神馬《スレイプニル》と夜光虫《ノクティルカ》
『ウィンド・オブ・デルティック』が北壁の沖合に来る予定の〇一〇〇時まで、とりあえず身を隠すべく、文洋とレオナはアリシア本島から北西へ飛んだ。いずれにせよ、屋敷の沖ではなく、その手前で合流しないと面倒なことになりかねない。
もちろん、星を頼りに北を目指せば、テルミアかシルヴェリアに着くだろうが、航空地図も無しに夜間飛行をするほど文洋は無謀ではなかった。三十分ほど飛んで、文洋は小島の影に飛行艇を降ろした。
月は明るく、幸い風も潮目も穏やかだ。着水した途端、スロットルから手を離し、ぽてん、とレオナが文洋の胸にもたれかかった。
「疲れちゃった……」
紫の瞳が文洋を見上げる。ブルネットに染めた髪と相まって人形のようだ。
「こいつを飛ばしたせい?」
「スレイプニルを飛ばすだけなら、別に大丈夫……」
首を横にふって、子猫のように頬を文洋の胸にすりよせる。
「そうか……長い夜になる。少し眠るといい。」
軽いとは言え同じ姿勢で乗られていると足がしびれる。腰に手を回して軽く持ち上げると姿勢を変える。視線で抗議するレオナにジャケットを掛けてやると文洋は空を見上げた。
ちゃぷり、ちゃぷり
さざなみが機体を揺らす。身体を丸め、文洋の胸にもたれかかってレオナが目を閉じた。よほど疲れていたのだろう、まもなく小さな寝息を立て始める。
機体に当たる波の音だけがあたりを支配する。ひどく孤独なふたりきりの世界。
「クロード……ルネを……」
ピクリ、と震えてレオナが小さくつぶやく。
チラリと腕時計を見る。船足を考えると二時間ほど、ここで休めるということか。ジャケットの胸ポケットからタバコを出す。咥えかけて自分の胸にもたれて眠る少女に目をやり、文洋はタバコを戻した。
時折、島と星を見比べて位置を失わないように気をつけながら、文洋は子猫のように眠る少女の髪を撫でてやる。
確か、自分がこの国に来たのは十八の時だった。『屋敷を捨てます』凛として言い放ったレオナの、十五にして、全てを捨て去って弟を守ろうとした強さが眩しかった。
「フミ……」
どれくらいそうしていただろう、主翼のフロートに波が当たるたび、夜光虫の光で青白く輝くのをぼんやりと見ていた文洋はレオナの声に我に返る。
「ん? どうした?」
「大丈夫? 重くない?」
「ああ、大丈夫だ、そろそろ行かないとな」
正面を向き直ったレオナにジャケットを着せて、スロットルレバーに載せたレオナの左手に、文洋は自分の左手を重ねた。
レオナがスロットルに手を置いた途端、計器盤の向こうで赤水晶が赤く光る。推進器が緑の光の粉を吐いて回り出す。
「さあ、行こう」
ゆっくりとスロットルを押し上げ、機首を風上に向ける。弧を描く航跡に夜光虫が青白い花を咲かせた。
タン、タン、タン、波を三度叩いて、少女の瞳と同じ色をした紫の翼が、舞い上がる。きらめく緑の推進炎を引いて、『スレイプニル』は彗星のように空を駆け上った。
念の為に少し大回りしながらアリシアの北端に出た文洋は、港とレオナの館の沖の間を大きくS字を描きながら『ウィンド・オブ・デルティック』を探した。月夜とは言え船が灯火を落としていたら、探すのは面倒な事になる。
「フミ……見つかるかしら?」
「最悪、レオナの館の沖合に行くしかないが」
「きっと見張られているわ」
「ああ、だから手前で見つけたいところだな」
操縦桿を倒し、機体を傾けると文洋は下を見ながら緩旋回する。
「いた、船だ」
「え? どこ?」
夜光虫で光る青白い航跡を遠くに見つけて、文洋は機首を向けた。高度を落として月と反対側に回りこむ。二本マストにトップスルの船影。
「レオナ、なにか光るものを作れないか、電球くらいに光ればなんでもいい」
「魔法を二つ同時に使うの難しいのよ?」
「できない?」
「で、できるわよ、でも失敗したらこの子、止まっちゃうのよ?」
「止まっても急には落ちないよ、ちゃんと俺が降ろすから大丈夫」
「もう! しらないんだから!」
すねた顔をして、レオナが目を閉じる。胸の前で右手の人差し指を立てると、文洋にはわからない言葉で呪文を唱え始めた。
「ルクセ・アド・ドゥクステラム、ルクセ・アド・ドゥクステラム」
立てた人差し指が光り始めたかと思うと、たちまち眩しいほどに輝きだす。
「上出来。右手を上に伸ばして、スロットルはこのまま」
スロットルの上で重ねていた手を離すとレオナに任せ、文洋は操縦桿を左手に持ち替えた。
伸ばしたレオナの人差し指を、自由になった右手で包み込む。
「え? なに? なに?」
事情を飲み込めないまま、キョトンとするレオナに大丈夫だと微笑んで、文洋はレオナの光る指先を握ったり放したりする。
船の上空を旋回すること三度、握ったり放したりされる指先を不思議な顔で見ていたレオナが、船を見て小さく声を上げた。
「船が止まるわ、帆を降ろしてる!」
「ありがとうレオナ、もう指を戻していいよ」
「なにをしたの? フミ」
「光で船と話をした」
「そんなことができるの?」
「ああ、正直苦手なんだが通じてよかった」
じっと自分の人差し指を見つめるレオナの頭を、ポンポンと叩いて、文洋は右手で操縦桿を握り直すと、左手をスロットルの上で重ねる。
船足を落とした『ウィンドオブ・デルティック』の後ろから近づいて着水、船からカッターが近づくのを待った。
「フミ! レオナ!」
カッターの上で、ローラが手を振っている。五ヤードほどまで近づいて、機体を傷つけずにこれ以上はどう近づいたものか……と艇長がためらうのを尻目に、ローラがひょいと立ち上がって海に向かって飛び降りた。
「ローラ!」
着衣での水泳の難しさをよく知っている文洋が叫んで身を乗り出す、近くの水夫もローラを捕まえようと手を伸ばした。
水面につま先を着けた途端、燐光の波紋がローラの足元に広がる。
そのまま、ローラが水の上を踊るように駆けてきた。
「……!?」
全員が唖然とする中、ローラが水面に立ってコックピットを覗きこむ。
「おかえりなさい、レオナ」
レオナを抱きしめてローラが頬ずりした。
「くすぐったいわローラ」
「えーと、ローラさん?」
「なあにフミ?」
「今のは……?」
「んー? ちょっとウンディーネ達にお願いしただけですよ?」
小首をかしげ、水面でローラがくるりと回る。あまりのデタラメさに文洋は言葉を継ぐのを諦めて天を仰いだ。
「?」
「とりあえず、俺達も水の上歩ける?」
「二人までなら」
「じゃあレオナを抱っこしてなら?」
「魔法を二つ同時に使うのは難しいんですよ?」
微笑んで答えるローラに……嘘だ……ゼッタイ嘘だ……と思いながら、文洋は少し考えるふりをしてから、口を開いた。
「じゃあ、渡るときはローラを抱っこするから魔法に専念して。レオナ、ちょっと立ってくれ」
文洋が狭いコックピットから何とか身体を引き抜き、コックピットのフチに腰掛ける。
「とりあえずカッターと飛行艇をロープで繋ぐから……ローラ?」
「大丈夫ですよ我が君」
ちゃぽり、ちゃぽり、
艇体を波が叩くたび、夜光虫が光る。おっかなびっくり文洋が水面に足を下ろすと、柔らかいんだか硬いんだか、なんとも表現しづらい感触とともに、足元に波紋が広がった。
「おおっ」と、カッターの水夫からどよめきがおこる。
「ローラ、凄いなこれ」
「そうですか?」
「ああ、なんというかこれは……」
言いながら文洋はカッターまで『歩いて』ゆく。水夫から引き綱を受け取って、機首のリングに結びつけた。足元に波紋が広がるたび、夜光虫で水面が青く輝く。
結び終わって目を上げると、波に揺れる『スレイプニル』の主翼の前縁に腰掛けてローラが手を振っていた。
何とも言えない不自然な風景が、自然に広がっていることに、文洋は素直に驚嘆しながら思う。とりあえずローラとレオナ、この二人とは絶対に喧嘩しないでおこう……。
ロープを結び終わったのを艇長に手を上げて知らせ、文洋は『スレイプニル』に歩みよった。コックピットからレオナを抱え上げて水面に降ろす。
「聞いたことはあるけれど、水上歩行って……初めて見た。凄いのねローラ……」
言いながらレオナがつま先で水面を蹴る。夜光虫が光り、青白い波紋が広がる。
「さあ、我が君?」
『スレイプニル』の翼に腰掛けたローラが、満面の笑みを浮かべて抱っこをせがむ小さな子供のように両手を差し出した。
「どうぞ、甘えん坊のお姫様」
軽く腰をかがめ、ローラが首に腕を回すのを待ってから、文洋はローラを横抱きに抱え上げる。レオナのしなやかな感触とまた違う、女性らしい柔らかな肉感に文洋は耳が熱くなった。
「フミのえっち」
「いや…ちょ……」
耳元でボソリと言いながら、首に回した手に力を込め、身体を押し付けるローラに文洋は顔が赤くなる。
「フミ?」
不思議そうな顔をしてレオナが文洋とローラを交互に見つめた。
「大丈夫、行こう」
水夫達の羨ましそうな視線と、レオナの不思議そうな視線、腕の中の柔らかな感触とローラの笑顔。十字砲火にさらされて文洋はため息をつく。
一歩一歩を踏み出すごとに、燐光が波紋のように広がる。それが嬉しいのかレオナがクルリ、クルリと踊るように水面で回った。ローラが文洋の耳元に顔を寄せて、クスリと小さく笑う。
「フミ? どうしてレオナをお膝の上に乗せてたのかは、あとでゆっくり聞かせてくださいね?」
いや、ローラさん?決して不純な理由じゃないですよ?
満月の下、燐光を立てて水面を歩きながら、文洋は天を仰いでため息をついた。
夜光虫の燐光がオーロラのように波間に広がってゆく。