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第6話 囚われの女神、砂まみれの敵国をピカピカに磨き上げる

 灼熱の太陽がじりじりと空気を焦がす中、シャムス王国の王都は、熱を孕んだ大気の揺らぎの向こうに、まるで黄金の蜃気楼のように浮かび上がっていた。

 果てしなく続く砂海の向こうにそびえ立つ、堅牢な白亜の城壁。天を突くように連なる尖塔群が、容赦なく降り注ぐ陽光を乱反射して眩く輝いている。いくつもの青い水路が都市の動脈のように巡り、その中心には、圧倒的な王権を象徴する巨大な王宮が鎮座していた。

 本来なら、息を呑むほど美しく見えたのかもしれない。

 けれど今のメルヴィには、そんな壮麗な景色よりも、別のことのほうが気になって仕方なかった。


「……砂っぽいです」


 轟々と耳を打つ風切り音の中、空飛ぶ絨毯の縁に必死にしがみついたまま、彼女は真顔で言った。

 ザフィールはぎくりとして肩を揺らした。


「第一声がそれか!?」

「だって、風下側の外壁にかなり砂が吹きつけていますし、あちらの通路も、風が渦を巻いて同じ場所に溜まり続けているみたいで……。屋上の水受けも、少し目詰まりしていませんか?」

「そんなところまで見えるのか、君は」

「見えますけど……ええと、その前に」


 メルヴィは恐る恐る、眼下の景色へと視線を落とした。

 絨毯は、すでに王都の遥か上空へと差しかかっている。豪奢な金色の瓦屋根も、街路を行き交う人々も、まるで砂粒のように小さく見えた。

 高い。

 ものすごく、高い。


「やっぱり降ろしてくださいぃぃ……!」

「駄目だ」

「まだ駄目なのですか!?」

「ここで手を放したら落ちるだろう!」

「でしたら最初から攫わないでください!」


 至極もっともな主張である。

 だがザフィールは引かない。熱砂を統べる王子らしい、強引で野性的な光をその瞳に宿したまま、彼は絨毯の進路を鋭く傾け、王宮の広大な中庭へ向けて一気に滑り込ませた。

 風を裂く音とともに急降下する絨毯。中庭にはすでに完全武装の兵士たちと侍従たちが集まり、突然の王子の帰還に騒然となっていた。


「殿下! ご無事で――」

「皆、下がれ!」


 ザフィールは地上すれすれで絨毯から飛び降り、その勢いを殺すことなく、メルヴィを力強く抱え込んだまま石畳へと完璧に着地した。バサァッ、と彼の真紅の外套が大きく翻り、周囲の砂塵を巻き上げる。

 兵士たちのあいだに、ざわめきが波のように広がった。


「お、王子殿下、その御方は……」

「我が国の恩人だ」


 ザフィールは堂々と、広場中に行き渡る声で言い放つ。


「国境の水殿遺跡を蘇らせた奇跡の御方、エルドラードの聖教官メルヴィ殿だ。以後、この方には最大級の敬意をもって接しろ」


 兵士たちは顔を見合わせた。

 エルドラードの聖教官。しかも、気高き第一王子が自ら大事そうに抱きかかえて帰還したのだ。どう考えてもただの普通の客人ではないし、かといって捕虜扱いとも少し違う。

 その微妙で張り詰めた空気を察したメルヴィは、おずおずと口を開いた。


「あの、降ろしていただいても……」

「む」


 ザフィールはようやく己の行動に気づいたように、彼女をゆっくりと床へ下ろした。


「すまん。つい」

「いえ……」


『つい』で済ませていい国際問題ではない気がする。

 だが今は、それどころではなかった。

 メルヴィの足が石畳に着地した瞬間、彼女の視界は、王宮中庭の「砂の流れ方」という極めて局所的な事象に完全にロックオンされてしまったのである。

 真四角に整えられたはずの美しい庭園。白亜の噴水の縁。色鮮やかな植え込みの根元。そして、強い日差しを遮る回廊の深い日陰の隅。

 どこもかしこも、ごく薄く砂が積もっている。

 放置されているわけではない。むしろ一見すると、手入れは完璧に行き届いているように見える。なのに、建物の構造と風の流れが致命的に悪く、掃除しても掃除しても、見えない気流に乗って砂が定位置へと戻ってくる造りなのだ。


 これはいけない。

 お掃除のプロとして、かなりいけない。


「王子殿下」

「何だ」

「この中庭、掃いてもすぐ砂が戻りませんか?」

「……戻るが?」

「やっぱりですか」


 メルヴィは深刻な顔で、こくこくと頷いた。


「水鉢の配置と回廊の柱列の間隔が悪いです。風がここで回って、砂を逃がさず留めています」


 周囲を固めていた精鋭の兵士たちが、ぽかんと口を開けた。

 王子もまた、信じられないものを見るように目を瞬かせる。


「今、それがわかるのか?」

「はい。あと、そこの排水溝も半分詰まっています」

「見ただけで?」

「色が少し違うので」


 “色が少し違う”という恐ろしすぎる眼力で排水不良を一瞬で見抜かれては、王宮付きの優秀な管理官たちの立つ瀬がまったくない。

 しかしザフィールは、自国の恥を指摘されたにもかかわらず、なぜか腹の底から嬉しそうに笑い声を上げた。


「やはりすごいな、君は!」

「え?」

「うむ、間違いない。君は我が国の救いだ」

「いえ、私はただ……」

「さあ、宮へ」


 まったく話を聞いていない。

 豪腕でエスコートされながら、メルヴィは内心で小さく涙をこぼしたくなった。


 


 シャムス王宮は、目が眩むほど豪奢だった。

 足音が吸い込まれるような分厚い赤金の絨毯。精緻な透かし彫りが施された重厚な扉。色硝子を嵌め込んだ高窓からは、万華鏡のように色彩豊かな光の帯が差し込んでいる。香木の甘く重たい香りが満ちる廊下には、陽光が美しい幾何学模様の影を落としていた。

 確かに、見映えはする。

 見映えはするのだが。


「……やっぱり、砂っぽいです」


 通された最上級の客間に一歩足を踏み入れた瞬間、メルヴィはまたしても同じ結論に至ってしまった。

 広大な部屋だった。透き通るような薄絹の天蓋付き寝台、肌触りの良い絹張りの長椅子、金細工の美しい化粧台。捕虜に与えるには、明らかに丁重すぎる待遇である。

 だが、メルヴィの目は誤魔化されない。

 窓辺の敷居の隅にごく薄く砂が溜まり、瀟洒な棚の脚元には、呼吸で吸い込んでしまいそうな細かな粉塵が舞い込んでいる。高級な香を焚いているせいで表面上は誤魔化されているが、肌にまとわりつく空気の重さが微妙におかしいのだ。


「ここ、風が死んでいます……」


 メルヴィは思わず呟いた。

 閉めきられた部屋特有の、よどんだ感覚。しかも乾いた微細な砂塵が蓄積しているから、呼吸にも、置いてある道具の劣化にもあまり良くない。

 彼女はすっかり落ち着かなくなって、そわそわと辺りを見回した。

 そのとき、豪奢な衣装をまとった侍女たちが数人、うやうやしく盆を持って入ってくる。


「聖教官殿、お着替えとお茶を」

「あっ、ありがとうございます」


 彼女たちの態度は、腫れ物に触れるようにおそるおそるという様子だった。死の地を浄化したエルドラードの聖女だの女神だのと聞かされているのだろう。その視線には、明らかな畏れと好奇が入り混じっている。

 メルヴィは勧められるまま長椅子に腰かけたものの、すぐに小さく身じろぎした。

 気になる。

 足元の砂埃が、ものすごく気になる。


「あの……」

「は、はい」

「この部屋の掃除道具って、どこにありますか?」


 侍女たちは、雷にでも打たれたように固まった。


「……え?」

「ほら、このままだと砂が擦れて床材が傷みますし、窓の蝶番にも良くないので。今ならまだ軽く拭けば済みそうです」

「え、ええと……」


 侍女の一人が引きつった笑みを浮かべ、助けを求めるように後ずさった、ちょうどそのときだった。

 重厚な扉が開き、着替えを済ませたザフィールが入ってきた。


「どうだ、部屋は気に入ったか」

「それが、あの」


 メルヴィは真剣な顔でばっと立ち上がる。


「かなり砂が入りやすい造りです。窓辺と通気口の角度を変えた方がいいと思います」

「……そういう感想になるのか」

「あと、掃除道具を」

「ない」

「ないのですか!?」


 ショックを受けるところが完全にずれていた。

 ザフィールは頭痛を堪えるように額を押さえた。


「いや、正確には王宮に掃除道具がないわけではない。だが捕……いや、客人に自分で掃除をさせるわけがないだろう」

「でも気になります」

「気になるのはわかった。だが大人しくしていろ」


 王子としては至極当然の言いつけだった。

 他国の超重要人物を、半ば強引に連れ去るようにして連れてきたばかりなのだ。せめて身の安全と健康だけでも、最優先で確保しておきたい。

 しかし、メルヴィにとって“砂が積もっているのがわかっている部屋で大人しくしている”というのは、ある種の残酷な拷問に等しかった。


「少しだけでも……」

「駄目だ」

「ほんの少し」

「駄目だ」

「隅っこだけ」

「駄目だ」


 真顔で即答し合う二人の応酬を見て、侍女たちはどう反応していいかわからず、完全に石像と化している。

 ザフィールは、暴れる小動物を宥めるように、できるだけ柔らかく言い聞かせた。


「メルヴィ殿。君は今、我が国にとって最重要の賓客だ。欲しいものがあれば何でも言え。極上の食事でも、絹の衣装でも、国宝級の宝飾でも、望むだけ用意しよう」

「では布を」

「布?」

「できれば吸水性の高いものを数枚と、桶と、細かい隙間用の棒布巾も」

「掃除前提ではないか!」


 やはり、まったく話を聞いていなかった。

 ザフィールは深い深いため息をついた。


「……ともかく、今は休め。見張りを置く」

「見張り」

「君が逃げないように、という意味ではない。勝手に動き回って危険な目に遭わないようにだ」


 だがメルヴィは、ふしぎそうに小首を傾げた。


「危険なのは、むしろこの部屋のほうでは?」

「なぜだ」

「通気が悪くて、細かい砂が溜まっていますので。このままだと微細な瘴気も滞留します」


 ――ぴたり、と。

 その場の空気が、凍りついたように止まった。

 ザフィールの顔から呆れが消え、その表情が刃のように鋭く変わる。


「今、何と言った」

「え?」

「瘴気が滞留する、と」

「はい。ごく薄いので人体にすぐ影響が出るほどではありませんが、長年積もれば体調不良の原因になるかと。特に日陰側の回廊とか、風の止まる角部屋は――」

「……」


 ザフィールは数秒、息を呑んで黙り込んだ。

 王宮の西回廊。

 まさに近年、原因不明の不調を訴える者が異常に多い区域だった。最高位の術師も宮廷医官も、単なる砂漠の乾燥と疲労のせいだとしか説明できていない、国家的な懸案事項。

 それを、この少女は部屋に入ってわずか数分で、涼しい顔で言い当てたのだ。

 いや、まさか。

 偶然だろう。

 そう思いながらも、彼の胸の奥で、抑えきれない高揚感が激しくざわつく。

 ザフィールは踵を返し、扉の外へ向かって鋭く命じた。


「大臣たちを呼べ。王宮管理官もだ」

「はっ」


 侍従が弾かれたように駆けていく足音が響く。

 メルヴィだけが、取り残されたようにきょとんとして瞬きをした。


「え、どうして大臣の方々を?」

「少し話を聞かせてもらう」

「お掃除の話をですか?」

「……たぶんな」


 


 しばらくして、豪奢な客間にはシャムス王国の重鎮たちがずらりと顔を揃えた。

 国家の頭脳である宰相、歴戦の猛者である軍務卿、王宮管理長、結界術師長、都市整備官。誰も彼も砂漠の大国を支えてきたという強烈な自負があり、同時に、急に呼び出された理由がわからず不機嫌さを隠していない。

 その厳しい視線が一斉に、部屋の中央にちょこんと座る若い少女へと向けられる。

 思ったよりずっと幼い。華奢で、どこにでもいそうな、少し頼りない雰囲気すらある。

 彼女が、あの絶望的な呪いの遺跡を蘇らせた本人だと紹介されても、すぐには信じがたいのも無理はなかった。

 宰相格らしき白髭の老臣が、威厳を保ちながら慎重に口を開いた。


「殿下。この御方が……」

「そうだ。メルヴィ殿だ」


 ザフィールはまっすぐ、誇らしげに言った。


「遺跡最深部にて呪いの正体を見抜き、水殿を復活させた」


 ざわり、と重鎮たちのあいだに動揺が走る。

 だが彼らの目には、まだ色濃い疑念が残っていた。

 王宮管理長が一歩進み出る。


「失礼ながら、聖教官殿。我らもまた長年、王宮の維持と王都の環境調整に心血を注いできました。先ほど殿下より『風の流れが悪い』『砂が瘴気を溜める』といったご指摘をなさったとうかがいましたが……それは、どのような根拠で?」


 丁寧な言葉の奥に、明らかな侮りが透けている。

 無理もない。どこから来たとも知れない掃除好きの少女がいきなり、国家中枢の管理体制へ口を出しているようにしか見えないのだから。

 メルヴィは彼らの凄みに押され、少し困ったように視線を泳がせた。


「根拠というほど大層なものでは……」

「では」

「見ればわかる、です」


 場が、水を打ったように静まり返った。

 王宮管理長の眉が、苛立ちにぴくりと跳ねる。


「見れば、ですか」

「はい。たとえば」


 メルヴィは立ち上がり、迷いなく部屋の隅を指さした。


「あそこ、壁面の模様彫りの下に細かい砂がたまっていますよね。あの形だと空気が剥離して、気流の渦が残ります。砂はそこへ集まります。で、その砂が香の油分や微弱な魔力残滓と混ざると、少しずつよどみができます」

「……」

「しかもこの部屋、窓は大きいのに上の通気口が狭いので、温度差で空気が上手く抜けません。だから入った砂塵とよどみが出ていかず、居心地の悪い重さになるんです」


 よどみなく言いながら、メルヴィは軽やかな足取りで動いた。

 驚く侍女の手から、真っ白な布をひょいと借り受ける。


「あの、少しだけ失礼しますね」

「ま、待て」


 ザフィールが制止するより早く、メルヴィは棚の脚元へしゃがみ込んだ。

 そして、手にした布でさっと床をひと拭きする。

 立ち上がり、彼女はその布を大臣たちの目の前へ掲げて見せた。

 それだけで、純白だった布の端が、べっとりと薄茶色に染まっていた。


「ほら」

「なっ……」

「見た目より細かい砂が沈んでいます。これ、踏まれて砕けるとさらに舞い上がって、呼吸器にも魔道具の精密な動作にも良くないんです」


 王宮管理長の顔色が、さあっと青ざめる。

 その横で、結界術師長が鋭く目を細めた。確かにこの部屋は、結界の微調整が妙に乱れやすいことで知られている。原因不明のノイズとして放置されてきたが、もしメルヴィの言う通り、微細な砂塵と停滞気流が術式の魔力基盤を物理的に乱しているのだとしたら――。

 彼らの動揺に気づかず、メルヴィはお掃除スイッチが入ったまま次々と口にした。


「それに、王宮全体で同じ造りなら、西側回廊の角はかなりまずいです。熱気と冷気がぶつかる位置で、しかも砂がもっとも沈みやすい構造ですから」


 軍務卿が、弾かれたように思わず前へ出た。


「西側回廊を、なぜ知っている!」

「え? まだ行っていませんけど、外から見た窓の位置と風向きからだいたい……」

「西側回廊は、我が王宮結界の基点に最も近い区域だ」


 今度は結界術師長が、絞り出すような低い声で言った。


「近年、そこでだけ魔力障壁の脈動が乱れる。術式そのものには一切の欠陥が見つからず、長年原因不明のままだったのだ」


 部屋の空気が、劇的に変わる。

 大臣たちの目から侮りが完全に消え失せ、底知れぬ警戒と、畏怖にも似た驚愕が浮かび始めた。

 メルヴィだけが、状況が読めずにますます戸惑った顔になった。


「ええと……そんなに難しい話でしょうか」

「難しい話だ!」


 王宮管理長が血相を変えて叫びかけ、ハッとして慌てて声を落とす。


「し、失礼。だが、数十年、いや百年以上も原因不明だった我が国の根幹を揺るがす問題だぞ」

「でも、風と砂の癖は建物ごとにありますから……。毎日真面目に掃除していると、だんだんわかってきませんか?」


 わからない。

 普通は絶対にわからない。

 大臣たち全員が、心の中で声を揃えて絶叫した。


 


 その後、なぜか国家の重鎮を総動員しての実地確認が始まった。

 メルヴィとしては、ただ口で説明するより見てもらったほうが早いし、ついでに掃除もできると思っただけである。

 だが王子と大臣たちは、まるで伝説の預言者の秘儀開示に立ち会うかのような、異常な緊張感をもって彼女の背中についてきた。

 まず向かったのは、問題の西側回廊だった。

 昼でも少し薄暗い、静寂に包まれた長い廊下。壁面には美しい幾何学紋様が施され、一定間隔で外気を取り込む飾り格子窓が開いている。

 ぱっと見は、塵ひとつなく完璧に磨き上げられている。

 ぱっと見は。


「……ああ」


 回廊に足を踏み入れた瞬間、メルヴィはひどく顔をしかめた。


「やっぱり、ここですね」

「何がある」

「溜まっています」

「何が」

「砂と、よどみです」


 彼女は迷いなく回廊の角へ歩み寄り、柱と柱のあいだを見上げた。


「この格子、斜めに入った風がここでぶつかって気流が回っています。だから砂が落ちずに宙に浮いて、最後にこの角の死角へ集まります。それで水拭きが足りないと、どんどん細かい汚れが膜になって層を成して……」

「実証できるか」


 結界術師長が、息を呑みながら問う。


「たぶん」


 メルヴィは周囲を見回し、背後で震えている侍従から水差しを借りた。

 そして持っていた布の端を軽く湿らせると、柱の根元から壁際をひと筋、すっと滑らせるように拭き上げた。

 次の瞬間。

 ――ぱちっ、と。

 空気の弾けるような微かな音がした。

 今まで肉眼ではまったく見えなかった淡い青の光の筋が、拭き取られた壁面を脈打つように走ったのである。


「結界脈だ!!」


 術師たちが悲鳴のような声を上げてざわめいた。


「汚れの膜に埋もれて、魔力の流れが表層へ押し上げられていたというのか!?」

「ありえん……結界の基盤が、ただの砂に干渉されるなど……」


 メルヴィは布の拭き跡を見て、満足そうに頷く。


「やはり。結界の通り道が浅くなっています。たぶん、もともとはもっと奥の石材を綺麗に流れていたはずです。けれど砂と魔力混じりの膜が分厚く重なって、こちらへ押し出されているので、外の気温変化や風の外乱を直接受けやすくなっているんです」

「つまり、障壁の乱れは術式の劣化ではなく……」

「掃除不足です」


 容赦なく言い切った。

 結界術師長が、その場で膝から崩れ落ちそうな絶望的な顔をした。

 百年単位で国家予算を注ぎ込み研究していた問題の原因が、まさかのお掃除不足。

 いや、厳密には「構造的に砂を溜めやすい設計」と「保守方法の不適合」という高度な建築的問題である。だがメルヴィの言葉に変換すると、ものすごく単純で情けない響きになる。

 彼女は大臣たちの精神的ダメージなどお構いなしに、悪びれもなく続けた。


「あと、ここは乾拭きだけだと逆効果です。細かい粉塵が再浮遊して別の場所に張り付くだけですので。しっかり水拭きして、通気口の角度を少し変えて、風をまっすぐ抜けるようにしてあげれば、結界の脈動も安定すると思います」

「通気口の角度、だと?」

「はい。今は吹き込む風向きに対して受けが強すぎます。少し横へ逃がしてあげないと」


 それを聞いた都市整備官が、雷に打たれたように目を見開いた。


「それは……王都の大通りにも、まったく同じことが言えるのでは」

「え?」

「王都南区は、近年ずっと砂だまりと熱気だまりがひどく、疫病の温床になりかけている。水路を増やしても一切改善しなかったのだ」


 メルヴィは指を顎に当て、少し考えた。


「南区、建物が高くて道幅が一定ではありませんか?」

「そ、その通りだ。防衛の観点から高く作ってある」

「でしたら風が抜けません。水路を増やすだけだと、今度は水気が蒸発して、湿気と熱が局所的に残ってサウナみたいになってしまいます。風の道を作って、砂を逃がす広場を途中に入れないと」


 都市整備官が、声もなく絶句する。

 それは彼らが何十年も血の滲むような議論を重ねながら、貴族の利権や古き慣習に絡め取られて実現できなかった、究極の都市改革案そのものに近かった。

 しかも彼女は、詳細な図面すら見ずに、ただの掃除の経験則だけでそれに辿り着いている。


「な……なんと」


 老臣の誰かが、魂の底から震える声を漏らした。


「この姫は……」

「姫ではありませんが」

「数百年分の国家の致命傷を、一瞬で……」


 メルヴィはきょとんとした。


「そんな大げさな」

「大げさではない!!」


 今度は、もっとも冷静沈着であるはずの宰相が絶叫した。

 王国随一の知を誇る重鎮が、ほとんど悲鳴に近い声を出すなど、王宮の誰も想像しなかっただろう。


「西回廊の結界乱れ、南区の熱気滞留、王宮内の体調不良者増加、これらすべてに完璧な筋が通る……! しかも原因は呪いでも他国の陰謀でもなく、建築構造と清浄管理の不整合!」


 彼は震える両手で、まるで神の使いを崇めるようにメルヴィを指した。


「なんと恐るべき叡智……!」

「いえ、その、ただの掃除の観点なのですが……」

「掃除でそこまで見抜けるものか!!」

「見えますよ?」

「見えぬわ!!」


 コンマ一秒の即答だった。

 大臣たちが、首がもげるほどの勢いで一斉に頷く。

 見えない。誰にも見えない。普通の人間には見えてたまるか。

 ザフィールは唖然としながらも、同時に全身の血が沸騰するような妙な高揚を覚えていた。

 やはりこの娘は、本物だ。

 国境の遺跡で見せた奇跡だけではない。長きにわたり国を蝕んでいた歪みを、まるで散らかった部屋を片付けるような手軽さと自然さで、根底から見抜いてしまう。

 彼はたまらず一歩進み、燃えるような瞳で真剣な声を出した。


「メルヴィ殿。どうか、この王宮を……いや、この国を見てほしい」

「国を、ですか?」

「君の神のごとき目なら、我ら愚か者が見落としてきたものを見つけられる」

「でも私は、攫われてきた囚われの身なのでは」

「そこは……その……」


 ザフィールは一瞬だけ、ばつが悪そうに言葉に詰まった。

 確かに攫ってきた。

 弁解の余地なく、一方的にかっ攫ってきた。

 けれど今さら、こんな奇跡のような少女を手放したくないのも絶対的な事実である。

 その苦しい沈黙のあいだに、メルヴィの視線はすでに、回廊のさらに奥の風景へと釘付けになっていた。


「あの」

「何だ」

「向こうの通路、もっとひどいです」

「向こう?」

「はい。あそこ、壁の美しい装飾模様にびっしり砂が噛んでいます。放っておくと、夜に冷えて朝に膨らんで、石の表面ごと剥がれますよ」


 王宮管理長の顔色が、紙のように真っ白になる。


「な……!」

「それと、上の梁。高価そうな布が巻いてありますけど、あれは砂落ちを防ぐためですか?」

「そ、その通りだ」

「逆です。布の繊維が砂を絡め取って、中に重たい砂袋を溜めています」

「……」

「今すぐ外した方がいいです。重みで梁がたわんでいます」


 大臣たちが、絶望と歓喜の入り混じった顔で互いを見つめ合った。

 もう、駄目だった。

 完全に、紛れもない本物だ。

 疑う段階など、とうの昔に通り越している。

 宰相が最初に、膝を折り、ゆっくりと深く頭を垂れた。


「聖教官殿」

「は、はい」

「どうか、我ら無知なる者にご教示ください」

「えっ」


 次いで、王宮管理長が、都市整備官が、結界術師長が次々と石畳に膝をつく。


「なんと……この姫は」

「だから姫では――」

「我らの数百年分の絶望的な悩みを、一瞬で見抜かれたぞ!」

「恐るべき叡智!」

「まさしく、我らを救う砂漠の女神……!」


 ――ばたばたばたっ!と。

 大国シャムスを動かす重鎮たちが、一斉に、額を床にこすりつける勢いで平伏した。

 その壮観さたるや、歴史的な戦勝報告の儀式でもここまで見事に揃わないだろうというほどの圧倒的な光景である。

 メルヴィは完全に固まった。


「え、えええっ!?」


 自分はただ、大好きな掃除の観点から砂が気になって拭いただけだ。

 それなのに、誇り高き敵国の大臣たちが、自分に向かって一斉に床に額をこすりつけている。

 どうしてこうなったのか、彼女の常識ではまったく理解できなかった。

 ザフィールは、その異様な光景を見て、なぜか我が事のように胸を張った。


「うむ。やはりそうなるか」

「王子殿下、そうなるかではありません!」

「いや、君の底知れぬ凄さを理解すれば当然の帰結だろう」

「理解のされ方が大げさすぎます!」

「大げさではない!」


 またしても、平伏した全員が地鳴りのような声で唱和した。

 息がぴったりすぎて、もはやホラーである。

 メルヴィは恐怖でますます後ずさるが、そこで壁際のひどい砂だまりが目に入り、つい悲しい習性でそちらへ向かってしまった。


「あっ、そこは踏むと砂が舞いますので気をつけてください」


 平伏したままの大臣たちが、雷に打たれたようにびくりと震える。

 メルヴィは近くの台にあった飾り布をひょいと取り、手慣れた無駄のない動きで細かい砂を集め始めた。


「こういう角は、まず乾いたまま大きい砂だけ寄せて、それから湿らせた布で――」

「お待ちください!!」


 王宮管理長が、涙ぐみながら顔を上げた。


「聖教官殿。そのような下働きを、女神たる御自らなさる必要は……!」

「でも気になります」

「我らがやります!」

「やり方が違うと、かえって汚れが広がります」

「では、何卒ご指示を!」


 今や王宮管理長は、国家の要職の顔を捨て、熱烈な一番弟子志願者みたいな目つきになっている。

 メルヴィは困惑の極みに達しながらも、目の前の汚れを放置できない性分には勝てなかった。


「ええと、でしたら……まず砂を舞わせない歩き方から」

「歩き方から!?」

「はい。足裏を滑らせず、静かに置く感じで」


 その日から、シャムス王宮には信じられないほど奇妙な光景が日常的に広がることになった。

 他国から強引に攫われてきたはずの少女が、第一王子と国家の重鎮たちをぞろぞろと従えて回廊を練り歩き、砂の寄りやすい柱の角度を指摘し、通気口の向きを巻尺で測り、ついでに床の正しい拭き方まで熱血指導しているのである。


「この通路、朝に掃くのではなく夕方にしてください」

「なぜでございますか、女神様!」

「朝は熱風が強いので、掃いたそばから舞い戻ります」

「おお……真理だ!」

「あと、あの水鉢の位置を少しずらせば、そこに風の道ができます」

「なんと……風を操られるとは!」

「王都南区は、広場に低い植栽を増やすと砂が沈みやすいかもしれません」

「都市計画書を至急引き直せ!!」


 もはや、囚われの身とは何なのか。

 誰にもわからなくなっていた。

 ザフィールはそんな熱狂的な騒ぎの中心で、腕を組み、ほとんど自分の手柄のように誇らしげにメルヴィを見ている。

 彼女が指先で砂をすくい、少し眉を寄せて考え込むだけで、歴戦の大臣たちが神託を聞くように固唾を呑むのだから無理もない。


「やはり君は女神だ」

「違います」

「では千年に一人の賢姫だ」

「違います」

「我が国の希望」

「それもたぶん違います」

「未来の妃」

「絶対に違います!」


 最後だけ、食い気味に強めに否定した。

 ザフィールは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに好戦的に笑う。


「そうか。では今は、王宮改革の最上位顧問としておこう」

「顧問!?」


 さらに責任が重くなった。

 メルヴィが青ざめる横で、大臣たちが一斉に激しく頷く。


「妥当ですな」

「いや、むしろ実質的な総監督では」

「王都環境改善の名誉最高責任者とすべきです!」

「待ってくださいっ」


 メルヴィの悲痛な制止など、もはや誰の耳にも届いていない。

 宰相はすでに、顔を紅潮させて書記官を呼びつけていた。


「急ぎ、王宮内清浄化計画と南区再整備計画の草案を立てよ! 聖教官殿の金言を最優先で反映せよ!」

「はっ!」

「結界術師長、王宮管理長、以後は毎朝こちらへ進捗の報告に参れ!」

「御意!!」

「ちょっ……毎朝からですか!?」

「当然です!」


 当然らしい。

 メルヴィはクラクラと、めまいすら覚えた。

 敵国へ攫われてきたはずなのに、気づけば王宮と王都の環境改善計画の絶対的中心に据えられている。

 おかしい。

 状況が、絶対的におかしい。

 けれど。

 視線を向ければ、回廊の空気が昨日より少しだけ軽くなり、手本として拭き取った柱の足元がさっぱりと光を反射しているのを見ると、お掃除の成果が出てやはり少し嬉しいのだ。


「……とりあえず、まずは王宮の西回廊からですね」


 つい、無自覚にそう呟いてしまった。

 その瞬間。

 大臣たちの目が、まるで夜の闇を裂く夜明けの光でも見たみたいに、信仰心に満ちて輝いた。


「おお……!」

「聖教官殿が、我らのために……!」

「おおお、我らが女神……!」

「違いますってば!!」


 メルヴィの魂からの抗議は、結局その日も誰の耳にも届かなかった。

 こうして彼女は、囚われの身でありながら、実質的にシャムス王国王宮の清浄化と王都改革の絶対的頂点に立つことになったのである。



 そして、その頃。

 王宮の最北にそびえる監視塔で、見張りの兵士がふと空を見上げて首をかしげた。


「……おかしいな」

「どうした」

「今日は猛暑のはずなのに、風が冷たい」


 兵士の熱く焼けた頬を、ひやりとした鋭利な一陣の風が撫でる。

 砂漠が冷え込む夜気には、まだ随分と早い時間だ。

 それなのに、どこか背筋を凍らせるような、澄みきった絶対零度の冷たさが、北の地平線の彼方から音もなく流れ込んできていた。

 その異常な気象の意味を、この国の誰もまだ知らない。

 ただ一人、遠く離れた敵国の「氷の皇帝」だけが、神話のようなスケールの怒りを纏い、静かに、そして一切の容赦なくこちらへ近づいていることを除いては。

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