第7話 氷の皇帝の激怒と、王子様のドン引き(そして陥落)
シャムス王国の朝は早い。
太陽が巨大な砂丘の向こうから顔を出す前、空がまだ深い群青から紫へと移ろう頃には、王都はすでに動き始めている。
水運びの列が石畳を踏む乾いた音が響き、商人たちは露店の布を翻して荷車を引き、重装備の兵士たちは夜の鋭い冷気が残るうちに朝の巡回を終える。
すべてを焦がす熱砂の国において、太陽が中天に昇る前の「朝のうちに」どれだけ都市の機能を整えられるかは、その日の生死にすら関わる絶対の掟だ。
――もっとも、その王都の常識も、ここ数日で劇的に、かつ奇妙な方向へ変わり始めていた。
「そこ、止まってください!」
静寂に包まれた王宮の西回廊に、やけに張りのある可愛らしい声が反響した。
砂色の滑らかな絹衣に軽い上着を重ね、艶やかな髪を簡単にまとめた小柄な少女が、手にした極細繊維の布と棒きれを指揮杖のように掲げて、完全武装の兵士たちを呼び止めている。
メルヴィ・アシュベリー。
本来なら他国から強引に攫われてきた捕虜であり、外交上きわめて危うい爆弾として丁重に隔離されるべき賓客である。
なのに今、彼女は王宮の回廊のど真ん中に陣取り、精鋭たる近衛兵たちの「歩き方」に熱血指導を入れていた。
「足を擦らないでください。今その歩き方をされると、せっかく沈めた砂がまた空中に舞います」
「は、はいっ!」
百戦錬磨の王宮近衛兵が、まるで新兵のように反射で直立不動になる。鎧の擦れる音が回廊に響いた。
「もう少し、こう……静かに、そっと置く感じです。忍び歩きのように」
「こ、こうでしょうか……?」
「はい。とても良いです。砂が逃げていません」
褒められた屈強な兵士が、なぜか誇らしげに顔を紅潮させる。
その信じがたい光景を、少し離れた柱の陰から、国家の頭脳たる宰相と王宮管理長が、すがるような真剣な面持ちで見守っていた。
「……近衛兵の本来の練度ではないのだがな」
「しかし宰相閣下、実際に砂塵の再浮遊量が劇的に減っております」
「減っているな」
「昨日の時点で、西回廊の結界脈動は過去十年で最も安定した数値を叩き出しました」
「減っている上に、安定までしているな」
宰相は、とうとう悟りを開いた僧侶のように遠い目になった。
たった二日。
たった二日である。
あの規格外の少女が王宮に入ってからわずか四十八時間しか経っていないのに、長年解消できなかった王宮内の空気の重さが嘘のように薄れ、原因不明とされた結界障害が劇的に改善し、侍従たちの咳込みまでピタリと止んでいる。
他国の重鎮が聞けば鼻で笑うだろう。
国家防衛の根幹に関わる問題の一端が、掃除の方法と通気設計の見直しという、信じられないほど所帯染みた方法で解決しつつあるなどと。
「やはり、我が国に舞い降りた女神……」
王宮管理長が、胸の前で手を組みながらぼそりと呟いた。
「そこはまだ保留にしておけ」
「しかし宰相」
「本人が涙目で強く否定しておられる」
「ですが、あの御方の奇跡をそれ以外にどう表現すれば……」
「せめて聖賢に留めろ」
留める場所としては、すでに人智を超えたかなり高い位置である。
そのとき、回廊の向こうから血相を変えて駆けてくる侍従の足音が、朝の空気を切り裂いた。
「宰相閣下! 北方監視塔より急報です!」
「何だ」
「国境方面の砂海が、帯状に完全に凍結しているとのことです!」
その場の全員の呼吸が、ぴたりと止まった。
「……は?」
「目視した兵が恐慌状態で報告を……! しかもその巨大な凍結帯が、凄まじい速度で日ごとに南下していると!」
王宮管理長の顔から、一瞬で血の気が引く。
宰相は脳裏に、世界で最も恐ろしい一つの顔を思い浮かべていた。
氷の皇帝。
エルドラード帝国皇帝オフィウス・ルヴァン=エルドラード。
他国の王族や将官が聞けば、その名だけで背筋を凍らせる冷酷無比な絶対君主。そして今、彼が世界の何よりも溺愛する唯一の存在が、間違いなくこの王宮の中心にいる。
つまり。
「……来るな」
「来ますな」
二人の声が、絶望的なほど綺麗に重なった。
彼らは無言で、同時に重い頭を抱えた。
一方その頃、メルヴィはそんな国家存亡の緊迫感とはまったく無縁の空間にいた。
王宮内庭園の一角、豊かな水音が響く噴水のそばに設けられた仮設の作業机。朝の柔らかな光の中、彼女は真剣な顔で羊皮紙に向かい、羽ペンで定規を当てて線を引いている。
「ここに風が抜けて、ここで砂が落ちて……」
横から、都市整備官が食い入るように身を乗り出した。
「それは、王都南区の広場再設計図ですか?」
「はい。正確な図面ではなくて、たぶんこうだろうという私なりのメモですが……。この主要通路、両側の建物の壁が同じ高さだと熱気が籠もりますので、片側だけ少し低くして風を上へ逃がした方がよさそうです」
「おお……!」
「あと、水路の縁の石材は滑らかすぎると細かい砂が溜まりやすいです。少しだけ段差を入れて流れに波を作り、沈殿したものを押し流しやすくした方が」
「なるほど……!!」
都市整備官の瞳には、ほとんど感涙の光が浮かんでいた。
その隣で、結界術師長も羊皮紙の束を握りしめ、必死に彼女の言葉を書き取っている。
「聖教官殿、こちらの回廊結界ですが、通気改善後に補助術式を一枚挟めば、より安定すると考えてよろしいでしょうか!」
「はい。たぶん、清浄な空気の流れを邪魔しない、薄くて柔らかいものなら」
「薄いもの……清浄流と喧嘩しないしなやかな補助膜……!」
この砂漠の大国を支える重鎮たちが、なぜ敵国から攫ってきたはずの少女の周りに群がり、毎朝必死に指示を仰いでいるのだろうか。
もはや誰もその光景を疑問に思わなくなってきたあたりが、この国の末期症状である。
「メルヴィ殿」
庭園の入口から、低くよく通る声が響いた。
ザフィールである。
今日もまた、砂漠の陽光をそのまま人の形に切り取ったかのような、圧倒的に華やかな風貌だった。鍛え上げられた体躯にしなやかな軽鎧をまとい、金と深紅の布を風に翻して歩く姿は、絵画から抜け出たように見事な王子のそれだ。
だが、その熱を帯びた視線は、周囲の大臣たちを完全に無視して、ただ一人の少女へ向いていた。
「昨夜の修正案を見た。見事だった」
「えっ、いえ、私はお掃除のついでに思いついたことを少し書いただけで」
「その少しで、我が国の百年の悩みが一つ消えた」
「そこまででは」
「そこまでだ」
一切の退きを許さない真っ向からの断言に、メルヴィは弱ったように視線を泳がせた。
ザフィールは不敵に少し笑い、彼女の机の上に、豪奢な細長い箱をコト、と置いた。
「礼だ」
「礼、ですか?」
「開けてみろ」
メルヴィが恐る恐るベルベットの蓋を開ける。
中には、砂漠の深く澄んだ夜空をそのまま固めたような、見事な深青の石が嵌められた髪飾りが収められていた。周囲を囲む細工は極めて繊細で、砂嵐の渦を象った金細工の中心で、青石がオアシスの水滴のように神秘的なきらめきを放っている。
「きれい……」
思わず零れた感嘆の本音に、ザフィールの野性的な目が、甘く柔らかく緩む。
「シャムス王家の筆頭工房に徹夜で作らせた。清らかな水を導く守護石だ。君に似合うと思ってな」
「こ、こんな高価そうなもの、とてもいただけません」
「なぜだ」
「なぜって……見ただけで国宝級に高そうですし、それに私は今、立場的に受け取って良いのかどうかが……」
「良いに決まっている」
「決まっているのですか!?」
完全に決まっているらしい。
ザフィールは箱の中から髪飾りを無造作に取り上げると、当然の権利のように、メルヴィの柔らかな髪へ直接差そうと身を乗り出した。
「ひゃっ」
「動くな」
「う、動きたくて動いているのではなくてですね……!」
近い。
ものすごく、近い。
気迫の強い、しかも見目麗しい異国の王子が、逃げ場のない至近距離まで迫ってくる。その熱意と男性的な香りは、王都の隅でひっそり書類の埃を払っていた一般文官出身のメルヴィには、だいぶ刺激が強すぎた。
だが、その唇が触れそうな距離まで迫った、まさにその瞬間。
「王子殿下!!」
間の悪い――いや、今この場にいたメルヴィと重臣たちにとっては最高に間の良い、切羽詰まった声が響いた。
宰相である。
彼は老齢とは思えぬ速度でほとんど駆け込むようにして庭園へ現れ、ザフィールの手がメルヴィの髪に触れる寸前で、わざとらしく、かつ強烈な咳払いをした。
「緊急のご報告が」
「今か?」
「今です。今でなければ国が滅びます」
宰相の顔には、一片の冗談も浮かんでいない。
ザフィールは手を止め、舌打ちを飲み込んで険しい顔で振り返った。
「何があった」
「北方国境より飛竜便による報。砂海の大規模凍結が現在も継続中。最前線の砦の外壁が一夜にして分厚い霜に覆われ、巡回路の一部では、巨大な砂嵐ごと空中で完全に凍りついたとのことです」
さすがのザフィールも、その常軌を逸した報告に表情を失った。
「……来たか」
「間違いなく」
「氷の皇帝だな」
「はい」
その名が出た瞬間、メルヴィの小さな肩が、弾かれたようにぴくりと揺れた。
「陛下が……」
ザフィールは、そのわずかな反応を決して見逃さなかった。
彼女の声は、微かに震えていた。
それは恐怖による怯えではない。愛する人が無理をしていないかという心配と、迎えに来てくれた安堵と、他国を巻き込んでしまった申し訳なさが、すべてないまぜになったような、ひどく熱を帯びた響きだった。
「会いたいか」
ザフィールがふいにそう問うと、メルヴィは少しだけ目を伏せ、震える両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。
「……はい」
それはあまりに純粋で、一片の迷いもない返事だった。
ザフィールは、胸の奥を鋭い刃でえぐられたような、強烈な痛みを感じた。
初めからわかっていたことだ。
この少女が、冷血なエルドラード皇帝にとってただならぬ存在であることは。
そして彼女にとってもまた、あの狂気じみた皇帝が世界の誰より特別なのだと。
だが、こうして面と向かってはっきりと想いを口にされると、想像していた以上に重く、苦しい。
「そうか」
たったそれだけ返し、彼はそっと、髪飾りの箱を閉じた。
同じ頃。
王都のはるか北、灼熱の砂海を一直線に貫く巨大な「白銀の道」の上を、エルドラード帝国の一団が不気味なほどの静寂とともに進んでいた。
氷の道。
そう表現する以外に言葉がない。
本来なら深く足を取られる柔らかな熱砂の砂丘が、数十里にわたって、まるで鏡のように滑らかで分厚い絶対零度の凍土と化している。しかも、ただ地表が凍っているだけではない。氷の表層は鋼鉄よりも強靭で、重装備の軍馬も装甲馬車の車輪も一切埋まらず、吹き荒れるはずの砂嵐は、彼らに接近するそばから空中でパキパキと音を立てて氷片になり、粉雪のように砕け散っていく。
その非現実的な白銀の世界の中央を、ただ一人、周囲の空気を圧倒しながら進む者がいた。
純白の軍装の上に漆黒の外套を羽織った、氷の皇帝オフィウスである。
彼の表情は、ひどく静かだ。
静かすぎる。
怒りが限界を超え、感情の許容量が振り切れると、かえって声が低く澄み、能面のように感情が消え失せる人間がいるが、今の彼はまさにそれだった。
「前方、砂中より魔物群接近!」
斥候の騎士が、張り裂けんばかりの声で叫ぶ。
砂中潜伏型の大型魔獣。国境地帯の厳しい環境を生き抜く、頑丈な外殻と猛毒の牙を持つ厄介な群れである。普段なら即座に隊列を整え、隙を突いて誘い出してから慎重に囲んで仕留めるべき強敵だ。
だが、オフィウスは歩みを一歩たりとも止めなかった。
「邪魔だ」
絶対零度の声が、ただ一言、空間に落ちた。
次の瞬間。
前方の広大な砂地が、フラッシュを焚いたように一面純白に染まり、地中から奇襲をかけようと飛び出しかけた十数体の巨大な魔物が――その動きを完全に静止させた。
彼らの足元から天を突くような巨大な氷柱が、爆発的な速度で突き上がったのだ。
――ごぎんっ! ばきぃっ!!
分厚い外殻が内部から凍結し、砕け散る鈍い音が連続して響き渡る。
砂漠の脅威であったはずの魔物たちは、悲鳴を上げる暇すら与えられず、ほぼコンマ一秒で精巧な氷の彫像へと変えられた。
後続の精鋭騎士たちが、あまりの圧倒的な暴力の前に沈黙する。
主君の力に慣れている彼らでさえ、この容赦のない殲滅劇は何度見ても慣れきれるものではない。
「……相変わらず、一片の容赦もないな」
ラグナスが、胃の辺りを押さえながら小さく呟く。
胃は痛いし、頭痛でこめかみは割れそうだが、決して馬の歩みは止めない。止めたところで、彼一人だけ砂漠の真ん中に置き去りにされるだけで何の意味もないからだ。
「陛下」
「何だ」
「国境砦からの先行偵察の報告によれば、シャムス側はすでに王都全域で最高レベルの警戒態勢へ移行しています」
「当然だ」
「ここで両軍が全面衝突になれば、後々の外交面の調整や戦後処理が、泥沼のように非常に面倒になります」
「メルヴィを返せば済む」
国際政治の理屈としては暴論の極みだが、オフィウスの脳内においては、これ以上ないほど完全で論理的な正解である。
ラグナスは、肺の奥から湧き上がる深いため息を噛み殺した。
「それはそうですが」
「私の視界の中で攫われた」
「はい」
「泣きながら助けを呼ばれた」
「はい」
「ならば、彼女を取り戻すことが帝国の最優先事項だ」
その低く澄んだ声音の奥底に、ほんのわずかだけ、煮えたぎるマグマのような熱が滲む。
最優先。
エルドラードの絶対君主がその言葉を口にしたとき、それは国家戦略の絶対的頂点を意味する。
つまり今この瞬間、巨大な帝国において最も重要な法案は「メルヴィの奪還」であり、そのためなら隣国の砂漠の気候を変えようが、国境の巨大砦を粉微塵に吹き飛ばそうが、彼にとっては処理すべき些細な「誤差」に過ぎないのだ。
ラグナスは主君のその狂気を完全に理解しているからこそ、せめて帝国とシャムスの双方の被害を最小限に抑えられるよう、必死に思考の歯車を回し続けていた。
「せめて、我々が王都へ着く前に、和平交渉の使者を出しましょう」
「時間の無駄だ」
「ですが陛下」
「シャムスは今すぐ、私の機嫌を損ねる前にメルヴィを無傷で返すか?」
「……現状、相手も王子が引かない構えですので、可能性は極めて低いかと」
「ならば同じだ」
終わった。交渉決裂である。
ラグナスは心の中で天を仰ぎ、これから相対するであろう、まだ見ぬシャムス王国の哀れな重臣たちに向けて、深い同情の祈りを捧げた。
その頃、シャムス王宮の奥深くでは、緊急の午後会議が開かれていた。
本来は国家存亡の機密に関わる王族と重臣のみの最高会議のはずが、なぜかその中心の円卓に、メルヴィがちょこんと同席している。
他国の捕虜が同席しているだけでも異常事態なのに、席順まで明らかにおかしい。ザフィール王子のすぐ隣、重鎮たちが何かの発言を求めるたびに、ちらちらと様子をうかがうような特等席だ。
誰の目から見ても、彼女は重要参考人などではなく、この国の意思決定の中心人物として扱われていた。
「北方砦からの飛竜による報告は、以上です」
軍務卿が、額の汗を拭いながら厳しい顔で告げる。
「進軍速度が、異常を通り越して速すぎる。通常の軍隊なら砂地で大きく減速するはずが、相手は自らの魔力で前方の道を平坦な氷に作り変えながら進んでいる。しかも、砦前方に展開した強固な防砂結界が、術式のハッキングではなく、物理的な冷気圧の膨張で内側から粉々に砕かれたとのことだ」
「物理的に、だと?」
都市整備官が信じられないというように聞き返した。
「ああ。巨大な氷の柱が地這い蛇のように伸びてきて、砦の結界を丸ごと押し潰したそうだ」
「嫌すぎる……」
誰かの偽らざる本音が漏れた。
宰相が重々しく咳払いし、緊張した面持ちでメルヴィへと向き直る。
「聖教官殿」
「は、はい」
「我らの今後の対応のために、率直におうかがいします。あの氷の皇帝陛下は、普段からあのような……」
知を誇る宰相も、さすがに言葉を選んでいるようだった。
「常軌を逸した、規格外の御方でいらっしゃるのですか?」
メルヴィは顎に指を当て、少し真剣に考えた。
「規格外というか……」
大臣たちが、次の一言で帝国の恐るべき軍事機密が明かされると思い、ごくりと唾を呑み込む。
「とてもお優しい方です」
「そこではない!!」
珍しく、軍務卿が卓を叩いて声を荒げた。
「い、いや、失礼! しかし我らが知りたいのは皇帝の温厚さではなく、その恐るべき力についてで!」
「え、ですが陛下は本当にお優しいですよ? 私が城の階段で転ばないようにずっと手を引いてくださいますし、掃除用の重いバケツも『危ない』と言って絶対に持たせてくださりませんし」
「その過保護の延長線上で、他国の砂漠を凍らせて進軍してくるのか……?」
宰相が、深い絶望とともに頭を抱えた。
ザフィールは肘掛けに頬杖をつきながら、黙って、じっとメルヴィの横顔を見つめている。
「メルヴィ殿。ひとつ聞く」
「はい」
「君は、あの恐ろしい皇帝の、一体どこがそんなに良いんだ」
その一言で、会議の空気がピタリと変わった。
大臣たちの視線が、一斉に王子と少女の二人へ向く。
国境を粉砕し、気候を変えながら迫ってくる最凶の氷の皇帝。そして、その破壊の原動力の中心にいる、この無垢な少女。
彼らがどうやって惹かれ合い、どんな関係を築いているのか。それは、この場にいる誰もが知りたい最大の謎だった。
「どこ、と言われると……」
メルヴィは困ったように瞬きをし、そしてふわりと表情を綻ばせた。
「数えきれないくらい、たくさんあります」
ザフィールの金褐色の瞳が、射抜かれたようにわずかに細くなる。
「たとえば?」
「ええと……」
メルヴィは少しだけ恥ずかしそうに頬を赤らめた。
その可憐な表情を見ただけで、周囲の歴戦の重臣たちが「これは聞いてはいけないやつだ」と強烈な嫌な予感を覚える。
「私が高いところの窓枠を拭こうと背伸びをすると、すぐ背後から『危ない』って腰を支えて止めてくださって」
「うん?」
「私が雑巾を持とうとすると、『君が冷たい水で手を荒らす必要はない、私がやる』って」
「待て」
ザフィールが、耐えきれずに片手を上げて制止した。
「今、何と言った」
「え? ですから、陛下が代わりにやってくださるので」
「皇帝が?」
「はい」
「何を?」
「モップ掛けを」
――沈黙。
さっきまで国家防衛の白熱した軍議が行われていたはずの部屋に、絶対的な、理解不能な宇宙の静寂が落ちた。
「……は?」
ザフィールが、己の聴覚を疑いながらゆっくりと聞き返す。
「あの氷の皇帝が、モップ掛けを?」
「はい」
「自ら?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
メルヴィの澄んだ瞳に、嘘をついている様子は一切ない。
というか、彼女が策を弄して嘘のつけるような器用な性格ではないことは、この数日彼女の指示で掃除をさせられてきた全員が、嫌というほど理解している。
つまり、これは紛れもない事実なのだ。
エルドラードの絶対君主にして、大陸最強格の恐怖の象徴である皇帝が、最愛の少女の手を荒らさないためだけに、自らバケツに水を汲み、モップを握りしめて城の床を磨いている。
「……」
ザフィールはしばらく虚空を見つめて黙り込んだあと、真顔で隣の宰相を見た。
「宰相。俺は今、極度のストレスで何かの幻聴を聞いたのか?」
「残念ながら殿下、私の耳にもまったく同じ幻聴が届きました」
王宮管理長が、恐怖で震える声で言う。
「こ、皇帝陛下直々の……最高位のモップ掛け……」
軍務卿が白目を剥いて天を仰ぐ。
結界術師長は信じがたい現実に口元を覆った。
都市整備官に至っては、その究極の献身に、なぜか少し涙ぐんで感動していた。
「一国の主がそこまでするとは……なんという深き愛情……」
メルヴィは周囲の反応を見て、話が変な方向へ向かっていることにようやく気づき、慌てて両手を振って付け加えた。
「あっ、でも違うんです! 私は本当は自分で隅々まで掃除したいんです! お掃除をさせてくれないのは本気で困りますし、不満もいっぱいあります!」
「不満のポイントがそこなのか……」
ザフィールが、もはや絞り出すような乾いた声を漏らした。
「ですが、早くお会いしたいです」
そのメルヴィの一言は、やけに静かに、水面に落ちる一滴のように会議室の空気に響いた。
その場にいた誰も、次の言葉をすぐには紡げなかった。
メルヴィは自分の膝の上で手を組み、俯きがちに続ける。
「攫われたとき、すごく怒らせてしまったと思います。シャムスの皆さんにご迷惑をおかけして、こうして国同士の争いになっているのも申し訳ないですし、それに……」
「それに?」
ザフィールが、祈るような、諦めるような声で問う。
メルヴィは少しだけ迷い、でも、心の底にある真実を正直に口にした。
「陛下がいないと、なんだか息ができなくて、落ち着きません」
ザフィールは、呼吸を止めた。
周囲の重臣たちも同じだった。
砂漠に吹く風のように、真っ直ぐで嘘のない言葉だ。飾り立てた修辞も、政治的な駆け引きも一切ない。ただ、彼女の魂のままに自然に出た本音なのだと痛いほどわかる。
彼女にとって、オフィウスは強大な庇護者だから大事なのではない。
助けてもらった恩義だからでも、皇帝という権力に惹かれたからでもない。
ただ単純に、好きで、会いたくて、隣にいると一番落ち着くのだ。
それがあまりに純粋で、完成されすぎていて、もはや神すらも口を挟めない領域だった。
「……あの男」
ザフィールが、ぽつりと力なくこぼした。
「いくらなんでも、男として勝ちすぎではないか?」
「勝ちすぎですな……完封勝利です」
宰相が同意して遠い目をする。
王宮管理長が真顔で何度も頷いた。
「ええ。皇帝自らモップを握って床を磨く時点で、もはや我々が勝敗を論じる次元の相手ではないような気がします」
「やめろ。事実なだけに余計に傷つく」
ザフィールは深く額を押さえた。
だが、それでも。それでも諦めたくないと、未練がましく思ってしまう自分がいる。
この数日で、彼は完全に、そして致命的に彼女に落ちていた。
彼女の物事の本質を見抜く的確さに。
誰にも媚びない真っ直ぐさに。
王族に対しても兵士に対しても、分け隔てなく接する柔らかな強さに。
しかも本人は、自分のその魅力と才能に一切無自覚なのだ。ひどい。こんなものは反則である。
彼はゆっくりと立ち上がり、会議卓の向こう側から、メルヴィの真正面へと歩み寄った。
「メルヴィ殿」
「は、はい」
「俺は本気だ」
地を這うような、重く熱い声だった。
熱砂の国の第一王子としての威信と、一人の男としてのプライドをすべて懸けた、燃えるような声。
「君が我が国を数百年分の呪縛から救ってくれたことに、心から感謝している。だが、俺の想いはそれだけじゃない。君という存在そのものを、俺の隣に得たいと思っている」
空気が張り詰め、大臣たちが固唾を呑む。
ザフィールは、逃げることを許さない強い視線をメルヴィに真っ直ぐ向けた。
「どうか俺の妃になってくれ。君の望むものは、この国の富のすべてを使ってでも与えよう。王宮の改修も、王都の広大な整備も、君の好きなようにやればいい。掃除道具だって、世界中の最高の職人を集めて、君の手に最も馴染むものを何百でも作らせる」
メルヴィは、あまりの熱烈な求婚に完全に固まった。
「ひ、妃……」
「そうだ。シャムスの未来を共に歩んでほしい」
「お、お掃除道具の特注までついてくるのですか……?」
「そこに引っかかるのか!」
緊迫した空気の中で、思わず宰相が突っ込んだ。
だがザフィールは表情を崩さず、真剣なまま決意をぶつける。
「君が望むなら、腐敗した国の仕組みごと俺が変えてみせる。俺と共に、このシャムスをもっと風通しの良い、素晴らしい国にしてくれ」
それは、王侯貴族が使うような甘く飾った口説き文句であると同時に、国を背負う王子としての偽りのない本音でもあった。
メルヴィの叡智と優しさがあれば、この国は劇的に変わる。
それほどの確信と希望が、彼にはすでにある。
けれど。
「……ごめんなさい」
メルヴィの返事は、やはり残酷なほどに一片の迷いがなかった。
やわらかく、震える声だったが、その拒絶の意思は透き通るようにはっきりしていた。
「私にはもったいないくらい、とてもありがたいお話だと思います。王子殿下の想いも、すごく伝わりました。でも、私は」
そこで彼女は、泣きそうな、けれど世界で一番幸せそうな、少し困った笑顔を浮かべた。
「どうしても、早く陛下にお会いしたいんです」
完敗だった。
それ以上なく、鮮やかに、跡形もなく綺麗に。
ザフィールは一瞬だけ目を強く閉じ、そして、己の負けを認めるように苦く、静かに笑った。
「……そうか」
「はい。申し訳ありません」
「俺では、あの男の代わりにはなれないか」
「はい」
そこは少しは言葉を濁して気を遣え、と大臣たちが内心で戦慄する。
けれどメルヴィに悪気は微塵もない。彼女はただ、自分の心に嘘をつけないだけだ。
「王子殿下は、とても立派で良い方だと思います。民のことも、国の未来のことも真剣に大事にされていて、本当にすごいです」
「手痛く振られた後の褒め言葉は、男の慰めにはならんな」
「ですが」
メルヴィは少し首を傾げ、真剣な眼差しで言った。
「陛下は、私が窓枠の上のほうを拭こうとしただけで、何も言わずにすっと脚立の高さを変えてくださいますし」
「まだ続くのか、その胸焼けする過保護伝説は」
「あと、毎回の掃除のあとに、私の手が荒れていないか、ご自身の手で包み込んで見てくださいます」
「やめてくれ。失恋したての砂漠の男の心が完全に死ぬ」
「それから、危ないからって、床磨き用の重い水を全部ご自分で運んでしまわれて……」
「あの氷の皇帝が!?」
耐えきれず、軍務卿がとうとう立ち上がって叫んだ。
「皇帝が水桶を両手に下げて回廊を歩くのか!?」
「はい」
「信じられん……帝国の威信はどうなっている……」
「私は自分でも持てる力はあるのですが」
「そういう問題ではない!!」
今度は、部屋にいる大臣全員が声を揃えて突っ込んだ。
ザフィールは、もはや天を仰いで笑うしかなかった。
なるほど、これはどう足掻いても入り込めない。
氷の皇帝がどれだけ怒り狂って国を巻き込んで暴れようと、あの二人のあいだには、すでに誰にも不可侵の「生活」があるのだ。
小さな、けれど確かな日々の積み重ね。
自然に手を差し出す癖や、危険を止める声や、雑巾やモップをめぐる他愛のないやり取りまで含めて、もう二人の世界は完璧に完成されている。
どれだけ熱烈でロマンチックな口説き文句を並べたところで、毎日の「危ない、私がやる」という異常な執着には勝てない。
その絶対的な絆を見せつけられて、なお力尽くで奪い取れると過信するほど、ザフィールは愚かではなかった。
……王子としては、最高に不本意極まりないが。
「参ったな」
彼は大きな肩を落として息を吐き、乱暴に金糸の髪を掻き回した。
「俺は、恋の勝ち目が万に一つもない相手を、わざわざ国ごと敵に回して奪ってきたというのか」
「率直に申し上げて、極めて無茶な賭けだったと思います」
宰相が、冷徹な事実を容赦なく告げる。
「頼むから止めてくれ、今この傷口に塩を塗り込むな」
ザフィールが弱音を吐いた、まさにそのときだった。
――ピキッ。
重厚な会議室の巨大な色硝子の高窓が、びしり、と不気味な音を立てた。
全員が弾かれたように振り向く。
太陽が照りつけているはずの硝子の表面を、まるで生き物のように、白く鋭い霜が猛スピードで這い上がっていた。
「……っ!!」
結界術師長が椅子を蹴倒して立ち上がる。
「急激な、ありえないレベルの冷気圧です! 王都の外壁防衛結界に、凄まじい質量の接触あり!」
「もう王都まで来たというのか!?」
軍務卿が顔面を蒼白にして叫ぶ。
次の瞬間、王都の空気を震わせるように、巨大な鐘の音が連続して鳴り響いた。
警鐘だ。
北門、外郭、そして内郭。三重の警戒音が重なり合い、うねりとなって、さっきまでの会議室の弛緩した余韻をすべて暴力的に吹き飛ばす。
「報告を!!」
宰相が叫ぶ。
扉が乱暴に開かれ、全身に冷たい汗と砂を浴びた伝令兵が、転がり込むようにして入ってきた。
「北門前方、巨大な凍結波が到達! 外郭の強固な砂壁が、半刻足らずで完全氷結! 先鋒は……先鋒は、エルドラード帝国皇帝オフィウス陛下本人とみられます!」
その場の空気が、物理的に凍りついた。
比喩ではなく、部屋の気温が一気に下がり、吐く息が白く濁る。
「単騎か?」
ザフィールが、剣の柄に手をかけながら鋭く問う。
「い、いえ、はるか後方に帝国精鋭騎士団が続いておりますが、最前線は……最前線はほぼ陛下お一人で歩を進めておられます!」
「何だその、神話の終末のような悪夢の進軍は……」
伝令は恐怖で歯の根を合わさずに震えながら、さらに絶望的な報告を続ける。
「北門守備隊の報告では、皇帝陛下がただ歩を進めるだけで地面が爆発的に凍り、猛り狂う砂嵐が瞬時に凍結して地に落ち、頑強な砦の防壁が冷気圧でメキメキとひび割れていると……!」
「もう十分だ」
宰相が、片手で顔を覆い隠した。
十分どころか、国家滅亡レベルの過剰な暴力である。
メルヴィは椅子から立ち上がり、血の気の引いた青ざめた顔で窓の外を見た。
「陛下が、北門まで……」
胸が、早鐘のようにどきどきと鳴る。
会いたい。
でも、怖い。
いや、愛する陛下が怖いのではない。自分の些細なドジのせいで、国と国が取り返しのつかない大変なことになっている今の状況が恐ろしいのだ。
「私、行きます」
「駄目だ」
ザフィールが、空気を切り裂くような声で即答した。
「だが!」
「今、何も守りのない君を正門へ出せば、戦闘の余波に巻き込まれる! それに、あの男が君を見た瞬間、歓喜でさらに理性を失って魔力を暴走させる可能性がある」
「もうすでに、十分すぎるほど理性を失っておられる気がしますが!?」
「それは完全にそうだが!!」
珍しく、王子も声を荒げて叫び返した。
だが、その王子の叫びは半分正しく、半分間違っている。
なぜならオフィウスの理性という名の命綱は、たぶん最初から「メルヴィの安全」にしか繋がっていないからだ。
彼女の無事な姿を見れば、むしろ彼の理性は急速に人間へと戻る。
見えないままで、彼女の安否がわからないからこそ、世界を滅ぼすほど危ないのだ。
その真理に気づいたのは、意外にも、恐怖に震える宰相だった。
「……いえ」
「宰相?」
「むしろ逆です、殿下。おそらく、激怒するあの氷の皇帝陛下を唯一止められるのは、この世界で聖教官殿しかおられません」
重臣たちが、はっと息を呑む。
ザフィールもまた、悔しそうに顔を歪めながら、その可能性を認めざるを得なかった。
「確かに……」
「ですが、その前に」
軍務卿が、地を這うような低い声で現実を突きつける。
「あのバケモノを前に、我らが北門まで持ちこたえられるかどうか」
その瞬間、はるか遠くから、腹の底を揺らすような鈍い轟音が連続して響いた。
巨大な外壁か、鉄の門か、何か巨大な構造物が限界を超えて凍り割れる、絶望的な破壊音だ。
会議室の誰もが、声もなく息を呑む。
メルヴィだけが、胸の前でぎゅっと両手を握りしめた。
(陛下。)
(どうか、無茶をしてお怪我はなさらないでください。)
(でも、王子殿下たちも、できればあまり凍らせないでください。)
両方を願うのは、ヒロインとしてわがままだろうか。
そんなことを考えているうちに、また一つ、嫌な音を立てて窓の霜が分厚く成長する。
ザフィールは、祈るような彼女の横顔を見て、ふっと自嘲気味に笑った。
敗北は敗北だ。
あまりに明らかで、手も足も出ないほど悔しいくらいに。
だが、それでも最後まで、この国の王子として、愛した女を守る盾であるべきだろう。
「メルヴィ殿」
「はい」
「俺はたぶん、今から君に派手に振られた上で、君を迎えに来た本命のバケモノ男と対峙する羽目になる」
「はい……」
「正直、控えめに言ってかなり分が悪い」
「はい……」
「頼むから、そんな同情に満ちた顔をするな。ますます男としての勝ち目がなくなる」
ザフィールは、わざと軽口を叩くように笑ってみせる。
「だが、一つだけ安心しろ。俺は君を怖がらせるために攫ったんじゃない。我が国を救いたかったし、できれば君の心も欲しかった。ただそれだけだ」
「王子殿下……」
「だから、もしあの非常識な皇帝が、怒り狂って王都を真っ二つに割る勢いで襲ってきても、せめて君だけは絶対に無事でいてくれ」
「王都が真っ二つになるのは、お掃除の観点からもすごく困ります!」
「俺も国主として激しく困る!!」
こんな世界の終わりみたいな緊迫した状況でも、会話の焦点が少しずれるあたりが、もうどうしようもない。
だが、そのずれのおかげで、部屋の死にそうな緊張感がほんの少しだけ和らぐ。
しかし次の瞬間、外からさらに絶望的な悲鳴がこだました。
「北門、完全に氷結!!」
「第一防衛障壁、突破されます!」
「門扉の要の蝶番が凍って……押し返せません!!」
誰かが恐怖で叫び、大勢の足音が逃げ惑うように重なる。
ザフィールは、腰の曲刀の柄を力強く握りしめた。
熱砂の大国を統べる第一王子として、ここで背を見せて下がるわけにはいかない。
たとえ初恋に完膚なきまでに敗れていても、国と民を背負う立場だけは絶対に変わらないのだ。
「宰相、王宮中枢の非戦闘員の避難準備を急げ」
「はっ」
「軍務卿、内衛の精鋭を集めろ。ただし、勝てない相手に無駄死にはさせるな」
「承知!」
「結界術師長、魔力を使い果たしてでも、時間を稼げるだけ稼げ」
「命に代えても、全力を尽くします!」
次々に、王族としての的確な指示が飛ぶ。
そしてザフィールは最後に、覚悟を決めた瞳でメルヴィへ視線を戻した。
「君は、絶対に俺の後ろから離れるな」
「でも」
「今だけは、俺の言うことを聞け」
王子の声音は、冗談の欠片もない真剣そのものだった。
メルヴィはきゅっと唇を引き結び、小さく、けれど力強く頷く。
「……はい」
その素直な返事を聞き、ザフィールは少しだけ安堵の息を吐いた。
そして心の底で、己の運命を苦笑する。
自分は今、本気で好きになった女を、彼女が世界で一番愛している男のところへ無事に返すために、絶望的な戦場へ向けて剣を取ろうとしているのだ。
なんとも間抜けで、悪役にもなりきれない、王子らしくもない喜劇だ。
だが、それでも悪くないと、心のどこかで思ってしまう。
彼女が、あのとびきりの笑顔で笑っていられるなら、それでいい。
「殿下!!」
新たな伝令が、血を吐くような悲鳴を上げて駆け込んできた。
「正門前広場まで、超高密度の冷気が到達! 門前の広場の砂が完全凍結し、外郭防衛兵が総崩れで後退中です!」
「早すぎる……化け物か……!」
軍務卿が、恐怖に顔を引きつらせて呻く。
ザフィールは、迷いなく剣を鞘から引き抜いた。
――きらり、と。
熱砂の意思を宿した鋭い刃が、会議室の冷たい灯りを反射して輝く。
「行くぞ」
誰にともなく告げたその低い声は、熱砂の王子としての気高い威厳に満ちていた。
しかし、その研ぎ澄まされた威厳のすぐ隣で、メルヴィは青い顔をして手を合わせ、空に向かって呟いていた。
「陛下……どうか、いつものモップ掛けのときみたいに、心穏やかに落ち着いてくだされば良いのですが……」
「それは百万パーセント無理だろうな」
ザフィールは、今日一番の即答を返した。
「敵である俺でもわかる。今のあの男は、たぶん人生で一番、限界を突破して落ち着いていない」
それは間違いなく、真理を突いた正解だった。
そして間もなく、シャムス王宮の巨大な正門は、押し寄せる白銀の絶対零度の氷によって、外側からメキメキと音を立てて無慈悲に覆い尽くされていくことになる。
熱砂の国の、王宮の中心へ。
世界で最も過保護で甘く、そして世界で最も恐ろしい災厄の男が、ついに猛り狂いながらたどり着こうとしていた。




