猟犬と慕情
「お嬢様、お迎えのお車が参りました」
クラウスの声が階下から響く。チキン・サンドと甘いお茶の入った水筒、それにブランデーの小瓶を入れた小さな紙包みを持って、ローラはキッチンから飛び出した。
「ローラ、行ってきます」
暖かくて燃えない生地を……とのフミの言葉に、街中の仕立て屋を回ってローラはワイバーンの革で出来たコートを用意していた。紺色に染められたコートの内側は砂漠火狐の毛皮を貼りこんである。
「レオナ、まって」
紺色のコートを身にまとい、赤水晶をいれたポシェットを肩から下げたレオナを呼び止めた。
「これ、お弁当、あと小さい瓶はお酒だから、フミに」
「ありがとう」
そう言って、まるでピクニックにでも出かけるような気軽さでレオナが笑った。キュッと心が締め付けられる音がする。
「……」
「ローラ?」
その無邪気な笑顔に、たまらずローラは少女を抱きしめた。
「レオナ……ちゃんと帰ってくるんですよ」
「ええ、ルネを連れて帰ってくるわ」
「約束ですからね」
「大丈夫、フミもクラウスも一緒だもの」
少女がローラの腕からすり抜け扉を出てゆく。途中、一度だけ振り返り、手を振って迎えの車に消えていった。
「奥様、それでは行ってまいります」
見慣れた執事服ではなく、飛行服に革のジャケットを着たクラウスが、胸に手をあてて一礼する。
「クラウス……」
「ご安心召されよ、奥様。このクラウスが命に代えても、必ず皆を守り通してみせますゆえ」
銀髪を綺麗に撫で付けた威丈夫が胸をドンとたたいてニカリと歯を見せる。
「だめですよ?」
「?」
「あなたも、無事に帰ってこないとだめです」
クラウスの目をまっすぐに見返して、ローラはクラウスにそういった。こういう男は何人も見てきた。忠誠を尽くし、自分の命を盾にする真っ直ぐな者達。
「ハハハッ、奥様にはかないませんな」
厳しい髭面をほころばせ、クラウスがローラに背を向ける。
「だめですよ……」
久しぶりに、閑散としてしまった屋敷で、ローラはポツリと呟いた。寿命の短い人間たちを相手に、何度も繰り返してきた景色。
まだ冷たい風が吹き抜ける中、何度繰り返しても慣れない感覚に、景色が少し滲んで見えた。
§
「諸君、本日レブログにラティーシャ王女殿下と『赤竜城塞』のスカーレット公女殿下がおいでになられるのは、皆の知ってのとおりだ」
ロバルト中佐のよく通るバリトンが響き渡る。文洋は左隣で眠そうな顔をしているブライアンの脇腹をひじで小突いた。
「おきてるよ、フミ。で? その海賊の親玉みたいな眼帯はなんだ」
「ああ、これか」
文洋はヒョイと眼帯を持ち上げて、赤い瞳をブライアンに見せる。
「おいおい、なんだそれ」
「話せば長くなるが、目立つんでな」
しまってろ、と眉を片方上げるブライアンに文洋は苦笑いしながら眼帯を戻した。スカーレットには悪いが、悪目立ちするのは間違いない。
「そこで、今回の任務は戦闘空中哨戒だ、司令部では今回も三都同盟の妨害が入ると予想している」
そこで中佐は言葉を切ると待機室のパイロットたちを見回してから再び口を開いた。
「前回、前々回の失敗を考えると、おそらく『巨人』を利用した直接攻撃が予想される」
おおおっ、と待機所のパイロットたちがどよめく。
「前回同様、ドラグーン隊はレブログ南方二十マイル、高高度にて待機する。猟犬隊、黒兎隊はそれぞれの担当区域を哨戒せよ」
バシン、と地図の貼られた黒板を指示棒で叩いて、中佐が皆の注目を集めた。
「残念ながら、巨人には航空機銃では歯が立たん、それぞれの隊は可能な限り高度を取り、敵戦闘機の漸減に全力を尽くせ、そこから先はドラグーン隊の仕事だ、以上、解散」
一斉にパイロットたちが立ち上がり、扉を出て行く。
「それで、今度は何をやらかすつもりだ」
ブライアンが一人残った文洋の横に座って、ボソリと呟いた。
「ああ、家族をな、取り戻すのさ」
「そうか」
バン、と文洋の背中を叩いてブライアンが立ち上がる。
「まったく、損な性分だな、フミ」
「ああ、まったくだ」
片手を上げて出てゆくブライアンを見送ってから、文洋も立ち上がった。
「それで、隊長、あたしはどうしたら良いんだい?」
滑走路に出た文洋の前を、色鮮やかな機体が次々に飛び立ってゆく。白黒のチェック模様が描かれた黒兎隊のパイロットが、目ざとく文洋たちを見つけると、敬礼して空へ舞い上がって行った。
「待つのさ、役者が揃うのをな」
「了解、じゃあたしは自分の飛行機にいるから」
「ああ、巨人が来たら、連絡を頼む、信号弾は緑が……ラディア?」
腕を引っ張られて、文洋は立ち止まる。
耳たぶを引っ張られて、顔を傾けた文洋の頬に、ラディアの唇が触れた。
「なっ……」
「おまじない、いつものユウキらしくないから」
イタズラっぽい笑顔でラディアが笑うと、もう一度文洋の耳を引っ張った。口の中が乾いているのは分かっていたが、緊張が顔に出ていたらしい。
「そうか、すまん」
文洋は肩をすくめて苦笑いする。
「うん、ユウキはそのほうがいい、また後で」
小走りにハンガーへ駆けてゆくラディアを見送って、文洋は格納庫の壁に立てかけたオートバイにまたがると、基地の北側にある湖に向って走りだした。
§
家からそのまま『スレイプニール』の係留された湖につれて来られたレオナは、黒塗りの乗用車の隣で湖を見つめていた。
「うちのバカ共が、誰がお嬢ちゃん迎えにいくかでちょいとした騒動になってな、だから俺が来た」
基地の北側にある『水瓶』と呼ばれる小さな湖の前に車を止めて、運転手を務めてくれたフリント整備中尉がそう言って笑う。
「ごめんなさい、忙しいのに……」
「構いやしねえよ、整備は完璧だ、自称、空の騎士様とやらがヘマしない限り、落っこちやしねえ」
テルミア空軍の紋章、金色の七芒星が描かれた扉に寄りかかって、中尉がタバコに火を着ける。
「ありがとう、中尉」
「すまねえな、あんな綺麗な飛行機に、無骨なものつけちまって、使い方はユウキ中尉が知ってるからな」
そう言って中尉が指さした先には、『スレイプニール』が浮かんでいた。いつもと様子が違うのは、操縦席の両脇に斜め後ろ、下向きに取り付けられた大きな銛のせいだ。
流麗な機体に、似合っているとは言えなかったが、今のレオナには、自分の心を映し出したようで勇ましく見えた。
「いいんです、あれは、戦場に赴く騎士の槍です」
「そうか、騎士の槍か」
「ええ」
「お嬢ちゃんは、偉いな」
ぐい、とフロントガラスにタバコを押し付けると、吸い殻を無造作にポケットに放り込んで、フリントがレオナに向き直る。
「そうでしょうか? なんの役にもたたない小娘です」
「なあ、お嬢ちゃん、俺達は裏方だ、油にまみれ、地面に寝転がって、飛行機をいつも飛べるようにするのが仕事だ」
「お仕事、嫌いなのですか?」
「いや、俺達が居なきゃ、飛行機なんざタダの鉄くずさ」
寒い中、袖をまくった油まみれの太い腕は、いつも機械いじりばかりしていた祖父を思わせる。見上げるレオナの頭に、ポンと手を置くと中尉がニコリと笑って言葉を継いだ。
「だから、俺達は誇りを持って仕事をしてる、どんな偉い騎士様だって、俺達がいなきゃ空一つ飛べやしねえ」
「わかります」
言いながら、レオナは五十ヤードほど離れた丘の上で、南を見つめるクラウスを振り返る。
「あの大きいのは?」
「執事のクラウスです、今はもう無い、私の家の……」
レオナは視線をフリントに戻して、ため息をつく。
「どうした? お嬢ちゃん」
「フリント中尉も、クラウスも、フミも、ローラも、みんな私を助けてくれます、なぜです? 私は……」
そこまで言ったところで、コツンと頭に小さくゲンコツをくらう。
「っつ」
理不尽だ……と、睨むレオナにニヤリと笑って、フリントがレオナの目線まで屈みこむ。
「いいか、お嬢ちゃん、みんなお前さんの事が好きだから、助けてくれてるのさ」
「でも……」
「でも、もヘチマもねえ、世の中そうじゃなくっちゃいけねえ、ユウキからあらましは聞いた、お前さん、弟を助けに行くんだろ?」
フミ……フミだってそう、私のためにこんな危ないことしなくても……。
「でも……中尉」
「俺達は、お嬢ちゃんを助けてやる、その代わり、お前さんは弟を助けてやれ、世の中ってのはそういうもんだ」
「……」
「そして、二人して大きくなったら、困ってる連中を助けてやればいい、それがみんなへの恩返しだ」
自分は色々なものを失った、そして、新しいものを沢山もらった。だから、いつかそれを返せればと思ってきた。でも、この目の前の油まみれの整備中尉は、それは要らないという、他の人を助けてやれという。
「中尉、ありがとう、ほんとうに、ありがとう」
「いいってことよ、ほら、お嬢ちゃん、少々、変わり者だが、お前さんの騎士様の登場だ」
中尉の指さす先に、土煙を上げてオートバイが走ってくる。
……私の騎士様?
左目に海賊のような眼帯をして、こっちに向かってくるのが文洋だと気がついたレオナが赤面するのを、フリントが笑い飛ばした。
レオナの家を滅ぼした貴族の執政官、北の騎士と言われ育てられてきた自分自身、そして、目の前で笑う油にまみれた整備中尉、誰が誇り高い生き方をしているのだろう、誇り高く生きるとはどういうことなのだろう。
晴れ渡った冬の空を映す小さな湖に、紫色の翼が揺れる。
冷たい風は、少し、春の匂いがした。
§
「のう、王女よ」
「どうされました、スカーレット殿下」
護衛の騎馬隊に囲まれて、四頭立ての馬車が石畳を走ってゆく。沿道は、お伽話に出てくる赤竜公女をひと目見ようとする市民であふれかえっていた。
「昔な、お主の祖母に招かれて、この街の離宮で過ごしたことがあった」
「良い所ですものね、お祖母様、あの海の見える離宮がお気にいりでした」
時折、民衆に愛想を振りまきながら、スカーレットはラティーシャ王女に話しかける。
「ああ、エルフなのに、いつも海を見ている変わり者じゃった」
「お祖父様が、海で亡くなったの、ご存知ですよね?」
「戦でな……」
「お祖母様、待っておられたんです。いつか帰ってくるんじゃないかって」
死んだ者は帰ってこない、わかっていながらもすがることで、生きる希望をつなぐこともある。
「ああ、知っておるよ」
「赤竜城塞」の始祖の言葉が、スカーレットの脳裏にちらりと浮かぶ。と同時に、あの地球の裏側からやってきたという若者の目を通して、鮮やかな風景がスカーレットの脳裏に描き出された。今は飛行機の操縦席で、膝の上に少女を乗せ、なにやらやっているようだ。
「ラティーシャ王女よ」
「はい?」
「いや、なんでもない」
―― 神と関わるな、人と関わるな、彼らは熱狂をもたらし、熱狂は死をもたらす。
妾の判断が、我が国の、そして竜族の存亡を決める。失った片翼がズキリと痛む。父は軽率だと妾を叱るだろうか?
「殿下、大丈夫です、わたくしは、そして女神テルミアは、殿下を見捨てません」
女神テルミア……爺の想い人……、ぽすん、と音を立ててスカーレットはビロードのシートに背を預けた。
「ありがとう、ラティーシャ」
ガラガラガラと轍の音を響かせて、馬車が海沿いの道を走る。
スカーレットの耳に、沿道の熱狂的な歓声が響き渡った。