プロローグ
アリシア王国、王都北壁
初夏のそよ風が少女の頬をなでていく。ゆるくウェーブのかかった亜麻色の髪に白い肌、切れ長の目に紫水晶の瞳、年の頃なら十三、四といったところだろうか。
石造りの塔の上で抜けるような夏空を背にした少女は、さながら一枚の絵のようだった。
§
「んっ……」
のびをしてレオナは空を見上げた。屋敷の塔の屋上から見る風景は彼女の一番のお気に入りだ。
「お祖父様が生きてらっしゃれば良かったのに」
空と海が融け合う風景の中、二機の飛行機が飛んでいるのをみてレオナは思った。
「こんな素敵なお天気の日には、お母様に内緒で『スレイプニール』に乗せてくれてたっけ……」
『スレイプニール』道楽者の祖父が、孫娘の瞳の色に塗った飛行艇に父母の目を盗んでは、膝の上に乗せて飛んでくれた事を思い出す。
紫の翼が風を切って空に駆け上がる。オモチャのように小さくなる町並み、操縦してみたいとダダをこねる彼女に、スロットルレバーを持たせてくれたこともあった。
「戻って来られたら、もう一度乗ってみたいな」
どこまでも飛んでいければいいのに……抜けるような初夏の青空を見上げ、レオナは小さくため息をついた。
「姉様?」
ブラウスの袖を引っ張られ、レオナは我に返る。
「ルネ、どうしたの?」
小さな弟が、祖父譲りのとび色の瞳で心配そうに彼女を見上げていた。
「姉様、行っちゃうの?」
「そうね、でも大丈夫、すぐに帰ってくるから」
「ほんとに?」
ルネの栗色の髪をなでて、レオナは微笑んだ。
「ええ、寒くなるまでには帰ってくるわ、そしたら『スレイプニル』に乗せてあげる」
「姉様、飛行機操縦できるの?」
「ええ、おじい様に教わったもの」
嘘をついた事にチクリと心が痛む。
「だからね、ルネ、私が居ない間、ルネがこの屋敷を守るのよ?」
「うん、わかった! 平気だよ、クラウスがいるもん」
銀髪を綺麗に撫でつけた祖父の代からの老執事クラウスは、両親が亡くなった後も、忠義を尽くしてくれている。彼が居なければ、子供だけになってしまった家はどうにもならなかったに違いない。
「そうね、クラウスの言うことを聞いて、良い子にしてるのよ?」
「うん! 姉様、あれ! ほら飛行船!」
ルネがはしゃいで指差す方向にレオナは視線を移した。船首に描かれた真紅のトライデント、銀色に輝く魔法防御符を貼りこまれた軍用飛行船が屋敷の上空を通り過ぎる。
「うわあ、おっきいなあ、すごいなあ」
屋敷の上を低空でフライパスして、銀色の巨鯨が王城へと向かってゆく。
「そうね」
はしゃぐ弟をよそに、レオナは眉をひそめた。とうに衰退し観光ぐらいしかとりえのないこの国が、なぜ今さら他国の戦争に手を貸そうとするのだろう。執政官の入れ知恵にしても、国王陛下も少しは考えればいいのに。
「姉様?」
「なんでもないわ。お茶にしましょう、クラウスを探して頂戴」
レオナがルネの手を牽いて屋敷に戻る。
ほんとに、どこまでも飛んで行ければいいのに……。そう思いながら。
海の香りのする初夏のそよ風が、少女の髪を揺らして吹き抜けた。
§
テルミア王国南部 第一航空隊飛行場
「坊主、グリスガン取ってくれ」
フリント整備中尉が伸ばした手に、文洋がグリスガンを渡す。
「ユウキ少尉、また来てるんすか? 非番なのに、ほんと飛行機好きっすね」
外したプラグをずらりと並べ、ギャップ調整をしていたバーニー伍長が文洋に話しかける。
「そうだなあ、飛行機はさあ、凄くいいよ」
「何がです?」
「空が飛べる」
「そりゃ飛行機ですから……だからって整備までしなくても良いでしょうに」
「まあ、自分が乗るものだからな、出来る事は自分でやりたいんだよ」
「それ、他の貴族様達に聞かせてやりたいっすよ」
タメ口の整備兵を叱ることもせず、文洋はオイルドレンを回して汚れたオイルを手際よく抜いてゆく。
「バーニー! 手前はちったあ坊主見習って、口より先に手ぇ動かせ」
「へーい」
「ったく、お気楽な貴族様じゃねーんだぞ、一機でも故障で落としてみろ、ケツに一インチのボルトねじ込んでやっからな!」
怒鳴りつけてから、フリント整備中尉がバツの悪そうな顔で文洋に眼をやった。
「すまねえ、坊主も貴族出身だったな」
「いいっすよ、貴族といっても極東の田舎貴族の三男坊ですから、実際お気楽なもんです」
「それでも伯爵様なんだろ? てえしたもんじゃねえか」
曖昧に頷いて文洋は整備作業に戻った。ドレンを閉めてオイルを入れる。褐色の鉱物油から甘い香りが立ち上った。
「なあ、おやっさん」
「なんでえ」
補助翼のヒンジにグリスをさしていた中尉が油まみれの顔をひょいとのぞかせる。
「俺、空を飛ぶの好きなんだよ」
「知ってるよ」
「何もかも置いて行けるような気がしてさ」
「まあな、だがそいつは地面に足がついてなきゃ感じられ無え幸せだ」
「そんなもんかな」
「ああ、そんなもんだ。だから必ず帰ってこい」
権威主義な父と国の海軍に入った真面目な兄。どちらともウマが合わず、留学に出た文洋は大学で知り合った子爵に誘われるまま飛行学校に入学した。遠い異国の戦場で、命がけで空を飛ぶ今の生活を、文洋は幸せだと感じていた。
「補助翼動かしてみな」
中尉の声にコックピットに潜り込み、文洋は操縦桿を左右に動かす。連動して、パタリ、パタリと補助翼が小気味よく動いた。
「どうでえ?」
「いい感じだ」
「書類は出しとてやる、テストでちょいと飛んできな」
「ありがとう、おやっさん! バーニー、格納庫から出すの手伝ってくれ」
土の匂いのする滑走路、初夏のそよ風が、コックピットに座った青年の前髪を揺らして吹き抜ける。
力強いエンジンの轟音が響き、そよ風を切り裂いて、群青色の機体に白く狛犬を染めぬいた複葉機が空へ昇ってゆく。
結城文洋は異国の空を飛んでいた。風をかき分け、群青色の機体が抜けるような青空へ昇ってゆく。