第一話〈我が家のお姫様〉 第二話〈一カ月前……〉
〈我が家のお姫様〉
――さて問題です。
なんて、私はドアノブに手を掛けて、塾で子供たちに教えるみたいに心の中で呟いてみる。
精神的にも肉体的にもくたくたに疲れているとき、家で出迎えてくれているといちばんうれしいものはなんでしょう?
答えはあたたかい料理と、愛する家族。
それ以外にいるものはあるだろうか?
「ただいまー……ああ疲れた」
「おっかえりなさーい!」
甲高い声がきんきんと廊下の奥から響いてくる。と、板張りの廊下を、エプロンをつけた背の低い少女が裸足で駆けてくる。整った顔立ちに、満面の笑みである。
「ヒナ、待っていたぞ!」
私のスーツの胸元に、金髪のロナが飛び込んできた。
「ロナ、くるしい。おもい。だるい。うざい」
「ほうほう、ほかにはないか? それだけか?」
「おなかすいた……」
「ふふふ。そうくると思って、今夜もおいしい料理を作っておいたぞ! ほら、早く入るがいい。おっと注意だぞ。そこに通販で届いただんぼぉるがあるからな」
「またなんか頼んだの……」
「うむ、耳を隠せるかぶりものを頼んだぞ」
「ああ……」
私はロナを抱っこして歩きながら、その耳をちらと見る。
いつになっても、やっぱりその形には驚かされる、
ピンととんがって、長い耳。
ロナはこの世界の住人ではなかった。
「よし、今鍋を持っていくからな。座って菓子でもつまんでおれ」
「はぁい」
ジャケットを脱いでブラウスのボタンをひとつ開けると、ようやく仕事から解放された感覚になれる。ほう、と一息つくと、居間とつづきになっている台所から、あたたかい香りがただよってきた。
「今日はなに?」
ロナは胸を張って笑みを浮かべた。
「喜べ、おでんだぞ!」
「あ、うれしいかも……」
三月になったというものの、外はまだ寒い。風が冷たく、襟を立てて歩くひとは多い。そんななかを帰ってきたもので、おでんということばだけで身に染み入ってくるものがあった。
「まっくろしゅわしゅわは飲むか?」
コーラのことである。
「あー……じゃあもらおうかな」
ごはんが済んだあと、横になっておなかを休めてうとうとしていると、外の廊下でロナががさごそやる音が聴こえてきた。
「ロナー? 家のことはそのへんで、もう今日は休みなよ」
「うんー?」
首をかしげるような声がくぐもって聞こえてきた。
襖の向こうにいるからだろうか? ちょっと聞き取りづらい声だった。
「いや、これは片付けではないのだ。ちょっと待て……ン……うむ、上出来」
「なにしてんの? 寒いから炬燵に入りなよ」
寝転がったまま手を伸ばして襖を開けると、ロナがエプロンをしたまま立っていた。
「……なにしてんの」
細い脚と、きゅっとしまったくびれ、白い喉元……そのうえに、某アミューズメントランドのメインキャラクターの頭が載っていた。ねずみ……だと思うそれは、目が大きくて、その上常に笑顔を絶やさないので、薄暗い廊下にそれが立っているのはだいぶ不気味だった。
「え、ほんとになにしてるの……?」
「そうなんども訊くでない……目が怖いぞ。ほら、こうすれば耳が隠せるだろう?」
「……ロナ、お前それを通販で頼んだのか……」
「うむ……おっと、視界が悪いな。すまんが手にスポンジを持たせてくれ。洗い物をしなくてはな」
スポンジを渡す代わりに、私はロナの脚を掴んでそのまま上へ引っ張り上げた。
ずるっとこける形になり、真後ろへ転倒する。
ごす。
被り物は後ろへ飛んでいき、ロナは頭を抱えてうずくまった。
「うぐぁー!」
「ロナ、もんだい。そういう被り物をして町を歩く奴を、世間ではなんというでしょうか」
「ぐぐぐぅ……えっと、面白い奴、か?」
わかってんじゃねえか。
「し、しかしな、ヒナよ。この耳は我が種族の誇りではある……あるが、こっちの世界では、どんな人種でもとんがった耳はしておらんだろう……」
言いながら、しょんぼりする。
私はあぐらをかいて座り、床の上で丸まってしまったロナをみおろす。彼女は自分のつんと伸びる耳を両手で隠すようにしていた。私はその手に、自分の手を重ねる。
「ロナ、お前のその耳は、なにも恥ずかしいものじゃないんだ。こっちとあっちでは常識が違うだけで、そのことでお前が気に病む必要なんてないんだ。それに、その……その耳はとってもきれい……だと思う」
ロナは手をついて起き上がって、私を上目遣いで見た。まだ信じられないのだろう。こちらに来て一カ月だ。そこまで慣れろというのも、難しいものだ。ことばだけでは、きっと受け入れられないものが多いに違いない。
潤んだ瞳を見つめ、私は言った。
「それにさ、ロナ。頭に載せるなら、そんなものより大切なものがあるだろう?」
「え……?」
私は棚の上に置かれていたそれを取り、まだ涙を目の端にいっぱいに浮かべているロナの頭に置いてやった。黄金のティアラは、彼女の金髪の上でまぶしいくらいに光を放っていた。
「大地を守りし精霊の王族オーロナリィ・グロウシュル姫……ねっ?」
ティアラを両手の先で支え、ロナはぱぁっと、つぼみが開くみたいに笑顔になった。
「……うむ! そうだ、私はエルフ祖国復興の姫、ロナである!」
そのティアラの端っこの突起が、ひとつ折れているのを私は見る。王族の第一王妃であることを顕すこの装飾品は、彼女が侵略された祖国を逃れてこっちに来たときに、唯一持ってこれたものだったという。
「しかし、あれはあれでいいものだぞ? ヒナもひとりぼっちでひきこもりたいときはあれをかぶって膝を抱えろ。な?」
「使うものか」
「えー」
明るさを取り戻して……私はちょっと、暗い気持ちになる。
この子を、どうにかしてあげたいと思う。けれど、この子の帰る場所はもうないのだ。
「……ヒナ」
「ん?」
「ちゅー」
物思いに沈んでしまっていると、ロナは立ち上がって、私の唇を奪った。
「…………‼」
「ちゅー」
「ば、ばか!」
のけぞるようにすると、さらに近づいてきたのでその頭を押さえた。なにがしたいんだ、こいつは!
「なんだ、初めてでもあるまいに」
「それが悲しいんだよ! どうして私はファーストキスをお前に奪われた挙句に……」
「セカンドももらったな、ふふふ」
「ちくしょー!」
「まあまあおちつけ。私の祖国では女性同士など珍しくもない」
そんな慰めにもならないことをぬかしつつ、私を抱き寄せる。平坦な胸のむこうから、あたたかい鼓動のリズムが伝わってきた。
「さっきのは感謝の接吻だ」
「お前なあ……」
「本当に感謝しているのだぞ。私は必ず、祖国を取り戻す。それまで一緒にいてくれるか?」
「……ああ、もちろん」
「愛しているぞ、ヒナ。祖国復興の折には、必ずうぬを第一妃として迎え入れるからな。安心しろ、エルフは約束を違わぬ」
「どうしてそうなる……」
家に帰ると必ずエルフのお姫様がおいしいごはんでお出迎えしてくれる。
それ以上に素晴らしい答えなんて、あるのだろうか?
〈一カ月前……〉
ぱり、ぺりぺり、ぺりりりり……ぱりっ……むしゃむしゃ……むぐ、ごくん。
ぱきゅっ、ぷしゅー……ごくごくごくごくごく……ぷはぁー……。
かさかさ、びりびり、はむっ……むぐむぐむぐ……ごっくん。
ごくごくごくごくごくごくごくごく…………ぷっはぁー…………。
「ああ、おいしい……」
いちばんかなしいこと……それは、お腹が空いてひとりぼっちでいることだと聞いたことがある。どんなにお金があっても、友人が多くても、家に帰ってきたときにおいしいごはんを作って待っていてくれるひとがいなければ、それはとてもさびしいことなんだ、と。
なんだそれ。
くそくらえ。
私は今、暗い帰路につきながら、ひとりでコンビニごはんを食べている。
まず、エビマヨ入りのおにぎり。ああ、どうしてこう、おにぎりの包装を剥がす手順は官能的なんだろう。真ん中でビニールを裂き、ぱくりと横に割れる。口元におにぎりを運べば、海苔の香ばしさと、ぱりぱりのたまらない食感。米のなかからあらわれる、甘く味付けられた海老は舌の上でぷりぷりとおどる。
さてさて、お賃金といっしょにストレス&フラストレーションを下賜くださるバイト様からの帰り道に欠かせないのはなんでしょう?
答えはお酒ちゃんです。
舌が子供なので、甘いサワー系のお酒が大好きだ。今日は季節限定のぽんかんサワーなどというものが並んでいたので、面白がって買ってみた……これはなかなか正解である。酒飲みというのは甘党なのである。糖分とエチルアルコールを同時摂取できるなんて……夢のようではないか。
「さあ……そろそろいっちゃいましょうか」
お酒ちゃんといっしょに食べるべき冬のコンビニごはんをビニール袋の底から取り出して、両手で持つ。発泡スチロールの器のなかで、たぷん、とつゆのうごく気配。透明なふたをぱこりと外すと、眼鏡がくもった。湯気の中に、こんぶ、大根、おふ、餅巾着、つくね、牛すじ、うぃんなー……おでんである。出汁の甘く芳醇なにおいがあたりに立ち込める。
「ひゃあぁぁぁ……たまんないよ……真冬に食べるおでんは幸せの形そのものだよね」
いただきます。
心のなかで手を合わせて、まずは煮卵から箸をつける。つゆのなかで半分に割ると、固まった気味がちょっとくずれて、つゆのなかに滲み出していく。半分だけ口に運ぶ。熱々で、舌をやけどしちゃったけれど、そんなの関係ないのである。ほろほろと下の上でくずれていく卵は、出汁がしみ込んでいてとっても……とってもとっても、おいしい……。
「ふあぁ、幸せ……」
牛すじといっしょに、お酒を口に流し込む。濃い味のなかにお酒がしみ込んで味のしつこさを中和する。それから、胃のなかでまじりあって、アルコールは血液に流れ込む。
ぐびぐびぐびぐびぐびぐび……はふはふはふ、もぐもぐもぐ、もぐ……ごっくん。はふ、はふっ……あちゅ……もぐもぐ、むぐ、ん……ごく。ぐびぐびぐびぐびぐびぐび、ぐび。
「ぷっふぁ……もう死んでもいい……ていうか殺して……仕事も決まらないし彼氏もいねえこんな仕事のできないフリーター女、ぶっころしてくれよぉ……」
お酒のおかげで頭がぼうっとしてきた。よし、よーし、いいぞ、このままなんにも考えずにアパートについたらお布団にダイブだ。
「こんな一日はさっさと終わらせよう……」
と、帰宅飯の儀式を続けながら歩いていると、アパートまであとすこしというところにある神社の鳥居に、おかしなものをみつけた。最初はお酒のせいで幻覚をみているのだと思った。石段を少し上ったところに鳥居はあり、そこから参道は林のなかへと続いていた。鳥居の根本――そこに……
「女の子……?」
白い衣をかぶった少女が、膝を抱えてうずくまっていた。それは異様な光景だった。朱塗りの鳥居の下にいたのは、金髪の女の子だったのだ。
「迷子……かな」
千鳥足で近づいていく。本当なら相手が子供であれ社交性を見せられないほどのコミュ障であるが、お酒の力は偉大だ。それに、困っている子を放っては置けない。
「ねえ、大丈夫? えっと、日本語わかるのかな……」
石段をのぼりながら声をかける。近づくにつれて、徐々にその姿が明らかになった。月の光に照らされたその子は、地面に触れるほどに長い髪を垂らしていた。細い金色の髪が、ちらちらと目にまぶしかった。細い体つきをしている。見た目からでは年齢は推測しづらいのが外国人だが、おそらく中学一年生くらいだろう。ワンピースにも似たその白い衣に包まれた体は、あまりふくらみのあるものではなかった。
「ねえ、そこの子。どうしたのさ?」
まるでナンパじゃないかと酔った脳内で苦笑しつつ――私は酔いが吹っ飛ぶほどの衝撃を受けた。
膝を抱える少女の両手首を、冷たい鉄輪が繋いでいた。それは手錠などではない。外すことなど想定にないような、重い鉄の塊だった。彼女はそれを膝の上に置くしかないのだった。
「え、え……?」
たじろいだ。けれど、同時に、この子を助けなきゃいけないと、胸のなかで誰かが叫んだ。
「き、きみ……」
けれど、少女の前にかがみこんだ私はまた、息を飲む羽目になった。
その女の子は、きれいな顔をしていた。西洋風の顔の形だからというのではない。すっきりとした輪郭に、薄い色素の肌。つん、と張った唇は桃色で、うっすらと開かれた瞳は琥珀色だった。
でも……なにより私を驚かせたのは――とんがった耳だった。
「こ、これ、飾り物じゃない……の?」
「ちがう。きたないてでさわるな」
「そっか……ってええ!?」
気づかずに触ってしまっていたとんがり耳から手を離す。ごつ、と後頭部が鳥居の脚にぶつかってしまい、私も彼女と同じようにずるずるとそこに座り込んでしまった。
「……日本語、喋った?」
「しゃべってわるいか。おろかなる低身長族〈ちびすけ〉め」
「ち、ちびす……け?」
「やばんなノルドめ……」
細かな髪の隙間から、三白眼の瞳が眼光を放った。恨みのにおいをそこから嗅ぐことは容易だった。
「みのほどをしらぬ低身長族〈ちびすけ〉よ、精霊〈ノーム〉のいかりにふれぬうちにきえろ」
いや、見た目では明らかにきみのほうがちまっこいのだけれど……。
殺意のこもった口調に尻込みしつつ、私は彼女の腕を取った。
「ふれるな。ころすぞ」
「嫌だ」
少女の瞳が曇った。
「じひをやったというのに……まことに、おろかなしゅぞくだ」
「ああもう、おろかでいいよ……なにがなんだかわかんない。でもさ」
私は鉄輪に触れて、彼女をまっすぐに見据えた。
「女の子にこんなのをつける奴を許せないって、そう思うだけなんだ。これだけ外したら、どこか行く。その耳のことも、きみのこともなにも聞かない。それでいいでしょ?」
少女の瞳が、大きく見開かれた。その琥珀色の目に、私は戸惑いみたいなものを読み取った。
「ふん……すきにしろ。だがこのうでわは、【この世に存在しないもの】をよせあつめてつくった呪具〈アイテム〉だ……魔力〈マナ〉を持たぬノルドごときがはずせるものでは」
カシャ。
継ぎ目でもないかと思い撫でていると、それだけで腕輪は外れた。
「……」
「……」
「……えっと、マナ、だっけ?」
「……どうして」
少女は呆然としたように、自由になった両手を目の前にかざした。
「な、なぜ、お主如きが……?」
さきほどまであったたどたどしい喋り方は消えていた。
「私のことを、あれほど縛り付けていた、忌々しい呪いが……」
「ご、ごめん、なんか、ごめん」
なんだかシリアスな空気をまとい始めた彼女に、意味もわからず謝ってしまった。
「……ぐす」
「ぐす?」
「……かった」
「かった?」
「たすかったぞ……!」
あ、と思った瞬間にはもう、私は冷たいコンクリの上に押し倒されていた。非力だと思っていた女の子は、思った以上に力があった。ぎゅうううと、か細い両腕で抱きしめられる。く、苦しい……。
「ありがとう、ぐす、ありがとう……ありがとうノルドの民よ……!」
「いやごめん、なにがなんだか……」
「こわかった……私はこわかったのだ……感謝申すぞ!」
ぎゅうううううううううううううううう。
「い、いてえ! わかった、わかったから、ちょっとはなれて!」
ぐぎゅううううううううううるるるるる。
「あ」
と、金髪の少女がお腹を押さえた。組み敷かれたままなので、すぐ目の前にきれいな顔がある。その頬に、さっと赤みがさした。照れているらしい。
「えっと……食べる?」
コンクリに置いたままになっていたおでんを差し出す。ようやく体を起こし、少女はおでんの容器を受け取った。
「う、うむ……うぬは恩人だ。毒を疑うこともあるまい。頂こうか……ぐ」
少女が一本の箸で突き刺して口にしたのは、さっき私が半分に割って出汁をしみ込ませておいた煮卵だった。
「美味……!」
肩を震わせた。
「な、名はなんと申すのだ!」
「え、これ? これはおでん……」
私はすっかり冷たくなった発泡スチロールの容器に手を添えた。
「今食べたのが煮卵でしょ? で、こっちがつくね。おいしいよ」
「ほうほう! なんとも、ごったに煮ただけなのにここまで深い味わいがあるとは……うむ、このぬめっとした海藻も美味ぞ」
「こんぶだね。で、こっちがこんにゃく」
「ほうほうほう! こんにゃく……ではなく! そなたの名前を訊いたのだ」
「あ、ごめん。私は、皆月雛。ヒナでいいよ」
「私はオーロナリィ・グロウシュル。人は私を、ロナ姫と呼ぶ」
「へえ、ロナ……え?」
「大地を守護する精霊王族の寵姫、ロナである」
それまで私は、迂闊にもその存在に気づかなかったのだった。仕方がないともいえる。だって、彼女の美しい金色の頭髪にその高貴な黄金色の髪飾りはすっかり溶け込んでいたのだから。
その――彼女の頭に載ったティアラは。
「よろしく頼むぞ、ヒナ。ところで悪いのだが……この料理をもっと作ってはくれまいか?」
それから、彼女はそっと私に顔を近づけて――
「ちゅ」
キスをした。
呆然とする私の目の前で、ロナと名乗ったお姫様は、ふふ、とほほえんだ。
「料理を作ってくれというのは、私の祖国では愛の告白でな……ヒナ、お主は生涯、私とともにあれ」
つづく