道化師と白狐
「ルネ、ルネ、ほら起きて、今日はピクニックに行く約束だったでしょ」
母様の声が遠くから聞こえる。ああ、そうだみんなで、ピクニックに行く日だ。父様と母様、それに執事のクラウス…………。
「おはよう母様」
「おはよう、お寝坊さん、ほら起きて支度なさい」
優しい母の笑顔に、ルネは目をこすりながらベッドから起き上がった。
「坊っちゃま、早くお着替えを」
髭面のクラウスが着替えを持って入ってくる。
「うん、わかったよクラウス、ぼくイチゴジャムのサンドイッチが食べたいなあ」
「用意させましょう」
にこにことクラウスが笑う。ルネはクラウスの優しい笑顔が大好きだった。
「ほんと?約束だよ」
そう言って、ルネは用意された着替えに袖を通す。右そでのボタンが上手く止まらない。
「あれ? んー」
そこでふと手を止めて、ルネは周りを見回した。
……なにか忘れている気がする……なにか大事なことを。
「ルネ、はやくいらっしゃい」
「ちょっとまって、母様」
せかす母の声に、右そでのボタンを、一生懸命止めようとするうちに、そんな疑問も忘れてしまい、ルネは春の陽射しの中、窓から差し込む暖かい光に目を細めていた。
§
ズズン、ズズズズン!
着弾音が地面を揺らし、腹に響く。パラパラと音を立て天井のベトンが剥がれ落ちた。
「くそ、うちの海軍は何をやってやがる! アレフ、ちょっとあれ黙らせてこい」
隊長の声にミノタウロスのアレフは首を振った。三日前、味方の艦隊が敵陣を砲撃した時は、皆で歓声をあげ見ていたが、彼らが補給へ戻った途端に敵の猛反撃だ。
三日前の攻撃では味方の艦隊に、『扶桑』という地球の裏側からきた戦士達が居るという話だった。
そんな海の向こうの地球の裏側の話など、海を見たのもこの戦争が初めてだというアレフからすれば、想像することも出来ない世界だ。
「隊長、アレフ、泳げない、だからあれは倒せない」
艦砲の弾着があるたび、ベトンで固められた掩蔽壕が大きく揺れる。入り口に扉代わりに立てかけられたアレフの大盾に小石が当たり甲高い音を立てる。
「うははは! 冗談だ、いくらお前でもあいつは一人じゃ無理だ」
ドワーフの隊長が土埃にまみれた顔をほころばせ、ヒゲをなでた。その様子に笑おうとしたアレフの耳に、この世のものと思われない声が、着弾の爆音すら引き裂き響き渡った。
ゾクリ、と悪寒が走り、総毛立つ。
「隊長、何かくる、恐ろしいものがくる」
「なんだ? 『巨人』とかいう飛行戦艦か? おまえ、耳がいいからな」
「違う、もっと恐ろしい物」
アレフの本能が、逃げろ逃げろと告げている。大きな体を小さく小さく丸めて、アレフは掩蔽壕の隅で膝を抱えた。
「見張り! 弾着観測鏡上げろ!」
「あっちゅうまに吹き飛ばされますよ、こんな砲撃の中じゃ」
「いいから上げろ、アレフ、どっちだ?」
隊長の声に、ミノタウロスのアレフは、膝を抱えたまま、猛る獣の声が聞こえる方角を指さした。
§
「爺、人間どもにな、八つ当たりしてきて良いぞ、ゆるす」
「八つ当たりでございますか?」
スカーレットの言葉に、フルメンは首をひねった。
「うむ、爺が惚れておる女神の寝所を穢したバカ共に、少々、痛い目をみせてやれ」
「よろしいので?」
「うむ、妾が許す。ただし、やりすぎんようにな」
スカーレットに機械仕掛けの翼を届けたテルミアの使者が、帰国の途についてから数日後、スカーレットの命で『爺』こと青竜フルメンは冬の澄み渡った空に翼を広げ南東へと向かっていた。
『雷の竜』、『雷帝』、『暴虐の蒼竜』、定命の者達にそう呼ばれて幾星霜、一族の中でも最古参になってしまったフルメンの心は久しぶりに昂ぶっていた。
フルメンが若い頃、女神テルミアと暗黒神ソブラが戦った『神代の戦』、それを最後に、竜族は定命の者の戦に関わることをやめ、『竜の巣』に引きこもることを選んだ。
それは、二柱の神の元、ふた手に別れて戦った結果、竜族が極端に数を減らした危機感から生まれた、実利的な判断であった。
―― 神と関わるな、人と関わるな、彼らは熱狂をもたらし、熱狂は死をもたらす。
それから数千年、『竜の巣』の初代当主、つまりはスカーレットの祖父の家訓を、スカーレットは踏み越えようとしている。長らく仕えてきた家老としては、諫言すべきだったかもしれない。
だが、フルメンは見てしまった。
スカーレットを乗せ、空を舞う機械の翼を。
そして、経験してしまった。
空を駆ければ竜族随一と言われた自分と、輪舞曲を踊る機械の翼を。
「のう、爺。もはや、空すら妾達のものでは無いのかも知れぬの」
そう言って、感慨深い顔で飛行機から降りるスカーレットは、自分がテルミアの王都で、人間の操る飛行船と対峙したときと同じ気持ちを味わったのだろう。
その上で判断したのだ。自身の強さだけで、一国の力だけで生き残れる時代が、終わりつつあると。人と共に歩まねばならぬと。
だが……定命の者よ、今日は我が愛しの女神テルミアへの無礼、少々高く付くことを教えてやろうぞ。
神代の時代、まだ若い頃の甘い思い出が蘇る。
自分の鼻面を撫でるあの、柔らかい女神の手のひら。
無邪気に脇腹に寄り添って眠る、美しいテルミアの暖かさ。
思い出にトクン、と自分の心臓が跳ねるのがわかった。
彼女を愛した、若き日の気持ちに嘘は無かった。
眼下に数隻の軍船が見える。少し前までは木製で、風まかせに走っていたそれは、今では鋼で作られ石炭で走るという。その小さき者共の軍船が、しきりに地上の陣地へむけて、大砲を撃ちかけているようだ。
ああ、そうだ、あの小さな人間どもは、またたく間に武器を整え、自分たちより強大な力を持つ亜人や獣人たちを駆逐し、屈服させて行った。
我等が祖国『竜の巣』が無事だったのは、竜族がその武器をもってなお、倒せぬほどに強力だったからに過ぎない。
ならば、ならばこそ……。
愛しい女神テルミアと、片翼を失いし優しい姫様よ、ご照覧あれ!
竜族の威光、あの小さき者どもの魂に刻んでくれようぞ。
大きな牙の並んだ口で、ニヤリと笑ってフルメン吠えた。
芝居がかった大陸語で、空も裂けよと声を張りあげる。
「聞け、不信心ものよ! 我が名はフルメン、女神テルミアの守護者!」
叫びに応じるように、澄み渡っていた青空に雷雲が湧き出し、陽光を遮る。
眼下の艦隊が慌てて八方に舵を切り回避し始めた。
「わが怒り、思い知るが良い!」
逃げ惑う艦隊から、パラパラと高射砲が打ち上がる。
いつの時代、どこの国にでもいる、実直で勇敢な兵士が撃ちかける砲が、フルメンの周りに鋼鉄の花火を打ち上げる。
よかろう! 人間ども、その意気や良し!
翼をたたむと、一声、轟と吠え、風を切ってフルメンは急降下を開始した。
§
三都同盟最南端の都市、ツバイアス、紛争の発端であるラダル炭鉱から南に約五〇〇マイルのこの都市は、同盟最大の軍需物資集積地であり、クロードの父、リュック・エル・ツバイアスの領国でもあった。
「おまちください、クロード少佐」
そのツバイアスに停泊中の『巨人』の中枢部、三都同盟の飛行船と同じ投影板に囲まれた『水晶宮』へ踏み込もうとしたクロードを、小銃を携えたアリシア海兵が小銃を差し出し止めにかかる。
「忠義、大いに結構、だが火急の用だ、通して貰えるかな海兵軍曹」
それでもなお、微動だにせず、行く手を遮るように突き出された小銃を、クロードはむんずと掴むと軍曹を投げ飛ばし、『水晶宮』へと足を踏み入れた。
「三都同盟、『白狐隊』隊長、クロード・エル・ツバイアス少佐だ、ルデウス殿はおられるか?」
そう言って、クロードは『水晶宮』の中を見回した。中央の艦長席と操舵席、ここまでは同盟の飛行船と変わらない。だが、艦長席の背後に光り輝く、馬鹿でかい赤水晶と、その赤水晶にへばりつくように取り付けられた、男の子が封じ込められたガラスの箱が、異様な雰囲気を漂わせていた。
「どうされました? クロード少佐」
「そこへおられたか、ルデウス殿」
棺にも見えるガラスの箱の影から、黒い長髪の美男子がにこやかな笑顔で現れるのを見て、クロードは足早に歩み寄る。
「何事です?」
あくまで温和な笑みと落ち着いた声。『笑わない道化師』という社交界での二つ名通り、柔和な笑顔の奥に押し込められた人を食った性根、それに感づけないほどクロードは鈍感ではない。
「ルデウス殿、テルミアで我が国の飛行船を二隻、撃墜したドラゴンを?」
「ええ、青竜フルメン、テルミア神殿の守護者。おとぎ話に出てくるドラゴンですね」
笑顔でそう言ったアリシアの執政官が、フルメンの名を言いながらチラリと男の子の封じ込められたガラスの箱に目をやったのを、クロードは見逃さなかった。
「そのドラゴンに、ラダル諸島沖で三都同盟の艦隊が攻撃を受けました、昨日の話です」
「なんと、ドラゴンは人の戦に手を出さぬものと聞いておりましたが」
「損害は戦艦、巡洋艦一隻小破、駆逐艦二隻轟沈」
ふむ、とルデウスが顎に手をあて思案する。
「それで、クロード少佐、三都同盟は何をお望みかな? 今から出撃しても間に合わぬと思いますが」
掴みどころのないルデウスの笑顔は、しかし、次の瞬間クロードの言葉に打ち砕かれた。
「複数の海軍の兵が聞いた話だと、青竜は飛び去る際にこう言ったそうです。『影に忍び戦を操るものに伝えよ、我と我が当主の怒り思い知らせてやろうぞ』……と」
貼ついたような笑顔が消え、冷たい真顔に戻るとルデウスがクロードをまっすぐに見据えた。美しいとも言える顔立ちと、髪と同じ色の黒い瞳、だがクロードにはそれが酷く空虚な闇に見えた。
「我と、我が当主ですか?」
「複数の兵の証言です」
「我が……当主ですか……」
そう言って、アリシアの執政官、ルデウスが再び思案顔になる。
「それで少佐は、『竜の巣』が我々に敵対すると?」
「わかりません、ただ言えるのは、我々がテルミア神殿を爆撃しようとした事、そして、おとぎ話に出てくる女神テルミアの恋人が報復を仕掛けてきた、それだけです」
そう言ってクロードはルデウスを睨めつけた。目の前に立つこの男は、同盟評議会に、飛行船団にはアリシア随一の騎士を同行させましょう。そう言って北壁の騎士と名乗る年端もゆかぬ少女をよこした男だ。噂によれば、後ろのガラスの容器で眠る少年は、その弟であるという。
「いずれにせよ、アリシア王国も巻き込まれる可能性がある事、ご考慮に入れられよ」
三都同盟の連絡将校としてではなく、これは同盟の一角、ツバイアスの嫡男としての忠告だ。彼と同じく冷たい仮面をかぶり、声を潜めてクロードは耳元で囁いた。
「ご忠告、痛み入ります」
相変わらずの読めない表情でそう言って目礼するルデウスに、一歩さがるとクロードはかかとを鳴らして敬礼する。
退出の際、入り口の横できまり悪げに敬礼する海兵軍曹に、クロードは答礼してから握手を求め、ニコリと笑う。
「すまんな、軍曹、悪かった」
これは戦争だ、石炭という資源を奪い合う戦争だ。得る物は利益であり、絶対な正義のありかなど判りかねる。
だが……とクロードは思った。年端もゆかぬ子供を兵器として利用する事に、一片の正義や真理が、あってたまるものか、と。