act.5
週末の学校は、普段とはまるでべつの場所のような静けさだった。まだ午前中ということもあるのかもしれないけれど、職員の車自体、数える程度しか駐車場に停まっていない。昇降口の鍵は開いているのだろうかと不安に思いつつも、手をかけると思いのほかあっさりと開いてしまって、妙に肩透かしをくらった気分だった。
中に入ると静けさは一層増した。近くを走る車の騒音が届かなくなったせいだろう。夜の学校はもちろん、日中でも、こうして人気のない学校というのも、なかなか恐ろしいものがある。
廊下に響く自分の足音を聞きながら部室へ向かっていると、階段から下りてきた高田さんと出くわした。
「おはよう。ちょうどよかった、ちょっと頼まれてくれる?」
なんですか、とぼくが訊き返すと、昇降口の方向を指差して、気持ち早まった口調で高田さんは言った。
「悪いんだけど、職員玄関まで行ってくれないかな。たぶん水谷さんがいるはずだから、彼女を手伝ってあげてほしいんだ。俺、職員室に用事あるから。ごめんね」
「わかりました」
それじゃ、と手を振って降りてきた階段を上っていった高田さんを見送ったあと、ぼくは歩いてきた廊下を引き返した。
職員玄関は生徒たちが普段出入りする昇降口の脇にあって、あまり陽が当たらない上に小ぢんまりとしている。おまけにすぐ近くにある用務員室では、用務員のおばさんが、不審者が入ってこないか常に目を光らせているため、自分が怪しまれているわけではないとわかっていても、個人的にはものすごく近づきがたい。
水谷さんがいると言われて来たものの、職員玄関にその姿は見当たらなかった。
「なにしてるの、こんなところで」
いきなり後ろから声をかけられ、慌てて振り向くと、真顔の水谷さんと目が合った。鋭い眼差しに射抜かれて、ぼくは表情が固まった。
「部長に、行けって言われて」
「そうなんだ」
「はあ」
「もうすぐ弁当が届くから、それをバスに積むの。それを手伝えってことでしょ。部長が言いたかったのは。そもそも、なんで女子に力仕事を任せるのか理解できない」
壁に背を預けると、水谷さんは細く息を吐いた。二メートルくらい離れたところに立って、彼女と同じように職員玄関の外をぼくは眺めた。ところどころひび割れたアスファルトの上に何台かの車が止まっているだけの風景は、いたって現実的な風景なのに、写真の一部を切り抜いてもってきたような、どこか静止画みたいな冷たさがあった。
「弦、切られたんだってね」水谷さんの口調は、まったくもって深刻に捉えていないような、ごく軽い口調だった。「どうしようもない奴ばっかりね、ほんと」
水谷さんの言葉には、いったいどんな意味が込められているのだろう。そんなこと気にするな、だろうか。かわいそうに、だろうか。それとも、ぼくのことなど他人だから関係ない、だろうか。
「ちゃんと張り直したの?」
「え?」
「弦切れたままで、今日どうやって弾くの。十五分あれば張り直せるでしょ。きみもずぶの素人じゃないんだから」
険しい顔をしたまま、不味いものを吐き捨てるように水谷さんは言った。励まされているわけでも、罵倒されているわけでもない。当たり前のことをどうしてしないんだ、と水谷さんは言っているのだ。彼女にしてみれば、ぼくは完全なる赤の他人であって、辛うじて同じ部に所属しているという関係を持ってはいるけれど、しょせんはそれ以上でもそれ以下でもない。
「昨日ね、あのあと部室に行ったら、ひどかったよ。空気っていうか、雰囲気っていうかさ。演奏会を無駄にしたくないって思いはみんな同じだから、部長も頑張ってまとまり取り戻そうとしてたけど。それでもやっぱり、人間の関係なんて脆いものだし、……あ、きた」
声につられて外を見ると、側面にロゴの描かれたワゴン車が、職員玄関の正面にぴったりとつけたところだった。ぼくには見向きもせず、ワゴン車の元へと水谷さんはさっさと歩いていった。
ワゴン車から降りてきた愛想のいい初老のおじさんは、段ボール箱二箱を手馴れた動作で玄関先に下ろすと、次の配達が控えているのか、風のように素早く去っていった。
「これをバスに積むだけだから」
そう言って、ふたつあるうちの小さい箱を水谷さんは抱えて歩きだした。そのあとに続いて残された大きい箱を抱え、外に出て行く彼女を追おうとして、ぼくははっと思い出した。
「靴……」
あとで拭けばいいじゃない、とすぐさま前から厳しい声が飛んできたので、ぼくは渋々外に出た。こういう細かいことでも、この学校の先生はみな厳しく取り締まるため、見つかるとまた面倒なことになるというのに。水谷さんの潔さというか開き直りというか、思い切りのよさは尊敬にすら値すると思う。
校門の手前で立ち止まっていた水谷さんに追いついたとき、彼女がいつになく険しい表情をしていることにぼくは気付いた。何事かと付近を見渡していると、雑談を交わしながら校門前をのろのろと走り去っていく、黄色と青の集団が目に入った。ああ、サッカー部か、と思って視線を戻すと、水谷さんの眉間には深い皺が寄っていた。
「そんなに嫌いなんですか」
「好き嫌いじゃなくて、見てるだけでいらいらしてくるの。ああいうだらしないやつら。不真面目イコール格好いいって信じきってるから、なに言っても聞かないし。せめて校外に出るときくらい、しゃんとしてよって感じ。ああいうやつらのせいで、あたしたちの評価まで下げられるんだよ? あの中学校の生徒? ああ不良か、って。いい迷惑だよ」
校門前に停まっていた小さなバスに段ボール箱を積んだとき、水谷さんが先に積んだ段ボール箱の、わずかに開いた蓋の隙間から中身が垣間見えて、ぼくは息が詰まった。箱の大きさは一回りほど小さいものの、中にはペットボトルのお茶がぎっしり入っていた。その脇に自分が運んできた分を置き、バスを降りて部室に向かう間、水谷さんの顔をぼくは見ることができなかった。
なんとか平静を装って部室に入ったものの、居心地の悪さは拭い去れず、ぼくは定位置である隅の席で小さくなっていた。周りのみんなは本番を前にやや緊張しているようにも見えたけれど、普段となんら変わりない雰囲気で会話を交わしている。ちらりと様子を窺うと、水谷さんもみんなの輪に加わって、時折笑顔を見せているようだった。
昨日の出来事など、忘れているというよりも、そもそもなかったことにされているような、そんな気がした。
「おれもいつかは、水谷さんとか部長みたいにメインのパート弾いてみたいなー」
「お前の腕じゃ、卒業しても無理だって」
「そんな言い方ないだろー。チャンスはまだまだあるんだからさ」
「水谷さんも、お前には無理だって顔してるぞ」
「ひどー」
「……そんな顔してない。ちゃんと練習して、実力をつけていけば、周りは自然と評価してくれる。だからこそ、今日は自分のパートを完璧にこなすことに集中したほうがいいと思う」
「やっぱ水谷さんは、言うことがしっかりしてるよなあ」
「上手な人は違うよなー」
目を閉じても、耳をふさいでも聞こえてくる他愛もない会話のひとつひとつが、細く鋭い針になってぼくの体に突き刺さった。ぼくの体に針が突き立っていく様を見るのを楽しんでいるかのように、彼らは終始和やかな会話を交わす。冷やかしに対して皮肉を言ったり、およよと泣き真似をしたり、冗談で怒ったふりをしたりするたびに、ぼくの体には針が増えていく。けれど、泣いて助けを求めることなんてできないのだ。ここは保育園でも幼稚園でも、まして小学校でもない。ここはたったの三年間で、子供が大人へと進化していく場所だ。甘えなんて通用しない。
「お待たせ。準備はできてるかな?」
勢いよく扉が開くと、高田さんが言葉と一緒に飛び込んできた。走ってここまでやってきたのか、風になびいた形のまま、前髪が後ろに反り返っている。息はあまり乱れていないようだったけれど、開襟シャツの襟元が、良く言えば色気を出して、悪く言えばだらしなく乱れていた。どちらかといえば、高田さんには前者のほうがしっくりくると、ぼく個人としては思う。
「遅い」
そのうち机の上に足を投げ出して座りだすのではないかと思うほど、声を上げた水谷さんは不機嫌そうだった。
「ごめんごめん。ちょっと浅野先生の手伝いをしてて」
「どうせまた、しょうもない用事だったんじゃないの」
「しょうもないかどうかはべつとして、手伝わされた俺の身にもなってほしいな」教卓に片腕をついて口をへの字にすると、高田さんは鼻から息を吐いた。「あの人の手際の悪さは、みんなも知ってることだろう?」
「あたしとしては、重いもの運ばされた身にもなってほしいんだけど」
「あれは仕方なかったんだってー。ほら、水谷さん来るの早かったから、ほかにまだ頼める人も来てなかったし」
ああそうですね、と水谷さんは気だるそうに頬杖を突いた。
あのとき、先に中身に気付いて重いほうをぼくが持っていたとしたら、水谷さんの不機嫌も少しは穏やかだったのだろうか。普段、人の機嫌取りのために行動しているわけじゃないし、普段ならどうでもいいと思いがちなことだけれど、今日に限っては無性に気になって仕方がなかった。
「準備がよければそろそろ行くよ。俺らの演奏順、だいぶ前のほうだし。のんびりしすぎて時間に遅刻、そんなので失格なんてごめんでしょ、みんなも」
その顔に挑戦的な微笑を湛えて、高田さんは言った。そうだそうだ、と同意して、周りが続々と立ち上がり始めた。これから本番に臨むのだ、というみんなの気の昂りが肌で感じられる中で、いますぐこの世からいなくなりたい、ひたすらぼくはそう念じた。
やる気に満ちた高田さんを先頭に、部員たちがぞろぞろと部室を出て行くのが視界の隅に映った。ぼくはといえば、椅子から一歩も立ち上がることができなかった。弦もまだ張り直していないのに、どうやって演奏するというのか。ふと、誰かの呟いた声が耳に届いた。
あいつなにしてんの。
怒りとも嘲りとも取れるその響きは、エコーもなにもかかっていないにもかかわらず、ぼくの中で延々とこだました。アスファルトに浮く雨水がゆっくりと浸透していくように、やがて声は消えていったものの、代わりにむんむんとした湿気にも似た余韻が漂い始めた。
弦について、高田さんもぼくに直接は触れてきていないし、ぼくもそれは彼の気遣いだと思いたい。下手に励まされようものならば、単に気が重くなるだけだ。それは自覚していた。けれど、もし気遣いなどではなく、ただの諦めであったとしたら、ぼくはこれから高田さんをどう見たらいいのだろう。
おもむろに扉のほうを見やると、水谷さんが最後にひとり出て行くところだった。
「あの」
声をかけてから、なにも考えずに口に出したことを、ぼくは後悔した。水谷さんは足を止めた。ギターケースを背負う水谷さんの後姿は、さながら戦地に赴く前の女性兵士のような勇ましさがあった。
続ける言葉が見つからないまま、嫌な間が開いたあと、水谷さんが静かに口を開いた。
「わかってるんじゃなかったの」
それは廊下の外にいる誰かべつの人と話をしているような、ごく静かな口調なのに、ぼくの耳には痛いほど強く聞こえた。こちらを振り返ることなく、抑揚のない声で水谷さんは続けて言った。
「なにをそんなに卑屈になってるわけ。ギターを壊されたわけじゃあるまいし。……このままここでじっとしてるつもり? ばしっと決めるとこ決めて見返してやりなよ。そうすればあいつらも納得するよ。いまみたいにうじうじしてるほうが、あいつらをよけい逆撫でするって、どうしてわからないかな」
部室の隅に並ぶスタンドの上に、弦の足りないギターが一本だけ残っている。紛れもない、ぼくのギターだ。
父さんに譲ってもらってから約六年、ずっと使い続けているため、ネックのそり具合だとか、四弦のペグの異様な固さだとか、癖という癖を知り尽くしている自信はある。ぼくもまだ十年ちょっとしか生きていないし、大袈裟なのかもしれないけれど、長年連れ添った相棒と呼ぶのにふさわしい存在であるのは間違いない。
そんな相棒のことを、見ないふりをしてほったらかしにしているぼくには、当然ながら誰になにを言われようとも、反論する権利なんてないのだろう。
扉のほうを見ると、そこにはもう水谷さんの姿はなかった。