第9話 結婚式への乱入と、生乾き臭のする巨大竜
シャムス王国から帝都へ帰還した翌朝。
エルドラード帝国の中枢では、まだ朝靄も晴れきらぬうちから、ひどく疲れた顔の大人たちがぞろぞろと皇城の大会議室へ集められていた。
宰相。
宮内卿。
典礼官。
大神官。
近衛騎士団長。
聖堂管理局の責任者。
ついでに、どう見ても昨夜ほとんど寝ていない顔をしたラグナス。
この顔ぶれで朝一番に呼び出される案件は、たいてい国家的に重い。
戦争か、政変か、あるいは皇帝絡みの何かである。
そして今日の場合、正解は一番たちの悪い最後だった。
「結婚式を執り行う」
氷の皇帝オフィウス・ルヴァン=エルドラードは、玉座の前に並んだ重臣たちを見渡しながら、あまりにも平然とそう言った。
会議室の空気が止まる。
誰も、すぐには反応できなかった。
それもそのはずである。
つい昨日まで、皇帝陛下は隣国シャムス王国に乗り込み、攫われた超位・終身名誉聖教官メルヴィ・アシュベリーを奪還し、危うく国ごと凍らせかねない勢いで睨みをきかせ、ようやく帝都へ連れ帰ってきたばかりなのだ。
普通ならまず、外交報告である。
次に賠償交渉。
それから国交改善の整理。
少なくとも、朝一番で「結婚式をする」と言い出す順番ではない。
最初にどうにか口を開いたのは宰相だった。
「……いずれ、正式に、というご意向でございましょうか」
「違う」
オフィウスは即答した。
「最速でだ」
最悪だった。
その場にいた全員が、心の中で同時に頭を抱えた。
ラグナスだけは声に出しかけたが、かろうじて飲み込んだ。
彼は皇帝の側近として優秀である。優秀だからこそ、ここで無駄に叫んでも事態は好転しないと理解している。
ただし、胃痛は悪化する。
「陛下」
ラグナスは一歩前へ出た。
「お気持ちは、痛いほど理解しております」
「そうか」
「ですが、皇帝陛下のご婚礼を“最速で”などという曖昧かつ暴力的な基準で進めることはできません」
「なぜだ」
「なぜ、ではありません」
ラグナスの声には、長年積み重ねた忠誠と苦労が滲んでいた。
「皇后冊立を伴う婚礼です。典礼、聖堂、皇統会議への正式通達、諸侯・各国使節への招待、街道警備、帝都の祝祭布告、席次、宝飾、誓印文書、祭具、儀装、警護動線、記録官の配置、民衆への公開区画、献上品の受け入れ、祝宴の規模――」
「やれ」
「ですから、やるのですが時間が必要なのです!」
ついに半ば叫んだラグナスへ、オフィウスは冷たい視線を向ける。
「前回は、私の目の前で攫われた」
一瞬で室内の温度が下がった気がした。
シャムス王国での一件を思い出し、居並ぶ面々がそろって顔をしかめる。
ザフィール王子がメルヴィを空飛ぶ絨毯ごと抱えて走り去った瞬間の、あの皇帝の顔を見た者は、しばらく夢にうなされたはずだ。
「超位として遇するだけでは足りぬ」
オフィウスは淡々と続ける。
「彼女が帝国にとって特別な存在であることは、もう誰の目にも明らかだ。だが、それだけでは足りない」
氷色の瞳が、まっすぐ前を向く。
「国内外の誰が見ても、法でも、慣習でも、神前でも、誰にも覆せぬ形で示す必要がある」
そこで、控えめに会議の端へ座っていたメルヴィが、そっと手を挙げた。
「あの……」
その一声で、オフィウスの声色だけが瞬時にやわらぐ。
「何だ、メルヴィ」
「私はもう十分、陛下のおそばにおりますし……そこまで急がなくてもよいのではないでしょうか」
「急ぐ」
即答だった。
「急ぐ必要しかない」
「でも、皆さまがとても大変そうです」
メルヴィは本気で困っていた。
宮内卿はすでに青ざめているし、大神官は目を閉じて何やら祈り始めているし、ラグナスに至っては今にも倒れそうだ。
「君は気にしなくてよい」
オフィウスはきっぱりと言う。
「すべて整える」
「いえ、気になります」
メルヴィはおろおろとあたりを見回した。
「ラグナス様が、昨日よりさらにお疲れのお顔ですし……」
「お気遣い、身に余ります」
ラグナスは死んだ目で一礼した。
「ですが今の私はお気遣いより睡眠の方が欲しいです」
「やはり大変ではありませんか」
「大変です」
「では、少し落ち着いてから――」
「駄目だ」
オフィウスは譲らない。
「今回は取り戻せた。だが、次もそうとは限らぬ」
「私は好きで攫われているわけではないのですが……」
「知っている」
オフィウスはうなずく。
「だが君は、攫われても危機感より先に掃除の心配をする」
事実だった。
シャムス王国で攫われた直後も、メルヴィは「砂っぽいです!」と叫んでいた。
王宮に閉じ込められてからも、「窓の桟がざらざらしています」「回廊の風通しが悪いです」と大掃除を始めていた。
危機感の向く先がおかしい。
「だから守りを固める」
オフィウスは真剣だった。
「婚礼を行い、君を正式に皇后とする」
その一言に、会議室の空気がまた揺れた。
皇后。
恋情としては誰もが察していた。
だが、それを皇帝本人が公然と、しかもこんなにも迷いなく宣言するのは破壊力がある。
メルヴィは完全に固まった。
「こ、皇后、ですか……?」
「そうだ」
「わ、私がですか」
「君以外に誰がいる」
「いえ、でも、私は元は九等の窓際官で……」
「今は違う」
オフィウスは一歩も引かない。
「君は帝国が新設した超位の保持者であり、死の地を聖域へ変え、隣国をも救った。君が相応しくないなら、誰も相応しくない」
その断言に、重臣たちは黙るしかなかった。
実際、その通りだからだ。
オフィウスはさらに低く告げる。
「何より」
一瞬だけ、その声音に生々しい感情が滲んだ。
「君が誰かに手を伸ばされるたびに、私が正気でいられると思うな」
場の全員が目を逸らした。
重い。
あまりにも重い。
だが、それが皇帝陛下の平常運転であることも、もうみな理解していた。
メルヴィだけが、少し赤くなって俯く。
「……そんなに、でしょうか」
「そんなにだ」
「大げさでは」
「足りぬ」
何が足りないのかは誰も聞かなかった。
こうして、皇帝の一声で帝都全体が巻き込まれた。
大神殿では吉日の前倒し選定。
宮内省では招待状の文面作成。
典礼官たちは前例なき超位聖教官の婚礼儀礼を既存規則へどう組み込むかで徹夜。
近衛は街道封鎖と祝祭警備の二重計画に突入。
仕立て部門は花嫁衣装の採寸と製作で目を回し、宝飾部門は「清楚でありつつ皇后にふさわしい」を満たす設計に頭を抱えた。
そして当然ながら、ラグナスはその全工程の中心で死にかけていた。
「なぜ私が、皇帝陛下の恋情を国家的行事として進行管理しているのでしょう……」
夜更けの執務室でそう呟いた彼へ、部下の誰ひとり反論できなかった。
さらに問題を複雑にしたのは、招待客の選定だった。
「シャムス王国にも正式招待を送れ」
オフィウスは書類へ判を押しながら言った。
「国交改善後の初めての大婚儀だ。礼を尽くす」
ラグナスは嫌な予感しかしなかった。
「……まさか、ザフィール殿下も」
「当然だ」
当然ではない。
「陛下」
ラグナスは慎重に言葉を選ぶ。
「先方はついこのあいだ、花嫁候補を攫った前科がございます」
「だからこそだ」
オフィウスは視線も上げない。
「私の前で、彼女が誰のものかを二度と見誤らぬようにする」
もの、という表現はどうかと思うが、いまそこを訂正しても話が進まない。
数日後、シャムス王国から返書が届いた。
ザフィールの筆跡は、以前と同じように癖が強く、やたらと勢いがあった。
『此度は正式な国賓として参列し、心より祝福を捧げる。安心しろ、今度は攫わん』
そこで文章が終わっていればよかった。
だが追伸がついていた。
『ただし、花嫁姿を見て惚れ直した場合の胸の苦しさまでは保証しかねる』
ラグナスはその手紙を机へ叩きつけそうになった。
「燃やしてもよろしいでしょうか」
「駄目だ」
オフィウスは冷淡な微笑を浮かべた。
「来させろ」
その顔を見たラグナスは思う。
ああ、陛下も相当気にしておられる。
気にしておられるからこそ、見届けさせたいのだ。
こうして、式は怒涛の勢いで準備された。
そのあいだメルヴィはといえば、自分の婚礼衣装より大聖堂の掃除進捗の方が気になって仕方なかった。
「あの、西回廊の高窓は、午前の光が差すと拭き筋が見えやすいので」
「確認済みです」
聖堂管理局の担当者が即答する。
「祭壇の裏側は香油が飛びやすいので」
「確認済みです」
「柱の根元と、列席者の導線になる通路角は」
「皇帝陛下が自ら」
「……ええ」
やはりそうか、という顔になる。
最近のオフィウスは、メルヴィが気にしそうな箇所を片端から先回りして潰している。
花嫁の不安を減らすために皇帝本人が大聖堂の窓枠や床を確認しているなど、聖職者たちにしてみれば新しい拷問だった。
しかも花嫁衣装の最終確認で、またひと悶着あった。
「重すぎる」
オフィウスは即断した。
「もっと軽くしろ」
「できません!」
衣装長が悲鳴を上げる。
「皇后陛下の婚礼衣装として必要な格式がございます!」
「彼女が疲れる」
「格式も大事です!」
「疲れが先だ」
「陛下、その理屈で全部お決めになるのをおやめください!」
最終的に職人たちは、格式を保ちつつ極限まで軽量化した奇跡の一着を仕立て上げた。
それでもメルヴィの感想は、「重いです」である。
そして迎えた婚礼当日。
帝都の大聖堂は朝から眩しいほど神々しかった。
白石の床は鏡のように磨き上げられ、列柱には季節の白花が絡み、祭壇の上には祝福の光が淡く揺れている。参列席には帝国貴族、騎士団高官、聖職者、各国使節。帝都の民衆も外の広場に詰めかけ、鐘が鳴るのを今か今かと待っていた。
控室で、純白の婚礼衣装に身を包んだメルヴィは、姿見の前で小さく呻いた。
「お、重いです……」
誰が見ても息を呑む花嫁姿だった。
長いヴェールは薄雲のように透け、胸元から裾へかけて雪と泉と白花を象った刺繍がきらめく。清楚でありながら皇后の威を備えた一着で、これ以上はない仕上がりだ。
ただし本人には重い。
「早くいつものお掃除着に着替えたいです……」
「本日だけはご容赦くださいませ」
侍女たちがほとんど祈るように言った。
「帝国中が泣きます」
そこへ、疲れ切った声がした。
「すでに泣いている者もおりますが」
ラグナスである。
「ラグナス様」
メルヴィは少しほっとした顔を向ける。
「大聖堂の高窓は大丈夫でしょうか」
「磨き上げ済みです」
「祭壇裏は」
「確認済みです」
「回廊の柱の根元は」
「皇帝陛下が直々に」
「……ええ」
ラグナスは深く息を吐いた。
「メルヴィ様。本日はどうか、床の光沢よりご自身の結婚式を優先なさってください」
「努力します……」
努力目標だった。
そのとき、扉が静かに開いた。
黒と銀の正装に身を包んだオフィウスが姿を現す。
いつも以上に研ぎ澄まされた美貌と威圧感に、控室の空気が一瞬で張り詰めた。けれど彼の視線が花嫁姿のメルヴィを捉えた途端、その冷たさだけがすっとほどける。
「……美しい」
低い声だった。
メルヴィの耳がみるみる赤くなる。
「そ、その……ありがとうございます」
「足りぬ」
オフィウスは真顔で続けた。
「本来ならもっと早く娶るべきだった」
「陛下」
ラグナスが即座に割って入る。
「本番直前にその確認をなさらないでください」
「事実だ」
「事実でもです」
メルヴィはどうにか話題を変えようとした。
「あの、祭壇右側の燭台なのですが、蝋が少し垂れやすい形でして」
「確認した」
「窓辺の――」
「確認した」
「中央通路の石床は」
「私が見た」
まるで呼吸のように先回りされている。
メルヴィは少しだけ安心したように、そして少しだけ呆れたように息をついた。
「それなら、よいのですが」
「ただ」
オフィウスは彼女の裾へ視線を落とす。
「やはり重いな。今からもっと軽いものへ――」
「できません」
ラグナスが即答した。
「式が終わればすぐ着替えよう」
オフィウスは譲歩した。
「一歩も歩かせぬ」
「それは少し困ります」
「困らぬ」
「困ります」
そのやりとりに、控室の侍女たちがきゃっと息を漏らす。
ラグナスだけが心底疲れた顔をした。
やがて開式の鐘が鳴った。
前列の賓客席には、シャムス王国第一王子ザフィールもいた。
今日はさすがに礼装に身を包み、国賓としての体面を完璧に整えている。砂漠の陽光を思わせる金褐色の髪、獅子めいた気配の強い長身、そして相変わらず目を引く華やかな存在感。前回のやらかしがなければ、たいそう絵になる王子だろう。
隣に立つラグナスへ、ザフィールは口元をわずかに緩めた。
「招かれるとは思わなかったぞ」
「私は正直、お断りしたかったです」
ラグナスは真顔で返す。
「厳しいな」
「前科がございますので」
ザフィールは肩をすくめた。
「安心しろ。今日は祝賓だ。攫わん」
「“今日は”をつけないでください」
「冗談だ」
ザフィールは前方を見ながら言う。
「……半分はな」
「やめてください」
ラグナスは心からうんざりした。
「本当にやめてください」
そこへ大聖堂の扉が開き、白い光の中を花嫁が進む。
純白のヴェールを揺らしながら歩いてくるメルヴィは、本人の自覚など置き去りにして、誰もが息を呑むほど綺麗だった。飾り立てられた人形の美しさではない。死の地を磨き、砂漠に水を通し、人の暮らしを整えてきたその手の軌跡が、そのまま清らかな姿になったような美しさだった。
ザフィールが、小さく息を呑む。
「……これは、まずいな」
「何がですか」
ラグナスが低く問う。
「見惚れる」
「見惚れないでください」
「無茶を言うな」
祭壇前では、オフィウスが完全に見惚れていた。
見惚れすぎて一瞬足が止まり、背後からラグナスに「陛下、歩み寄ってください」と極小の声で急かされる程度には深刻である。
ようやく向かい合った二人の間に、しんと静かな空気が流れる。
「重くないか」
オフィウスの第一声はやはりそれだった。
「重いです」
メルヴィが正直に答える。
「やはり今から――」
「陛下」
離れた場所からでもラグナスの制止が飛んだ。
ザフィールは肩を震わせる。
「本当にぶれんな、あの男」
「ぶれないどころか悪化しております」
ラグナスは真顔だった。
聖職者が誓詞を読み上げようとした、そのときだった。
メルヴィがふっと眉をひそめる。
「……?」
鼻先をかすめたのは、花の香でも香炉の煙でもない。
もっと湿っていて、もっと重く、鼻の奥へべったりまとわりつく不快な匂い。
(この匂い……)
雨の日に乾ききらなかった布。
風通しの悪い部屋で何日も放置された寝具。
洗ったのに清潔さが戻らない、あの最悪の――
(生乾き臭……?)
その瞬間。
びき、と大聖堂の高所で嫌な音がした。
「上だ!」
誰かが叫ぶ。
「結界が――!」
高窓の外を覆っていた浄化結界が、見えない何かに外側から押し潰されるように大きく歪んでいた。聖職者たちが青ざめる。
「飛行体接近!」
「巨大です!」
「まさか、竜……!?」
轟音。
大聖堂上部の巨大なステンドグラスが、虹色の破片をまき散らしながら爆ぜた。
吹き込む風。
降り注ぐ光。
その中心を、巨大な黒い影が突き破ってくる。
黒竜だった。
ただし、誰もが思い描くような神々しく禍々しい黒竜ではない。
巨体は圧倒的だが、その鱗はじっとりと湿り、ところどころ黒ずみ、白く粉を吹いたように荒れていた。翼がはためくたび、堂内にあの重く湿った異臭が一気に広がる。
「ひどい……!」
混乱のさなか、メルヴィだけが別方向で衝撃を受けていた。
「ドレスが汚れます! それにこの竜さん、ひどい生乾き臭がしますよ!?」
大聖堂中が、一瞬しんと静まり返った。
巨大竜の乱入を前にして、花嫁の第一声がそれなのか。
だが彼女にとっては切実だった。近くで見れば見るほど、この竜の状態はひどい。鱗の隙間に湿気がこもり、黒ずみが広がり、全身から“乾いていない汚れ”の気配がする。
黒竜は苦しげに咆哮をあげた。
その濁った赤い瞳は、参列者でも祭壇でもなく、浄化の光と、その中心に立つメルヴィへ強く惹きつけられている。
「下がれ」
オフィウスの声が低く落ちる。
「私の後ろに」
同時に、祭壇前の床から白銀の氷が走り、防壁が立ち上がる。騎士たちが剣を抜き、聖職者が結界を重ね、ザフィールまでもが席を蹴って立ち上がった。
「今度は竜か!」
ザフィールが叫ぶ。
「なぜよりによってこの婚礼の日に!」
ラグナスも叫ぶ。儀式の不備は彼の責任になる。半分泣いている。
だが黒竜は止まらない。
ただ暴れたいわけではないのだ。苦痛と焦燥に突き動かされ、何かへ縋るように、まっすぐ祭壇へ突っ込んでくる。
メルヴィにはそれが少しわかった。
この竜は、こちらを獲物として狙っているのではない。
苦しさのあまり、浄化の中心へ飛び込んできている。
「陛下、この竜さん、たぶん――」
言い終える前に、黒い巨大な鉤爪が祭壇へ伸びた。
「メルヴィ!」
オフィウスが名を呼んだ次の瞬間、純白の花嫁は、あまりにもあっさりと黒竜に掴み上げられた。
「きゃっ――!」
視界いっぱいに、湿った黒い鱗が迫る。
息が詰まるほどの異臭。
荒い呼吸。
ドレスの裾が宙に翻り、ヴェールが光の尾のように散った。
「離してください! 近いです、近いです! それに本当にすごく湿っております!」
攫われながら言うことではなかったが、メルヴィにとっては重要だった。
「メルヴィ!!」
オフィウスの声が、大聖堂全体を震わせた。
ザフィールが咄嗟に駆け、近衛も飛び出す。だが黒竜の上昇速度は速すぎる。
ザフィールは柱を蹴って跳び上がるが届かず、舌打ちした。
「くそ、届かん!」
「殿下、無茶は!」
ラグナスが叫ぶ。
黒竜は巨大な翼を打ち、大聖堂の大穴から一気に帝都の空へ飛び出した。
メルヴィの悲鳴が白いヴェールごと引きずられていく。
「陛下ー! この竜さん、たぶん本当に換気が必要で――いえ違います、攫われています私ーっ!」
最後のあたりでようやく認識が正しくなった。
堂内に散った虹色の破片の中、オフィウスだけが微動だにせず竜の去った空を見上げていた。
その顔を見たザフィールが、低く呻く。
「……あれは、まずい」
「まずいなどという言葉では足りません」
ラグナスは青ざめた。
「神前で、帝国中と各国使節の前で、花嫁が巨大竜に攫われたのです!」
オフィウスの足元から、白銀の冷気が広がる。
祭壇の床へ霜が走り、割れた窓枠に氷花が咲き、堂内の温度が急速に下がっていく。
だが彼はその場で激情のまま飛び出したりはしなかった。
代わりに、ゆっくりと祭壇の中央へ歩み寄る。
そこには、先ほど黒竜が踏み込んだ際に落としたのだろう、黒く大きな鱗片が一枚、湿った黒ずみをまとったまま転がっていた。周囲にはねっとりした水気まで残っている。
オフィウスはそれを見下ろし、静かに手をかざした。
ぱき、と小さく音がする。
鱗片と、その周囲の湿り気、黒ずみ、異臭ごと、まるごと透明な氷の中へ封じ込められた。
ザフィールが目を細める。
「追わんのか」
「追う」
オフィウスは低く答えた。
「だが行き先を誤れば遅れる」
その判断があまりにも冷静で、逆に恐ろしい。
大神官たちが慌てて前へ出る。
「陛下、外部結界は破られましたが、残留魔力なら追えます!」
「東方へ向かった形跡が強いかと!」
「ただ、あの竜気は……」
そのとき、賓客席の一角から、震える声があがった。
「その鱗……!」
東方諸侯のひとり、霊峰地帯と交易のある小国の老使節だった。
彼は青ざめた顔で、氷中の鱗片を指差す。
「間違いございません。あの紋理は、東方霊峰ドラグファングの皇族竜にのみ現れるもの……!」
「ドラグファングだと?」
ザフィールが眉をひそめる。
「竜人族の閉鎖国家か」
ラグナスが低く呟く。
「東方霊峰最奥、他国の侵入をほとんど許さぬ……」
老使節はさらに言葉を継ぐ。
「近年、あの国では“黒死の呪い”とやらが広がり、竜帝自ら理性を失いかけていると噂されておりました。真偽は定かでなかったのですが……まさか」
オフィウスの目が細くなる。
「……黒死」
メルヴィがあの竜を見て、真っ先に「生乾き臭い」と言った理由が脳裏をよぎる。
あの娘は、いつも最初に本質の端を掴む。
ならば、行き先は間違いなくそこだ。
「ラグナス」
「はっ」
「東部の転移中継陣を最優先で開け。最寄りの山麓要塞まで飛ぶ」
「御意」
「飛行戦力も出せ。だが霊峰外縁の乱気流に巻き込まれる。大部隊ではなく、入れるだけの最小でいい」
次々と命令が飛ぶ。
もう誰も止めなかった。止められないと知っているからだ。
ザフィールが横に並ぶ。
「俺も行く」
ラグナスがぎょっとした。
「殿下まで何を」
「借りがある」
ザフィールは短く答えた。
「前回は俺が奪った。今度は、助ける側に回る」
オフィウスがその横顔を一瞥する。
氷色と金褐色の視線が、短くぶつかった。
「好きにしろ」
やがてオフィウスは言った。
「ついてこられるならな」
ザフィールが口の端を上げる。
「ようやく少しだけ認めたか」
「認めてはいない」
オフィウスは淡々と答える。
「ただ、今は遅れる方が不利益なだけだ」
そのとき、大聖堂の外で緊急警鐘が鳴り始めた。
祝福の鐘ではない。
帝都防衛の警鐘だ。
割れた高窓の向こう、東の空には、黒い影がすでに小さくなりつつある。
その爪の中で、純白のヴェールがまだかすかに揺れていた。
メルヴィは空の上で、必死に黒竜へしがみつきながら叫んでいる。
「ですから、湿ったままではいけませんってば! あと、その鱗の隙間、たぶんすごく大変なことになっておりますよーっ!」
黒竜は答えない。
ただ苦しげに喉を鳴らし、東の彼方へ飛び続ける。
一方、大聖堂の床に散った光の破片を踏みしめながら、オフィウスは静かに目を閉じた。
攫われた。
またしても、自分の目の前で。
今度は婚礼の最中に。
神前で誓う、その直前に。
ゆっくり目を開いた氷の皇帝の双眸には、静かな怒りが満ちていた。
「待っていろ」
それがメルヴィへ向けた言葉なのか。
竜へ向けた宣告なのか。
その場にいた誰にもわからない。
ただ、全員が理解した。
花嫁を攫った巨大竜は、まだ知らないのだ。
自分がいま掴んでいるのが、ただ浄化の光をまとう聖女ではないことを。
世界で最も過保護で、最も執着が深く、最も花嫁に甘い皇帝の、逆鱗そのものだということを。
そして帝都の東門ではすでに、皇帝親征のための転移中継陣が、白銀の光を唸らせながら起動を始めていた。




