蛍火の降る夜に思うこと
陽が落ちると決まって現れるこの風景は、どうしてこんなにも切ないのだろう。淡い緑色に少しだけ黄色を混ぜたような涙の粒ほどの球体が、弱く発光してはゆったりと宙を舞いながら、何処か遠くへと飛ばされてゆく。たどり着くさきは海の底なのだとユイは云った。けれど私はこの目で本物の海をみたことなどないし、いや、私でなくても、この星に住む誰だって、本物の海なんてものはみたことがない。それは言葉のうえだけの事象であり、そしてデータのなかだけの現実だ。幼いころにみた海の画像データは、とても大きな水の集まりといった印象以外にとくに思うところはなかった。なんだ、所詮はこんなものなのかと、幼いながらに私は落胆した。けれど最近になってあらためてみた海に関する映像データは、私に少なくない衝撃を与えた。瞬時に感じたのは、生きている、というあまりにも素直で、けれど確かなものだった。その海は生きていた。何かしらの生き物がみえ隠れした訳ではない。声が聞こえたわけでもない。ただ、ゆっくりと押し寄せる波と、丁寧に敷き詰められた砂浜、そこに落ちる力強い太陽の陽、それらは、言葉では表現できない何かしらによって、確かに生きていた。どっと感情が押し寄せた。感情の波が頭のなかから溢れ出し、躰じゅうに流れ込んだ。言葉にしたいと思った。その感情を自分の言葉にして、身振り手振りを交えて、それらを必死に表現したい。それは確かな衝動だった。
けれど、それは叶わなかった。代わりに出たのは深いため息で、私はただ、茫然とモニタを眺めていた。どうしてだろうと思った。どうして私は、幼いころにみた海に落胆したのだろう。どうしてそこに、静かに躍動する生命と、ゆったりと、けれど確実に押し寄せるいきものの気配を感じることができなかったのだろう。
「そういうのって良くあるよ。幼いころ、僕たちはいろいろな活力に満ち溢れていた。だからそんなことはさして目新しいものじゃなかったんだ。けれどいまは違う。僕たちは少しだけ年を取って、そのぶん、活力は確実にそぎ落とされてしまった。僕たちくらいの年代の子たちなんかは、生きるのにたくさんのエネルギーを使う。必死なんだ。最低限に生を紡ぐのに。だから羨ましいのかもね。こうして有り余る力を蓄えている海の姿が、僕たちは妬ましくてたまらないのかもしれない」
あの日のチヨの言葉。私はそれに耳を傾けながら、ぼうっと、目の前のゆったりと流れる風景を眺めていた。
蛍火。彼女らは確かに死んでいる。それは私たちから漏れた、私たちが捨てた、私たちがみないでいた感情、価値観、意味、言葉、その他たくさんのもののなれの果てだ。残骸――といつかのチヨが云った。そう。それは残骸だ。いつかの私たちから切り離された、必要のないと判断されたかわいそうな子どもの残骸。なのにどうしてだろう。彼女らはそれを悲しむ素振りもみせず、こうして美しく宙を舞い、いつかの終わりを探している。
蛍火が人類への反撃を企てているという情報は、幸いにもいまのところ見当たらない。けれどそれはいまのところはというだけで、いつかそのときがくれば、私たちはいままでの罪のぶんの罰を受けるときがくるのだろうか。けれどそれは、仕方のないことだろう。彼女らのことを責めるものなど、きっと私たちの側にだって存在しえない。ようやくか――とため息をつくチヨの姿が、自然と脳裏をかすめた。その表情は優しく、けれど確かな決心で彩られている。つまりはそういうことなのだ。
「何か云いたいことがあるのならきちんと伝えればいいのに。彼女ら、決して口を開こうとしないんだもんね」
愚痴の交じった私の言葉に、チヨはふと微笑した。
「本当に大事なものはこうして大切に取っておく僕たちって、いったい何様のつもりなんだろうね? 彼らにそういった機能はないんだ。あるいは、そういった機能のないよう、僕たちはそう仕向けた。それってとても残酷なことさ」
そうねと私は肯いて、けれど本当にそうだろうかと、心の裏側で疑ってみる。彼女らには口だけでなく、考える頭もありはしない。そういった意味では、もはや私たちを恨んだり嫌ったりする機能だって、そもそも彼女らにはあり得ないんだ。それってどういうことだろう? 考えることのできない状態というのを、私は上手く想像することが叶わない。煩わしいだろうか。悲しいだろうか。あるいは、悔しいのだろうか。けれどそれは考えることのできる私だからこそ云えることであり、そもそもそういった機能のない彼女らは、そんなことは思わない。そこに思考や思想といったものはない。彼女らは私たちから分離した、そぎ落とされた感情、価値観、意味、言葉、その他たくさんのもののなれの果てであるはずなのに、彼女ら自体にそれらを生み出すことは叶わないのだ。それって、何処か悲しい。彼女ら自体にその悲しみを感じることができないという意味も込めて、それはとても辛いことだ。
「蛍火はね――」とチヨが私の手を取りながら話し始める。「蛍火はもともと、蛍という現存するいきものだったんだ。けれどこれはよくあることで、それは既に絶滅してしまった。蛍ってのは、光るんだ。こう、しっぽのほうを光らせて、ゆったりと宙を飛ぶんだ。その姿があんまりにも蛍火に似ているもんだから、そんな名前がついた。けれどね、蛍火というのはもともと、現存する蛍の明かりという意味だった。だから本当のところ、僕らの目の前を飛ぶそれに、それ自体の名前はない。仕方ないから蛍火という名がつけられているだけで、それ自体の名前というのは、誰も知らない。彼らにだって、きっとそれは知り得ない。そういうのって、どうしてだろうね、考えれば考えるだけ、やるせなくなる。僕たちが生み出したのに、故意ではなかったにしろ、確かに僕らの躰から、心から生み出されたものであるはずなのに、どうして彼らだけが、その罪を負わなければならないんだろう?」
そこまでチヨの話を聞いてから、ああ、そうなんだと私は気づく。チヨは私ひとりに向けて話しているのではない。それはチヨ自身に対してであり、そしてそれは同じく、私たち人類すべてに向けての、大きな問いかけなんだ。チヨはそこに答えなんてものははなから期待していない。ただ自分の思いをぶつけることで、そこに蓄積したものを吐き出すことで、少しでも楽になろうと必死なんだ。そしてそれは、何もチヨだけに依るものじゃない。私だって同じだ。私たちはこの小さな躰におさまり切らない様々な思いや考えを、外へ外へと吐き出してしまう必要がある。それは息をするのと同じ、そうしないことには、私たちはきっと、間接的に死んでしまうことだろう。そこにはなんという名前の死因がついてくるのだろう? 私はただそんな風なことを考えながら、蛍火を眺める。そうするうちに、自然と言葉がこぼれた。
「それは確かに私たちの躰からぷつりと切り離されたものだけど、いらないと切り捨てたものなのかもしれないけど、それでもね、それでも、彼女らはやっぱり私たちの一部なんだって、そう思うの。だって、私は悲しいよ。辛いよ。こうやって彼女らに思いを馳せると、いまにでも涙がこぼれそうになる。けれどそれって、自分に対する、自分の一部に向けた思いなんだ。それは他人事じゃない。私は私の一部を、こうしてちゃんと悲しんであげられてる。いたわってあげようと思っている。それだけでじゅうぶんなんじゃないかな。そう思っているだけで、いまの私たちにはじゅうぶんすぎるんだって、私はそう思うよ」
チヨは、たぶん肯いた。握られた手に少しだけ込められたその弾力が、きっと彼女なりの合図なのだ。私はチヨの小さくて白い手に視線を落とし、そっとその表面を撫でた。
「みて」とチヨが云う。
顔をあげチヨの指の指すほうをみると、いくつもの蛍火たちがぐるぐるとうずまいて、ゆっくりと天へと昇っていく最中であった。
終点だと私は小さく呟いた。年に二三度起こる終点が、いままさにここで起こっているのだ。
蛍火たちはその最後を知ってか知らずか、何度も何度も必死に点滅を繰り返す。風はない。彼女らの成す静かなうずは、まるでひとつのいきもののように躰じゅうを点滅させ、吸い込まれるよう夜の空へと向かってゆく。彼女らの勢いに押し上げられ、夜空に張り付く薄い雲が、左右に散っては消えてゆく。そしてそこから、その隙間から、少しだけオレンジがかった満月が、恥ずかしげに顔をのぞかせた。
何処へゆくのだろうと私は思う。終点へと消えてゆく彼女らを、その先、いったい何が待ち受けているのだろう。それは恐怖だろうか? それとも絶望だろうか? あるいはやはり考える機能を持たない彼女たちにとって、そういったものは何もないのだろうか? 何処へいったって、何処にたどり着くことになろうとも、それはさして意味のないものなのだろうか? 嗚呼、けれどどうか、と私は願う。どうかそこが、安らかな場所でありますように。彼女たちがそれを知ることが叶わなくとも、どうかそこが、とても素晴らしい地でありますように。
「そろそろいこうか」
そうチヨが呟いたころには、既に蛍火たちの姿は消え、控えめな満月だけが薄雲のなかから顔をのぞかせていた。私は目だけ肯いてで、チヨの小さく白い手を取り歩く。途中で振り向いた空に彼女らの姿はなく、それは少しだけ残念で、けれど同じくらいうれしくもあった。
「なに」
そんな私に尋ねるチヨに、私はううんと首を振って、またゆっくりと歩きだす。チヨの手を少しだけ強く握った私の合図に、果たしてチヨは気づいているだろうか。そんなことを心のうちで考えながらうっすら微笑んでいる私は、きっとこれからも大丈夫だ。
気がつくとそこはもうすぐ私たちの家のそばで、いつもの薄暗い分かれ道、二人して手を振りさよならを云う。チヨの背中を見送ってから、そのまますぐに帰路に着いた。