乱立する旗の行方
死亡フラグが倒せないんだ。
おもむろに幼馴染がそう言った。染めた金髪は少々時が経ちプリンへ着々と近づいているが、幼馴染はまだまだチャラさの残る男だ。
さて、死亡フラグとは? いや、その意味くらいならさしものわたしも知っている。ゲームとか、映画とか、戦いの前に意味深な行動や言動をすると大概死ぬってやつ。
それをなぜ、唐突に幼馴染が言い出したかだ。見かけによらず彼はゲームや漫画が好きなインドア派だが、最近はめっきりそんな話もしなくなったと思ったのに。
「何、女関係? 止めてよー、わたしを巻き込むのは」
耳に光る数々のピアスを見つめて、わたしは渋面を作ってみせた。
見た目がチャラい彼は、どちらかというと軽い女の子ばかりに声をかけられる。わたしも幼馴染をそこまで知っているわけでもないので曖昧だが、こいつはわりとそういうことは経験豊富なはずである。
わたしに止める権利はないが、近い人間として巻き込まれるのはごめんだ。死亡フラグということは、何かそこそこまずいことをやらかしたのでは。
「女じゃない。もう、全員切った」
「嘘。マジで? いつから」
「……一ヶ月前」
マジかよ。かつてこの幼馴染の周りを賑わせていた女の子たちは、皆一ヶ月前には縁を切られていたということか。
それが冷たいとは思わない。彼の周りの女は……言っちゃ悪いが、まあ幼馴染だけに惚れていたわけではないからだ。言うなれば、双方ともぬるい遊びとして関係を持っていただけなのだろう。
それを止めたとなると、人として健全になったとしか言いようがない。これは目の前の幼馴染を褒めるべきなのだろう。
だが、その前にどうしても口を衝いて出たのは、もっともな言葉だった。
「何で? いきなり、どういう心境の変化だよ」
この一言に限る。
人の生き方はそう簡単に変わるものではない。わたしが毎日電車の時刻ギリギリまで寝入ってしまうように、彼もまた大勢の温もりに包まれていなければならない理由があったのだと思う。
それをいきなり、毎日睡眠時間を押してまで早起きするのは無理だ。そうしないと留年してしまうというなら話は変わるが……。
ということは、彼だっていきなり全ての女の子と関わりを断つなんて、よっぽどでないと無理に決まっている。そのよっぽどがなんなのか、わたしにはさっぱり分からない。
幼馴染はパサついた金髪を掻き上げて、深々と溜め息を吐いた。
「……お前は、俺が死んだらどうする?」
前々から思っていたが、この幼馴染は少々情緒不安定なところがある。
原因になるかもしれない事柄は知っている。彼の家庭環境は控えめに言っても劣悪そのもので、だからこそわたしはこんな彼を良く気にかけるようになったのだ。
彼が人との関係を求めるのも、そのせいかもしれない。
「勿論、悲しむよ。お葬式には出るし、遺品整理にも混ぜてもらうかな。でも、そもそも死なないでよ」
現実味がない言葉には、それ相応の反応しかできない。わたしの言葉に微かに落胆を露にした幼馴染は、形の良い眉を下げて頷いた。
「うん……いや、死ぬつもりもない。ただ――――」
そこで言葉を濁して、幼馴染は俯いた。
初夏の日差しは窓越しにも熱く、目の前に置かれたグラスからは確実に氷の体積が減っていく。汗をかいたグラスをなぞりながら、沈黙に流れるカフェの軽快なBGMを聴いていた。
どれほどそうしたか、幼馴染は顔を上げてわたしを見つめた。たくさんのピアスに脱色した髪、猫のような瞳は彼を確実に馬鹿な若者の一人に見せかけていたが、多分彼はわたしよりよっぽど、多くのことを考えている。
「お前、死ぬんだよ。この一ヶ月の間に」
なるほど、彼はそれだけ言うと静かに息を吐いた。その伏せられた目には明らかな諦観が浮かんでいる。
彼は良くそんな目をする。
昔から、頼れる大人がいない時。自分の親が世間一般とはかけ離れていると知っている時。殴られる前。
わたしはそんな幼馴染の目が、昔から甚だ我慢ならない。
「へえ、そうなんだ。どうやって?」
ふざけるな――――と、一声で一蹴されることを考えていたのだろうか。幼馴染は猫のような目を丸くして、猫そのもののような仕草でわたしを見つめた。
それが面白くてちょっと笑うと、何を勘違いしたのか肩を落とした。
「……方法は色々。初めはそれこそ事故だったり、病死だったり……お前の言う通り、俺の女友達のいざこざに巻き込まれたりもした」
「だから縁を切ったってこと? でも、わたし生きてるし」
「それは覚えてないからだ。もう何回も何回もお前が死んだと知らされてきた」
幼馴染は苦悩するように頭を抱えて、「冗談じゃないからな」ともごもご呟いた。さっきの笑いで、わたしがからかっているのだと思っているのだろう。
別に、信じていないなんて言ってないのに。
わたしは幼馴染のことを信頼している。多少交友関係には難があるが、基本的には見た目と違って真面目で律儀なやつなのだ。
そうでなければ、わたしだってこんなに付き合っていたりはしない。幼馴染だから気にかけているのではなく、彼だから幼馴染として側にいることを選んだのだ。
それを彼は分かっていない。
自分にそれだけの価値があるとは思えない。
だからきっと、信じてもらえないと思っている。
「じゃあ、死亡フラグってわたしの?」
幼馴染の話が繋がった。つまり彼は、わたしの死を何とかしようとしていたのか。
こくりと頷くだけになった幼馴染は、すっかりかさの増した薄いアイスコーヒーに口をつけた。
店内に流れるBGMは、その軽快なボサノヴァに続いて気取ったフレンチポップスが鳴り初めていた。彼にもわたしにも、愛だの恋だのを甘く奏でるこの曲は似合わない。
何せ、語ることは人の生き死にばかり。
「今までどのくらい死んだの、わたし」
「……十回を越したくらい」
「今までわたしに話したことは、なかったの?」
「……初めて、だけど」
歯切れの悪い幼馴染の答えに頷いていると、彼は恐る恐ると言った様子でわたしの顔を見つめてきた。その仕草だけは、猫よりも犬っぽかった。
「……信じてるのか? こんな話」
信じられるはずがない。荒唐無稽、そして説明不足。信じて欲しければ、もう少しましな言いようがあっただろう。
と、わたしの冷たく濁った部分は囁くが。
実際、彼の話をこう言って否定し、突き放す気など微塵も沸き上がってはこなかった。普段、不真面目な風貌で真面目な彼が嘘をついたことなんて、一度もない。
「信じてあげてもいいよ。嘘だったら……そうだな、新しいお財布」
「いい、構わない。お前がこの一ヶ月を死なずに済んだなら、俺は何だってしてやる」
「ほんと? じゃあ、気を付けないとね」
重ね重ね言わせてもらうが、彼がわたしに嘘をついたことは一度もない。つまり、一ヶ月後には新しいお財布がわたしの手元に来ることは決定した。
大学生としてはど定番のブランドしか持っていなかったが、ここは少し(金額も)背伸びをさせてもらおう。
ああ、楽しみだ。
まあ無論、彼の言葉も心にしっかり刻んでおく。当分の間は夜間の外出は控えて、また事故にも注意だ。
「楽しみ。約束、絶対守ってね」
そう言って微笑むわたしに、幼馴染はなぜか固まった。そして唸りながら項垂れて、ついには手で顔を覆ってしまう。
あれ?
――――次の瞬間に見えたのは、初夏の日差しの射し込む窓が割れて飛び出た、鈍色の鉄パイプだった。
近づく尖端に脊髄反射で身が固まり、そして刹那の間にごりごりとどこかにそれが深々と杭打たれた。わたしの記憶は、それで最後になっている。
もしかして、死亡フラグだった?
幼馴染は時々変なことを言う。元々情緒不安定なところがあったが、ここ一週間ほどは特に酷い。
外に出るなとか、誰かといろとか、不用意に他人に話しかけるなとか。まるで親馬鹿のお父さんみたいな発言ばかりだ。友達には束縛の激しい彼氏だと言われてしまったし、散々である。
……まあ、わたしだってあの幼馴染のことは嫌いじゃない。どうやらネックだった女遊びも控えたようだし、どういう心境の変化かは分からないが、わたしとしては少し嬉しくもあったりする。
そんな彼から、今日は家に来るとメッセージが入っていた。幼馴染であり、またこいつの家庭環境は複雑だったこともあって、わたしの家への出入りは彼のみ比較的緩い。
独り暮らしならいざ知れず、常に家族誰かのいる実家暮らしとしては、まあ間違いも起こらないだろう。ちょっと歓迎ムードなのも、それはそれで嫌なんだけど。
「いらっしゃい。早かったね」
「お邪魔します」
プリンへと近づいている金髪頭を律儀にもぺこりと下げて、幼馴染はわたしの家へと足を踏み入れた。わたしの部屋へと案内すれば、女子の部屋だというのに何の戸惑いもなくソファーへ腰掛ける。
こういうところが女慣れしているという証拠になるのか。えもいわれぬもやもやを感じて、わたしはベッドに転がった。
「…………」
沈黙が落ちる。
こういう雰囲気は苦手だ。最近あまり元気のない幼馴染のせいで、いまいち盛り上がらない。
せめてここが殺風景なわたしの部屋ではなく、カフェとかなら良かったのに。沈黙があっても音楽があるのとないのとでは、心のゆとりが違う。
「あのさ、どうしていつものカフェにしなかったの?」
幼馴染のお気に入りのカフェ。わたしの家に来るのも別に悪くはないが、年齢を重ねてからは家よりも外で会うことの方が多くなった。その方が良いからだ。
あそこなら、きっと素敵な洋楽の一つや二つで、わたしたちの沈黙を埋めてくれたはずなのに。
そういう意味で口にした言葉は、幼馴染の拳がテーブルを殴る音で無惨にも散った。
「……だ、大丈夫?」
「ああ、悪い。あそこは少しまずいんだ。近くで工事もしてるしな」
「へえ、そうなんだ……」
幼馴染の声は平淡に凪いでいた。まるで、あらかじめ決められた台詞を読んでいるような。
もしかして、あのカフェに行きづらくなるようなことをやらかしてしまったんだろうか。女関係は全て洗ったのだと言っていたが、連絡して「ハイサヨナラ」ではすまない女の子だっていただろう。
ビンタでも食らったか?
「えーっと……最近どう? 新しい彼女とかできた?」
女の子に囲まれていた幼馴染を見てきたからか、最近の彼はどうにも寂しげに見えてしまう。元々一人でいることが得意ではない男だ、わたしはそれだけが心配だった。
せめて、一人でも良いから彼と真摯に付き合ってくれる女の子がいれば良いのだが。見た目がどうにもチャラいせいか、そういう真面目な女の子は彼を敬遠している節がある。
あの金髪とじゃらじゃらしたピアスをやめるだけでも、印象は随分変わると思うのにな。
「いない」
「そう? すぐにでもできそうなのに。何だかんだで優しいじゃん」
世の中にはギャップという素晴らしい言葉があるのだ。不真面目な風貌に反して、優しく誠実な幼馴染はきっとすぐにモテるだろう。
そしてそれを応援するのが、わたしの役目。長らく彼の不運な人生を心配してきたが、それも終わりになると思うと寂しくなる。
でも、彼には可愛い彼女を作って心の傷を癒してもらい、そして自身が受けられなかった暖かい家庭という恩恵を充分に味わってほしい。
「そのうち結婚して、わたしなんか忘れて仲良く幸せに生きていくんだろうなー」
ただ昔、手を引いただけの幼馴染なんて、これからの彼の人生にはそう関わりあるものじゃない。だってわたしが彼にしたことは、ただ一言、話しかけただけなのだから。
――――バン、ともう一度テーブルを殴る音が鼓膜を震わせた。
びっくりして飛び上がると、立ち上がった幼馴染がわたしの肩を押さえつける。スポーツも何もしていないはずの幼馴染は、それでもわたしよりずっと力強い。
なのに、彼の目は水槽の金魚のように弱りきっていた。昔買っていた金魚は皆、白い腹をぷかぷか浮かせて死んでしまった。
「幸せに、なれるわけ、ないだろう」
幼馴染は今、その金魚みたいだった。
水槽に洗剤を流し込んだ幼いわたしを恨むように、濁った目でわたしを見下ろす。
幼馴染は、果たしてこんな顔だっただろうか? こんな風に、昔みたいに理不尽に囚われた表情をしていただろうか。わたしが、確かに手を引いて取り払ったと思っていたのに。
縫い付けられたように動かないわたしの口に、幼馴染の手が当てられる。
「お前を忘れて幸せになるなんて、あり得ないよ。だってさ、もう何度も不幸せを味わってるんだ。お前がいてくれなきゃ……」
口を塞がれたまま、何もできずにただその言葉を聞いていた。
意味は分からないが――――その、強烈な発言にわたしは二重の意味で言葉を失った。どうして、あの幼馴染がこんな真面目な顔でわたしに告白ともとれる言葉を吐いているのか分からない。
そしてどうして、こんなに顔が熱く、心臓が五月蝿いのかも。胸が苦しくて、ああ何だか血の気が失せてきた。息がしづらい。緊張のせいか、汗も酷い。
わたしは幼馴染のことが好きなのか? そうなのか? だから、彼をずっと見守ってきたと?
「だから――――死なないで」
その言葉と同時に、わたしは押さえつけられた彼の手のひらに思い切り咳をした。
息が苦しくて堪らない。とうとう異変に気づく。ごほごほと噎せ返るような咳を繰り返すうちに、手足の震えと脈拍の早さに恐怖する。わたしはどうなってしまっているんだろう。
だが、苦しくて堪らないわたしの横で、幼馴染はじっとわたしを見下ろしていた。さっきまでの鬼気迫る表情とは違って、今にも泣き崩れそうな、わたしには幼い頃の彼そのものに思えた。
その顔を見つめるうちに、ふと苦しさが和らいでいく。実際は息もまともに吸えていないし、胸の痛みは増すばかりだが、その時のわたしには彼がいたのだ。
「だ、大丈夫、すぐ、治る、から……」
治ったら、またあのカフェで駄弁ろうよ。
結局わたしはこの幼馴染を恋愛の意味で好いていようと、ただ側にいられるだけで充分なのだ。
それを言う前に、彼は泣き崩れるようにして手で顔を覆ってしまった。次に気がついたら、心配かけた分の埋め合わせをしないと。
ああ、そう言えばさっきの言葉、何だか死亡フラグみたいだなあ……。
わたしには幼馴染がいる。
プリンへと変貌しかけの金髪に、色とりどりのがちゃがちゃとしたピアスの数々。猫のような目は不思議な色気があって、つまるところ軽めの女の子は入れ食い状態。
少し前まではそうだったのだが――――この頃、そんな幼馴染が変わってしまった。
その幼馴染とわたしとの思い出は、ちょうど小学校に上がる前まで遡る。
閑静な住宅街に一軒家を構える我が家は、家族仲が良いことがちょっとした自慢だ。母はいないがまだ若い祖母がいて、優しいお姉ちゃんと頼りになるパパがいる。
そんな幸せな家庭で育ったはずのわたしは、けれども少しだけ幸せとは程遠かった。子供らしくない、といえばいいのだろうか。あまり感情的にならなかった(らしい)わたしは、同年代の子供の中でも浮いていた。
その時のわたしは、もっぱら絵本やお絵描きなど、一人遊びばかりに凝っていたらしい。それでも外で運動しないのはまずいからと、祖母たちはわたしを強引に外へ放り出した。
その時のことは良く覚えている。子供ながら理不尽に思ったものだ。「外に出たくもないのに、放り出すなんて横暴だ」と、今考えるとこういうことを思っていた。
だが仕方がない。とぼとぼと歩き出した先で、わたしは一人の男の子を見つけた。
まず目を引いたのは、金髪だ。黒髪を染めた時特有の、黄色の強く出た金髪。不自然なその色をわたしは捉えていて、気づけば踞る男の子をすぐ近くから見下ろしていた。
服はよれよれ、髪はぼさぼさでプリンと同じ色。自分より随分小さく見えるその子に、わたしはとっさに声をかけてしまった。
「何してるの?」
男の子は、わたしに気づいていなかった。はっと顔を上げた男の子の頬には、幾つもの透明な線が這っていて、わたしは思わず顔を歪めた。
この時でさえ、おおよそ子供らしくなかったわたしは、面倒なことになったと思ってしまっていたのだ。
男の子はぐしぐしと乱暴に頬を拭って、地面を指差した。
「あり、みてた」
「そお。蟻さん、確かにいるね」
嘘ではなかったのだろう。男の子の足元には蟻の列ができていたし、それより男の子は靴を履いていなかった。
彼は蟻をみているうちに、何か複雑な事情を思い出して泣いてしまったのだろう。親に叱られたとか、そのまま放り出されたとか、そんな感じの。
わたしはその男の子の隣にしゃがみこんで、人差し指を突き出した。
「あ、」
ぷちぷちと蟻を潰していく。潰された蟻はくちゃくちゃと丸まって、周りの蟻たちは無様なほどに列を乱していく。
意味はなかった……と思う。いつか、飼っていた金魚を殺したときのように。子供の残酷な好奇心と言うものかな。
その辺りに蟻がいなくなったところで、わたしは立ち上がって男の子を引っ張り上げた。蟻がいなくなったのだから、ここにしゃがんでいる理由もない。
「どうして靴を履いてないの? おうちは?」
あまり、他人を配慮しない質問だった。男の子は少し戸惑っていたが、子供故の素直さか、目に涙を溜めながらぽつぽつと話し出す。
「……でて、きたから。こっそり」
「出ちゃ駄目なの?」
「う、ん。でも、でたかったの、でも、お、おこってる、から、かえれない……」
ついにぼろぼろと涙を溢して、男の子は静かに泣いてしまった。わたしは驚いた。こんな不幸があって良いのか、とか、男の子があまりに静かに泣くこととか、そのほかにも色々。
今まで人並みの幸せと不幸せしか知らなかったわたしにとってこの男の子は、想像を飛び越える不幸せの塊だった。
だから、どうしたらいいのか。
おおよそ子供らしくないとは言っても、それは早熟だとか、ませているとかその程度で、大人のような経験も知識もなかったのだ。
「あ、あーっ、う、羨ましいな。わたし、反対だから。わたし、外に出ろって、出されちゃって。ずっと家の中でも、良かったのに。ね、ねえ」
だから、その時のわたしは、そういう下手な慰めで精一杯だった。自分よりうんと華奢な男の子の肩を抱き、静かに落ちる涙を拭いながら、ただひたすらに慰めの言葉を吐くことが。
「ほ、ほら、その髪の毛もかっこいいし、なかなかいないよ。初めて見たもの。ね、外に出ちゃったなら、もういいじゃん。どうせ怒られるなら遊ぼうよ、ね?」
何の解決にもなっていない言葉だったが、わたしは強引に男の子の手を引いて走った。彼が靴を履いていないとか、後でどれだけ叱られるのとか、そういうことは全く考えることさえしなかった。
ただわたしは、目の前の奇妙な子供が、このまま死んでしまうのではないかと思ってしまったのだ。わたしが潰した蟻のように、何もわからないままくちゃくちゃになってしまうんじゃないかって、そう考えたのだ。
二人で遊んだ。公園やその辺の空き地にも行ったし、ただぼーっと空を眺めたりもしていた。子供がするような鬼ごっこや、おままごとは全然しなかったが、それでもわたしは楽しかった。
「ねえ、また遊ぼうよ」
「……うん」
「絶対ね」
指切りをして、男の子とはそこで別れた。近所だったし、きっとまた会えるだろうと思って。
次にあった時、男の子の頬は膨れ上がって赤黒く染まっていたことも覚えている。慌ててわたしの家に連れていって、手当したことも。
小学生になっても、中学生になっても、彼とわたしは幼馴染のままだった。お互いに恋人ができても、不思議と交流は途切れることがなかった。
思い返してみれば、幼馴染とわたしは実にできすぎた絆で結ばれていたように思う。そしてわたしは、きっといつからか彼のことを好きになっていたのだろう。
ピアスをたくさん開けても、服装がだらしなくなっても、女の子といっぱい遊ぶようになっても。わたしは彼を嫌いにはなれなかったのだ。
だって、
――――目が、覚める。
柔らかいベッドは寝心地が良いが、少し埃っぽい。シーツだけでもちゃんと干して換気もしてほしいが、生活能力の低い幼馴染には難しいかもしれない。
隣にあるカーテンは閉めたままだ。伸びをしてベッドから飛び降りれば、ちょうど部屋の扉が開く。
「おはよ」
現れたのは、スウェット姿の金髪。どうやら幼馴染も今起きたところだったようだ。
手にはブラシと、ヘアウォーターが握られている。前、わたしが買ってきてと言ったことを覚えていたらしい。でも多分、ティッシュペーパーの買い置きのことは忘れている。彼は真面目で律儀だが、簡単なことはけっこう忘れる。
「やってくれるの?」
「ああ。いいよ、うん、任せておけ」
返事だけは元気がいいが、不安しか残らない。幼馴染の目はまだしょぼついていて、長い足を扉にぶつけていた。
仕方がないので彼の手からさっとそれを奪い取って、部屋にある姿見の前に立つ。
「ああー、俺がやるって。危ないから」
鏡に写ったわたしは、酷いものだった。
髪は寝癖でぼさぼさで、頬にはよだれの跡がある。これは人様に晒せる顔ではない。
そのほかにも、真新しいパジャマ。とっても可愛い。少し前までは使い古しのジャージを着ていたのだが、鞍替えしそうだ。
頬は健康的。ちょっと肥えてきたかもしれない。表情も明るい。そりゃあ、朝から好意を抱いている幼馴染と一緒にいるのだから、そうなる。
酷いものだ。あり得ないほどに。
「危ないって何よ。これくらい何とも……」
そう言って、ブラシを自分に向けた瞬間。
背筋の凍るような声がした。
「止めろ」
幼馴染がわたしの手首をぎちぎちと掴む。あまりの力にブラシを離すと、上手くキャッチして彼が取り上げる。
鏡越しに見る幼馴染は、やはり酷いものだった。
目は窪みその下にはくっきりとした隈、パサついた金髪は何だかさらに酷くなっている気がするし、明らかに痩せた。
きっとほとんど寝ていないのだろう。わたしが起きる少し前に寝て、わたしが起きる前に起きる。それだけじゃない、きっと何らかのストレスを抱えている。
わたしには、それが分からないまま。
「俺がやるから。座ってくれ」
「……うん。じゃあ、よろしく」
鏡の前に椅子を持ってくると、さっとそこに座らされる。幼馴染の落ち窪んだ目は、しかし爛々と輝いてわたしだけを射抜いていた。
ちょうど二週間くらい前から、幼馴染は変わってしまった。突然、わたしに対して思い出話をし始めた。
彼と出会った頃の話だ。やれ、あの頃からわたしは変わっていないだの、幼馴染は数段可愛かっただの、単純に二人とも変わっていただの、たわいのない話に花を咲かせた。
近頃、幼馴染の元気がなかったのを知っている。やけに物音を怖がったり、わたしに意味不明なことを言ったり。だから、あんなに楽しかった時間は、本当に久しぶりだった。
幼馴染は笑いすぎて苦しいのか、目尻に涙を溜めながら口を開いた。
「そういえば、お前、俺に対してめちゃくちゃな慰め方をしてたよな」
「いやっ、あれは本心だよ! もー、無理矢理放り出されたんだから。怒ってたんだよ」
めちゃくちゃな慰め方というのは、きっとあの時のことだ。あまり昔話なんてしないのに、二人ともあの日のとこだけはどうしてか良く覚えていた。
幼馴染は顔に笑みを張り付けたまま、あの日を回帰していた。
「お前さ、羨ましいって言っただろう。ずっと家の中でも良かったのに、ってさ」
幼馴染が歌うように吐いた言葉に、すっと空気が冷えた。今までの談笑がただの茶番だったのだと、それが理解できてしまう。
わたしの表情は、笑みのままで固まった。あの時の蟻のように、無惨に潰されくちゃくちゃと丸まってしまうのは、わたしだったのだから。
そのあとは、何だかあっという間だった気がする。
気がつけば、良くわからない部屋で眠っていた。隣では幼馴染がにこにこと人好きのする笑みを浮かべて、これからのことを話し出す。
彼があんなに、本当に楽しそうな顔をするものだから、わたしは恐怖をどこかへ置いてきちゃったみたいだった。
「もうこれ以上はお前を死なせない」
「うん」
「ここにいれば安全なんだ。俺がずっと見てやれる」
「うん」
「不自由かもしれないが、なるべく努力する。一ヶ月頑張ってくれ。そうしたら、そうだな、欲しがってた財布、買ってやるから」
財布を欲しがっていた記憶はなかった。でも、そう言われるとほしいと思っていた気もする。ちょっとお高めのブランドが良いと軽口を叩くと、思いのほか嬉しそうにされた。
そんな感じで二週間くらい。わたしは恐ろしいほどに快適に生活している。
これは監禁と言うもので、いくらわたしがこんなに呑気だろうと犯罪だ。家族は心配しているかもしれない、大学は絶望的な気がする。
でも、日々窶れていく幼馴染を見ていると、そんなことは口に出せなくなる。
彼は本当に、わたしを全てから守ろうとしているのだ。毎日ろくに眠れもせずに、神経をすり減らして、全ての危険を遠ざけようと必死だ。
どうしてそんなに恐れているのか、わたしには分からない。だが、彼は多分、昔のように不幸せではないのだろう。
「ほら、終わった。どうだ?」
「うん、すごいじゃん。ありがとう」
わたしの髪を撫でて、幼馴染が満足げに頷いた。任せる前は心配十割だったが、何と杞憂だったらしい。
生活面では明らかに不器用なのに、なかなか良い出来だ。すっかり寝癖のなくなった髪を確認して、鏡を覗き込む。
すっかりプリンになった髪を掻きながら、痩せた頬で、窪んだ目で、幼馴染はにんまりと幸せそうに笑っていた。あの時と違って、彼には外に出る自由があるのに、それでも彼はこの窓さえない場所にいる。
それに薄暗い幸せを覚えるわたしも、多分ちょっとおかしくなってきたんだろうな。
「なんか――――いつもありがとね」
照れ臭くなってそっぽを向けば、そっと肩に手を置かれた。
暖かいその手は少し震えていて、もしかして幼馴染は感動しているのだろうか? だとしたら、どんな顔をしているだろう?
その顔が見たくて、わたしは後ろを振り向こうとした――――。
ガラスが割れるような音がした。でも、この部屋に窓はない。
あれ? どうして、わたし、幼馴染を見上げているのかな。彼はどうして、昔みたいな顔をしているのだろう。どうして、後頭部がじくじく痛むんだ?
「ああ……なんで、どうして……どうして。どうして、お前が……嘘だ、嘘だ嘘だ、もう嫌だ、ああああ……ァ、どうしたらいいんだよ、どうすれば、なあ……助けて……」
幼馴染は、昔みたいに静かに泣いていた。聞きたいことがあったのだが、頭が揺れて声にならない。
何とか手を伸ばすも、彼の頬には届かなかった。昔みたいに涙を拭いて、それでまた遊ぼうって言えれば良かったのに。
ああ、でも本当に聞きたい。わたし、そういうのって詳しくなくて。
――――ねえ、もしかして、いつもありがとうって、そういうのって、死亡フラグ?