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ミニチュアのような永遠の波止場

レインボーシープ

作者: 羊 名前

 「随分と気を付けて帰ってきたのね」彼女は言った。時計を見る。午前五時十七分。「街中の石橋を叩き回ったものだから、ほら、腱鞘炎になったよ」と僕は答える。彼女は僕の腕を捲り、マッサージを始める。「脚が揉んでほしいと言っているよ。歩いて帰ってきたんだ」僕は笑う。「そう。貴方は歩いて帰ってきたのね」彼女はどうやら一晩中僕の帰りを待っていたらしい。三白眼の両の目は少し充血していた。


 今日は日曜日。許された安息日である。彼女の仕事は休みだし、当然ながら僕も休みだった。「あんまり夜更かしをしたものだから、却って眠れないな」と僕は言った。「大丈夫。羊を数えるのよ。そして、レインボーシープを見つけるの」彼女が真剣に言うものだから、僕はこれまでの入眠方法を抜本的に見直す必要性を感じた。「その羊は何かな。機械仕掛けだったりするのかい」僕はそう尋ねてみる。「まさか、知らないの。レインボーシープはレインボーシープよ」彼女の目はひたむきさを維持していた。


 「………。羊が一万二千七百九十三匹。全国から集めてみたけれど、一向に見つからないよ」もちろん冗談である。「馬鹿ね。途中で止めたらやり直しよ」彼女はやっと笑みを浮かべてみせる。「しかし、羊も可哀想だね。日中は牧羊犬に追い掛けられて、夜になったら人間に数えられるなんてさ」僕は真剣に言う。「可哀想なんかじゃないわ。それに、人は人で大変よ。夜毎、羊に数えられるのだから」と彼女は言った。僕は数えられた人間が軍隊のように整列していく様を思い浮かべてみた。その中に彼女と僕は含まれているのだろうか。その答えは羊に転生しない限り永遠に謎であろう。気付いた頃にはもう、羊水のまどろみに落ちていた。結局、七色羊を目にすることはなかった。


 僕はここから抜け出す方法を考えていた。離脱する術を求めていた。一体どこから。


 十字架刑から、スマイルズガーデンから、千八百錠の粉々から、最後に触った水から、死せる詩人の会から、小田原城から、懲役30日から、1Q84年から、Mランドから、カッコーの巣から、近現代美術館から、埼玉の女と入ったカラオケボックスから、8月32日から、第7サティアンから、合わせ鏡から、日本航空123便から、ブルーバードから、無量大数の刹那から、どこから行っても遠い町から、ヘルハウスから、Eスタジオから、第三学舎の屋上から、罪と罰から、エターナル・サンシャインから、レテ川から、桜散る靭公園から、サヨナラだけの人生から、やまゆり園から、秋葉原の交差点から、ウロボロスから、深夜の救急隊員のノックから、肉体から、甦る性的衝動から、帰らずの奈落から、リッツ・カールトン上海から、カノンコードから、世界の終りから、2002年から、回転ケージから、輪廻から、忘れた頃の希死念慮から、カサンドラ・クロスから、現れたマドハンドから、フラワーロードから、東の森から、スクールデイズから、竜宮城から、大手広告代理店から、ピューリタンの囁く路地裏から、バミューダトライアングルから、2000年問題から、ノーホエアから、三次元から、貞操帯から、愛から、ニコチン中毒から、東京拘置所B棟から、オールドホームから、パイ山でライターを借りた女の影から、うつ病から、限りなくグレーだった四半世紀から、創造の終りから、ループ・ステーションから、愛なき世界から、果てしない循環から、生から、ストロベリーファームから、20分で一万六千円の遊郭から、青葉区から、タンク山から、想像の終りから、デオキシリボ核酸から、鎖国から、パリワールから、東灘区の側溝から、精神から、死から、死んだ木から、油屋から、STBOから、第三次世界大戦から、ベルリンの壁から、彼女と過ごした六畳から、淀川区から、第三軽音から、バッフォロー・ビルの自宅から、奇跡の輪から、光の届かない深井戸から、時間軸から、逆回転のベニクラゲから、タイタニックから、甘い生活から、下鴨幽水荘から、雛見沢村から、アウシュヴィッツから、学園祭の前日から、蜘蛛の糸から、河川敷で弾き語りをした思い出から、スタンダードブックストアから、アルカトラズ島から、ブラックホールから、最初に触った水から、2時間で死んだ姉から、コンクリートから、ロボトミーから、あの忌まわしき16Fから、子宮から、舌を喜ばせるゾルピデムから、霊長類の檻から、精神と時の部屋から、わかくす号から、夏休みから、地上300mの回廊から、原風景から、膣痙攣から、三つ子の魂から、二度と行くことのない場所から、この空の底から、ユートピアから、地下強制労働施設から、ヴァルプルギスの夜から、ヴォイニッチ手稿から、オルダーソンループから、言葉の海から、ミニチュアのような永遠の波止場から、ロンドン橋から、500000000年から、リフレインから、アートビレッジから、地獄の水溜りから、クラインの壺から、エンドレスエイトから、新約聖書を見つけた引き出しから、骨壺から、変身から、無職から、「いつか」から、円周率から、繰り返される諸行無常から、小児外科から、大坂城から、夏の夜の夢から、レインボーストリートから、中絶した子供の怨念から、彼女から、俺自身から。


 そして、僕は胸の奥から取り出したピストルを眺めた。僕の心には穴が開いていた。それは視覚的でフィジカルな空洞だった。そこから僕はこの世で最も尊い不条理をこの手に掴んだ。胸部から飛び出した金属バーを抜き取って投げ捨てた。身軽になった身体が宙に浮かないように床を踏みしめる。床は灰色で、それ以外の空間は闇に覆われていた。その中に彼女の姿を認めた。彼女は生きているようで死んでいるように、呆然と立ち尽くしていた。僕は引き金に指を掛けた。このピストルには銃弾が2発、実弾と空弾が装填されている。為すべきことは分かっていた。殺人/自殺の為に弾を使い切ること。僕はエリカに向けて一発放った後、自分のこめかみに拳銃の先端を充てがい、撃った。


 光。

 

 目を開けると、隣に横たわる女を見た。

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