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act.4

 入部届けの提出期間が過ぎていたにもかかわらず、どうしてこんなにも簡単に受理されてしまったのだろうと疑問に思っていると、その理由はすぐに理解できた。弦楽器部の顧問が、ぼくのクラスの担任でもある浅野先生だったからだ。

 小言はいただいたものの、自分が顧問を務める部の部員が増えたからか、浅野先生はどこか嬉しそうだった。

 そうして、弦楽器部員としての日々が始まった。とはいえ日常生活にさほど変化が現れるわけもなく、放課後に部室で練習して帰りが少し遅くなったり、上級生の知り合いがほんの少し増えたりした程度だった。

 それでも大きな進歩ではある。学校は黙々と授業を受けるだけの淡白なものだったのが、部活動という授業とはべつに打ち込めるものができたのだから。

 五月、最初の中間テストも終わってひと段落したある日の放課後、部室に集めた部員みんなの前で、教壇に立つ高田さんが言った。

「例年通り、地域の定期演奏会が近づいてきたということで、そろそろパート分けをしたいと思う。去年までは浅野先生に手伝ってもらってたけど、今年は新しい部員も増えたことだし、ここらで一発、賞を狙ってみたい。みんなはどう思う?」

 いいんじゃないすか、と賛同する声がいくつも上がって、高田さんは満足げにうなずいた。人数が少ないとはいえ、ぼくたちは教室と同じような配列で席についていて、その前に立つ高田さんは、シャツ姿のせいもあってか、教育実習生ようにも見えた。

「我こそはと思う人は名乗り出てくれると、俺としては助かるんだけど」

「本音は言わないもんですよ、部長」

「まあまあ。とりあえず、みんな相談してて」

 ちゃっかり部員から笑いをとったあと、高田さんはゆっくりと歩きながらこちらに近づいてきた。目の前まで来ると、しゃがんで机の端に手をかけた状態で、にんまりと笑顔を浮かべた。

「今月末にね、地域が主催する演奏会があるんだ。参加資格とか楽器の種類は不問でさ、とにかく楽しくやりましょうって感じのやつ。一応年齢で、おおまかなクラス分けはされるんだけどね。でまあ、俺らが出るのは中学生の部ってわけ」机の上に置いてあったぼくのシャープペンシルで遊びながら、高田さんは淡々と口を動かした。

「はあ」

「課題曲みたいなものも特にないからさ。入部したとき、とりあえずって形で渡した楽譜あるでしょ。あれと、歓迎会で弾いた曲の二曲でいこうかなあと。もう目は通してくれたよね?」

 途中から顎を机に乗せて語りだした高田さんの勢いに半ば圧倒されながら、ぼくはぎこちなく笑い返した。

「誰だって最初は緊張するもんだよ。俺だってまだ全然慣れないんだから」

 そのとき、前の席に座っていた水谷さんが、椅子の上で勢いよくぐるりと体をこちらに回した。長い黒髪が傘みたいに広がったかと思うと、すぐにふわっと元のまとまりを取り戻した。髪の毛一本一本が意思を持っているような、妙に生き物じみた動きだった。

「あたしさ、どっちの曲でもいいから、この子に主旋律かソロ弾かせてみたい」

 それはまたどうして、と首をかすかに後ろに捻り、高田さんはやや早口で言った。

「しいて言うなら、期待、かな。入ってきたときからあれだけ弾けるんだもん、お手並み拝見しようじゃない。ちゃんとした舞台で、立派に弾くことができれば、それはもう本物ってことでしょ」

 憮然と言い放ったあと、前に向き直ってすぐほかの部員と水谷さんは話を始めた。

 険しい剣幕に気圧されたまま、どうして彼女はこんなにも挑発的なのだろうと思っていると、後ろの様子を窺いながら声を潜めて高田さんは言った。

「水谷さんも入部した頃から相当上手だったんだけど、最初の演奏会で任されたのは端役だったんだ。もう卒業しちゃったんだけど、彼女のお兄さんがこれまた上手でね。妹なんかにいいとこ弾かせられるかって」

 不意に、水谷さんが勢いよく立ち上がった。背中に思いきり椅子をぶつけられた高田さんは、あだ、と間抜けな声を上げて仰け反った。

「ちょっとお手洗い」

 気持ち肩を怒らせながら、水谷さんは足早に部室を出て行った。

「……さすがに聞こえますって」

「やっぱり?」

 背中をさすりながら、高田さんは眉をハの字にした。


 結局、歓迎会の日に渡された曲の主旋律を、ぼくは任されることになった。歓迎会で弾いた曲のほうが難易度的には易しめなのだけれど、新しく練習しているこの曲は難しい分、たしかな弾き応えがあった。

 家で練習していると、うまいうまいと父さんに褒められることもあったけれど、それが自信に繋がるかといえば否だった。褒められることは素直に嬉しい。ましてや父さんにならばなおさらだ。けれど、今回の演奏は父さんに喜んでもらうためではない。誰のためでもない、自分のためだった。

 けれど、ひとつの不安もあった。ぼくがもし完璧に演奏できてしまった場合、高田さんの言ったことがほんとうなら、水谷さんを傷つけることになるのではないか。彼女とはそう深い仲ではないけれど、これまで部活を通して付き合ってきただけでも、相当プライドが高い人物だということはわかっていた。それが男ならまだしも、相手は女の子なのだ。いったいどうすれば、最もいい方向に事態は転がっていくのだろう。

 手をかけた部室の扉は、いつもよりも重く感じた。中を覗くと、放課後の部室にはまだ誰も来ていないようだった。これまで高確率で高田さんが出迎えてくれていただけに、無人の部室は妙に空気が冷たく感じた。

 今日は演奏会の前日ということもあって、みんな気合入ってるんだろうなあ、と思っていたのは見当違いなのかもしれない。前日だからこそ、調整や確認程度で簡単に済ませるつもりなのだろうか。

 自分のギターを手に取ったところ、持った部分から違和感をぼくは覚えた。なにかが足りない。見れば、弦が二本も切れていた。一弦と五弦。一番細い弦と、二番目に太い弦だ。

 そんな乱暴に扱った覚えはないし、なにより先週張り替えたばかりだというのに。こんなに早く切れたのは初めてだった。部活と家、毎日練習するようになったせいで負担がかかっていたんだろう、とぼくはとりあえず結論づけた。

 弦が足りないまま演奏することもできないので、急遽ぼくは弦を買いに行くことにした。部員がまだ誰も来ていないとはいえ、なにも言わずに出て行くのもはばかられた。職員室に寄り、浅野先生に一言だけ告げて校門を出た。

 ぼくの通う中学校の近くにある、商店街と呼ぶにはお粗末な通りの一角に、規模は小さいものの品揃えのいい、古い楽器店がある。外国なんて実際に行って見たことがないから詳しくはわからないけれど、イタリアかその近隣の国を思い起こさせるようなアンティークな外観をした店の前には、どういった意図なのか、青いインプレッサが停められていた。

 お客さんが乗ってきたものなんだろうけど、ひとつの画として見ると、インプレッサの存在はあまりに不自然だった。

 小さい頃に父さんと何度か訪れたことがあったし、決して初めて訪れるわけではないのだけれど、お店の入り口を前にしてぼくは生唾を飲んだ。常に怒っているように見える店主のおじいさんが、昔どうしても苦手だったのだ。扉を開けると、からんころん、と乾いた鈴の音が店内に響いた。ひとりでお店に入ったのは、これが初めてだった。

 様々な楽器が密集していて狭苦しい店内には、橙色の落ち着いた照明が天井でいくつか輝いている。加えて、落ち着いた雰囲気のクラシックが静かに流れいて、店内の雰囲気を温かくしていた。こんなにも柔らかく、包み込んでくれるような場所だっただろうか。もっと底冷えするような冷たさと、覆いかぶさってくるような暗さの記憶しか残っていなかったため、良い意味でも悪い意味でもぼくは内心で拍子抜けした。

「久しぶりやなあ。巧くん」

店の奥からゆったりと歩いて現れた店主のおじいさんは、ぼくを見るなり顔中に皺を寄せて笑顔を作った。

「何年ぶりかのう。えらい大きくなって」

 ご無沙汰してます、とぼくは咄嗟に答えた。正直なところ、おじいさんはこんなに優しそうな人物だっただろうかと、ぼくは自分自身の記憶を疑っていた。もっと顔に影が落ちていたし、店内をゆっくりと歩いている様は、ゲームに出てくるゾンビのようでもあったし、いつその手に持つ杖で殴りかかってくるのかと不安でならなかったし。

 年は七十より少し上くらいだっただろうか。けれどよく見れば、見覚えのある木の葉柄のはんてんをおじいさんは羽織っていた。

 幼い頃に怖いと感じていたものが、いまではまったくそんなこともなくなっている。視力はほんの少しだけ落ちたけれど、たしかに背は多少なりとも伸びはしたし、当時よりも高い視点でものが見られるようにはなったはずだ。

 視点が高くなったことで、物事を見る角度もそれまでとは変わったのだとしたら、このお店も昔からずっとこうだったのかもしれない。そんなことを、頭の隅で、思った。

「今日はなんの用やの。お遣いけ?」

「違いますよ」

 かっか、としゃがれた笑い声を上げると、売り場とレジの境目にある段差に、物音ひとつ立てずにゆっくりとおじいさんは腰を下ろした。

「まだギターは続けとるんけの」

 優しい眼差しだった。自分の孫を愛でるときも、こんな目をしているのだろうか。ぼくのおじいちゃんはぼくが生まれる前に亡くなったらしく、実際に会ったことがない。

「中学校でギターの部に入って、毎日練習してます」

「えらいのう、巧くんは」

 一瞬、壁に掛けられたアンティークものの古いギターがふと目に入った。まだ残ってたんだ、と思わず呟いたとき、薄くなりがちな白髪頭を、重たそうに持ち上げながらおじいさんは立ち上がった。

「あれはのう、わしの宝もんやけ。いくら巧くんでも、そう簡単には譲らんでぇ。金さえ払えばそれでええやろ、っちゅう輩はこれまで何人も来よったけどな、万札いくら積まれても渡さんかったでなぁ。あのギターがそんな奴らの手に渡ることを考えたら、わしゃ自分の身が切り刻まれる思いやわ」

 昔、どうしてあのおじいさんはあんなに耳がいいの、と父さんに赤ずきんちゃんよろしく尋ねたことを思い出した。曖昧だった父さんの返事の中でも、唯一耳に残っていたのが、楽器ばっかり売ってるから目と耳が肥えてるんだよ、という一言だった。その言葉通りなのか否か、耳のよさは相変わらずのようだ。

「そうやそうや」はっと我に返ったかのように、おじいさんは慌てた様子で言った。「なんの用やったけの。すっかり脱線してもうた」

「ギターの弦を、探しに来たんですけど」

 あるであるで、とおじいさんは声を弾ませた。レジの近くでなにやらごそごそと漁っているおじいさんの様子は、おもちゃ箱から好きなおもちゃを取り出そうとしている子供みたいな、歳不相応なあどけなさがあった。しばらくして、その手に持ってきたものを見て、ぼくは息を呑んだ。

「これじゃなかったけの」

 わし間違えたけ、とでも言いたそうな、健気な視線を送ってくるおじいさんに、ぼくは一呼吸遅れて首を縦に振った。

 以前もたまに弦を買いに訪れる程度だったのに、ぼくがずっと使っている弦の種類を、おじいさんは今日まで覚えていてくれたのだ。間には数年という月日が挟まっているというのに、ひとりの客の好みまで覚えていられるものなのか。なにも言葉が出てこなかった。

 ようやくお礼が出てきたのは店を出る間際になってからで、またいつでも来ぃや、と見送ってくれたおじいさんに何度も頭を下げながら、ぼくはお店をあとにした。


「――きみたちはなにもわかってない」

 部室の扉に手をかけたところで、中から高田さんの声が聞こえた。その声がいつになく険しく、聞いたことのない声だったこともあり、ぼくは扉を開けることができなかった。

「第一、それでなにかが解決するとでも思ってるの」

「でも部長の判断は偏りすぎっすよ。部のことは部員全員で決めるのが、筋ってもんじゃないんすか」

 どうやら珍しいことに、高田さんは部員の誰かと揉めているようだった。高田さんの声はまだ比較的落ち着いているのに対し、相手の声は感情が爆発していて、ひどい荒れようだった。

「じゃあ初めからそう言えばいいでしょ。きみは、することなすこと順序がおかしい」

「言ったところで、部長は考え直してくれたんすか。どうせいつもみたいにへらへら笑って、まあいいじゃん、みたいに笑い飛ばすのがいいとこでしょう。……部長だからって、調子に乗るのもいい加減にしてください」

「まだ言ってもいないのに、結果だけ悪いほうにばっかり考えて……。それじゃ、ただの僻みだ」

「だいたい、なんであいつなんですか」

 今度はべつの声が入ってきた。先ほどよりは落ち着いているけれど、口調にははっきりとした怒りの色が見受けられる。

「誰が考えても、部長や水谷さんのほうが無難ですよ。賞を取りにいくなら、なおさら」

「だからこそもう一曲のほうは、水谷さんがメインって決まったでしょ。話し合いの結果で。黒木くんの件だって、きみたちあの場で納得してたじゃないか。違う?」

 自分の名前が出てきた瞬間、背中の毛が逆立つような悪寒がした。どうしてそこで、ぼくが話に出てくるのだろう。放課後の静かな廊下には、ぼくの呼吸の音だけが聞こえる。

「部長があまりにも肩を持つから、みんなうなずかざるを得なかったんでしょう。どれだけ期待してるのか知らないですけど、所詮は一年ですよ」

「……だからって、幼稚すぎるとは思わないの。仮にも上級生でしょ、きみたち。ちょっとおかしいよ」

 一瞬で全身の毛穴が開く熱量を感じた。どこを見ていたらいいのかわからず、視線はあちこちをさまよった。床、天井、ロッカー、窓の外、茜色の空。

 部の誰かが、ぼくのギターの弦を切った。

 その事実を事実として受け止められる引き出しは、ぼくの中にはまだ無かった。ぼくを嘲笑うように、頭の内側を事実がぐるぐると回り巡っている。

 どうすることもできず、ぼくはその場から逃げ出した。手に力を込めると、買ってきたばかりの弦が入っている紙袋が、乾いた音を立てながらくしゃくしゃになっていく。中に入っている箱が潰れる感触を覚えたあとも、このよくわからない感情をぼくは袋にぶつけ続けた。

 一階まで一気に駆け下りたところで、廊下の角から不意に人影が現れた。勢いがついていたこともあり、完全には避けきれなかった。

「すいませんっ」

 反動でふらつきながら、ぼくはすぐさま頭を下げた。

「べつに大したことないけど……」

 はっとして顔を上げると、そこにいたのは水谷さんだった。強張った表情を見るに、やっぱり痛かったのだろう。左肩を手で押さえている彼女は、こちらから勢いよくぶつかってしまったにもかかわらず数歩あとずさった程度で、倒れてはいなかった。そのことにほんのわずかな救いを覚えつつも、途端に湧き上がってきた罪悪感で、ぼくは見えない大きな力に頭から押し潰されそうになった。

 怪訝そうな顔をした水谷さんには、最後までひたすら謝ることしかできず、ぼくは頭を下げて、走ってその場を離れた。

「ちょっと、どうしたの――」

 靴を履き替えて学校を飛び出したあとも、背中に突き刺さってきた水谷さんの一言二言はなかなか抜けることがなく、刺さったままじくじくと痛んだ。

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