガレット喫茶店の扉に、また開店の看板がかかると、ほんの二時間でお客さんがぞろぞろ入ってきた。
今の時刻が書き入れ時。
自慢のパンとお手製の紅茶でおもてなし。
お客の層は、女性ばかりだが、時には、スーツの三十代の男性が居ることもある。
そんな賑やかな店内だが、十七時には、おいとましなくてはならない。
お客が居なくなると、アリシアが帰る時刻。
「今日もお疲れ様。明日はお休みだから、ゆっくりしてきて」
「はい。母とショッピングの予定なんです。マーガレットさんも、お元気で」
彼女が帰ると、二十時まで、明日の下ごしらえ。
二十一時になる頃には、外に出て、鍵を閉める。
帰り道、公園の前を通ると、線香花火で遊ぶ家族の姿があった。
楽しそうね。そう呟いて、彼女は、身を翻して、夜の闇へと姿を消した。