猟犬と艦長
『ラダー・アンド・ハッチ』は港に面した通りにある酒場だ。開けっ放しの両開きの大扉を開けると、文洋は喧騒の中に足を踏み入れた。
一〇〇人は入れるだろうか、四人掛けのテーブルとスタンディングの長いカウンターは、そろそろ二三〇〇時を回ろうかというのに、大盛況だ。
「よぉ、こんな所で珍しい。空軍サンじゃねえか」
「おお、兄ちゃん、飛行機乗るのか? 王都にゃドラゴンがでたんだろ?」
首都防空戦で体当たり攻撃をしかけたドラグーン隊の活躍のお陰で、比較的空軍の評判は悪くない。水色の制服を着ている限り、異国人の風貌をした文洋にすら人々は敬意を持って接してくれていた。
人懐っこく話しかけてくる水夫にエールを一杯おごってやり、文洋は店の中を見回す。兄のことだ、約束の五分前には来ているはずである。
「俺の兄貴が地球の裏側から来ているんだが、極東人の海軍サンを見なかったか?」
「海軍の礼服みたいなのを着た極東人ならさっき見たな……。ほら、アレじゃねーのか?あの奥の隅っこだ」
「ありがとう、飛行機の話は今度な」
「約束だぜ、空軍サン」
文洋に奢ってもらったジョッキを、ご機嫌な様子で掲げ、水夫がカウンターに戻って行くのを尻目に、文洋は部屋の隅のテーブルに近づいた。
「山中少尉、昼間はどうも」
兄の照文の隣に座る山中少尉に、文洋は頭を下げる。ニコリと笑って少尉も会釈を返し、気を利かせて席を立ちカウンターへ向っていった。
「久しぶりだな、文洋、昼間のご婦人、あれは知り合いか?」
「ああ、妻と娘だ」
どんな表情をするかと、ジョッキを手にしたまま、文洋は兄の顔を見つめる。ふむ……、と思案顔をして照文が見つめ返してきた。
「物腰を見る限り、どちらも育ちの良さそうな女性たちだったが」
「家柄だけでいっても、俺の一〇倍はいいさ」
どうやら冗談だと受け取ったらしい兄に、グビリと一口、ジョッキを傾けて吐き捨てるように文洋は言う。
「なあ、文洋」
テーブルのボトルからウィスキーをグラスに注いで、照文が差し出す。
「……」
「国に帰ってくる気はないか? 扶桑は今、お前のような新しい文化に触れ、新しい技術を手にした人間を求めている」
変わってないな……、まじめな顔で自分を見つめる兄をしばらく見つめてから、グラスを受け取り、文洋は視線を外して酒場を見回した。
腕に入れ墨を入れた水夫たち、胸元が大きく開いたドレスに身を包んだ給仕の娘たち、紺色の制服を来た水兵。今ではすっかりなじんでしまったテルミア語の喧騒。
「なあ、兄貴」
「ああ」
「この国に来て、俺には家族ができたんだ」
世迷いごとを……と、険しい顔をして見つめる兄の視線を真っ向から受け、ニコリと笑うとウィスキーのグラスを一息に開ける。
安ウィスキーの香りが鼻を抜けてゆく。少佐殿とは言え、外貨の乏しい新興国だ。良い酒が買えるほどの給与ではないのだろう。
「冗談じゃないんだな?」
「やさしい妻に娘、どこの馬の骨ともつかない俺を、全力で救ってくれる友人。俺の人生は今ここにある」
文洋の笑顔に毒気を抜かれた顔をして、照文が、空になったグラスになみなみとウィスキーを注いだ。
「文洋。親父の事、恨んでるか?」
「兄貴が兵学校に入った年の冬に、親父がしたことを考えるとな」
「ハルには気の毒なことをしたと思っている」
「兄貴のせいじゃないさ」
「いや、それでも何かできることはあったはずだ」
母が死に、年若い後妻を迎えて数カ月後、文洋の乳母で女中頭だったハルが理不尽な理由で追い出された日の事を、文洋は昨日の事のように覚えている。
文洋と離れるのは嫌だと泣く乳母の娘のユキに、自分も後から行くからと、そう嘘をついたのは紛れもない自分だ。そういう意味では俺もろくでなしに違いない……。そう思ってため息をつく。
「そうか……」
自分のグラスを一息で飲み干し、お前も空けろと促す兄の視線に、文洋がグラスをグイ開けたその時、カウンターで怒号が響いた。
「貴様、もう一度言ってみろ!」
怒号が扶桑語だと認識するのに文洋は数瞬かかったが、照文は稲妻に打たれたように立ち上がる。
「少尉!」
テルミア語で発した地を震わすような照文の大音声に、酒場が静まり返った。その静寂の中をスタスタとカウンターに向かう兄の後ろを、エールのジョッキ片手に、文洋は追いかける。
「何があった?」
「は、この水夫が扶桑海軍をブリキの兵隊だと罵倒したものですから……」
しどろもどろの山中少尉の返答に、照文がその水夫に向き合い、テルミア語で問い掛けた。
「我々は、テルミアと同盟を結ぶために、はるばる四万海里の波濤を越えて来た」
「それがどうしたってんだ!」
酔った水夫が気圧されたのを悟られまいと虚勢を張る。
「そのテルミア王国が、同盟国と認めた我々がブリキの兵隊だというなら、君はたった今、テルミア王国を自身で辱めた事になる」
「ぐっ……」
水夫が酔った顔をさらに赤くして、言葉に詰まった。ああ、やっちまったな……と文洋はジョッキをテーブルに置くと、あたりを見回して上着の腕をまくる。
掛かってきそうなのはざっと十人といったところか……、上着を洗濯に出したばかりだというのに、またローラに怒られるだろうか……。
「う……うるせえ!」
水夫が逆上して、手にしたジョッキを照文の顔めがけて投げつけた。ほとんど動いて無いようにすら見える小さな動きで、ヒョイとかわされたジョッキは、そのまま後ろで飲んでいた別の水夫の背に当たった。
「この野郎!艦長にっ!」
ジョッキが投げられると同時に、怒号を上げた山中少尉の蹴りが吸い込まれるように水夫の首元に叩き込まれる。すっ飛んだ水夫がとなりのテーブルになだれ込んだ。
「てめえ、なにしやがる」
「イイ度胸だ、やっちまえ!」
白い礼装が目立つ照文と少尉に水夫が殺到する。兄の背を護るようにして、文洋は殴りかかり、つかみかかってくる水夫たちを、右へ左へ、さばいては投げ飛ばす。
三人に囲まれて苦戦している山中少尉の援護に、文洋はテーブルのジョッキを掴むと、少尉を羽交い締めにしている水夫の後ろ頭めがけてぶん投げた。
乱戦だ、命中を確かめず、向き直った文洋の目に、椅子を振りかざした水夫が迫るのが映る。間に合わないと判断して、恥も外聞もなく床に転がり、一撃を避けた文洋の頭上を、椅子がないでゆく。
「文洋!」
空振りしてよろける水夫を、照文が綺麗に裏投げで床にたたきつけた。
「バカ兄貴!」
ひょいと飛び起きる。この乱戦の中、親切にもケガをさせまいと、照文が水夫の襟を引いてた。
その一瞬の隙に、別の水夫が後ろから瓶を持って照文に飛びかかっていった。文洋はその水夫の腰に飛び蹴りを食らわせてふっ飛ばした。
「異国ぐらしで鈍ったか? 文洋」
「兄貴こそ、偉くなったせいでキレがない」
顔を見合わせニヤリと笑う。何発か良いのを貰ったらしく、目の端に切り傷をこしらえた山中少尉が加わり、三角形に互いの背を守る格好で店内を睨みつけた。
一瞬、喧騒が途切れる。
ズダン!
その静寂を、一発の銃声が切り裂いた。全員があっけにとられ、銃声の方に目をやる。金象嵌に白いグリップの小型拳銃を、白い太腿を見せつけるようにして、腿のホルスターにしまい込み、二階席から一人の女が降りてきた。緋色のドレスに燃えるような赤い髪。
「はい、はい、今日はここまで!!」
パンパン!と手を叩いて言う彼女の言葉に、ドウ、と酒場がざわめくと、男たちが諦めたように、肩を貸し合いながら立ち上がり、彼女に道を譲った。
「ほら、そこの坊やも、その血だらけの上着を脱いでよこす!」
「え、ぼ、坊や?」
赤毛の女に指でさされた山中少尉が、照文が頷くのを待って血まみれの上着を脱ぐ。渡そうとした腕を、給仕の女の子に取られ、そのままキッチンへ消えていった。
「それで、あなたが一番偉い人かしら?」
つかつかと照文に近寄り、女がそう言いながら照文の胸をツン、とつつく。
「そうだ」
「バカを言葉で追い詰めたら、こうなるって事くらい、覚えといて損は無いわよ」
「次から気をつけよう」
「次から……ねえ……、私の店をこんなにして、言うことはそれだけ?」
「申し訳ない、これで足りるとは思えないが、取っておいてくれ」
財布ごと女に手渡し、照文が帽子を取り小さく頭を下げる。ため息をついた女が片手を上げると、給仕の娘とボーイ、驚いたことに水夫達までが一斉に祭りの後片付けを始める。
「まあ、そっちに賭けたおかげで、少しばかり儲かったからね、これで許してあげる」
「いや、それでは申し訳がない、次の給与が入ったら追加で支払おう」
この人……バカなの? と目で訴えかけてくる女に、ヤレヤレと手を広げて文洋は肩をすくめて見せた。バカの下に真面目がつく……それだけの話だ。
「じゃあ、支払いの代わりに二つ言うことを聞いてもらおうかしら?」
「出来る事なら何なりと、マム」
「陸に居る間は毎日飲みに来ること」
「約束しましょう」
「もうひとつは……、ちょっと目を閉じてくださる?」
目を閉じた照文の首に、女主人が腕を回すと照文の唇を奪う。驚いて目を開いた照文にウィンクして、女主人がニコリと笑った。
「な…なにを?」
「今日は朝まで楽しんでいくこと」
「明日の昼まで非番なので、かまいませんがマム?」
照文の腕を取ってクルリと背を向けた女主人の背に、小さな黒い翼と揺れるシッポを見つけて文洋は苦笑いする。
「文洋?」
「俺は帰るぞ兄貴、楽しかった、また会おう」
「待て、文洋」
「妻が待ってるから帰る」
「待てって!」
「レブログ空軍基地か、エルフ居住区で俺の居場所を尋ねれば連絡つくから」
情けない声を上げながら、しかし、抵抗することなく女主人に腕を引かれてゆく兄に背中で手を振って、文洋は酒場を後にした。
兄が唇を奪われた時に、チリリと首の後ろに走った痛みは、魅了魔法か何かだろう。まあ、真面目すぎるのもアレだから、せいぜい楽しむがいいさ。
夜の潮風、満天の星空、文洋は見上げながらエルフ居住区へ向けて歩き出した。気が抜けたのか、登り坂のせいか、急に酔いが回り始める。
さて……シミだらけの上着を、ローラに見つからずに洗濯屋に出すにはどうしたら良いかと考えながら、文洋は坂道を一歩ずつ登っていった。