ハイウェイを西に
夜の十一時を少し過ぎた頃だろうか、車で北へ、向かっていた。
家に帰る途中だった。
路の両側には緩い起伏の荒れ地が拡がっている。ところどころに、しなやかな若者の立ち姿をした木々。しかし、すこやかに伸びゆくには何かが足りない。海に近いせいだろうか、どこか姿勢が鬱屈してみえる。風が止み、枝はかすかにもそよぎそうもない。
星ひとつない、夜空だった。
僕はただひたすら、ライトの届く限り前方の車道に目を向けた。木を見ていると、何かを思い出してしまいそうだったから。
バイパスの高架下をくぐり、おや、と気づく。
来春開通するはずなのに、今くぐった高架上を、確かに、明かりが西に向かったのだ。大型車らしい。
少しスピードを緩め、考えてみようとする。通れるのならばその方が帰るには便利だ。少し大まわりになるが、スピードが出せる分早く帰れるかも知れない。
しかし、本当に通れるのだろうか。さっきのトラックらしいのは、工事用車両かも知れない。いや、時間が遅いから工事帰りということもあるまい。
見間違いだったのだろうか。アクセルを踏み込もうと足を浮かせたほんのわずかな時間に、僕は標識を見た。
頭上高く、冷たい雨のように青く光る新しい標識の中、今までは白い四角で覆われていた地名が確かに、読めた。
新しい地名、僕の家のすぐ近く。工事は終わっていたのだ。
かすかに膨張したように光るその白い文字に手まねきされたかのように、車はごく自然に左に入る。シフトダウンの時も、アップの時も揺れやきしみがない。ごく普通にギアを切り替え、僕はカーヴした誘導路を緩やかにのぼり、気づいたらバイパスの黒く艶のない路面に車をはしらせていた。
不快なナトリウム灯のオレンジ色さえなく、闇を照らすものは自分の車のライトのみ。その灯りの伸びる限りに、生き物の皮膚のごとくなめらかな道路が続いている。合流の際、本道へ入る時、点々と伸びている白線がちかりと目を刺した。
風景は目に入らない。道路が高いせいか、見えるのは暗く淀んだ空ばかりだ。
少し下り坂になった時、南側はるか海の方に町の存在を示す光、その上空は毒されたような鈍いオレンジ色に染まっている。
道は大きく弧を描く。ネオンに腐食されていた空がゆっくり、向きを変えて視界から去っていく。
向かう先には、なお大きな夜。ハイウェイはなめらかに続く。
前方遠くに小さく出口表示が見えた。もうそんなに走ったのか。
心の中もすっかり空っぽになっていた。
何の気もなく、標識を見上げて僕は気づく。目的地の名前ではない。どこか知らない、全く覚えのない地名だった。
道は更に続いている。
目的の出口は更に先なのだろう、と僕は右足に力を込めた。軽く背中が座席に押し付けられる。
そのままで、とりとめもなく色々なことを頭に浮かべる。考える、という程ではない。
頭の中に切れ切れに浮かんでくるのは、闇に舞う雪のように突然視界に現れては、また消えてしまう。
ラジオを点けようと手を伸ばし、結局その手を引っこめた。点けても、もし何も聴こえなかったら自分がどうなってしまうか、急に不安になった。
妻はこう尋ねた。
「あなたが帰るのは、一体どこなの? この家? それとも自分の実家なの?」
婿養子で入った時には、気楽だとしか思わなかった。子どももすぐに生まれたので、自分の分身がすぐに家族に受け入れられたという安心感もあった。
義父は酒好きで気が合ったし、義母は少し気がきつくて口も達者だったが、自分の知らないことを色々と教えてくれ、自分の娘と分け隔てなく接してくれた。それに、『できちゃった婚』にも特に何も文句は述べなかった。
アコちゃんが可愛くて仕方ないと、いつもたった一人の孫自慢を繰り返していた。
そんな暮らしも十年近い。娘がナマイキ盛りになるにつれ、義母の文句も増え、僕に対する見方もだんだんと厳しくなってきた。
転職も面白くなかったらしく、仕事が落ちつくまでは人の顔をみてため息をついていた。
そんな中、実家の母が体調を崩し、独身の兄から手助けを頼むメールが届き始めた。
妹も結婚していたが近くに住んでいたので、そちらを頼ればいいようなものの、つい何度か顔を出すうちに、すっかり母からも頼られてしまっていた。
……そう、僕が思いたかっただけかも知れない。実家の門をくぐる度に、どこかほっとする自分がいた。それがまた、心苦しくもあり、妻にはいつも言い訳ばかりしていた。
妻は、心配顔でよくこう言ってくれた。
「私がお義母さんの様子を見にいこうか」
しかし、母が元々人見知りということもあり、妻は妻で義父が大きな病気で入院したり、娘がケガしたりとたて続けに面倒なことがあったので、僕も遠慮して
「いいよ、寄れる時にオレが寄るから」
と、その手助けを断わり続けていたのだ。
しかし実際は、どうして妻を断ったりしたのだろう。そこを詳しく分析しようとすると、何が何だか自分でも分からなくなってしまうのだった。
少し前にも、こんなことがあった。
妻が、今夜は早く帰れるの? と聞いてきたのでつい
「いや、うちに帰ってからこっちに来るから」
と答えた。その時、妻の顔がひきつったのにすぐ気づき、自分のとてつもない失敗に気づいた。
少し時間をおいてから、彼女が尋ねたのだ。
「あなたが帰るのは、一体どこなの? この家? それとも自分の実家なの?」
次の出口が迫ってきたようだが、その地名にも見覚えがない。仕方なくそこも行き過ぎる。
数年前のことも、彼女は許していないのだ。僕のほんの出来心を。
僕にはもう一つ、寄る所ができていた。そして、もう一人愛する人が。
同じ職場で働く、バツイチの人だった。妻は三つ下だが、彼女は僕より一つ年上だった。
いつも煙草休憩の時、喫煙所でよく会った。たいして刺激もなく面白みもない流れ作業の中、吹きだまりに集まるように人びとが白く濁った空気の中に身を置く、そんな場所で。なぜか気が合って、他愛ない話題で盛り上がった。別れた亭主のことをかなり辛辣に、面白おかしく語ってくれた。そして、いつの間にか僕たちは男女の関係になった。
路はこのままどこに続いているのだろうか。始めにみた地名は何だったのだろう。それすら思い出せない。
一体どこに出ようとしているのだろうか、僕は。
妻は浮気には全然気づいてないように思えた。
だがある日、自宅の玄関先で煙草を吸い終わり、いつもの灰皿に別の銘柄の吸殻を数本みかけた時に、僕は凍りついた。
妻が知らないうちに、煙草を吸っていたようだった。今まで喫煙経験などない、と言っていた、どこか可愛らしさの残る彼女が、ここで一人黙って煙草をふかしていたらしい痕跡があった。フィルターすれすれまで吸いきって、ねじ込むように灰皿に吸殻を突っ込んでいた。
浮気相手の銘柄と同じものだった。
一度だけ、彼女の煙草を持ち帰り、カバンに入れっぱなしにしていたことがあった。多分、それを見つけたのだ。
それから間もなく、その相手とは別れた。
理由は単純。彼女は再婚したのだ。同じ職場の、もっと若い男と。
相手の女性は仕事を続け、僕たちはたまに喫煙所で顔を合わせた。短い挨拶程度のことばは交わし合う。それでも、以前のように他愛ない話に花を咲かせることはない。先に入っていた方は早々に長いままの煙草を揉み消し、また仕事場に戻るという暗黙のルールが出来上がっていた。
白い淀みの中では何の不自然さもない、はっきりした別れのない破局だった。
楽しい事を考えようとする。そう言えば、一人でこんなにぼんやりと過ごしたことが、近頃あっただろうか。
遠い昔みていた夢を、あこがれを思い出した。そしてそれが潰えた時の苦い思いを。
妥協して就職した時のことを。何となく結婚に踏み切り、すぐに子どもが生まれたのも何となく人生はそんなものだ、と思ってしまったことも。
思いは単なる景色の断片にすり替わっていく。
すり潰したような煙草の吸殻、白い淀みの中の見つめてはいけない顔……いつも見ているようで視ていなかったさまざまなことがら。
これからの生活の中で、果して自分が自分として生きていけるのだろうか、そしてその後はどうなっていくのか。
理想が少しずつ歪められ、現実という大きな黒い塊に押しつぶされていく。そして
車は、ハイウェイを西にひた走る。
僕は、どこかの分岐からハイウェイを降りるだろうか。降りられるのだろうか。
出口がどこなのか、見失ったままで。
了