act.2
中学校の入学式は、しめやかなうちに閉幕した。
教室に戻ったあと、担任の浅野先生から明日以降の日程について説明を受け、今日のところは放課となった。わらわらと散っていくクラスメイトたちに混ざりつつ、ぼくは昇降口へと向かった。
大半が親と合流して帰っていく中、ぼくはひとりで靴を履き替える。案の定、父さんは最後まで現れなかった。きっと、いま頃はパチンコに熱中しているのだろう。おぼろげだけれど、その様子が脳裏に思い浮かんだ。憤りを通り越して、笑いすら覚えた。
笑い声や叫び声でぐちゃぐちゃになった喧騒が、昇降口周辺では連続して起こる爆発のように生じていた。何事だろう、と外を覗いてみると、カラフルな服装に身を包んだ上級生が、看板を高々と掲げたり、行き交う生徒にチラシを配ったりしている。いわゆる部活動の勧誘だった。様々な部の部員が必死に声を張り上げている様は、傍から見ると地獄から助けを求めている囚人のような鬼気迫るものがあり、こう思うと失礼かもしれないけれど、場所が場所だけに、妙に滑稽だった。
いつまでも突っ立っているわけにもいかないので、ぼくは群集の中へと足を踏み出した。校門までは二十メートルほどしかないはずなのに、たった一メートル進むだけでもだいぶ苦労した。
こういうとき、自分の恵まれない体格をぼくは嘆く。人波を掻き分けて進むことすらままならず、早々にぼくは諦めて、流されるままに身をゆだねた。一度身を投じてしまうと、ぼくの背丈は完全に生徒たちの中に埋もれてしまい、校門まであとどれくらいあるのだとか、自分はいまどこにいるのかとか、位置感覚がさっぱり掴めなくなった。
柔道部や野球部、果ては華道部まで、多くの勧誘をどうにか振り切りつつ、波をかき分けて泳ぐように歩いていると、突然ぼくは何者かに腕を引かれた。なにが起きたのかと思って顔を上げると、上半身は黄色のシャツ、下半身は青い短パン姿の集団に取り囲まれていた。皆がみな体格はがっしりとしており、色黒の顔には気持ち悪いほどの笑みを湛えている。
「きみ、サッカー部はいらない?」「一緒に全中目指そうぜ」「部員同士の仲もいいし、絶対楽しいって」「初心者にも優しく指導するよ」「運動苦手でも、すぐに楽しくなるよ」「走るのだって速くなるし」「めちゃくちゃモテるぜ」
怒涛の勢いでまくし立ててくるサッカー部の集団は、どういうことか、ぼくの目の前にバインダーに挟んだ一枚の紙を差し出してきた。
「思い立ったが吉日ってことで。ほら、サインしちゃおう。これで今日からきみも我がサッカー部の一員だ」
「い、いや、興味ないんで」
ぼくの手に鉛筆を強引に押し付けてくる長髪の男は、どうやらサッカー部のキャプテンのようだった。左腕に腕章のようなものを付けている。外見はサッカーをしているというよりも、その辺を遊び歩いているただの不良みたいだった。こんな人がキャプテンを勤めている部など、きっとろくな活動をしていないに違いない。直感的にぼくはそう感じた。
「いいからいいから。とりあえず名前だけ書いちゃってくれたら、あとはこっちで手続きしとくから。きみはなにも心配することないよ」満面の笑みで声を上げるキャプテンは、どこから湧いてくるのか、無尽蔵の自信で満ち溢れているようだった。
「いいです。べつにサッカーなんてしたくないんで」
「そんなつれないこと言うなって。な。楽しいぜ」
ぼくの精いっぱいの抵抗も、体の大きい上級生、しかも複数いるとなると紙同然だった。汗水垂らして張る防衛線も、軽々と破かれてしまう。どうしてこんなに強引な勧誘をするのだろう。気付けば黄色と青に周りを取り囲まれていて、ぼくは鉛筆を握らされていた。人に鉛筆を持たされることなど、鉛筆の握り方を父さんに初めて教えてもらったとき以来だ。ぼくは唇を噛んだ。
そのとき、ぼくの周りを堅く取り囲んでいた壁が不意に崩れた。ちょうどぼくの右手側に立って鉛筆を握らせていたキャプテンが、両手で股間を押さえてうずくまっていた。
なにが起こったのか、と理解する前に、ぼくは何者かに再び腕を引っ張られていた。その一瞬でわかったことは、力任せに引かれた先ほどとは違い、どこか柔らかさのある力で引かれたということだけだった。
相変わらずの人波の中を、何者かの手に引っ張られながら突き進んだ。途中で何度も見ず知らずの生徒にぶつかり、すみませんすみません、と謝り続ける自分が情けなかった。
徐々に人の密度が薄くなってきたかと思うと、急に開けた場所に出た。校門の外に出たのだ。中ほどではないけれど、外でも勧誘は行われているようで、あちこちで呼び声が上がっている。
「大丈夫?」
降ってきた声は、ついさっきまで耳元で聞こえていた低い男たちの声ではなく、女の子の声だった。乱れた息を整えようと、両膝に手を突いていたぼくは、ゆっくりと顔を上げた。そこには女の子が立っていた。
制服はこの学校のもので、やや着崩れた感じがするところから見るに、上級生だろうな、という見当はついた。背中に流している真っ黒な髪の毛は長く、彼女の顔の小ささを一層引き立てている。ぼくが平均より小柄であるとはいえ、見上げなければいけないほど彼女は背が高かった。
「サッカー部って、ほんと馬鹿の集まりね。先生から散々注意されてるのに、ぜんぜん懲りてないし。ああいう自分大好き集団、大っ嫌い」
そうなんですか、と咳きこみながらぼくは言った。どうも彼女は、サッカー部のことが気に入らないようだった。
「ただでさえ部員多いのに、あれ以上増やしてどうするんだって話」
この離れた位置からも、黄色と青の集団は見ることができた。黒っぽい制服が集まる中では、色鮮やかなユニフォームはサッカー部のみならず、一様に目立っている。
「きみ、新入生でしょ。中学校って、平和な小学校と違ってああいう柄の悪い奴、多いから。気をつけないと」
うなずき返す頃には、呼吸もようやく落ち着いてきた。改めて彼女を見ると、それまで感じたことのない、中学生、という雰囲気をぼくはひしひしと感じた。やっぱり小学生と中学生の差は大きいな、と思う。入学式のときに見た三年生の集団など、もはや大人にしか見えなかった。男子はより男らしく、女子はより女らしくなっていくこの三年間の成長は、小学校六年間の成長と同じくらい、むしろそれ以上の密度があるのかもしれない。中学校を卒業する頃には、ぼくも少しは大人になっているのだろうか。
「……ひょっとして、きみサッカー部入りたかった?」
「いえ、全然そんなことないです」
どこか高圧的な彼女の態度に、ぼくは内心で怖気づいていた。そしてこのとき初めて、先輩後輩の関係性をぼくは肌で感じた。小学校のときは上下関係なんてほとんどなかった――むしろ、兄弟や姉妹といった感じだった――けれど、中学校では当たり前のように存在しているその関係のことを考えると、義務教育でひとくくりにされているとはいえ、小学校と中学校は完全に別物に思えた。
「じゃあ、サインは」
「してないです」
「そっか。もしかしたら邪魔しちゃったかな、って思ってたんだ」
「そんな――」
校門の門柱に背を預けている彼女は、前の道路をたまに通り過ぎる車を、右へ左へと目で追っていた。右腕で左腕をかばうように抱えている彼女の横顔は、ひとつふたつ年上であるとは思いがたいほど大人びて見えた。きっと右の目尻にある泣きぼくろのせいだ、とぼくは思う。顔にほくろがある人は、どうもぼくの目には大人びて映る。
「すみません」
「なんできみが謝るの。ここはむしろ、サッカー部が謝るべき」
でもさ、と急に彼女は声を低くした。
「あんな状況くらい、自分でなんとかしなよ。きみも男でしょ。勢いに押されるがままになってたら駄目じゃない。あそこであたしが助けなかったら、あのまま入部届けにサインしてたんじゃないの。それでいいの? きみの意思は?」
最初、彼女がなにを言っているのか、ぼくはわからなかった。理解が追いついてきて、ようやく説教されているのだと気付いた。
言いたいことを言えばよかったのだろうけど、ぼくはなにも言うことができなかった。先輩にものを言うことがどれだけ無礼なことか、と気にしていた面もあるのかもしれない。ただ、それ以上のなにかが全身に働きかけていて、ぼくは延々と黙りこくっていた。
彼女は気まずそうに溜息を吐くと、じゃあね、と背を浮かせて校門へと入っていった。追いかけようかと迷う間もなく、彼女はぼくの視界から消えた。
去り際、風に踊った黒髪が目に焼きついて離れなかった。