6.羅刹か魔神か
二つカド先は既に修羅場だった。
月の光のその元に、普通ではない人たちが群がっている。
相手は見た目ゴロツキ、食い詰めた傭兵といった体の者ばかり。正直、どいつもこいつも身なり相応の腕しか持ってないように見える。手にした得物すら様々で、錆びた剣からこん棒まで何でもアリだ。
ただ、数が多い。ざっと見積もっても50人は居る。こっちの数は三人―――案の定、サンニィロックさんは居ない―――だから、その差は十倍以上。多勢に無勢とはこの事かと思わせる。そして皆、一様に殺気立っていた。
ただ、それでもベンさん、カロンさんというただ者ではない巨人族二人は、その十倍の敵を圧倒していた。見事に周囲に群がる有象無象とは存在感が違う。それは囲む敵もわかっているようで、不用意に飛び出す事なく、二人を囲んで隙を窺っている。
しかしやはり既に何人かの影が二人の周囲で這い蹲って倒れていた。見たところ、その様は殴られて―――という感じで、実際二人ともその手に戦斧を握ってはいない。町中であるということをわかっているのだろう。
「ベンさん……カロンさんッ!」
僕は二人に声をかけた。そのまま、囲みを割って二人の側へ駆け寄る。
「おう、シノブ」
「遅えぞ」
二人の声には恐れどころか、余裕さえあった。囲まれてみればわかるのだけど、この状況はけっこう怖い。ここまで数があれば、少なくても僕には十分以上の驚異だった。なのに二人には笑みすら見て取れる。とんでもない。
「怖くないんですかッ?!」
「こわい?」
思わず聞いた僕の顔を見て、ベンさんは不敵に笑う。その様はいつもの気の優しいベンさんではない。
「喧嘩に、荒事。巨人族の致す所だ」
「け、けんか……」
冗談じゃない。こんな殺気だった集団を前に……!
「左様。後は―――」
カロンさんが大きな目で僕を見る。
ああ、その言は。喧嘩に荒事、後は―――
どこでこの二人がそれを知ったかわからない。それはサン最強と呼ばれたあるサムライの言葉で、サンのサムライなら誰でも知っている。それは脳の随まで刷り込まれていると言っても過言ではなく、僕は無意識ながらに最後の言葉を繋いだ。
「……恋」
その瞬間、カロンさんと、ベンさんは一際ニヤリと笑い、そして同時に突っかかってきた一人の男を裏拳でぶっ飛ばした。
「うはははは!喧嘩に荒事、あとは恋、だ!シノブ、燃えるじゃねえか!」
続いて、ベンさん。横合いから突っ込んできた男を無造作に掴んで投げ飛ばす。投げられた男は悲鳴を上げながらきれいな放物線を画き、群衆の中に突っ込んで、数人を巻き添えにする。
「なんだと、シノブ。本当に、そんな話だったのか?」
驚いたように言う。言うが、直ぐにそれどころでは無くなった。今の二人の動きに敵は過敏に反応し、一斉に躍りかかってきたからだ。
「死ね!コノヤロー!」
「うらああああっ!くたばれええっ!」
「このバケモンがぁっ!」
「うわああああっ?!」
あっという間に大乱戦となった。相手は剣やその他の得物で武装しているとはいえ、カロンさんが『喧嘩』と言い切ったからには、相手を殺してしまうことは出来ない。僕は躍りかかってきた数人を、刃を返して峰打ちに落とす。
「無茶苦茶だあ!」
とにかく何がなんだかわからなかった。敵は殆ど無尽蔵に居るし、その上四方八方から打ちかかってくる。こうなると最早太刀はその長さが邪魔になった。慌てて左手で脇差しを抜きながら、向かってくる敵を一閃。そして左右を持ち替える。
それにしても衆寡敵せずの言葉通り、僕は次第に劣勢になった。カロンさんや、ベンさんは無事だろうかと思うが、探すのはおろか、目を移す事すら危険だった。とにかく僕は足げに駆け回り、うち下ろされる武器と武器の中をくぐり抜けながら、刀を無茶苦茶に振り回す。
それでもやばいと思い始めた頃、そこに新たな仕手が現れた。
「こちらはウィル警邏隊第三分団だッ!全員、逮捕する!」
台詞の割には甲高い声が辺りに響いた。同時に笛の音。そして新たな喚声が上がる。どうやら、ようやく騒ぎを聞きつけて警邏がやって来たらしい。すこしだけ胸をなで下ろす。
しかししばらくすると、それが早計だったことに気付いた。どうやら分団は少なかったらしい。混乱に一層の拍車がかかっただけだった。攻撃の手が緩まるどころか、いつの間にやら殴りかかってくる敵に、明らかにウィルの警邏の姿が混じっている。
「そこまでだっ!」
そして更にそこに新たな声が響きわたった。凛とした―――と言っていい。その声は……シゲサトさん。群衆の切れ目から辛うじてその姿を確認できた。僕はそれを見て唖然とする。
その姿は木綿着流しで、片手に長ドス。まるで芝居のワンシーンのような登場ぶりだった。それは全く颯爽としたもので、正直に言うと少しカッコイイと思ってしまった。
「ひとーつ、人の生き血をうおーっ!?」
が、三秒も経たないうちに、その姿は群衆に飲まれた。一体何しに来たのだか!
「シノブ!」
今度は呼ばれた。次々何だろうと思ったその時、棒きれを掴んだリーンシェラさんが足下に転がってきた。そこにうち下ろされるこん棒を、太刀で切り飛ばしながら僕はリーンシェラさんを助け起こす。
「リーンシェラさん!どうして!?」
何故、店の中に居たはずのリーンシェラさんがここに?
「どうしてって!?……シノブが呼んだんじゃないかよ!」
「呼んで……!」
その言葉を聞いた瞬間、喧噪の中にありながら、僕は時間が止まったような気分を味わった。心の臓がドクンと大きく脈打つ。
僕が、呼んだ?リーンシェラさんを?
もちろん、僕はそんな事は 言っていない…………ということは。
異常なこの騒ぎ、そしてリーンシェラさん。自ずとそこには一つの言葉が浮かび上がった。
陽動。
「しまった!」
「シノブ?!」
僕は駆け出した。背後でリーンシェラさんの声が聞こえるが、努めてそれを無視する。
そうだったのだ。この騒ぎ、すべてが陽動。目的は僕たちを店から引き離すため。リーンシェラさんは敵に一杯食わされたのだ。
「じゃまだっ!どけええっ!」
太刀を、脇差しを振り回しながら、僕は群衆の中を突っ切った。気ばかり焦る。ミランは?ミランは?!臍を噛んだ。リーンシェラさんのみ、あの場所を追い出されたと言うことは確実に、敵にとってミランが必要である、ということの裏返しに他ならない。
くっそぉ。急げ……急げっ!
見れば、それでもなんとか僕は群衆を突破しつつあった。だんだん人垣に隙間が目立ち始めている。僕は、見えた切れ目に体を捻って強引に向きを変え、そこに向かって走った。
―――もうすぐ抜ける。
そう思ったその先に、明らかに僕を目標として一人、男が立ちふさがった。
僕は吼え、刀を薙ぐように横に振う。
「くっそおおおっ!邪魔だ!」
しかし振った太刀は、男の胸元で鈍い金属音を発してピタリと止められた。はっとして刀を振り戻した。
そこに、間髪入れず、男の持った小剣が鞭のように伸びてきた。僕は急停止しながら危うい体勢でそれを脇差しで受ける。
「な……!」
明らかに、男はそれまでの有象無象とは違った。
改めて見ると、全身を黒尽くめに衣装したその体はいかにもしなやかで、その顔に見える瞳には必殺の敵意が見えた。
「……ここは通さぬ」
無表情なその顔から、唇だけをもごもごと動かし、その黒尽くめの男は心胆寒からしめるような低い声で言った。
やばい、と直感した僕は、体を引きながら、脇差しを滑らせて相手の頭辺りを薙ぎつつ、左手の太刀を鞘に納める。薙いだ刀は簡単にかわされたが、相手の一瞬の隙をついて右手の脇差しを左手に持ち替え、交差させた右手で太刀を引き抜き相手の胴を払った―――それもかわされる。
「……く」
アサッシンだ。しかもプロの……!その身のこなし、技量の高さ。いわゆるサンで言うところのニンジャで、暗殺を生業とする闇の仕手。
正直、僕のような専業兵士とは相性が悪い。状況にもよるが、相手は一体一にあって最強だ。しかもその手段は千差万別。そこには容赦も何もない。
「どうした、焦りが見えるぞ」
確かに僕は焦っている。こういう場合に置いて最悪の相手を今、目の前にしているのだ。そして、だからこそ相手の言葉が心理作戦であるとわかっていながら、焦らざるを得ない。屈辱的でもある。
「しゃあっ!」
予告も無しに僕は刀を上段から振り降ろした。しかしそれはかわされる。わかっている。そしてそのまま左手の脇差しを相手に向けて投げた。
「……ふん」
脇差しは相手の眼前で簡単に小剣でうち払われる。これも予測済み。
僕は、相手の注意が逸れていると考え、そのまま右手で振り抜いた太刀を背中にまわし、左手で逆手に持ち替え、逆袈裟に切り上げた。
「うぬうっ!」
それは流石にアサッシンの予測をも越えたようだった。太刀を持つ手元に多少の手応えがあった。
しかし見れば、間一髪で身を引いたアサッシンの衣を裂いただけだった。パラリと黒い装束が胸元ではだける。
「今のは少し驚いた」
感情を込めぬ顔で再びぼそりと呟くアサッシン。
だめだ……勝てない。真っ向勝負であれば勝てるかも知れない。だけど相手は明らかに防御に徹している。だからといって、抜けて店に走ることも出来ない。そうした瞬間、背後から首をかっ切られるのは目に見えていた。相手にはそれほどに技量がある。
焦りは募る。早く、早く行かなければならないのに―――ミラン!ミラン!無事なのだろうか!?
焦れる気持ちが最高潮に達しようとしたその時、僕はふと、突然のそれに気付いた。
「どうした。こないの―――」
それは刹那の出来事だった。しかし相手より僕の方が一瞬だけ気付くのが早かった。
アサッシンの頭上にまるで幻のように細い腕が虚空から突き出され、そしてその手のひらが羽毛のようにアサッシンの頭頂部にふわりと降着した。
「なんだ……?」
そう思ったのは、なにも当のアサッシンだけではなかった。僕もまるで魔法を見るかのようにその様を見た。ただし、アサッシンよりも、はっきりと。
その腕の正体は、アサッシンの頭の上で倒立したサンニィロックさんのモノだった。僕が気付いたその瞬間には既に、その頭上、片手で倒立しつつ、もう片手に細身の曲剣持ってそれ自体が死に神の大鎌のように腕を伸ばした姿勢を取っていた。
その切っ先は傾けられながらも、アサッシンの首に狙いを定めている。まさに必殺の体勢。
サンニィロックさんは、その体勢のまま、僕を見てニタリと笑うと、抵抗も、状況判断も出来ないでいるアサッシンの首筋に、何の躊躇いもなく曲剣の切っ先を突き入れた。
「が……ふ」
戦慄の光景だったと言う他はない。いつもはバカばっかりやっているサンニィロックさん。しかし、その瞬間はその異形の様、そのものの行動を取って見せた。それは、今後の付き合い方を真剣に考えさせるほどに衝撃的な光景だった。
反対側から突き出るほどに深々と剣を首筋に突き込まれたアサッシンは、信じられない、という表情のまま、膝を折ってその場に倒れた。その寸前にサンニィロックさんは頭上から離脱し、くるりと宙返りして地面に降り立つ。
「サンニ……!」
それを待って、僕は声をかけようとしたが、サンニィロックさんは僕のことなど眼中に無いかの如く、そのまま闇に消えた―――
やっぱり、その行動原理はよくわからない。助かったのは確かなのだけど、果たして当のサンニィロックさんが助けてくれたのかどうかは、さっぱりわからなかった。
僕はやや混乱しつつ、それでも程なく当初の目的を思いだし、再び駆け出した。とにもかくにも―――ミラン。それだけが気がかりだった。
妨害がなければ、そこにたどり着くのは容易い。店の角を二つ折れ曲がり、バルコニーの手すりを飛び越え店の扉にたどり着くと、僕はそれを引きちぎるほどの勢いで開き、そのまま店内に飛び込んだ。
「ミラン!」
頭上で場違いな鈴の音が響いた。ただ、それだけだった。後は僕の声に反応する声もなく、そして店内は不気味な静寂に包まれていた。
当然、そこにミランの姿はない。
「ミラン!」
それでも僕は、繰り返して叫んだ。その姿を求めるように、店内へ無造作に侵入する。
店内が荒らされた様子はない。ただ、ミランだけがそこに居なかった。もしかしたら寝室に、と僕はカウンターを越えて奥に進む。
奥は短い廊下になっていて、そこに四つの部屋が向かい合わせに有る。厨房、倉庫、ミランの寝室。そして、僕が居候していた部屋。
「どこだ……ミラアァン!」
足を止めるまでもなく、僕は叫びながら廊下をミランの寝室へと移動する―――!
「……」
微かに、耳に何かが聞こえた。それは間違いようのないミランの声だった。ただ、どこから聞こえたのかがわからない。耳を澄ますが、再びの声は聞こえなかった。焦燥感ばかりが募る。僕は足を止めて、もう一度―――
瞬間、倉庫の扉が勢い良く開いて、そこから何かが飛び出してきた。同時に鈍く光る刀の切っ先が眼前に迫る。アサッシン!
「おおぁあっ!」
恐怖はなかった。
ただその瞬間は、ミランを探す僕を邪魔するその者に対する怒りしか湧かなかった。どくん、と一際大きく心臓が脈打つと共に視界が真っ赤に染まり、瞬間的に何かしらの力が体中に充填される。
首を捻り、剣の切っ先をかわす。全てを避けきれず頬に傷を作ったけれど、飛び出し、完全に多々良を踏んだアサッシンの頭を僕は鷲掴みにして、そのままの勢いで反対側の壁に叩きつけた。
「邪魔……するなあああっ!」
ごしゃあ
手の中で何かが砕け、くぐもった悲鳴が響いた。それでも僕は何事も無かったように、壁から手を引き抜くと、鮮血を吹き出すそれに一瞥もくれず倉庫に足を踏み入れた。
最早、頭の中はミランの事で一杯で、他は些事に過ぎない。焦り、怒り、色々な感情が頭の中に渦巻き、僕はまるで熱病に浮かされたように、ただ一人、その姿だけを求めた。
「ミラアアァン!どこだあっ!」
倉庫の中は真っ暗だった。ただ、床の一カ所。四角い人一人が漸く入れるような穴が開いていて、そこから明かりが漏れていた。僕も何度かここには足を運んだことがあるが、あんな穴が開いているとは全く知らなかった。ただ、もしかしたら気が付かなかっただけかもしれない。
だけど絶対ミランはその下に居ると、僕は直感した。駆け寄って中をのぞき込む。
四角い穴はあまり深くは無かった。簡素な階段が付いていて、二、三メートル下で直角に折れている。その先は通路になっているようだったが、死角になっていてよく見えない。ただ、漏れる光源はその先に有ることは間違いなかった。
「ミラン!?」
帰ってくる声はない。それでも僕は邪魔になりそうな太刀をその場に捨てると、脇差しを抜いて穴の中に飛び込んだ。すぐに床に足が付く。
通路の先に目を向けると、その先に光が見えた。遠くはない。ほとんど一投足の距離。ただ、目が慣れてない為、そこに何があるのかよく見えない。
本当になにもかもが煩わしかった。僕は一度だけ深く息を吸い込むと、その光の中に足を踏み入れた。
「ミラン―――!」
光に目がくらみながらも、今度は確実にそれがわかった。本能に従って素早くしゃがみ込む。頭の上で金属が噛み合わさる音が聞こえた。
もう、確認する事もない。僕は立ち上がりざまに脇差しを引き抜き、まず右手のアサッシンの首を薙いだ。
それは手応えだけで十分だった。続けて体を捻り、左手のアサッシンの胴を狙う。瞬間、アサッシンは手に持った小剣でそれを受けたが、僕はお構いなしに力を加えて小剣を圧し斬り、そのまま相手の上半身を斬り飛ばした。
残されたアサッシンの下半身から血が噴き上がり、体を濡らす。勿論、それすらも些末な事。どう、と砕け落ちるアサッシンの屍を横に、僕は遂にその姿を歓喜をもって認めた。
「―――ミラン」
彼女は目を閉じて、そこに居た。一瞬戦慄が走るが、遠目にも、その胸が律動しているのを確認できた。心の底から、安堵のため息を付く。
「ば、化け物かっ?!」
そして、その聞き覚えある声にミランのみに注がれていた視野が、突如広がった。
そこは十分な広さを持った部屋だった。一目には、何かの玄室のようにも見える。壁には一面に不思議な文様が描かれていて、部屋の真ん中に、何か大きな石棺が置かれている。
なぜ、ただのパン屋の地下にこの様な場所があるのかよくわからない。だけど、不思議と僕はこの場所に懐かしささえ憶えた。それはきっと、憑いている男の記憶なのだろうと直感する。ただ、今はそれについて深くは考えないことにした。声の主に視線を移す。
―――声の主はその石棺を挟んで向こう側、気を失ったミランを抱えて立っていた。前に会ったときの余裕は消え、怯えたそれに変わってはいるが、その顔は忘れようもない。
「ベルマイル……貴様」
言えば、ベルマイルはビクリと体を震わせた。
怖いのだろう。当然だと思う。圧倒的な力が自分を支配しているのがわかる。それはきっと外から見ていてさえわかるだろう。そう、敵だと思うことが悪夢であると実感するほどに。
今の僕はモンスターだ。ベルマイルも、その刀傷や体つきから察せられるように、多分には普通ではない。ただ、今の僕なら、アリを踏みつぶすよりも簡単に―――殺せる。
「わかってるはずだ」
僕はベルマイルに向かって、無造作に歩を進めた。
それが、わかっているはずだ。だからこそそんなに怯えている。僕はあなたの心の動き全てが手に取るようにわかるのに。
「あなたは『動くな』と言う。そして右手に持った短剣をミランの首にあてる」
僕はいっそ哀れみさえ込めた声で、言った。
それを聞いてベルマイルは一際大きく体を震わせた。そのまま発作のように、がたがたと小刻みに揺れる。額から脂汗が流れ、顎へと伝うのまで見える。右手は背中にまわされてはいるが、そこにある短剣を出すわけにはいけない。そうなんだろう?ベルマイル?
僕は歩を弛めることなく、ベルマイルに、ミランに近づいていった。ベルマイルに限界が近づこうとしているのがわかる。
それでも僕は何の躊躇もなく、その一線を踏み越えた。
「う…………動くなああああああ!」
可哀想に。でも、あなたが悪いんだよ。
ベルマイルの腰にまわされた手が、白刃を露わにする。それでも僕は慌てはしない。間合いは約六投足。しかし、それすらも僕の懸念にはならない。脇差しを引き抜く。口元が自然と歪んだ。
僕は脇差しを無造作に振るって、ベルマイルの右腕を斬り飛ばした。
「ひやあああ!」
ベルマイルは情けない悲鳴を上げて、己の右腕があった場所を信じられない顔で凝視している。当然だった。間合いは依然、六投足。当たり前だけど、脇差しの届く範囲ではない。
それでも僕は斬ってみせた。サムライには間合い外を斬る『真空破』というワザがある。超高速の斬戟で、太刀筋に真空の刃を発生させるワザだ。リュウさんが依然使ったのを僕は、目の当たりにしている。しかし、それ、ではない。
僕は、理論や現実を超越して、まったく理不尽に間合いの外―――ベルマイルの腕を斬ってみせた。なにがどう、と言われても説明は出来ない。ただ、出来ると思い、刀を振って斬った。ただ、それだけだった。
「わああぁぁ……ああああああ???」
ベルマイルは気が狂ったように叫き散らしている。当然だろう。羅刹か魔人か。人外のその力を、彼は目の当たりにしてしまったのだから。
僕は、ベルマイルがその手からミランを放り出すのを見るとそこへ一足で飛び、やんわりとその身体を受け止めた。
ミラン……僕の約束は守った。腕を通して伝わるそのぬくもりに、安堵感が僕の身を包む。朱に染まった自己の視界は、次第に元の色彩を取り戻し、そして、身体を包み込む力がゆっくりと萎えていくのがわかった。
これでいい。
二、三度深呼吸して、息を整える。心臓の動悸は少しずつ収まっていく。同時に身体中が急に痛み始めた。
「痛……」
片手でミランを抱えながらも、反射的にもう片手で自分の肩を抱く。その時、僕は改めてそのずるり、とした感触に気付いた。自分の身体を見るとどこもかしこも血塗れで酷い有様だった。ミランを抱く手すらも。
「僕は……」
瞬間、頭がずきずきと痛み始めた。歯を食いしばりながら、周りを見回す。
その部屋は、三つの死体と、そこから流れ出た血によって赤黒く化粧されていた。それはまさに背筋凍るような光景だった。そして足下に転がる死体は……ベルマイル。片腕を失ったまま、その顔は恐怖の形相を固めて絶命していた。
「僕は?」
なにがなんだかわからなかった。続く頭痛と身体の痛みが、冷静に思考することを妨げ、混乱に拍車をかける。ただ一つ、はっきりしているのは、これは、この惨劇を起こしたのが僕だということ。そして、一つの事態が終演した、ということ。
「それにしても」
新たな不思議がここには有る。
この部屋は一体何なのだろう。ベルマイルは、多分この部屋のことを知っていて、ここにミランをつれてきたに違いない。一体―――?
「うう……ん」
その時、腕の中で小さくミランが呻いた。
「ミ」
ラン。
慌てて口を閉じた。マズイ。僕は血塗れで、この部屋はあまりにも刺激が強すぎる状況に満ち満ちている。
とはいえ、どうすることも出来ない。おろおろする僕の目の前で、ミランは薄く目を開けた―――
「……」
ドキドキと胸が高鳴った。この中でミランが目を覚ますことに、どう思って良いのか僕はわからない。声をかけるべきか、それとも。
静かに慌てる僕の腕の中で、ミランは僕を見て、薄目に涙を溜めながら、優しく微笑んだ。
そしてか細い声で、
「……イーリンアネル」
と。
誰……それは?
聞こうと思ったが、声が出なかった。替わりに妙な単音節が喉からひねり出される。心臓が大きく脈動するのがわかった。
イーリンアネル。
確かに彼女はそう言った。多分、人の名前。誰、なんだろう。
「……」
改めて意を決し聞こうと息を吸い込んだ僕の目の前で、ミランは再び目を閉じた。
「ミラン?!」
僕は仰天してミランの口元に手を当てる―――息はしている。ただ、再び意識を失ったようだ。再度の呼びかけにも、反応する様子がない。
とにかく―――
ここを出よう。それから、このワケの分からない状況を整理する必要がある。それにミランの事が気がかりだ。
「シノブ?!」
その時、丁度、部屋の入り口からリーンシェラさんの声が響いた。多分縦穴の上からだろう。
「リーンシェラさん!」
僕は応じると、ミランを抱えてその惨劇の部屋を後にした。