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第8話 氷と砂の激突、そして世界一甘い奪還劇

 シャムス王宮の巨大な正門が完全に凍りつくまで、そう長くはかからなかった。

 白銀の氷は、まるで意志を持った生き物のように門扉の表面を這い上がり、熱砂の国が誇る数十センチ厚の強固な金属扉を、薄い飴細工のようにあっけなく封じ込めていく。照りつける陽光を浴びてダイヤモンドのようにきらめくその光景は、美しいというより、神話の終わりを思わせる絶対的な悪夢だった。

 門前広場に展開していた防衛の精鋭兵たちは、もはや一歩も近づくことができない。

 足元の石畳は地中深くから凍てつき、構えた槍の穂先には触れる端から真っ白な霜が張りつき、息を吸うたびに肺の奥が刃物で刺されるように痛く、冷たい。


「押し返せ! 耐熱の火炎結界を重ねろ!」

「駄目です、冷気の密度が違いすぎる! 展開した瞬間に術式ごと固定されて――」

「門が、門がもたない!!」


 悲鳴と怒号が交錯する中。

 分厚い氷の壁の向こう側から、ごきんっ、と、耳を疑うような重く鈍い音が響いた。

 次いで、ばきばきばきっ!と、金属の断末魔のような連続音。

 完全に氷に包まれた巨大な門扉が、中央から放射状にひび割れていく。

 押し砕いているのが、巨大な投石機でも、軍勢が担ぐ攻城槌でもないことに、シャムスの兵たちは本能的な恐怖で震え上がった。

 冷気そのものが、圧倒的な質量となって、王宮の物理的防御を力ずくでねじ伏せているのだ。


「後退! 正門守備隊、第二防衛線まで直ちに下がれ!」


 前線に駆けつけた軍務卿の、血を吐くような命令が飛ぶ。

 だが、遅かった。


 ――ドゴォォォォンッ!!


 天地を揺るがす轟音とともに、巨大な門扉が限界を迎え、無数の破片となって内側の広場へと砕け散った。

 鋭い氷片と鉄の欠片が猛烈な吹雪のように舞い散り、広場全体に濃密な白い冷気の煙が立ちこめる。

 その白い帳の向こうから、たった一人の男が、靴音も立てずにゆっくりと歩いてくる。

 エルドラード帝国皇帝、オフィウス・ルヴァン=エルドラード。

 激戦を抜けてきたはずなのに、乱れひとつない漆黒の軍装。冷気をまとって輝く白銀の髪。そして、一切の感情を凍結させたような硝子細工の氷色の瞳。

 その歩みは死神のように静かで、けれど彼が一歩踏み出すごとに、広場の石畳が放射状に白く凍りついていく。はるか背後には強大な帝国精鋭騎士団が続いているはずなのに、この場にいる誰の目にも、最初に映るのは彼の姿しかなかった。

 まるで、極寒の冬そのものが人の姿を取って、灼熱の王宮へ土足で踏み込んできたかのようだった。


「……っ」


 正門前に命懸けで布陣していたシャムス兵たちが、そのあまりの存在感に圧倒され、武器を構えたまま思わずじりじりと後ずさる。

 だが、オフィウスは彼らのことなど一瞥もしていない。

 いや、正確には、彼の見ている相手がこの場にいないのだ。

 その冷酷な瞳は、兵士の頭越しに、王宮の奥深くの空間だけを真っ直ぐに射抜いていた。


「メルヴィはどこだ」


 低く、どこまでも澄み切った声が広場に響く。

 怒りの限界を突破しているはずなのに、その声音は恐ろしいほど静かだった。

 静かすぎて、吹雪の音よりも余計に怖い。

 圧倒的な殺気に当てられ、兵たちの誰も、声を発することすらできない。

 その凍てついた沈黙を裂くように、王宮の奥から規則正しい足音が響いた。

 シャムス王国第一王子ザフィールが、腰に抜身の曲刀シャムシールを提げて現れた。左右には決死の覚悟を決めた近衛兵、少し遅れて宰相や軍務卿たちも青ざめた顔で続く。


「そこで止まれ、氷の皇帝」


 ザフィールは正門前の広場中央まで毅然と進み出て、圧倒的な冷気を放つオフィウスを真正面から見据えた。


「ここは、我がシャムス王国の王宮だ。たとえ大国の皇帝といえど、好きに踏み荒らしてよい場所ではない」

「ならば最初から、私の妃を攫うな」


 コンマ一秒の即答だった。

 妃。

 その重すぎる単語に、背後で武器を構えていたシャムス兵たちのあいだに激しい動揺が走る。

 すでに王宮内では、攫ってきた少女・メルヴィがエルドラード皇帝にとって特別どころの騒ぎではない存在だと知れ渡っていた。だが、皇帝本人の口から、ここまで断定的に「妃」と明言されると、受ける衝撃と絶望感はまた別次元だ。

 ザフィールは、苦いものを噛み潰したように口元を引き結ぶ。


「……攫ったという事実については、見苦しい言い訳はしない」

「当然だ」

「だが、彼女は我が国を救ってくれた。王都の長年の歪みを見抜き、王宮の結界の乱れを正し、民を呪いから救う確かな道筋まで示した。俺が……俺の意思で、国のために返したくないと思ったのも事実だ」


 その言葉が終わるか終わらないかのうちに、オフィウスの足元の氷が、バキィッ!と音を立ててさらに分厚く、広範囲に広がった。


「返せ」

「断る、と言ったら?」

「この王宮ごと、永遠に凍らせる」


 それを外交上のハッタリや脅しと呼ぶには、目の前の光景はあまりにも現実味がありすぎた。

 なにしろ、強固な正門はすでに物理的に凍り砕けている。広場の中央にあった大噴水も、色鮮やかな植栽も、彼を中心に半径数十メートルは完全に生命活動を停止した氷原と化しているのだ。

 宰相が恐怖で顔を青くし、軍務卿が本能的な危機感からそっと一歩後ろへ下がる。

 ザフィールだけが、その極寒の重圧のなかで、ぎりぎりのところで不敵に笑った。


「……本当に、一切の躊躇なくやりかねない顔だな」

「顔だけで済んでいるうちに、さっさと返せ」

「……」


 ほんの数秒、永遠にも似た沈黙が落ちる。

 空気が、限界まで張り詰める。

 シャムスの兵たちは恐怖で息を止め、術師たちは命を削って防衛術式の展開準備をしながらも、その両手がガタガタと震えていた。ここで一触即発の戦闘になれば、間違いなく王宮の中枢ごと吹き飛ぶ。いや、吹き飛ぶというより、数百年単位で冷凍保存される可能性のほうが高い。

 ザフィールは、ゆっくりと構えた剣の切先をオフィウスへ向けた。

 しゃり、と、砂漠の熱を帯びた刃が、冷たい氷の光を反射する。


「ならば、俺もシャムスの王子として退けない」


 その命懸けの宣言は、為政者として立派だった。

 立派だったが、背後で控える周囲の重臣たちの胃には、致死量の毒を盛られるくらいまったく優しくない。

 そのとき、砕けた正門の向こうから、ラグナスが少し遅れて広場へ踏み込んできた。彼は現状の絶望的な対峙を見て、案の定、遠くの空を見るような目になった。


「やはり、一歩間違えれば世界地図が書き換わる事態になりましたか」


 ひとりごとみたいにぼやきながらも、彼は極めて冷静で慣れた手つきで後続の騎士団に合図を送り、無駄な軍事衝突が広がらないよう包囲の布陣を整えさせる。

 シャムスの軍主力は王宮ではなく、国内に分散して配置されている。ここで王宮を制圧しても、四方から砂漠の戦いのなれた熟練の軍が押し寄せ、オフィウスの氷の魔力を以てしても、防ぎれるか分からない。


 せめて、王宮の全壊と両国の全面戦争だけは防ぎたい。彼にできるのは、そのための物理的・政治的な防波堤を作ることだけだ。


 まさに、両者が魔力と剣を交えようとした、その刹那だった。


「陛下!!」


 緊迫した広場の上、王宮の二階回廊から、鈴を転がすような、はっきりとした聞き慣れた声が落ちてきた。

 オフィウスの動きが、ピタリと止まる。

 シャムスの兵も、帝国の騎士も、そして覚悟を決めていたザフィールでさえ、反射的に声のしたその方向を見上げた。

 豪奢な装飾が施された二階回廊の先に、ひとりの小柄な少女が身を乗り出すようにして立っていた。

 メルヴィだ。

 薄い砂色の滑らかな衣をまとい、慌てて走ってきたのか少し乱れた髪のまま、その手には――なぜか、使い込まれた水拭き用の「雑巾」がしっかりと握りしめられている。


 誰もが、緊迫した空気の中で一瞬、そこに引っかかった。

 なぜ、国と国が滅びるかもしれないこの絶望的な状況で、ヒロインの手にあるのが魔法の杖でも宝石でもなく、雑巾なのか。

 だが、そんな些細な疑問は、彼女の姿を見た瞬間に起きた「ある変化」によって、一瞬ですべて塗り潰された。

 オフィウスの、表情が。

 本当に、バグか何かのように、劇的に変わったのだ。

 さっきまで人類史上最も危険で冷酷な殺気を放っていた氷の皇帝が、彼女の姿を視界に捉えたほんの一瞬で、限界までとろけるようにやわらかくなった。


「……メルヴィ」


 ただ名前を呼ぶだけのその声に、先ほどまで世界を凍らせていた殺意が欠片も残っていない。

 いや、正確には敵に対する殺意はたぶん消えていない。ただ、その強烈な殺意の上から、彼女に対する蜂蜜のように甘い安堵と、狂おしいほどの愛しさが、デコレーションケーキのクリームのようにすべてを分厚く覆い隠してしまっただけだ。

 メルヴィは手すりへ身を乗り出しかけ、落ちるのを恐れたシャムスの近衛兵たちに慌てて止められた。


「あ、危ないのでそこで止まってください!」

「あっ、すみません! つい」


 素直に兵士に謝るが、その視線はすでに、一直線に眼下のオフィウスだけへ向いている。


「陛下、お怪我はありませんか!?」

「ない」

「本当に? どこか痛いところとか」

「君に会うまで、怪我などするものか」


 広場にいた両軍の兵士たちが、毒気を抜かれたように一斉に沈黙した。

 甘い。

 致死量レベルで、ものすごく甘い。

 分厚い外郭門を物理的に凍らせて粉砕し、単騎で敵国の王宮へカチコミをかけてきた最凶の男の台詞として、あまりにも甘すぎて脳が処理を拒否する。

 ザフィールは構えていた剣を少し下げ、頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。


「……男として、最初から勝てる気がしない」

「今さらですな……我々は昨日からずっとその現実を見せつけられております」


 背後の宰相が、死んだ魚のような目でぼそりと同意する。

 一方、メルヴィはそんな周囲の重たい衝撃などまったく知らず、今にも泣きそうな、申し訳なさそうな顔で叫び続けた。


「ご、ごめんなさい。私がドジで攫われたせいで、こんな大ごとに……」

「違う」


 オフィウスは、一切の迷いなくきっぱりと言い切った。


「君は何も悪くない」

「でも、私が隙を見せたから」

「悪いのは、君の意思を無視して攫った側の男だ」


 視線を向けただけでザフィールを氷漬けにして粉砕しそうな凄まじい勢いだったが、次の瞬間には、その視線はまた熱を帯びてメルヴィへと戻る。


「今すぐ、私の元へ降りて来られるか」

「はいっ!」


 返事はとても元気だった。

 しかし、その直後。


「あ」


 メルヴィは自分の足元を見て、小さく固まった。

 二階回廊の美しい大理石の床には、ついさっき彼女が熱心に拭き掃除に使ったらしい水気が、まだほんの少しだけ残っていたのである。鐘の音に驚いて慌てて飛び出してきたせいで、完璧に拭き取りきれていなかったのだ。

 嫌な予感がした。

 広場から見上げるオフィウスの目が、すっと細くなる。


「動くな」

「え、でもすぐそこまで」

「水気がある。滑る」

「……はい」


 見えない位置のはずなのに、完璧に状況を言い当てられてしまった。

 メルヴィが手すりの前でしょんぼりと立ち尽くすと、オフィウスは迷いなく、優雅な動作で片手を天へ向けて上げる。

 ――ぱき、ぱきぱきっ!!と。

 凄まじい速度で空気が凍る音を立てて、広場の中央からメルヴィのいる二階回廊のバルコニーまで、透き通るような巨大な「氷の階段」が一瞬でせり上がった。


「ひえっ!?」


 その常識外れの魔法行使に、シャムス側の術師や兵士が悲鳴のような変な声を出す。

 敵国の王宮の外壁に、皇帝が自らの魔力で「愛する女を迎えに行くための即席の氷階段」を築いたのである。もはや城の侵入とか攻略とかいう軍事的な次元を完全に逸脱している。

 オフィウスはその滑るはずの氷の階段を、一切の躊躇なく、一直線に駆け上がった。

 漆黒の外套が、まるで猛禽の翼のように大きく翻る。

 瞬く間に回廊へ辿り着いた彼は、周囲のシャムス兵が武器を構えるより早く、まずメルヴィの小さな手から、その濡れた雑巾をすっと奪い取った。


「こんな世界が滅びそうなときまで、君は掃除をしていたのか」

「だ、だって、王宮の北側回廊が風の抜けが悪くて、すごく砂っぽくて……」

「……君という人は、本当に」


 困ったように、けれど心の底からの愛しさをどうしてもこらえきれないように、オフィウスは深く熱い息を吐いた。

 そして次の瞬間、彼はメルヴィの華奢な体を、自身の腕の中へ折れるほど強く抱きしめた。


「陛下っ」


 大きな腕の中へ、すっぽりと収まる。

 極寒の冷気を放っているはずの軍装なのに、触れた胸板は不思議と寒くない。むしろ、彼の強い鼓動が伝わってきて、胸の奥がじんわりと熱くなる。

 オフィウスは彼女の柔らかな髪に顔を深く埋め、ここまで死に物狂いで抑え込んでいた巨大な感情を、やっとの思いで零した。


「怪我は、本当にないか」

「はい……」

「怖い思いをしたな」

「少しだけ、しました」

「……君がいなくて、気が狂うかと思った」


 その場にいた、広場のシャムス兵も、帝国の騎士団も、全員の時が止まった。

 敵国の王宮のど真ん中で。

 しかも今まさに殺し合おうとしていた大勢の兵と王子と重臣の目の前で、あの氷の皇帝が、そんな甘く切実な台詞を吐いたのである。

 しかも、一片の冗談でも演技でもない。

 本気だ。

 静かな声音に混じる切実さと独占欲が、生々しいほどに本気だった。

 メルヴィの頬が、一瞬で林檎のように赤く染まる。


「へ、陛下……皆さんが下で見ています……」

「見せている」

「わざと見せているのですか!?」

「君が無事で、私のものだと全員の魂に刻み込ませる必要がある」


 帝国の君主としての威圧的な理屈の形はしているが、実質はただの「一秒でも長く抱きしめ続けたい」という強烈な願望である。

 メルヴィは恥ずかしさで耳の先まで真っ赤になりながらも、結局その安心する温かい胸から離れられなかった。

 自分だって、たまらなく会いたかったのだ。

 こうして力強く抱きしめられた途端、数日間気を張っていた見えない糸がプツリと切れたみたいに、心の底から安心してしまう。


「私も、ずっとお会いしたかったです」


 胸に顔を埋めたまま小さな声で言うと、オフィウスの抱きしめる腕に、少し痛いくらいさらに力がこもった。


「私もだ」

「お掃除、敵国なのに勝手にいろいろしてしまって、ごめんなさい」

「謝るポイントがそこなのか」

「あと、王子殿下たちにもいろいろご迷惑を」

「そこでもある」


 ちゃんと、そこの怒りでもあるらしい。

 氷の階段の下の広場では、シャムス側の面々が、もはやどう反応していいかわからない、なんとも言えない複雑な顔で、その熱烈な再会劇を見上げていた。

 ザフィールは構えていた曲刀をゆっくりと下ろし、砂漠の熱気を吐き出すように長く息を吐く。


「……駄目だな」

「殿下」

「武力でも、想いの深さでも、完全に俺の負けだ」


 宰相が慰める言葉も見つからず、そっと目を伏せた。

 いや、恋愛面で圧倒的に負けているのは、この数日のやり取りでシャムスの全員がよくわかっていた。だが、ここまで堂々と、国境を破壊するスケールで真正面から見せつけられると、もはや嫉妬するのも馬鹿らしくなるほど清々しい。

 軍務卿が、ぼそりとこぼす。


「殿下、これでまだ一人の女を巡って意地を張り合うのは、いくらなんでも為政者として無粋の極みですな」

「張り合った瞬間に、俺の心ごと国が物理的に凍る」

「それもあります。大いに」


 命に関わる問題だ。

 ザフィールは諦めきったように苦笑しながら、回廊の上にいるオフィウスへとゆっくりと向き直った。


「氷の皇帝」


 回廊の上でメルヴィを大事そうに抱いたまま、オフィウスが冷ややかな視線を下ろす。


「何だ」

「彼女は見ての通り無事だ。強引に攫ったことについては、王族として正式に謝罪する。俺は、呪いから国を救いたかった。……できれば、奇跡を起こす彼女自身の心も欲しかった」


 率直だった。

 ザフィールらしい、裏表のない飾りのない言葉だ。


「だが、今その姿を見て完全に納得した。俺の入る隙は、針の穴ほどもない」


 メルヴィが、きょとんとして瞬きをする。

 オフィウスは表情を一切変えずに、当然のように答えた。


「当然だ」

「そこは少しくらい、勝者の余裕で謙遜しろ」

「紛れもない事実だ」

「最高に腹立つな」


 だが不思議と、ザフィールの胸に本気の憎しみは湧かなかった。

 彼は肩をすくめ、カチャリと音を立てて剣を鞘へ完全に戻す。


「我が国は、帝国の武力の前に謝罪しよう。此度の件は全面的にこちらの非だ。聖教官殿には多大な迷惑をかけた。ゆえに――」


 彼は一歩引き、熱砂の大国の第一王子として、自らの非を認めるようにはっきりと頭を下げた。


「無条件で、返還する」


 広場がざわめいた。

 大国の第一王子が、敵国の皇帝に向かって、剣を収めてここまで明確に非を認める。それは国家の威信として、きわめて重く、屈辱的な判断だ。

 だが、シャムス側の重臣も兵士も、誰一人としてその決断に異を唱えなかった。

 唱えられるような空気ではなかった、という物理的な恐怖もある。現に王宮の正門広場はすでに完全な氷河期だ。これ以上意地を張ってこじれれば、間違いなく国家存亡に関わる。

 だが、理由はそれだけではない。

 この数日という短い期間で、この場にいる誰もが、メルヴィという少女に救われ、恩を受けていたからだ。

 息苦しかった王宮の空気は改善し、原因不明だった結界の乱れは落ち着き、王都の未来を救う改革の道筋まで見えた。攫ってきた手段は最悪でも、彼女がこの国を根本から救ってくれたという事実は、誰にも動かせない。

 そんな尊い相手に、これ以上己の欲望で無体を働ける者など、シャムスにはいなかった。

 宰相が進み出て、王子の横で深々と頭を垂れる。


「エルドラード皇帝陛下。此度の件、まことに、まことに申し訳ございませんでした。聖教官殿には、我らシャムスの民は感謝してもし足りませぬ。我が国の愚かな無礼を、どうか……」


 そこまで言って、老練な宰相の言葉が続かなくなる。

 どうか許してほしい。

 そう言いたいのだろうが、大軍勢を引き連れて激怒している氷の皇帝を前に、軽々しく命乞いのように願えることではない。

 重く、冷たい沈黙が広場を支配する。

 そのとき、オフィウスの腕の中にいたメルヴィが、そっと顔を上げた。


「陛下」

「何だ」

「王子殿下たちは、私を攫ったりとたくさんご無礼もありましたけれど……」

「……」

「でも、私が掃除のついでに気になったお話をすると、すごく真剣に話を聞いてくださって、この王宮も王都も、本気で良くしようと動いておられます。少し強引ですが、決して悪い方たちではないです」


 オフィウスは黙って、見上げる彼女の瞳を見る。

 メルヴィは少しだけ困ったように、八の字に眉を下げた。


「それに、せっかく国境の水殿も詰まりが取れて綺麗になったのですから……これで国交まで冷えきってしまうのは、お掃除の観点からもすごくもったいないかと」


 シャムス側の重臣たちが、その言葉を聞いて一斉に息を呑んだ。

 この少女は、本当に、恐ろしいほどこういうところだ。

 攫われた被害者本人が、加害国であるシャムスの未来を憂い、国交改善の心配をしている。

 しかも、政治的打算ではなく「掃除の延長」みたいな純粋な発想で。

 オフィウスは数秒、静かに彼女の真っ直ぐな瞳を見つめたあと、溜め込んでいた冷気を散らすように、ようやく小さく息を吐いた。


「……君が、そう言うなら」


 広場中の凍てついていた空気が、一気に春風のように緩んだ。

 許された。

 少なくとも、今この場で王族ごと王宮が氷漬けにされるという最悪のバッドエンドは遠のいた。

 後方で控えていたラグナスが、寿命が十年延びたような顔で、心の底から安堵する。


「助かりました……本当に、帝国の国益的にも」


 彼のぼやきは、もはや神への感謝の祈りに近かった。

 オフィウスはなおもメルヴィを片腕でしっかりと抱いたまま、氷の階段の上からザフィールへ見下ろすように鋭い視線を向ける。


「シャムスの王子。今後、二度と彼女の髪一本にすら無断で触れるな」

「……最大限、善処する」

「善処ではない。厳守しろ。次はないぞ」

「わかった。肝に銘じる」

「あと、彼女が教えた王宮北回廊の清掃手順と通気口の角度は、正確に記録しておけ。メルヴィのせっかくのやり方を無駄にするな」

「そこを気にするのか!?」

「彼女がその手で整えたものだ」


 緊迫していたはずのザフィールは、そのブレない皇帝の態度に、思わず肩を揺らして吹き出した。


「本当に底なしだな、あんたのその執着は」

「愛情だ」

「執着と言い切れないところが、なお悪い」


 だがその二人のやり取りには、もう先ほどまでの血を洗うような剣呑さはない。

 奇妙なことに、一触即発だった氷の帝国と熱砂の国は、この瞬間、メルヴィという少女をかすがいにして少しだけ近づいていた。


 


 それからの事後処理の流れは、劇的に早かった。

 シャムス王国は正式な謝罪使節を立て、多額の賠償に代えて、国境の水殿遺跡の共同管理とオアシス復興計画をエルドラード帝国へ提案した。メルヴィの指導による王宮環境改善案も、単なる掃除のノウハウではなく「国交正常化の一環」として重要機密として記録され、両国共同の保全計画にまで格上げされることになった。

 もともと隣接する大国同士として、水面下の交易の繋がりは深い。だからこそ、為政者同士が腹を割って一度結び直せば修復は早い。

 何より、シャムス側の重臣たちがこぞって口を揃えて言ったのだ。


「我らを呪縛から救ってくださった聖教官殿の恩に報いぬなど、シャムス王国の恥です!」


 強引に攫ってきた張本人である重鎮たちが、涙ながらにそれを熱弁するのだから、帝国の外交官たちも圧倒されるしかなかった。


 数日後、すっかり砂埃が減って空気の澄んだ王宮中庭で、正式な見送りの場が設けられた。

 白銀の砂上船が再び優雅に停泊し、甲板を覆う氷結界の内側には、前回よりもさらにふかふかで快適そうな特注の座席が用意されている。

 オフィウスが無言で「メルヴィが疲れないように」と仕様を限界まで増やしたのだろうと、ラグナスは胃薬を飲みながら見なかったことにした。

 メルヴィは出発の直前まで、王宮の侍女たちや、すっかり弟子と化した管理官たちに囲まれ、名残惜しそうに涙目で見送られていた。


「聖教官殿、教えていただいた柱の角の水拭きの手順、毎朝夕、必ず守っております!」

「西回廊の侍従たちの咳も、魔法のように減りました!」

「南区の広場改善案も、第一期工事に入りました!」

「皆さん、どうか無理はなさらないでくださいね。乾拭きばかりだと細かい砂が舞いますので、必ず布を湿らせてから――」

「はい!!」


 もはや外交の場というより、完全にカリスマ先生と熱血な弟子たちの別れである。

 ザフィールも、少し離れたところから腕を組んでその賑やかな様子を見ていた。今日はさすがに攫う気配は微塵もない。顔つきも、憑き物が落ちたようにずいぶん吹っ切れている。

 メルヴィが列を抜け、最後に彼の前へ来て、ぺこりと深く頭を下げた。


「王子殿下、短い間でしたが、いろいろとありがとうございました」

「礼を言うのはこちらのほうだ」


 ザフィールは苦く、けれどスッキリとした顔で笑う。


「君のおかげで、この砂まみれの国は、これからだいぶ息がしやすく、まともな国になる」

「皆さんが私の掃除の話を信じて、頑張ってくださったからです」

「君のそういう、無自覚なところだぞ」

「え?」

「いや、何でもない。こちらの負け惜しみだ」


 彼は一瞬だけためらうように視線を伏せ、それから過去を断ち切るように深く息を吐いた。


「次に会うときは、強引な手段ではなく、ちゃんとエルドラードの国賓の外交使節として最高級の礼で迎える」

「はい」

「そのときは、絶対に攫わない」

「はい。ぜひそうしてください」


 ものすごく真顔で念を押すように返され、ザフィールは天を仰いで声を立てて笑った。


「わかった。約束する」


 そして、燃えるような金褐色の瞳を少しだけ細め、誰よりも優しい声で告げる。


「幸せになれ、メルヴィ殿」


 メルヴィも、ふわりと花が咲くように微笑んで頷く。


「ありがとうございます。王子殿下も、どうかお元気で」


 しかし、ザフィールはメルヴィに聞こえない小さな声でささやく。

「そうは言っても、やはり...、欲しい。うらやましいぞ、オフィウスよ」


 ザフィールの執着はやはり消えはしない。




 やがて、巨体を揺らして砂上船が滑るように動き出す。

 氷結界の内側、最も景色が良く振動の少ない特等席に座ったメルヴィの隣には、当然の権利のようにオフィウスが陣取っていた。いや、隣というより、もはや肩が触れ合うほどの密着状態である。

 ラグナスは少し離れた席で、山積みの事後報告書を整理しながら、努めて二人のほうから視線を逸らした。

 見ない。私は何も見ない。

 だが、聞きたくなくても会話の声は鼓膜に届く。


「陛下、少し近くありませんか」

「近くない」

「近いです。服が擦れています」

「君とは数日離れていた。物理的な距離を埋める必要がある」

「それはそうですが」

「心の補充が必要だ」

「何の補充でしょう」

「私が摂取できなかった、君の成分が足りない分だ」


 甘い。

 致死量の凶器みたいに甘い。

 ラグナスは静かに、分厚い書類の束で両耳を塞ぎたくなった。

 メルヴィは首まで真っ赤になりながらも、小さく頬を膨らませた。


「私はこうして、ちゃんと無事に帰ってきたのですから……そんなに心配なさらなくても」

「無理だ」


 オフィウスは、間髪入れずに即答した。


「君が私の視界から消えた瞬間から、この世界のすべてが許容不能なエラーになる」

「そんな大げさなことを言われましても……」

「次からは、何があっても絶対に離さない」

「攫われる次があっては困ります!」

「ならば、今後はどんな時も常に隣にいる」

「皇帝陛下の政務はどうされるのですか」

「君の隣でやる」

「それはいくらなんでも、どうかと思います」


 至極もっともな正論である。

 もっともなのだが、オフィウスは少しも譲らなかった。

 彼はそっとメルヴィの小さな手を取り、その荒れていないか気にするように、指先を確かめるようにじっと見つめる。


「手が少し荒れている」

「えっ」

「王宮で、掃除をしすぎたな」

「少しだけです」

「少しではない」


 そう断言すると、彼は待機していた侍従へ目で合図を出し、帝室専用の最高級の保湿用軟膏と、柔らかな絹の布を持って来させた。

 メルヴィが「自分でやります」と止める間もなく、皇帝自ら、まるで壊れ物を扱うような手つきで、彼女の指先へ丁寧に軟膏を塗り始める。


「へ、陛下っ」

「動くな。傷に染みる」

「皆さんが……ラグナス様たちが見ています……!」

「見せている」

「またですか!?」


 ラグナスはもうだめだった。

 完全に諦めて、流れる砂漠の遠い空を見た。

 砂上船の窓の外では、オフィウスが怒りで凍らせていた砂海が徐々に解け、もとの美しい金色を取り戻していく。国境の張り詰めていた緊張も少しずつ緩み、シャムスとエルドラードのあいだには、数百年ぶりに新しい恵みの水の道が通い始めるだろう。

 その世界規模の奇跡の中心にいるのが、今こうして軟膏を塗られながら恥ずかしさで困り果てている元九等官の少女だというのだから、世の中は本当にどう転ぶかわからない。


 


 エルドラード帝国へ無事に帰還した後、帝城では国を挙げての盛大な出迎えが行われた。

 奇跡の聖教官の無事な帰還に、侍従も騎士も神官も涙を流して安堵し、ついでに氷の皇帝の機嫌が劇的に回復(というより限界突破のデレ状態)したことで、帝国中の空気が一気に春のように軽くなった。

 ただし、その後の帝城の日常は、以前にも増して大変なことになった。


「メルヴィ様、その書棚の上の整理は我々侍従がやりますので!」

「いえ、でも少しだけ並びを整えたほうが使いやすいですし――あ」

「危ない」


 背後の空間からすっと現れたオフィウスが、当然のように脚立へ上がろうとする彼女の腰を背後から支えて止める。


「私がやる」

「陛下、またですか」

「まただ」

「私は高いところの掃除も平気です」

「平気ではない」

「平気です」

「君が落ちないか、見ている私が不安だ」

「それを真正面から言われると、反論しづらいです……」


 結局、彼女が乗るはずだった脚立には長身の皇帝が上がり、メルヴィは下で布を渡すだけの係にされた。

 数分後。


「では、床の水拭きを」

「私がやる」

「窓枠の砂取りを」

「私がやる」

「通気口の確認を」

「私がやる」

「……お掃除できるところがなくなってしまいます」


 メルヴィが本当にしょんぼりして肩を落とすと、オフィウスは脚立の上から、少しだけ困ったように表情をゆるめた。


「君は、全体を監督してくれ」

「監督、ですか」

「それなら危なくないし、君の審美眼も活きる」

「でも、お掃除したという実感が薄いです」

「ならばすべての工程が終わったあと、一番最後の『仕上げ』だけ頼む」

「仕上げだけですか?」

「ああ。君が触れた場所は、最後に必ず、世界で一番綺麗になるからな」


 さらりと、国宝級の笑みとともに言われ、メルヴィはまたしても耳まで赤くなる。

 結局、この甘すぎる過保護な男にはどうやっても勝てないのだ。

 ラグナスは執務室の入口で承認待ちの書類を抱えながら、その夫婦漫才のような光景を見て深く息を吐いた。


「……以前にも増して、完全に離れられなくなりましたね」

「当然だ」


 脚立の上で、布を手にしたオフィウスが即答する。


「二度と、私の目の届かないところへ彼女を置くつもりはない」

「陛下。せめて外交上、他国が聞いても引かない程度にもう少し穏やかな表現を」

「努力はする」


 努力で済めばよいのだが。

 ラグナスは諦め半分で視線を移し、そして、少しだけ口元をゆるめた。

 窓辺では、メルヴィが真っ白な布を抱えたまま、困ったように、けれど心の底から嬉しそうに笑っている。その顔は、敵国に攫われていたときよりずっと穏やかで、自分が帰るべき場所で安心しきっていた。

 ならば、まあいいのだろう。

 国境をまたぐ前代未聞の大騒動の果てに、二つの大国の関係はかえって良くなったのだ。

 国境の水殿遺跡は両国で共同管理され、シャムス王国からは定期的に清浄化の改善報告が届く。王都南区の再整備も順調らしく、最近では“砂塵制御と清浄化に関する聖教官殿の助言書”なる公式文書まで作られ、シャムスのバイブルになっていると聞く。

 そのすべての功労者である本人はというと。


「陛下、そちらの隅、拭き残しがあります」

「どこだ」

「右上の角です」

「……本当だ」

「ですから、お掃除は最後に見直しが大事なのです」

「なるほど。次から気をつける」

「はい。お願いします」


 大帝国の皇帝に、掃除の仕上げ確認とダメ出しをしていた。

 やはりこの帝国は、いろいろな意味で完全に手遅れかもしれない。

 けれど、この二人が幸せそうなら、それで十分だ。

 そんなふうに思ってしまう自分も、皇帝の溺愛っぷりにだいぶ毒されているのだろうと、ラグナスは静かに頭を抱えた。


 その日もまた、夕暮れの帝城には穏やかな黄金色の光が差し込んでいた。

 メルヴィによって磨かれた大理石の床は淡く輝き、窓辺の風はやわらかく通り抜ける。

 そしてその真ん中で、メルヴィがお掃除を始めようとするたびに、オフィウスが当たり前のように寄り添って言うのだ。


「危ない。私がやる」


 その声音は、世界でいちばん甘くて、不器用なほど過保護で、どうしようもなく幸福そうだった。


(第2部完)

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