紅薔薇と暗黒卿
「ん……」
柔らかいものが首筋に触れる感覚でレオナは目を覚ました。時計を見ると明け方の四時を指している。
「クリオ、くすぐったい」
枕元で頬に頭をこすりつける子猫に、レオナは毛布の端を持ち上げてやる。灰色の子猫が隣にスルリと潜り込んできた。
「ねえクリオ、私、どうすればいいと思う?」
誰にも言えないその問いかけをレオナは口にした。
「にゃう」
呼ばれた子猫が緑の目を輝かせ、伸ばした手にじゃれついてくる。目を細める子猫をしばらくなでてやってから、レオナはベッドから抜けだし、カーテンを開けて窓の外を眺めた。まだ暗い町にガス灯が揺らめいている。
「うにゃう」
せっかく一緒に寝ようと思ったのに! そんな顔を毛布から覗かせて、子猫が抗議するように声を上げる。
「ごめんね、クリオ」
そう言って手を伸ばしたレオナの胸元に、嬉しそうに灰色の毛玉が飛び込んできた。
「大丈夫、どこにも行かないわ」
喉を鳴らす子猫の暖かさに微笑んで、レオナは再び窓の外を眺める。まだ暗い空に、細い三日月が浮かんでいた。 自分一人では、弟の元にたどり着くことすら出来ない……なんて無力なのだろう。
「ねえ、クリオ?」
「うにゃう?」
「ルネは許してくれるかな……」
ぶるり、と寒気がして身体が震える。寒さと、冷たい夜の押し寄せるような静けさに恐怖を感じて、レオナは、クリオを抱いてベッドにもどった。
暖かさの残る毛布の中に潜り込んだレオナの首元でクリオが丸くなる、柔らかな毛並みを感じながら、レオナは目を閉じた。
ゴロゴロゴロ
クリオの喉を鳴らす音に隠れて、音を潜めた足音が廊下を遠ざかってゆく。
……忠義者で心配性のクラウス……大丈夫よ、一人で何処かに行ったりもしないから……。
毛布をぎゅっと握りしめて、レオナは小さく嗚咽を漏らす。
ゴロゴロゴロ
喉を鳴らし、レオナの頬に顔を擦りつけるクリオを撫でながら、レオナは一人、涙を流した。
§
ホー……ヒー……ホー……
照文がタラップに足を書けた途端、号笛が鳴り響いた。艦長とは言え中佐程度が乗艦するときに鳴らす号笛ではない。
「山中、俺は何時からそんなに偉くなった?」
「今の所、派遣軍で中佐より偉い方は居ないようですし、良いのではないですか?」
照文のボヤキに、アタッシュケースを持って後ろから付いてくる山中少尉がそう言って笑った。
「しかし、テルミアの海軍工廠の連中が乗り込むとは聞いていたが、えらく多いな」
「コレ幸いと、新技術の実地試験する気を隠そうともしてないですね」
山中少尉の言う通り、『相楽』にはテルミアが試験的に採用した技術が大量に用いられていた。極東の新興国から受注した艦で実験というのだから、なかなかに良い御身分だ……と照文は思ったが、扶桑には残念な事に、実験するだけの技術すら無いのも事実だ。
「いずれにせよ、間違いなくここ五〇〇マイル四方では、艦長は扶桑海軍で一番偉いですよ」
「そうか、俺が司令官兼任なのだな」
誰にいうとでもなく小さくつぶやき照文が見上げた甲板で、濃い紺色の扶桑海軍制服を着たの水兵と水色のツナギを着たテルミアの技術兵が、出港準備に走り回っている。
「失礼します、艦長!」
タラップを登り切った所で、桜をかたどった軍章の下に、機関兵を意味する青色の識別章を付けた二等水兵が駆け寄ってきた。
「どうした?」
緊張した面持ちで敬礼する水兵に、照文は答礼して尋ねる。
「じ、自分は機関科の狭山であります、き、き、機関長の田山中尉より伝言を預かってまいりました」
田山は確か、撃沈された『青葉』の機関長だった男だ、経験豊富な士官のはずだが……と、怪訝に思いながら、カチコチに固まっている水兵にニコリと笑ってみせる。
「二等水兵、君は初年兵か?」
「はっ、い、いいえ、三年目であります」
「なら、落ち着いて話せ、固くなることもない」
狭山二等水兵が、照文の様子に毒気を抜かれたような顔をして深呼吸すると、言葉を継いだ。
「現在、新式の機関の説明を、テルミアの技術者から受けておりますが、機関科にテルミア語の判るものが機関長以外おりません、航海科にお聞きした所、山中少尉が語学堪能とお聞きしまして」
今にも緊張で泣きそうな顔の二等水兵の肩を、バンと叩いて、照文は山中少尉に向き直る。
「山中」
「はっ」
「航海長には俺から言っておく、本作戦中は田山中尉が必要とする限り、機関科の補助をしてやれ」
「りょ、了解しました」
派遣が長引くようなら、兵たちに語学の研修も必要かもしれないな……。アタッシュケースを照文に渡し、水兵の後を小走りについて行く山中少尉の背を見ながら、照文はそう思った。
「艦長、出港準備終わりました」
ブリッジに入って小一時間、伝声管でやりとりしていた岡西航海長が、安堵のため息を付きながら照文に報告してくる。
「結構かかったな、原因は?」
「は、新型の機関の取り扱いによるところが大きいかと思われます」
「そうか、すまないな、科員を勝手に借りて」
照文より十歳以上年上の航海長が、照文の感謝の言葉に意外だという顔をしてから、ニヤリと笑う。
「いえ、お役に立てて光栄です、艦長」
「航海長、航海科でテルミア語の判る者は何名だ?」
「は、山中少尉を含め、四名おります」
「砲雷長?」
「うちには三名、あとは船務科に一名堪能なのが」
自分と医官を入れて、二〇人に一人といったところか……、希望者に勉強会でも開いてやろう、そう思いながら照文は居並ぶ艦船に目をやった。
今回の任務は、『相楽』の慣熟訓練を兼ね、旧式の戦艦を旗艦に六隻の艦隊によるレシチア諸島への砲撃任務だ。
「テルミア海軍、戦艦『ラクリマス・エラ・テルミア(テルミアの涙)』より信号、各艦、抜錨五分前」
見張り員が発光信号を大声で叫ぶ。
「抜錨準備!」
ウィンチが鎖をたぐり寄せ、ジャラリと金属音が響く。水兵たちが掃布で鎖を拭おうと駆け寄ってゆくのを見ながら、照文はまっすぐに朝焼けに染まる海を見つめた。
扶桑海軍テルミア派遣部隊が全ての艦を失ってから二ヶ月。風の月五日、〇六三五時、再び、この中つ海に軍艦旗をはためかせ、我々はここに帰ってきた。
「抜錨完了!」
「両舷前進、微速」
「アイ、サー、両舷前進、微速」
テルミア初の軍用蒸気タービンが音もなく船を押し出し、『相楽』が滑るように海面を加速してゆく。
「『ラクリマス・エラ・テルミア』より信号! 宛、本艦。『我等の海へようこそ、歓迎する』」
今度は自分の目でも発光信号を読んでいた照文が、通信士に返答文を指示する。
「返信、『感謝を、我等、王女殿下の剣とならん』」
「復唱、返信『感謝を、我等、王女殿下の剣とならん』」
単縦陣の最後尾、メインマストに戦闘旗をはためかせ、『相楽』は滑るように加速する、朝焼けが穏やかな海を紅に染めてゆく。
ブリッジに立って照文は東の空を睨みつけた。どういう結果になっても、自分は復讐の鬼となろう。命を賭した者達の為に……。朝焼けの空の下、白波を立て『相楽』が征く。前へ、前へと。
§
「奥様」
ノックの音に、ブランデーのグラスを片手に外を眺めていたローズが我に返った。
「どうしたの?ジェームス」
「ガリウス伯から、返信がまいりました」
「そう、入って」
グイと残った酒を飲み干しローズが立ち上がる。ジェームスが小さなクリスタルの筒を持って、執務室に入ってくる。
「えらく早い返事ね」
「向こうにも、何か事情があるのでしょう」
ローズが差し出された琥珀色のクリスタルを手に取る。石の文と呼ばれる古い魔法だ。手紙を石に変え、渡すべき相手に渡った時にのみ、石は元の手紙へと戻る。
魔法が全盛の時代、貴族の密使たちの間でこれが流行った頃は、解呪のために手首を切られたものが多数出たというが、暗号と電信が主な手段となった今では、この魔法も失われつつある。
「あらあら」
ローズが、呆れたように呟いた。手に取ったクリスタルの筒が輝いて解呪された途端、手紙二枚に加え、一枚三フィート四方はあろうかという大きな羊皮紙が五枚、姿を現したからだ。
「随分と多いですな」
ジェームスも目を丸くして羊皮紙の束を見つめた。
「ええ、コレだけのものを圧縮するのはホネでしょうにね」
時間と魔力が有り余っているローズ達ならともかく、定命の人間がこの枚数を変性させるには大きな魔力が必要になる。赤水晶の使い手が数多くいるアリシアにしても、相当の使い手でないと無理だろう。
「おじ様と同じく、ルデウスに失脚してほしい方が、四騎士の中にでも居るって事かしらね」
「属性は光、迂闊に素手で触った私の手が焼け落ちるところでした、奥様」
「うそをおっしゃい、全盛期の私でも、精々貴方の前髪しか焦がせなかったのに」
「ですが、奥様は美しさで私の心を焼きつくしたではないですか」
世辞に、もういい、と手を振って答えと、ローズは株取引関連の事案が描かれた小さな羊皮紙を二枚引き抜いて、のこりの五枚をジェームスに手渡した。
「それで、ジェームス、それは、坊や達の役にたつような物かしら?」
「船の通路図面ですな」
パラリ、パラリと図面をめくりながら、ジェームスがふむ、と手を止める。
「北壁の騎士、セプテントリオンのご子息が居るとすればここでしょう」
白い手袋を嵌めた指でジェームスがトントンと図面を叩く。横からヒョイと覗きこみ、ローズはため息をついた。
「その司令室の中央を見ると、嫌気がさすわね……」
ジェームスの指差す先に、大きな台座が置かれ、台座の上に巨大な球形の物体が描かれている。
「第二の太陽ですか」
「昔、アリシアの王宮の広間で見たことがあるわ、アリシアの地下に眠る、古代の魔法都市からの発掘品」
「千年にわたり、アリシアに伝わる国宝、巨大な赤水晶……でしたかな?」
「そうね、普段は王宮の広間で、永遠に消えない灯として飾られているはずだけれど」
人の歴史とその宝物を欲望のために利用し、あまつさえ幼子を戦に巻き込む。昔から繰り返された良くある事だ。長く生きれば生きるほどに、嫌と言うほど見てきた。
「お怒りですかな?女卿」
「そうね、でもまあ、私が坊や達を助けてあげるのはここまでかしら」
「相変わらずお厳しい」
「何を言ってるの、我が愛しの暗黒卿、若者は苦労しなくては」
ニコリと笑ってローズは手にした羊皮紙をジェームスに差し出した。
「図面の写しを三部おねがい、こっちの手紙は処分していいわ」
「御意」
ジェームスの手の中で、二枚の羊皮紙が、青白く冷たい炎をあげて舞い散った。綺麗……と少女のような事を考える自分が可笑しくて、ローズはグラスにブランデーを注ぎながら、窓の外に目をやり微笑んだ。