神馬《スレイプニル》と九頭蛇《ヒュードラ》
揺れる海面を歩いて、文洋とレオナはカッターに乗り込んだ。子供のように頬をふくらませ、腕の中から降りたがらないローラの額にキスしてそっと降ろすと、文洋はレオナのジト目を浴びながらカッターに乗り込んだ。
「妬けますな」
掌帆長が苦笑いしながら小さく敬礼してよこす。
「困った娘と妻なんですよ」
苦笑いしながら、文洋は肩をすくめてみせた。
「よーし、野郎共! この優男とお嬢さん方に海の男のカッコイイところを見せてやれ」
「おう!」
舷側に立てられていたオールが一斉におろされる。
「踊ってくれよカワイイ坊や、パパのカワイイ子羊ちゃん」
「踊ってくれよカワイイ坊や、パパのカワイイ子羊ちゃん」
力強い歌声と共に、文洋の倍はあろうか腕をはちきれんばかりに、水夫たちがカッターを漕ぎだした。カッターより大きな『スレイプニル』を引いて、二〇〇ヤードほどの距離を『ウィンド・オブ・デルティック』目指し漕ぎ続ける。
「フミ! みんな凄い!」
胸板の厚い男たちの朗らかな歌声に、レオナが感嘆の声を漏らす。家族を思って歌う歌だ。ローラが透き通るような声で船乗りたちの歌に合わせてハモらせる。
「さあ、野郎共、お嬢さん方がお気に入りだ、気合いれてかかれ」
「おうさ!」
オールが水面を叩くたびに輝く夜光虫の光を引いて、文洋達はヨットへと近づいていった。
§
「さて、奥方様はフミヒロ様が戻られたら『テルミアの涙』まで引き返せといわれておりますが……」
船長が曳航している『スレイプニル』をみて、困惑した表情を浮かべた。
追い風だが、トップスルだけで走る船はせいぜい三ノットといったところだ。
この速度なら曳航もできるが、かといって、このまま牽いて戻れるものでもない。
「フミ……?」
心配そうにレオナが文洋を見上げる。
「レオナ、選択肢は二つ、少し休んで朝まで飛び続けるか、ここでスレイプニルを捨てるか」
文洋はレオナの肩に手を置いて見つめた。
「……私……がんばるから……お願い……フミ、お願いします」
目に涙をためて、レオナが文洋を見上げる。全てを捨てて、最後に残ったレオナの世界。自分の瞳と同じ色の、天駆ける神馬。
「ローラ?」
「私に聞かなくても答えは決まっているのでしょう?」
いつも通り優しく微笑んで、ローラが後ろからレオナをぎゅっと抱きしめる。
「一人で飛ばせるなら、俺一人で持ってくんだがな……」
「この子は墜ちないわ……お祖父様は南の大陸にだって……行ってたもの」
すがるような目でレオナが言う。今にも泣き出しそうな瞳。
「船長、ライダル岬までの距離は?」
「岬の先端まで五〇〇マイルですな」
ざっと3時間半というところか……ここまで乗ってきた感覚で文洋は『スレイプニル』の巡航速度で見当を付ける。幸い天気の良い月夜だ。
「後は機体次第と行った所か……」
ふぅ、と文洋はため息をつく。目を閉じて乗ってきた感覚を思い出す。どこまでもスムースな機体の反応。行ける、そんな気がした。
「船長、針路を北にお願いします、レオナ、温かい格好を」
「フミ! ありがとう、大好き」
飛びついてレオナが文洋を抱きしめる。それを微笑んでみていたローラが、文洋と目を合わせ、拗ねた表情でそっぽを向いた。
「ローラもだ……」
「あら、連れて行ってくださるんですか? 我が君?」
「膝の上には乗せられないけどな」
「乗り移るときは抱っこしてくださいね?」
両手を上げて降参すると、文洋は自室に戻って飛行服に身を包んだ。ローラに着せるのに、ブライアンの荷物から革のジャケットと飛行帽、ゴーグルを拝借する。
レオナにはニット帽を被ってもらおう。
二人が着替える間に、副長とブリーフィング。目印の小島を中心に方位と距離を地図に書き込んだ。
§
「ではお気をつけて、少尉、お嬢さん方」
水面まで縄梯子をおろし、掌帆長の鳴らす号笛と帽子を振る水夫達に見送られて、文洋は再び海面を歩いてスレイプニルへと乗り込んだ。
横抱きにされたローラと、隣を歩くレオナが、水夫達に手を振って別れを惜しむ。
「フミ」
後席にローラを座らせて、ベルトを締めてやる文洋にローラが小さく声を掛ける。
「?」
「レオナを大事にしてくれてありがとう」
「俺の娘なんだろ?」
「ええ、それに私の娘です」
ローラに笑顔を返し、コックピットに滑りこむとベルトを締める。膝の上のレオナは、ロープの切れ端で腰を自分にに結わえつけた。
「さあ、行こう」
水夫たちが帆を上げ、白波を上げる『ウィンド・オブ・デルティック』の横を加速して追い抜く。手を振る水夫達に翼を振って答えると、『スレイプニル』は一路、テルミア目指して空を駆けた。
「あれが北を指す星、ここが目指すライダル岬」
小さな板の上にクリップで止めた地図に、文洋は赤鉛筆で印を付ける。
レオナが退屈しないよう、航法のやり方を簡単にして教えてゆく。
「針路は三三○、速度は一時間に一二〇ノット、横風で流されてなければそろそろラディウス群島が見えてくる」
「フミは何でもできるのね」
島影と星と時計を見ながら、針路を調整する文洋をレオナがそう言って見上げる。
「魔法は使えないけどな」
左手でポンと頭を叩いて、文洋は月明かりに光る水面を見つめた。
「あった、アレ!」
七つの島から成る群島の影を目ざとく見つけて、レオナが指さす。
「よし、あと一時間もあれば岬が見えるぞ」
順調すぎるほど順調に文洋達は北北西目指して飛び続ける。岬が見えれば東に回って、どこか港町で一休みだ。ローラはどうしているかと振り返ると上を向いて何かを見つめていた。
「ローラ?」
風で消えないように大声で文洋が問いかける。
「フミ、あれ」
ローラが指差す先、上空に飛行船二隻をつないだような影が浮かんでいる。
「ヒュードラ……」
影を見上げてレオナが右手を口に当て、息を呑む。
「ヒュードラ?」
「同盟の航空母艦! わたしが落とされた日には後詰を……」
……俺が落とされた日の戦闘機はあんなところから来てたのかよ。文洋が影を睨みつける。
「星誕祭はもう一日あって、休戦中だろ」
「……私達を探して?」
ああ、と文洋は空を見上げた。半島南端の基地レブログから片道一五〇マイル、武装した戦闘機なら片道でギリギリといった所だ。
どこに浮かんでたのかしらないが、その気になれば一週間でも浮いていられる飛行船だ。最短距離を飛ぶ文洋達を捕まえるなら、ここは絶好のポイントだった。
アリシアと三都同盟がどこまで懇意にしているかは知らないが、そこまでしてレオナを消したいのだろうか?
「わからん、とりあえず逃げるぞ」
あいにく、雲ひとつ無い。夜陰に紛れるにも『スレイプニル』の魔法推進器は彗星のように緑の尾を引いている。どうぞ見つけてくださいと言わんばかりだ。
「フミ、来ます、二機」
背後からローラの声。
排気炎が上空から二つ、降ってくる。
「この夜間に直援機までだしてんのかよ、二人ともつかまってろ」
スロットルを押し上げ、文洋はスレイプニルを加速する。
速度計がたちまち跳ね上がり一三〇ノットを指す。
「一撃ずつ避けれたら逃げ切れる」
上を睨みつけてタイミングをはかる。
来い、さあ来い。
軽く右ペダルを踏んで機体を滑らせた。
動きが地味な分、こういう時は気取られにくい。
ザアッと夕立のような音を立て、曳光弾の雨が機体左を行き過ぎる。
一気にスティックを倒しこんでバレルロール。
「「キャアッ」」
振り回されて二人の悲鳴が響いた。
二機目の放った機銃弾がコックピット上方の虚空を穿って消える。
ウォン!
風切り音を上げて黄色い機体が通り過ぎた。
あて舵をして水平飛行に戻すと、文洋はレオナの左手ごとスロットルを一杯に上げる。
「レオナ、しっかりしろ、逃げ切れる」
レオナが気を失えば、おそらく推進器が止まるだろう。
「わ……わたしを誰だと思ってる……の?」
「その意気だ」
肩で息をしながら、強がってみせるレオナに文洋が声を上げて笑う。
推進器から緑の尾を盛大に引きながら、スレイプニルが加速した。
「フミ、あれ」
追撃を振りきった所で、今度は前方に曳光弾の光が見える。
追われている機影はテルミアの偵察機のようだ。
「あれは……墜とされるな」
文洋の言葉にレオナが身を硬くする。
「助けてあげられないの?」
「武器がない」
「武器なら……」
グイとスロットルを握りしめて、レオナが前方を見据えた。
「ここに」
計器盤の中で赤水晶が力強く輝くと、機体の前に火の玉が現れる。
おいおい……。文洋が目を丸くする。
「行って!」
撃ちだされた火の玉が偵察機の後方で破裂する。追っていた戦闘機がすんでのところで回避すると、スプリット機動でこちらに向き直る。
「言わんこっちゃない」
背を向けた敵に偵察機が機銃を浴びせるが、いかんせん速度が違う。
「レオナ、風の盾を、そのまま突っ切る、ローラ、伏せてろ」
レオナに指示をだし、文洋がペダルを蹴って軸線をずらす。
魔法の盾でヘッドオンからの一撃だけ凌げば、スレイプニルなら逃げ切れる。
振り返り、ローラが頭をかがめて小さくなるのを見届ける。
推進器が高く吠え、一五〇ノットまで機速を引き上げる。
軸線をずらしたまま、敵を右に見て並行に行き違う……刹那!
強引に機首を巡らせ、黄色い機体が発砲。
「ダメ!」
レオナが悲痛な叫びを上げる。とっさに右ロール。
機首側で数発、緑色の燐光が走って機銃弾を弾く。
火花が散り、スレイプニルの側面に銃弾が当たる。
「くそっつ!」
黄色い機体に白狐のペイント。アイツか!
強引に斜めに飛んだ黄色い機体が失速、フラットスピンで墜ちてゆく。
立て直した所で、追いつけはしないだろう。
スロットルを閉じて文洋は操縦系をチェックする。
速度計が割れた以外は問題なさそうだ。
いつの間にか横に並んだ偵察機が翼を振って礼をよこす。
「レオナ、ケガは?」
「大丈夫……」
「ローラ?」
「……」
「ローラ!」
文洋がベルトを外して後ろを振り返った。ブライアンから拝借したゴーグルにヒビが入り、ローラの額から血が流れている。
「くそっ!」
「フミ、ローラは?」
「前を見て、今は前だけを見てろ」
「……」
鬼気迫る文洋の形相に、レオナが怯えたように頷く。
血の気がひくのを感じながら、文洋はスロットルを全開にする。
早く、もっと早く。
時速一七〇ノットで空を駆ける神馬すらもどかしい。
全てを振り払って『スレイプニル』は北北西、レブログ基地を目指して夜空を駆け続けた……。