act.1
ぼくの家の数少ない自慢といえば、春になると部屋の窓から桜が見えるということくらいだった。窓を開けておくと、風で散った花びらが部屋に舞い込んでくることもあって、綺麗だな、とぼくはいつも思う。
ぼくが生まれるずっと昔から建っているというこの古いアパートは、襖で仕切られた各六畳くらいの二部屋と、間続きになっている三畳くらいの小さなキッチンで、一室の大部分が成り立っている。風呂とトイレもあるといえばあるのだけれど、実に簡素だ。
小学校に入る前くらいだっただろうか。夫婦の仲は円満。当時のぼくの目にはそう見えていたのだけれど、ある日を境に母さんは家に帰って来なくなった。最初のうちこそ理解できずにいたものの、初めての夏休みを迎える頃には、離婚したんだな、となんとなく想像がつくくらいには、ぼくも少しばかり賢くなっていた。
母さんがいなくなった家で暮らしていく中でも、もともと父親っ子だったぼくは大した変化を感じなかった。正直、母さんとはどこか隔たりを感じていて、接しにくいな、と思っていたことは父さんにも未だに打ち明けていない。
「できたぞー」
キッチンから聞こえてきた父さんの野太い声を聞いて、ぼくはテレビを見るのをやめて立ち上がった。見ていたニュース番組は、ニュース番組なのにバラエティ色が強く、たしかに見ていて飽きないけれど、出演者の誰もが無理して明るさを作っているような気がしてならなかった。
「なかなか似合ってるぞ。でも、まだちょっと大きいな」ぼくの格好を上から下までじっくりと眺めて、うむ、と父さんは首を縦に振ってみせた。「大丈夫大丈夫。そのうち丁度よくなるから」
ただでさえ狭いキッチンの片隅に置かれた、食卓と呼ぶには小さすぎる木製のテーブルにつき、ぼくは目の前のトーストにかじりつく。香ばしいパンの香りを嗅いで、ジャムを塗り忘れたことに気付いた。
「父さんも中学のときは詰襟だったなあ。入学したばっかの頃はぶかぶかだったけど、一年も経つと丁度よくなってきてさ、卒業前にもなるとぴちぴちだったからな。巧も育ち盛りなんだから、すぐ大きくなる」
懐かしむように言いながら、父さんは向かいの椅子に腰を下ろした。体が大きい父さんは、座るといつも椅子からお尻が半分くらいはみ出していて、大きな椅子を買おうにも置く場所がないんだよなあ、と嘆いている。
「そうかなあ」
改めて、果肉たっぷりのブルーベリージャムを塗ったトーストをかじる。味はもちろんのこと、鼻に抜けるさっぱりした爽やかさがぼくは好きだった。父さんはマーガリンを塗っているけれど、あんなべたっとしていて、舌にまとわりついてくるようなものの、どこが美味しいのだろう。
「お前は父さんの子なんだから」不精髭が生えた顎を動かしながら、父さんはトーストを咀嚼している。「これからが勝負だぞ」
なにを勝負するのだろう、とぼくは思う。牛乳で流し込むと、自然と溜息が漏れた。
「そう言うけどさ、背は低いし、顔は幼いし、父さんみたいに体格よくないし、毛深くもないし。似てるところ探すほうが大変だよ」
正直、母さんのことはよく覚えていない。けれど、どちらの両親にも似ていないということは、そう多くないだろう。父さんに似ていない部分は、きっと母さんに似ている。
「そんなこと言ったってなあ。いまさら俺に似せて、直せるわけでもないんだし。あ、ギターのセンスは俺以上だと思うぞ。もう俺より上手いだろ? そういや最近触ってないなあ、ギター」
「いまそれは関係ないじゃん」
「でもなんだかんだ言って、続けてるだろ」
そう言って眉尻を下げた父さんは、早々とトーストを食べ終えて食器を流しに置くと、そろそろ仕事行ってくるわ、と話をはぐらかした。まだ部屋着なのに。
「そんなゆっくりしてていいの」
「現場が昨日で片付いたから、今日はオフってわけ。久しぶりにパチンコでも行くかなあ」
瞬間、ぼくは自分の耳を疑った。
「今日なんの日か知ってる?」
「新台入替の日だろ?」
あっけらかんと言ってのける父さんに、今後、無駄な期待はしないでおこう、とぼくは心に誓った。
「わかってるって」
笑ってぼくの肩を叩いてくる父さんは、まったく悪びれる素振りも見せず、背中にでかでかと「禁煙」と描かれたTシャツを着ながらにして、もくもくと煙草を吸っている。どういう心境なのかなんて知ったことじゃないし、そもそもぼくとしては、近くで吸われると「煙たい」の一言ですべてが片付いてしまう。その割に、ぼくに吸うように勧めては来ないのだから、良識があるのかないのかもよくわからない。
「どうだか」
最後の一切れを飲み込んでから、肩に置かれた父さんの手を振り払ってぼくは立ち上がった。それはだなあ、と言葉を濁す父さんには背を向けたまま、ぶかぶかの詰襟に身を包んでいる自分自身を嘆いた。
どうして、ぼくはこんな格好をしているのだろう。新しく買ったばかりのバッグや、ふたりでああだこうだ言い合って書いた書類、学校までの道程をわざわざ下見したことなど、すべてが馬鹿馬鹿しく思えた。
「いいよ、行ってきたらいいじゃん」冷蔵庫に半身を預けるようにもたれかかっている父さんに、なるべく無表情を装ってぼくは言った。「そろそろ行く。初日から遅れたくないし」
薄い書類が数枚程度と、筆記用具しか入っていないため、バッグは恐ろしく軽い。肩に背負うと、その軽さに腰が抜けそうになった。父さんがなにか言っているような気がしたけれど、玄関の扉を閉めたらなにも聞こえなくなった。
喧嘩がしたかったわけじゃないのになあ。そんなことを思いながら、このあいだ父さんとふたりで歩いた学校までの道を、ぼくはひとり歩いた。幼い頃から見慣れた、ちょっとばかり田んぼが多い田舎道の風景は、なにひとつとして目に入ってこない。