死神が笑う
実行の予定を計画してから約一ヶ月が過ぎた。
大久保達は外出しない。
マンションの居心地がよほどいいと見える。
俺は一日中マンションの前の喫茶店で作家気取りでパソコンのキーを打ち鳴らし横目で大久保達がマンションから出るのを今か今かと待ち続ける。
喫茶店の店主と顔馴染みになり、世間話に花が咲くこともあるが、そんな時も俺は絶えずマンションの駐車場の出入り口に神経を注ぐ。
仕事を引き受けて数か月経った。
俺たちの仕事には、時間的な制約が付きまとうことがある。
俺は極力そういう仕事は避ける。
三ヶ月の間に殺せとか、何月何日の何時に始末しろとか、中には場所まで指定してくるものもあるがそういう仕事は無視する。
この仕事に焦りは禁物。
時間的制約が頭にあるとどうしても事を早く済まそうと細かなところに気が回らなくなる。
焦りが生じる。
そこに、チョッとしたミスや見落としが起き、大きな失敗につながる。
時間的な制約で暗殺の成功の確率は半分に落ちると言っていいだろう。
報酬がどんなに高くてもまずそういう仕事は避けたほうが無難だ。
だが、なぜかこの仕事に関しては気が急く。何かに追い立てられるような感覚だ。
たとえて言えば、子供がおもちゃの後片付けを自分でしようとしているのに、横から親が急きたてて、あわてさせるみたいに。
ただ俺の場合、親ではなくなにか得体の知れない強烈な見えない力のようなものだ。
グリーンホテルの一室にこもっているジャックはエースからの連絡を待っていた。
携帯電話は仕事用のものだけ一台を持参した。
その携帯電話はエースからしか連絡が入らないようになっている。
もう数ヶ月近くになるがエースからの連絡はない。
ホテル住まいも数ヶ月近くになると、体がなまってしまう。
ほとんど軟禁状態に等しい。
エースからいつ連絡がかかるか分からないから、外に出ることもままならない。
持ち込んだ分厚い何冊かの小説もあっという間に読み終えた。
手持ちぶさたなジャックは、腕立て伏せ1000回、腹筋運動1000回、
スクワット1000回を毎日欠かさず行うことにした。
自虐的で、マゾヒストの一面を持つエースにとって鍛錬と言う言葉は神聖な意味を持つ。
反復練習、たゆまぬ努力をモットーとするのがジャック。
銃を持たせればジャックの右に出るものはいない、これも、毎日の鍛錬の賜物。
実はジャックの家の地下には射撃場がある。
地下十メートルに分厚いコンクリート壁に覆われた空間は、射撃練習のみの特別な場所だ。
毎日一時間の射撃は欠かしたことはない。
射撃ができない時はイメージトレーニングを行う。
テーブルの上に置いてある携帯電話を眺めながらジャックは呟いた。
「今日も待ちぼうけか」
ジャックは1000回目の最期の屈伸運動をしようと膝を曲げようとした時、携帯が鳴った。
ジャックは素早く携帯を取った。
「死神が笑った」
エースの声だ。
『死神が笑った』この言葉が決行の合図だ。
大久保がホテルから出た事を意味する。
ジャックは素早くベッドの下のボストンバックを出しバックのファスナーを開けた。
中にはマット型の空気緩衝材が敷き積まれている。
それを取り除くと、黒い油のシミで染まった鹿皮が見える。
その汚れた鹿皮に包まれた物、数個をバッグから取り出した。
ジャックは鹿皮をユックリと開き、中のものを出した。
出てきた物は組み立て式のライフルだ。
ベッドの上に銃身、本体、銃床、マガジン、スコープ等が丁寧に順序良く並べられた。
手馴れた手付きでジャックはそれを並べられた順番通り素早く組み立て、一丁のライフルを完成させた。
一分もかからない速さだ。
ライフルを持ったジャックは、ベッドの横にある三脚の台にそれを取り付けた。
ライフルを固定するための三脚だ。
銃身を円形に切り抜いた部分に向ける。
その先は百メートル先の三ツ星レストラン窓側の席。
大久保が座る座席だ。
ジャックはライフルスコープを覗き微調整できるように台座の固定をわずかに緩める。
腕時計を見る。連絡から三分経過した。
大久保があの席に座るまであと十分はかかるだろう。
ジャックはタブレットガムを一つ口に入れ目を閉じた。
昂ぶる心を静めるため深呼吸をした。
一瞬ジャックの胸に得体の知れない不安がよぎった。
「奴は三回命を狙われた。なのに、窓際の席にしかも同じ席で食事をする、なんて無用心な男だ」
そう思った瞬間突然、体中に電気が走ったように、身震いし、慌ててガラス窓を注意深く見渡した。
隅から隅まで窓全体を注意深く観察した。
「あった」ジャックは思わず叫んだ。
カーテンが束ねてある位置の窓ガラスにそれがあった。
丸く切り取られたガラスが修復されている。
透明の合成樹脂を合わせ嵌め込み接着剤で付けてある。
たぶん、ホテル側が修理したのだろう。
この大きな一枚ガラスを取り換えるには相当な金額がかかる。
プラスチック様の透明な素材で、強力な接着剤を使って合わせたのだろう。
ほとんど、分からないように直されている。
という事はつまり、亡くなったヒットマンの誰かが俺と同じようにここから
大久保を狙い撃ちしようとしたのだ。
この切り取られたガラス窓の修復が物語っている。
ところが、失敗し自らの命を落とす羽目になった。
「その失敗の原因は何だ」
ジャックは想像した。
ジャックはもう一度修復したガラス部分を覗きこんだ。
「おかしい、ここから狙うことができるのは大久保ではなく、テーブルを挟んでの真向かいの席つまり、ジョセフィンが座る場所だ。ジョセフィンを狙ったのか?」
ジョセフインを仕留めてから大久保を仕留めるつもりだったのか?
しかし、メインは大久保だ。
なぜなら、依頼人は自分の娘の恨みを晴らすために大久保の殺害を頼んだんだ。
ジョセフインもやれと言う依頼は俺達がこの仕事を請け負った時からだ。
三人のヒットマンはあくまでも大久保を狙っていたのだ。
という事は、どういう事だ?
ここから見えるジョセフインの席が実は大久保の席だった、という事だ。
つまり大久保が席を替えたということか。
何のために?ヒットマンに狙われたからか。だったら、席じゃなくレストラ自体を変えるべきだろう。
携帯がまた鳴り出した。
二回目の携帯が鳴る時は、大久保達が百貨店の駐車場に止めたという合図だ。
ジャックは両手を合わせ軽く指に息を吹きかけた。
そして、ライフルのスコープを覗きこんだ。
「どうして、大久保は席を替えたのだ?」
ジャックの頭の中にその疑問が大きく渦をなし始めた。
(時は少し遡りここは、エースが大久保を見張る喫茶店)
大久保達の乗ったレクサスがホテルの駐車場を出たのを見て俺は直ぐジャックに連絡した。
「死神が笑った」その言葉を言い終え
直ぐに、喫茶店を出て車に乗った。
俺は三ツ星レストランに入り、ジャックが大久保を仕留めるのを見届ける役目だ。
仕損じたときは、代わりに俺が大久保を殺すという段取りだ。
俺はいつもの近道で三ツ星レストランに向かった。
ジャックの腕は確かだから俺の出る幕はないはずだ。そう思いたい。俺は先に三ツ星レストランの前に車を止め大久保達が来るのを待った。
バックミラーに奴等のレクサスが写った。
案の定、助手席に乗った大久保は運転しているジョセフィンに顔を近づけ首の辺りを嘗め回しながらイチャついている。
ジョセフィンはそれに合わせるように笑顔を見せ体をくねらせていた。
「イチャつくのはいいが頼むから事故は起こさないでくれよ。ここで事故ったら計画は頓挫だ」
レクサスはエースの車を素通りし駐車場に入り込んだ。
エースは携帯を取り出しジャックに着信音を鳴らした。
二度目の合図は大久保が駐車場に入ったことを知らせる合図だ。
少し間をおいてエースも駐車場に入った。
ジャックはスコープで狙う位置をわざとずらしながら、ライフルの動きの感触を確かめていた。
頭の中はいまだに大久保が席を変えた理由を考えていた。
前任者はこのホテルのこの部屋に泊まりこの機会を待っていたんだ。
狙う場所を決め窓ガラスに円形の穴を開けた。
俺が穴を開けた窓ガラスとは対照的な位置。
カーテンが死角となり俺の位置からは見えない場所。
見えない場所?
修復した窓を俺に気づかせないようにするために大久保は席を変えたのか。
つまり、ここでヒットマンが死んだという事を気づかせないようにするため…。
この部屋で亡くなったヒットマンの死因は何だ。
どうやって殺されたんだ。
もう少し、丁寧に事前調査をすべきだった。
疑問点は全て洗うという、この基本が仕事の出来不出来を左右する。
しかし、ここにきてそんなことを考えても意味がない。
ここにいたヒットマンは狙いを定めている時に殺された、としたら、この部屋に入った者がいる。
当然、ヒットマンは部屋のキーを掛けていただろう。
この部屋に忍び込むには合鍵がいる。
マスターキーだ。
このホテルの従業員の中にヒットマンを殺した人間がいるのか。
ジャックの頭の中は次から次へと妄想が膨らんでいく。
スコープの中に大久保の姿が現れた。
ジャックは頭の中の邪念を振り払うように首を振った。
神経を集中しろと、自分に言い聞かせた。
大久保が席に座り始めた。
ジャックは人差し指をトリガーに微かに当てた。スコープの中にある十字線の中心に大久保の頭部を合わせるためライフルの銃身をわずかに動かす。
突然、大久保が視界から消えた。
ジャックは、慌てて座席の周りを見渡す。向かいに座っているジョセフィンが
立ち上がった。
消えたと思われる大久保の席に移動した。
どうやら、大久保は失神して椅子の上で倒れているようだ。
ウェイターが駆けつけジョセフィンと何か話している。あせった顔のウェイターはジョセフィンの説得で少し安心したかのように席を離れた。
たぶん、癲癇の発作が起きたのだろう。
しばらくの間そのままの状態にしておくようだ。
ジャックは、大久保が目を覚まし椅子から起き上がったところを狙い撃ちにする構えに入った。
一分が過ぎ、二分が過ぎ…ジャックの張り詰めた神経が少し途切れかけたとき恐怖が背中を襲った。
誰かが背後にいる。全身にそれを感じたと同時にジャックは体をベッドに投げ出し、同時にベルトに挟んだコルト45を右手で素早くつかみ出し銃口を相手に向けた。
ジャックは呆然と相手の顔を見つめ、言った。
「何やってるんだ。何のまねだ」