「姐さんの場所をちょうだい」と追放され、全部差し上げます。冬にお宅の桶が漏ります
「姐さんの場所を、ちょうだい」
お楽の親指は、側板の木口を押していた。爪の脇へ戻る弾みが鈍い。水が、まだ奥にいる。
雨の多かった年の七月に挽かれた板だった。木口には月を示す七つの刻みと、山向きを表す斜めの筋が残っている。乾かし場へ来て三年目。それでも、隣の板よりわずかに重かった。
「聞いてる、姐さん?」
「聞いてるよ」
秋の日は板塀の上で細くなっていた。お凪は乾かし棚と土間のあいだに立ち、店先を指した。客の顔が見え、暖簾の名を呼ばれ、仕上がった桶を手渡すところ。
「わたし、もう鉋も引けるし、箍だって締められる。いつまでも裏にいたら、客はわたしを覚えてくれないでしょう」
板なんぞ、挽いてくれば締まる。
お凪は腰に下げた前掛けを撫でた。新しい藍色で、木屑がひとつもついていない。
「店先も、控えにつく名も、姐さんが使ってる道具も。わたしが継ぐんだから、今から渡してほしいの」
伝右衛門は土間の上がり框へ片足を置いていた。お楽が返事をしないうちに、膝を二度叩いた。
「譲ってやれ。お前はどこで仕事をしても変わらん」
お元は、お楽の湯呑みを盆の端へ寄せた。空いた真ん中へ、お凪の湯呑みを置く。
「若い子に花を持たせておやり。十二年も家にいたんだもの、そのくらい分かるだろう」
鉄造は削り台から身を起こし、鉋屑を肩から払った。お凪へ向ける声だけが大きい。
「寸法さえあれば、お凪でも取れるさ。姐さんは板を並べてただけだろ」
お楽は雨の年の板から親指を離し、その隣を押した。そちらはすぐに戻った。
「どこまで欲しいんだい」
「全部。途中で姐さんに聞かなくても済むように」
「そうかい」
お楽は棚の下段から、十二年ぶんの書き付けを取り出した。紐で四つに束ねた紙の端には、指の脂と木の粉がしみていた。
「なら、明日から渡そう」
お凪は店先を振り返った。暖簾の下を通った客が、伝右衛門へ片手を上げていった。
「明日から、わたしの名で受けていい?」
お楽の親指は、次の木口へ移っていた。
* * *
十二年ぶんの書き付けは、翌朝、土間の真ん中に置かれた。晴れた年、長雨の年、北斜面、沢沿い。挽いた月のほかに、板が朝と夕のどちらに重くなるかまで、お楽の字で並んでいる。
「これは要らない」
お凪は一束をめくり、すぐに閉じた。指先についた木の粉を前掛けで払う。
「三年なら三年、四年なら四年と決めればいいでしょう。こんなに一枚ずつ書いたら、かえって分からないもの」
「雨の年は、三年でも足りない板があるよ」
「重さを量ればいいわ」
「同じ重さでも、木口の色が違う」
お凪は束をお楽のほうへ押し戻した。鉄造が紙と墨を持って入り、聞き取った木取りの寸法と、乾かす年数だけを大きく書いた。
「厚みはこれ、幅はこれ。側板は三年、底板は四年。ほら、これで誰でも取れる」
紙は乾かし場の柱へ貼られた。風が抜けるたび、下の端が板を叩いた。
お楽は書き付けを包み直した。持っていくのはそれだけだった。昼までに、山方三軒へ使いを出し、次に挽く時季だけを言伝した。霜が二度降り、葉の落ちきったあと。店の注文ではなく、これまで見てきた板への言伝だった。
次の朝、お楽は道具を並べた。刃を抜き、鉋台の溝から木屑を掻き出す。油を一滴落として布を通し、刃を戻した。
正直台は角から拭いた。長い板をまっすぐ削るため、十二年、お楽の左腰が当たり続けたところだけ色が濃い。布はそこを二度通った。
「そんなに磨かなくても、また汚れるのに」
お凪は鍵を受け取る手を出していた。お楽は鍵をまだ取らず、雨の年の板を棚から抜いた。
木口を押す。親指が止まった。
「わたしはこの一枚を、十二年、わたしの板だと思うて乾かしておりました」
お凪は板と道具を見比べた。伝右衛門は框から動かなかった。
お楽は板を元の列へ戻した。鉋を鉄造へ渡し、正直台をお凪の前へ押す。最後に腰の紐から鍵を外し、お凪の掌へ載せた。
「この鍵は、外の棚。こっちが材の戸。雨のあとだけ、下の錠が膨らむ」
「分かった」
「店先の受け書きは勘定場にある。今日から名をつければいい」
お凪は鍵を握り、暖簾の内側へ回った。お楽は包んだ書き付けを抱えた。冷えた握り飯がひとつ、包みの上で平らになっている。
土間を下りるとき、乾かし場のほうから柱の紙が鳴った。お楽の指は包みの紐を押さえたまま、木口へは伸びなかった。
伝右衛門が背中へ声をかけた。
「手が足りんときは、呼んでもいいんだろう」
お楽は敷居をまたいだ。返事の代わりに、戸を最後まで開けて出た。
* * *
岩門の山には、伐らずに残された木が三本あった。お楽は根元の土を指で崩し、幹の北側を見上げた。岩門は斧を肩へ預け、一本ずつ顎で示した。
「次はどれだ」
「沢から二本目を、霜のあとに。手前は春まで置いてください」
「奥は」
「来年も立たせる」
岩門はそれ以上聞かなかった。斧を下ろし、木の根へ立てかけたところへ、古い店の使いが息を切らして上がってきた。暮れまでに板が欲しい、すぐ挽いてくれという伝右衛門の口上を持っていた。
「今は挽かん」
「店では、注文が増えたと」
「増えたなら、待たせろ」
岩門は使いへ背を向けた。お楽には、次に山へ入る日だけを告げた。
川向こうの酒屋から来た女衆は、傷んだ桶の箍を二本抱えていた。ひとりが指で輪を広げ、もうひとりが底板の欠けたところを見せた。
「米を洗う桶なんだけど、朝には水が半分になるの。締め直せるかい」
「側を見ないと決められません」
「持ってきたよ。重くて、腕が伸びちまった」
荷車の上には、濡れた筵をかけた桶があった。お楽は筵を外し、割れ目より先に木口へ親指を当てた。
「そこから見るのかい」
「ここが乾いて、腹がまだ水を持っています」
「桶の腹へ聞くより早そうだ」
女衆が場所を空けた。荷車の脇には火鉢が置かれ、鍋から大根と牛蒡の匂いが上がっている。お楽の前へ、けんちん汁の椀が差し出された。
「見立て賃の先払い。冷める前に受け取っておくれ」
お楽は椀を両手で持った。親指の腹に残った木の粉が、黒い椀へ薄くついた。ひと口飲んでも膝へ置かず、湯気が細くなるまで包んでいた。
桶は箍を外し、乾きの違う二枚を入れ替えれば使えた。女衆は板を押さえ、縄を引き、言われた順に手を貸した。締め終わるころには、誰の袖にも濡れた木屑がついていた。
「次からは、壊れる前に呼んでよ」
「次があるなら、乾かす板が要ります」
「板を置くところなら、酒蔵の裏が空いてるよ」
お楽は返事をせず、締めた箍の端を叩いた。音は一度で揃った。
* * *
古い店では、三年を越した側板が棚に残っていた。お凪が寸法を取り、鉄造が削り、伝右衛門が箍を締める。桶は前と同じ形で店先へ並んだ。
ひと月が過ぎ、二月が過ぎた。水を張っても漏れず、酒を入れても荷は戻らない。柱の紙は煤け、下の端だけが白く擦れた。
春先、お楽は酒屋の女衆と通りを歩いた。古い店の前では、新しい手桶を受け取った客が底を覗き、お凪へ代金を渡していた。
「ほら、変わらん」
お凪は客へ聞かせる声で言い、暖簾の前へ桶をもう一つ積んだ。鉄造は柱の紙を平手で叩いた。お楽は道の反対側を歩き、桶の縁へ目を移さなかった。
半年、何も起きなかった。残っていた板は、お楽が一枚ずつ頃合いを見て棚の手前へ出しておいたものだったが、棚はそのことを話さない。出来上がった桶も、誰の指が先に木口を押したかを話さなかった。
お楽は酒蔵の裏へ横木を渡した。女衆が集めた古材を台にし、地面から板一枚ぶん高くする。岩門から届いた新しい材を、風の通る幅だけ空けて寝かせた。
「三年後まで、ここを使うのかい」
「この板は、三年では出しません」
「じゃあ、四年?」
お楽は板の端を持ち上げた。木口の白さと、持ち上げた手に残る重さを見て、元へ戻す。
「そのときに見ます」
女衆は年数を書く札を持ってきていた。数字を書く場所を残したまま、挽いた月と山向きだけを記した。お楽は札を板の上ではなく、横木の端へ結んだ。
夏を越すころ、古い店の乾かし棚には隙間が増えた。柱の紙だけは、同じ寸法と年数を掲げていた。
* * *
冬の朝、お凪は棚の最上段から最後の三年物を下ろした。使える側板は、それで尽きた。下段には今年と前年の板があり、隅には雨の年に挽かれた一枚が残っていた。
七つの刻み。山向きの斜め筋。お凪は柱の紙を見て、三年の欄を指でなぞった。
「これも三年だ。幅も足りる」
鉄造が板を正直台へ載せた。鉋が木口を通ると、淡い粉が刃の裏へ貼りついた。二人は寸法を取り、ほかの板と同じ幅に削った。
出来上がった大桶は、酒屋へ運ばれた。酒屋の女衆は受け取りの前に、庭で水を張った。空の桶を石の上へ置き、底が揺れないことを確かめる。柄杓で縁を濡らし、それから桶の半分まで水を入れた。
お楽は隣の小桶の締め直しに来ていた。濡らした縄を引きながら、大桶へ注がれる水の音を聞いた。
水が八分まで来たところで、女衆のひとりが柄杓を止めた。側板の継ぎ目に、髪ほどの黒い筋が出ている。筋は下へ伸び、箍の手前で粒になった。
女は屈み、指の背で粒を受けた。もう一杯だけ水を足す。別の継ぎ目からも、細い筋が現れた。
酒屋の女が首を振った。
「これは受け取れないよ」
運んできた鉄造は、箍を木槌で叩いた。ひとつ締めると隣の継ぎ目が濡れ、隣を締めると底の際から水が出た。
「乾けば止まる」
「酒を入れてから止まるのを待てっていうのかい」
女衆は桶の栓を抜いた。水が庭石を洗い、鉄造の足袋を濡らした。荷車の向きが変えられ、大桶は空のまま古い店へ戻っていった。
次の月、酒屋の注文は出なかった。酒屋と同じ講の店も、新しい桶の話を古い店へ持ち込まなくなった。店先に並ぶ桶は減らず、乾かし棚の若い板だけが早く土間へ下りた。
伝右衛門は詫びに回った。戻った大桶の代を払い、荷の往復にかかった代を引き受け、夕方には肩を落とさず店へ戻った。控えの印は、ひとつずつ彼の名で押された。
岩門のところへも、早く挽けという使いが来た。岩門は木の皮を削っていた手を止めず、使いの差し出す注文札を受け取らなかった。
「伐る時季は、店先では決まらん。帰れ」
使いは札を持ったまま山を下りた。お楽は少し離れたところで、積まれた材の木口を見ていた。岩門は使いの背を見送らず、一本の向きを変えた。
お凪が店先から下ろされたのは、その三日後だった。伝右衛門は店先の控えを閉じ、お凪の前から受け台を退けた。
「お凪、奥へ入れ」
「次は漏らさない。板を替えれば」
「その板を選べんのだろう」
「姐さんなら——」
「呼ぶな。詫びも、戻った荷も、俺が引き受ける。お前は店先から下りろ」
お凪の手は、受け台があったところへ残った。客へ向けて結び直していた前掛けの紐が、片側だけ長く垂れた。
お楽は向かいの道を通り、包み直した小桶を酒屋へ運んだ。古い店の敷居へ足を向けず、荷の縄を持ち替えた。
* * *
戻った大桶は、酒屋の小屋で箍を外された。女衆が側板を一枚ずつ寝かせ、お楽は濡れた面を上に返していった。
中心に入っていた一枚を持ち上げる。削られて半分になった七つの刻みと、斜めの筋が木口に残っていた。親指を当てると、芯の近くが冷たかった。
「これ、あの店へ返すのかい」
「代は、もう返してもらったんでしょう」
「桶は引き取らなくていいってさ。材も処分してくれと」
女は一枚の端を持った。もうひとりが反対を持ち、酒蔵の裏まで運ぶ。
「じゃあ、こいつはここでやり直しだ。三年の札は外すよ」
年数だけを書いた古い札が、紐ごと切られた。雨の年の一枚は、新しい乾かし場のいちばん風下へ立てられた。お楽の親指は木口を押し、戻りを待ってから離れた。
横木は酒屋の講の女衆と組み直した。曲がった脚には樽板を噛ませ、雨除けの庇は、桶を三つ並べても雫が落ちない長さまで張り出した。
「うちの米桶が先だよ」
「漬物桶が先だ。春の菜は待ってくれない」
「板は待たせるくせに、菜は待たせないのかい」
女衆は板を運びながら口を動かした。お楽は横木の高さを直し、注文札を二枚だけ受け取った。
「先は、使う日が早いほう。板は、出せるものからです」
「それで頼むよ。あんたに頼みに来たんだから」
翌日、岩門が材を積んだ荷車を引いてきた。ほかの山方で三年を越して寝た板も載っていた。古い店の暖簾が見える角を曲がっても、荷車は止まらなかった。
岩門は乾かし場の前で綱を外した。お楽が板の木口を順に見ていくあいだ、腕を組んで待った。一本を戻し、二本を受け取ると、お楽の手へ荷札を渡した。
「姐さん。おれたちはあの店に売ってたんじゃない。あんたの目に売ってたんだ」
お楽は荷札の端を揃えた。そこには店の名がなく、「お楽預け」とだけ書いてあった。
「この一本は、まだ山に置いてください」
「いつまでだ」
「次の長雨が過ぎるまで」
「分かった」
岩門は戻された一本を荷車へ積み直した。値の話は、そのあとで板ごとに決めた。誰も店の暖簾を勘定へ入れなかった。
お楽は新しい鉋を借り、最初の桶の側を削った。正直台は女衆が古道具屋から運び、脚のがたつきを自分たちで直したものだった。受け書きの名は、伝右衛門の店ではなく、お楽の二文字で締めた。
* * *
最初の桶へ箍を掛ける朝、お楽は道具を使う順に並べた。鉋、毛引き、木槌。濡らした竹箍は、火鉢の脇へ太い順に置いた。
女衆が側板を起こし、お楽が輪の内側へ揃えた。木槌の音が乾かし場に続き、一本目の箍が下りる。二本目で口が寄り、三本目で底板が動かなくなった。
受け書きの端には、お楽の名がある。女衆のひとりが墨の乾いたところを避け、桶の腹へ札を結んだ。
「水を張るよ」
「初めは半分まで。止まったら、縁まで入れてください」
柄杓の水が底を打った。半分。七分。縁まで満ちても、継ぎ目の色は変わらない。女が桶の下へ差し込んだ白い布を引き出し、両側を持って広げた。
「乾いてる。今度は湯を入れよう」
火から下ろした湯が注がれ、木の匂いが立った。そのとき、乾かし場の入口で下駄が止まった。
お凪は古い店の前掛けをつけていなかった。両手に何も持たず、組み上がった横木と、並ぶ板と、お楽の名札を順に見た。
「姐さん」
お楽は濡れた布を絞った。桶の底をもう一度拭き、布を女へ返す。
「戻って。父ちゃんひとりじゃ、店が回らないの」
お凪は敷居を越えずに言った。声は店先で客へ向けていたときより低かった。
「板を選び直してくれればいいの。注文が戻るまででいい。控えの名も道具も、姐さんの好きにしていいから。わたしは奥にいる。だから——」
お楽は木槌を布で拭き、鉋の横へ戻した。刃の向きを揃えてから、お凪を見た。
「姐さんの場所を、ちょうだい」
お凪の口が開き、閉じた。片手が胸元まで上がり、結ぶ紐のないところで止まった。
お楽は雨の年の一枚へ目を移した。削られた木口を上にし、新しい板の列とは離して立ててある。
「父ちゃんは、店を畳むかもしれない」
お楽は湯を張った桶へ掌を当てた。箍の下まで、同じ温かさだった。
「伝右衛門さんが決めることだよ」
「姐さんは、平気なの」
お楽は返事を置かなかった。女衆のひとりが空けていた椀へ、けんちん汁をよそった。
「冷めるよ。桶師さん、こっちへおいで」
お凪は敷居の外に立っていた。やがて上げていた手を下ろし、古い店のほうへ戻った。下駄の音は、角を曲がるまで同じ間で続いた。
女衆は湯を張った桶を囲み、継ぎ目へ指を当てた。ひとりが蓋の具合を注文し、もうひとりが次の桶の深さを手で示す。お楽のために空けられた席には、木屑を払った座布団があった。
お楽は雨の年の一枚へ親指を伸ばした。木口を押す。まだ水は奥にいた。
指を離し、湯気の立つ椀を両手で包んだ。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




