黒兎と白狐
『相楽』引渡し式典の一時間前、早めに到着した照文は、レブログ軍港に停泊する『相楽』を山中少尉と共に見上げていた。
「美しい船ですね」
山中少尉がまだペンキの匂いのする船体を見上げ、そう言って目を細めた。扶桑の古都を流れる川の名を頂いた流麗な船体が、花曇りの秋空に輝いている。
「衝角が無いからな、公試では全力運転で三十三ノット出したそうだ」
「それはすごい」
「ああ」
そう言いながら、照文は目を閉じた。六インチ連装砲三基六門、四インチ高角砲四門、三連装の魚雷発射管が二基、素晴らしいといって差し支えない武装だが、あの化け物を相手にして、足りるだろうか……。
「艦長! あれを」
「ん?」
山中少尉の声に我に返ると、照文は指差す方角を見つめた。レブログの街の中心部、小高い丘の向こうから現れた巨大な影がゆっくりと近づいてくる。
「竜翼の淑女……、テルミアが鹵獲した敵の飛行船だな」
白い船体も相まって実に豪勢なものだ……、ゆっくりとこちらへ向かってくる飛行船を眺め、照文は思う。
「まだ来ますね」
キラリと陽光を反射して、軍艦の横で跳ねるイルカのように、巨体の脇を小さな影が追い抜いてきた。ゴマ粒ほどの影は見る見るうちに翼を持つ機影になる。
「これもまた、派手な市松模様だ」
四機編隊が三つ、『相楽』を眺めるように低空で並んで抜けてゆく。どれもが胴体に派手なチェック模様を描き、先頭の群青色の機体以外は、黒色で統一されている。
「おーい」
山中少尉が無邪気に帽子を振る。それに気がついたのだろうか、二機が編隊を離れてこちらへ翼を翻した。
「あれ、こっちに来ますよ?」
キョトンとした顔の少尉に苦笑いして、照文は旋回しながらこちらへ高度を下げてくる二機をじっと見つめた。群青色の機体に白のチェック模様、胴体には白で……座ったライオン……、いや狛犬?
ゴウとエンジン音が吠える。
ぐい、とこちらへ機首を向けて降下してきた。
「ちょ……え?危ない危ない」
「慌てるな、気をつけ、敬礼」
照文は少尉に命令して、まっすぐに機体を見つめ返した。反射的に山中少尉が同じ姿勢を取ると、二人の頭上で群青と黒の二機が並んで宙返りする。
「まったく、バカ野郎め」
こちらを見つめ、小さく敬礼している二人のパイロットに照文がつぶやいた。
「艦長?」
「弟だよ、文洋だ」
「ああ、なるほど」
二機が並んで、踊るように翼を振ると編隊へと戻ってゆく。沖へと飛んでゆく弟の姿に、照文はもう一度つぶやいた。
「死ぬなよ……」
陽射しを遮り、『相楽』よりはるかに大きな双胴の飛行船が、戦闘機の群れを追って上昇してゆく。圧倒的な大きさの白亜の巨鯨を見上げ照文は思う。自分の船も空を飛べたなら……と。
§
「もう、中尉、あとで怒られても知らないよ」
文洋のコックピットに寄り添って飛ぶシルフから、ラディアの声がする。最初の頃は驚かされた風の囁きだが、最近ではすっかり慣れっこだ。
「一緒に叱られてくれるんだよな?」
「いやだよ、お断り」
「冷たいな」
「だって、中尉は意地悪なんだもん」
笑いながら、文洋はスロットルを開き、大きな弧を描いて上昇する編隊に追いついた。
「さあ、仕事の時間だ、皆に指示を」
「了解」
中佐の考えた作戦はこうだ。
レブログ軍港の南方、十マイル沖、高度一万フィートに『ドラグーン隊』を載せた『竜翼の淑女』を静止、防衛拠点とする。
文洋の率いる『黒兎隊』の任務は、これを起点にしての哨戒任務だ。十二機を三つの編隊に分け、軍港の西側九十度を哨戒にあたる。
ブライアンの率いる『ハウンド・ドッグ隊』十六機も同様に展開し、会場の直衛と、東側九十度を哨戒していた。
「中尉」
「なんだ?」
一万フィートまで高度を取り、周囲を警戒する文洋にラディアが声をかけてくる。
「なんで西から二番目のコースを選んだのさ?」
「そこから敵が来そうだからだ」
「だからなんで?」
「東側はアリシアへの中立の海域で船が多い、南はラディウス群島に海軍が観測所を建てた」
「それで」
「一番西は、陸地に近すぎる」
チラリと時計を見る。飛び立ってから四十五分、式典が始まるまで十五分、残りの燃料が二時間といったところだ。文洋はポケットから式典のプログラムを引っ張りだすと、逆算を始めた。
式典は一時間、クライマックスは最後の十分、もしそこを狙っているのだとしたら、そろそろと言ったところだろう。
「曇ってきたな……高度を上げる、警戒を厳に」
「了解」
雲が視界を遮る。軽く翼を傾け、文洋は緩く旋回しながら、周囲を見回した。
広い空だ、行き違ってしまえばそれまでだ。
雲の切れ間を睨みつけ文洋は目を凝らした。
「中尉、四時の方向、下方、雲の切れ間、二機、凄く大きいのが」
「三番機と四番機を、油断するな、近くに護衛が居るぞ」
「了解」
ふっ、とコックピットの風が乱れ、シルフが姿を消した。三番機と四番機にラディアの指示が通ったのか、後ろの二機が反転、降下を始める。文洋は彼らの上空をカバーするように、高度を変えずに追尾した。
双発の爆撃機? あんなデカブツをよく連れてきたものだ……と、思いながら、文洋は巨人の写真を思い出す。もしあの甲板から双発機で飛び立ったなら、さぞかし勇気が必要だっただろう。
「うわっ!」
刹那、三番機と四番機を目で追いながら、周囲を警戒する文洋の目の前に、雲を突き抜け黄色い戦闘機が飛び出してきた。とっさに左上方にひねり込んで回避する。
「ラディア!」
文洋は叫んだ。集中が切れたのだろう、コックピット横に居るはずのシルフが掻き消えていく。
「くそっつ」
一旦高度を取った文洋が周囲を見回した。雲を突き抜けて来たように見えたが、実際は雲の谷間を縫って来たようだ。
向こうも驚いたのだろう、編隊が大きく乱れる。ゆるく上昇して背面飛行に入った文洋は、瞬時に編隊を組み直す敵に、感嘆の声をあげた。
「行くぞ!」
ポン、とスロットルレバーを叩いて、文洋は自分に喝をいれる。そんな文洋の一〇〇フィート程下方に、ボフンと音がしそうな勢いでラディアが雲を突き抜け現れた。
上を取られた敵が急降下を開始する。テルミアの機体は急降下が遅い。そう判断しての事だろう。だがそれは『スコル』や『レイフ』なら……だ。
「見てろよ」
獰猛な笑みを浮かべ、文洋は操縦桿を引きつけた。
カクンとループの頂点から群青の翼がこぼれ落ち、黄色い編隊を追って加速する。
翼桁とワイヤーが唸りを上げ、『ハティ』が遠吠えをあげる。
照準環の中で、敵機がどんどん大きくなる。
ゆっくりと息を吐いて、一連射。
ボム!
爆炎を上げ最後尾の機体が四散した。文洋は破片を避けようと操縦桿を引いて急上昇。その文洋の脇を、ラディアの機体が駆け抜けてゆく。
垂直上昇しながら機体をひねり、ラディアを目で追う。一斉に散開した敵機の軌道を頭に入れ、文洋は先頭の隊長機を狙うラディアの後を追った。
「速度がのりすぎだ、馬鹿」
新型機は『スコル』どころか『レイフ』と比べても二割近く最高速度が速い。しかも一定速度を超えると操縦桿が重くなる癖があった。
案の定、右に一瞬ふらつかせてから、左ロールで急減速する敵機のフェイントに引っかかってラディアがオーバーシュートする。
「間に合え!」
叫びながら、文洋は射撃位置につこうとする敵の鼻先に向けて、長い長い一連射を入れる。
当たるような距離ではないが、敵が乱れればそれでいい。
左へ捻りながら上昇、敵機が文洋の弾をかわす。
文洋はその胴体に白い狐が染めぬかれているのを見つけた。だが、今回は自分でも不思議なほどに冷静だった。
急降下でラディアが逃げるのを確認して、自分も距離を取ると文洋は水平飛行に戻して右に緩旋回。
「さて、仕切りなおしだ」
見回した文洋の左前方に、味方に追われて逃げる双発機が目に入る。一機はどうやら落としたらしい。ラディアは大型機を挟んで大きく回りこみ、緩く上昇しながら高度を取り戻している。
先ほどの白狐は文洋を追うのを諦め、大型機を追う黒兎隊の方へと機首を向けた。後ろを見ると、二機の戦闘機が自分を追ってきている。
「……」
文洋は一瞬、逡巡した。この二機を引きつけておけば少なくとも向こうは二対一だ、ラディアも入れれば三対一になる。だが、これを引き連れて乱戦になれば残念ながら、黒兎隊の練度では全滅しかねない。
「死ぬなよ……」
つぶやいて文洋はスロットルを緩めると、敵機を引きつけて右に旋回する。射程ギリギリを飛び、敵に撃たせ続けた。
ペダルを軽く蹴り、微妙に横滑りさせると、翼端ギリギリを弾丸が通過していく。そうしておいて、文洋はひたすら高度を下げながら敵を戦場から切り離した。
「さすがに気づいたか」
高度一〇〇〇フィートまで引きずり降ろされ、ようやく文洋の意図に気がついた敵が反転する。
ボロボロに破れた翼端を見ながら、ため息をつき、文洋はスロットルを全開にした。
水冷八気筒エンジンが唸りをあげ、群青の翼を加速する。上昇率は敵のほうが多少良いとは言え、水平速度で二〇ノットの差は埋めようがない。
あっという間に追いつくと、敵の後下方から、急上昇して一連射。
パイロットに当たったのだろう、クルリと背面飛行に入り、そのまま敵がキリモミで落ちてゆく。
「……」
離脱した敵はそのまま捨ておき、文洋は仲間の姿を求めて秋空を昇り始めた。
§
「ユウキ中尉!」
燃料切れいっぱいまで捜索したものの、結局、隊と合流出来なかった文洋が雨の降り始めたレブログ空軍基地に着陸すると、顔から服から、見事にオイルまみれのラディアが駆け寄ってくる。
「無事だったか、ラディア」
「バカっ、それはこっちのセリフだよ!」
半泣きで抱きついてきたラディアを引き離し、文洋はラディアに尋ねる。
「それで、こっちの損害は?」
文洋の問いにキョトンとした顔でしばらく固まった後、ラディアが笑う。
「あたしの飛行機が、ちょっと壊れた」
「他には?」
「無い」
「誰も?」
「うん、誰も」
雨空に顔を向け、文洋は目を閉じる。しばらくそうしてから、文洋は目を開けラディアに尋ねた。
「それで……、どうやったんだ?」
オイルのついた頬を、親指で拭ってやり、ラディアの目を覗きこむ。小首を傾げ笑みを浮かべると、ラディアが文洋の首っ玉に抱きついて、耳元で囁いいた。
「……大きなのを落とした後、あたしが黄色いのを正面から一発ひっぱたいて逃げた。そりゃあもう、皆で一生懸命逃げた」
もう一度雨空を見上げて、文洋は想像する。
「そうか、逃げたのか?」
尖った耳に文洋がささやき返すと、パタリと耳が動く。
「うん、だってアレおっかないし」
ラディアの答えに、文洋は子供にするように脇の下に手を入れると、グイと抱き上げた。
「ちょ、ちょっと中尉」
「ハハハ、そうか……逃げたか! 良くやった、そいつはいい! 無事でなによりだ」
黒兎にひっぱたかれた白狐の顔を見てみたかったと思いながら、文洋はラディアを持ちあげてクルリと回り、大いに笑う。
……雨の中、傘をさし、自分を見つめる兄と、ロバルト司令の姿に固まったのは、それから数瞬後のことだ。




