第5話 国境の砂漠遺跡と、突然の「きゃああっ!」
風がエルドラード帝国の壮麗な王都を駆け抜け、ひときわ高くそびえる帝城の尖塔へと吹き上がる。
この国に新しい最高位が制定されてから、まだそう日は経っていない。
その位の名は、超位・終身名誉聖教官。
皇帝の勅命と皇統会議の承認により、たった一人のためだけに作られた前代未聞の称号である。
死の地ラズ=ヴェルドを聖域へ変え、枯れた霊脈を蘇らせ、国そのものを救った少女――メルヴィ・アシュベリー。
元は魔導省の窓際九等官。今では帝都の子どもですらその名を知り、貴族も神官も騎士も、彼女の前では自然と背筋を伸ばす。
……ただし、当の本人だけは、その凄さをいまいち理解していなかった。
「うーん……」
帝城東棟、聖教官執務室。
本来なら帝国の重鎮でも足を踏み入れるのに緊張するような豪奢な部屋の中央で、メルヴィは深刻な顔をしていた。
大理石の床は鏡のように磨かれ、窓辺からは朝の光が斜めに鋭く差し込んでいる。舞い散る微小な埃が、光の帯の中で金色の砂のようにきらめいていた。高価な調度も格式ある書棚も、隅々まで完璧に整えられている。
にもかかわらず、メルヴィは納得していない。
「昨日、確かに棚の上も拭いたのですが……どうしてこう、角のところに薄く積もるのでしょう」
小さな踏み台に乗り、羽根はたきを片手に唸る小柄なシルエットは、国家最高位の威厳とはだいぶ縁遠い。
その様子を、部屋の入口近くに控えていたラグナスが無表情で見守っていた。いや、正確には無表情を装っているだけだ。彼の内心は、いつものように重たい頭痛で満たされている。
「メルヴィ様」
「はい?」
「それは侍従にやらせてください」
「でも、侍従の方々は皆さん忙しそうですし……」
「忙しくしている最大の理由が、貴女が自分で掃除を始めるからなのですが」
ラグナスが低く息を吐き出した、そのときだった。
――すっ、と、背後の空気が変質した。
まるで冬の湖面のように空気が澄み切り、同時に、肌を微かに刺すような極上の冷気が足元を這って滑っていく。
部屋の奥に控えていた侍従たちが、音もなく一斉に膝をついた。
「陛下」
静寂を割って入ってきたのは、エルドラード帝国皇帝オフィウス・ルヴァン=エルドラードその人だった。
今日もまた、近寄りがたいほど整った美貌に、一片の隙もない漆黒の正装。銀糸の髪は朝の光を乱反射して淡く輝き、硝子細工のような氷色の瞳は、どんな激しい戦場でも揺るがぬ静けさを宿している。
ただし、その視線が台の上のメルヴィを捉えた瞬間だけ、世界の焦点が彼女一人に絞られたようにすべてが変わった。
「危ない」
低く、しかし鋭い第一声。
次の瞬間には、オフィウスは空間を滑るような足取りでメルヴィのそばへ歩み寄り、彼女が乗っていた小さな台へ視線を落としていた。
「高いところに手を伸ばすな。落ちたらどうする」
「え、でも、これくらいなら大丈夫です」
「大丈夫ではない」
絶対的な断言。
オフィウスは長身を屈め、片手でメルヴィの腰を支えると、まるで国宝の薄雪細工でも扱うかのような慎重さで彼女を床へ下ろした。そして、彼女の小さな手から羽根はたきをすっと奪い取る。
「私がやる」
「へ、陛下がですか?」
「問題ない」
「ですが、皇帝陛下に棚の上の埃取りをしていただくのは、さすがに問題しかない気が……」
「君が落ちるよりましだ」
真顔だった。
あまりにも真面目で、狂気すら孕んだ真顔だった。
周囲の侍従たちは、微動だにしない。氷の皇帝が最愛の超位聖教官のため、国政の合間に自らモップや雑巾を握る姿など、最近ではこの帝城のひそやかな日常風景として定着しつつあるからだ。
ラグナスだけが、天井の美しいフレスコ画へ遠い目を向けた。
「……陛下、本日はシャムス王国からの使者への返答もございます」
「ああ」
オフィウスは、洗練された流麗な所作で軽々と棚上を払いながら答えた。
その光景を初めて見た者なら、己の目を疑って卒倒したかもしれない。冷徹無比と恐れられる氷の皇帝の、朝一番の政務が「愛する女のための棚の埃取り」なのだから。
メルヴィはというと、皇帝の背中を少し申し訳なさそうに見上げていた。
「シャムス王国……国境地帯の共同調査の件、でしたよね」
「そうだ」
オフィウスは羽根はたきを置き、流れるような動作で侍従へ視線を送る。即座に、極上の茶葉が香る温かい茶が運ばれてきた。もちろんメルヴィの分である。彼女が少しでも乾燥した空気を吸いすぎないよう、黄金色の蜂蜜まで添えられている完璧な手配だ。
これも最近の常であった。
メルヴィは勧められるまま豪奢な椅子に座り、両手で茶杯を包み込んだ。
「シャムス王国の第一王子殿下が、どうして私に?」
ラグナスが一歩進み出て、手元の羊皮紙を見ながら簡潔に説明する。
「シャムス王国は南方の熱砂地帯に位置する国です。近年、国境付近のオアシス群が急激に枯れ始め、霊脈の流れも不安定になっているとか。原因は国境砂漠に沈む古代遺跡にあると見られています」
「古代遺跡……」
「先方の高位術師たちでも原因究明と解呪に至らず、外交使節を通じて正式な協力要請が届きました。名指しです。『エルドラードの聖女殿に助力を賜りたい』と」
「聖女殿」
メルヴィは困ったように、八の字に眉を下げた。
「私は聖女ではなく、ただの……」
「ただの、の続きに“掃除好きの文官です”と言ったら、今度こそ全国民が泣きますよ」
ラグナスが深い疲労を滲ませた声で告げる。
メルヴィはきゅっと口をつぐんだ。自覚がないのはいつものことだが、最近は否定するたびに周囲の大人たちが本気で顔を覆うので、さすがに学習し始めていた。
オフィウスが、温度のない声で口を開く。
「本来なら断る」
「えっ」
「君を他国の、しかも魔力が乱れる国境の不安定地帯へ出す理由がない」
あまりにも明確な、過保護すぎる庇護者の目線。
だがメルヴィはコト、と茶杯を置き、少しだけ身を乗り出した。
「でも、困っておられるのですよね」
「……」
「水が枯れているなら、大変です。砂漠の国ならなおさら。生活にも農地にも、きっと影響が出ます」
その声の響きは、王都で蔑まれていた窓際の九等官だった頃と少しも変わっていなかった。
誰かの立場や損得ではなく、ただ「困っているものを放っておけない」。古城を浄化した今に至るまで、彼女の根っこの純白さは一切損なわれていない。
オフィウスは、そのまっすぐな瞳に見つめられ、一瞬だけ言葉を失った。
可愛い。
やはり、信じられないほど可愛い。
国境を越えた隣国の国家危機を、まるで「ご近所の井戸が詰まった」みたいな自然さで心配している。こんな愛おしい存在を、どうして好きにならずにいられるのか。
オフィウスは己の胸中で静かに致命傷を負いながらも、表情筋だけは皇帝の威厳を完璧に保っていた。
「……ならば条件がある」
「条件、ですか?」
「私も同行する」
「はい?」
「君から離れる気はない」
即答だった。
ラグナスがこめかみを押さえる。
(でしょうね、と思いました)
「陛下がご一緒なら安心ですが、帝国の政務は」
「移動中に片づける」
「砂漠ですよ?」
「転移魔法で最短距離を取る。加えて、移動用の砂上船を氷結界で覆えば問題ない」
「問題ない」の基準が、もはや帝国規格を超えた皇帝規格でしかない。
メルヴィは丸い目をぱちぱちと瞬かせた。
「砂漠を、船で?」
「正確には浮航式の移動艇だ。帝国南部の実験機を改修させた」
ラグナスが、死んだ魚のような目で補足する。
「昨夜のうちに、です」
「昨夜のうちに?」
「陛下が『メルヴィを砂塵に晒すな』と仰せでしたので。徹夜で」
メルヴィは静かに両手で顔を覆った。
なんだか申し訳ない。いや、かなり申し訳ない。
だがその一方で、砂漠の砂嵐の中を徒歩で歩かずに済むという提案そのものは、お掃除の観点から言えば非常にありがたかった。何しろ砂は厄介だ。服の繊維にも髪にも入り込むし、放置すると道具の劣化も早い。
「……では、調査に行くなら、長柄ブラシを持って行かないとですね」
「長柄ブラシ?」
「はい。遺跡の奥まったところだと、手の届きにくい溝や管路があるかもしれませんし」
オフィウスの口元が微かに動き――そして、堪えた。
『長柄ブラシを持つのも危ないから私が持つ』と言いそうになったのを、強靭な皇帝の精神力でかろうじて飲み込んだのである。さすがにまだ出発すらしていないのだ。
ラグナスは、主君のそのわずかな我慢を、少しだけ評価した。
三日後。
帝都南門外の巨大な発着場には、朝から妙な緊張感が張り詰めていた。
いや、皇帝の国外移動なのだから本来は当然の空気である。ただ、その中心に停泊している巨大なシルエットが、どう見ても普通ではなかった。
「……船、ですね」
風に揺れるメルヴィの髪を押さえながら、彼女は感嘆の声を漏らした。
砂上に浮かぶ白銀の流線形船体。底部には浮遊魔法陣が青白いパルスを放ちながら幾重にも刻まれ、甲板の上には、日光をプリズムのように反射する透き通った氷の結界が半球状に展開されている。強い日差しを完全にやわらげ、内側の温度は春の木陰のように快適に保たれ、座席には最高級のふかふかなクッションまで備えられていた。
砂漠の移動用というより、もはや「走る氷の宮殿」である。
「すごいです……」
「君が暑さで具合を悪くしない程度には整えた」
オフィウスはさらりと言うが、どこからどう見ても“程度”で済まされる代物ではない。
彼は当然のようにメルヴィの小さな手を取り、甲板へエスコートした。段差がわずか数センチあるだけでも、きっちりと腰を支える。手を放す気配は、当然ない。
一方、すでに発着場へ先着していたシャムス王国の一団は、その光景を前にやや呆然と立ち尽くしていた。
熱砂の国の民らしく、陽光に映える褐色の肌に、鮮やかな赤と金の衣装。先頭に立つ若い男は、まるで砂漠の陽炎そのもののような、眩しく野性的な存在感を放っている。
彫りの深い整った顔立ちに、燃えるような金褐色の瞳。外套の裾は砂漠の風を荒々しく孕み、腰には反りの美しい曲刀を帯びていた。
ザフィール・シャムス。
シャムス王国第一王子である。
「これが……氷の皇帝の船か」
ザフィールは半ば呆れ、半ば感心したように口の端を上げた。
彼が視線をずらし、オフィウスの隣に立つ少女を捉えた瞬間――ザフィールの世界から、ふっと周囲の音が遠ざかった。
風の音も、砂の擦れる音も消え、視界の中心にいる少女の姿だけが鮮明に浮かび上がる。
噂には聞いていた。死の地を清めた奇跡の聖女。あの冷酷なエルドラード皇帝が、狂ったように寵愛しているという少女。
だが、実際に目にした「メルヴィ」は、彼の想像よりずっと素朴で、小柄で、頼りなげで――それでいて、不思議なくらい目が離せない存在だった。
飾り気の少ない旅装。控えめにまとめた髪。高位者らしい尊大さは欠片もなく、初めての遠出に少し緊張しているようにも見える。
しかし、彼女の周囲だけ、世界の色が違って見えた。
じりじりと焼けるような砂漠の朝だというのに、彼女のそばだけ、澄み切ったオアシスの水辺のような清涼感が漂っているのだ。
「メルヴィ・アシュベリー殿か」
「は、はい」
メルヴィが答えるより早く、オフィウスの氷色の視線がザフィールを射抜いた。
その視線が放つ温度差だけで、周囲の砂粒が凍りつきそうだった。
ザフィールはひるむことなく、好戦的に口元を上げる。
「噂どおり……いや、噂以上だな。協力に感謝する、聖教官殿」
「いえ、まだ何もしておりませんので」
「その謙遜が本当に謙遜で済まないのが、君の恐ろしいところだと聞いた」
冗談めかして笑う王子に、メルヴィはきょとんと首を傾げるしかない。
ザフィールはさらに、不敵な笑みをオフィウスへ向けた。
「皇帝陛下自ら同行とは、随分と大事にされている」
「当然だ」
「なるほど」
ほんの短い視線の交錯。
だが、周囲の者たちには十分すぎるほどの圧迫感だった。極寒の氷と、灼熱の炎。二人の王族の間に、見えない雷光が激しく散っている。
ラグナスはこの先の道中を思い、また強めの胃薬が必要だと悟った。
砂上船の旅は、まさしく快適そのものだった。
転移魔法によって危険地帯の大半を一瞬で跳び越え、残る砂漠の道程も、浮航式の船体が波ひとつ立てずに滑るように進む。ドーム状の氷結界のおかげで、外で吹き荒れる灼熱や砂塵は一切入り込まず、船内には涼やかな風と心地よい静寂だけが満ちていた。
メルヴィは窓越しに流れる果てしない砂海を見て、感心しきりだ。
「砂漠って、本当に波みたいですね……」
「気分はどうだ」
「とても快適です。びっくりするくらい」
「ならよかった」
メルヴィの安堵した顔を見て、オフィウスの目元がわずかに、甘く和らぐ。
そのやり取りを向かいの席から眺めていたザフィールが、大げさに片眉を上げた。
「氷の皇帝が、そんな顔をするとはな」
すかさず、ラグナスが冷や汗をかきながら口を挟む。
「見なかったことにしていただけますと助かります、殿下」
「助かるも何も、もう見た」
「でしたら、ただちに記憶から消去してください」
「無茶を言うな」
ザフィールは腹の底から笑った。
豪胆で、裏表のない気持ちのいい笑い方だった。メルヴィは少し肩の力を抜く。敵国の王子と聞いて身構えていたが、少なくとも陰険で腹黒い人物ではなさそうだ。
もっとも、その直後に彼が見せた横顔は、まったく別のものだった。
船が目的地である遺跡地帯へ近づくと、ザフィールの視線は遠くの地平へ鋭く固定された。
揺らぐ砂丘の向こう。地平線を黒く塗りつぶすように、巨大な岩山と、半ば砂に埋もれながらも異様な威容を誇る建造物の一部が、まるで怪物のようにぬっと姿を現した。
「あれが……」
「古代水殿遺跡だ」
ザフィールの声から、先ほどの陽気さが消え失せていた。
「シャムス王国の建国以前、さらに古い時代の祭祀遺構とされている。本来なら王国全土へ恵みの水を送る、大霊脈の結節点だった。だが数百年前、突如として地下水脈が枯れ始め、この一帯は呪われた禁域となった」
「呪い……」
「何人もの術師が挑み、何人も戻らなかった。近づくだけで魔力が乱れ、深部では黒い泥のような呪詛が蠢いている。今では国境沿いのオアシスまで干上がり始めているんだ」
熱血漢らしい強い声音の奥に、王族としての隠しきれない焦りと悲痛が滲んでいた。
国と民を愛しているのだろう。だからこそ、第一王子である彼自らが、この危険な最前線まで足を運んでいるのだ。
メルヴィは、彼の瞳の奥にある真っ直ぐな光を見て、静かに、力強く頷いた。
「わかりました。まず、現場を見てみます」
すかさずオフィウスが言う。
「無理はするな」
「はい」
「危険を感じたらすぐ下がれ」
「はい」
「少しでも足場が悪ければ私の後ろにいろ」
「はい」
「汚泥に直接触れるな」
「……はい」
「長柄ブラシも私が持つ」
「それはだめです」
きっぱりと言い切られたメルヴィの言葉に、氷の皇帝がわずかに口をつぐむ。
緊迫していたはずのザフィールが、思わず吹き出した。
「面白いな、あんたたち」
(面白いで済む話ではない)、とラグナスは心の中で突っ込んだが、沈黙を守った。
古代水殿遺跡は、近づくほどにその異様さを増していった。
見上げるほど巨大な石柱群。半ば砂に埋もれた迷宮のような回廊。崩れた天井の亀裂から幾筋もの光の柱が差し込み、その中で無数の砂埃が白く乱舞している。もともとは壮麗だったはずの巨大建築も、今は黒ずんだ汚れと、肺を重くするような乾いた瘴気に覆い尽くされていた。
遺跡の入口付近から、すでに空気が粘り気を帯びて悪い。
同行した術師たちが冷や汗を流しながら護符を握りしめ、騎士たちが剣の柄に手をかけて周囲を警戒するなか――メルヴィだけが、まったく別の意味で眉をひそめていた。
「……あの」
「何だ」
オフィウスとザフィールが、同時に振り向く。
メルヴィは入口脇の巨大な石壁を指さした。
「ここ、風の抜けが悪いですね」
「は?」
「細かい砂が溜まって、ずっと壁面に擦れていたみたいです。表層がざらついていますし、下の方、黒く固まってますよね。これ、ただの普通の汚れではなくて……魔物由来の粘液も混じっています?」
シャムス王国の高位術師の一人が、ぎょっとした顔でメルヴィを見た。
「見ただけでわかるのか!?」
「え、はい。だって少し、色が違いますので」
『色が少し違う』という主婦の染み抜きレベルの観察眼で、高位の瘴気を言い当てられてはたまらない。
ザフィールは目を丸くし、興味深げに彼女を見つめた。
「君は、遺跡の防衛術式に詳しいのか?」
「いえ、そんな大層なものでは……ただ、長く放置された建物の汚れ方には、少し見覚えがありまして」
呪われた古城の管理員として、死の地をたった一人でピカピカに磨き上げていた人間の台詞である。「少し」どころの騒ぎではない。
最深部へ進むにつれ、壁の黒い汚れはますます濃く、分厚くなっていった。
床の隙間には、乾いて固まったヘドロのような泥。壁面の幾何学的な溝には、砂と魔物の粘液がバームクーヘンのように何層にもこびりつき、ところどころから有毒ガスのような瘴気の靄が立ちのぼっている。
確かに普通の術師なら、これを「呪い」と呼びたくもなる絶望的な光景だった。
やがて一行は、最深部の大空間へ到達した。
天井の見えない巨大な円形祭壇。
中央には紋章が刻まれた巨大な石盤があり、その周囲を複雑な幾何学模様の水路(溝)が取り巻いている。だが、そこに水は一滴もなく、かわりに黒茶色の禍々しい澱が、血管の詰まりのようにびっしりと固着していた。祭壇全体が脈打つように、息苦しいほど重たい魔力を漏らしている。
ザフィールはその前で足を止め、ギリッと奥歯を噛み締めた。
これまで抑えていた感情を、吐き出すように言う。
「これが、我が国を蝕んでいる元凶だ」
握り締めた彼の拳が、微かに震えている。
「古の呪いにより、大地の霊脈が完全に塞がれてしまった。我が国の最高位の魔導師でも解呪できない。封印術も、強力な浄化術も、国を挙げた儀式魔法もすべて跳ね返された。俺たちは何年も、何十年も、この巨大な呪詛に手を焼いている」
熱を帯びた悲痛な声が、薄暗い石室に反響する。
「このままでは、国境の民から順に恵みの水を失う。いずれは王都の大オアシスにも影響が及ぶだろう。だから頼む、メルヴィ殿。どうか俺の国を――」
そこで、彼の悲痛な懇願はぴたりと止まった。
メルヴィが祭壇をじっと見つめたまま、首をこてんと傾げたからだ。
「あの」
「……何かわかったのか?」
「その、呪いというか……」
彼女は、少し言いにくそうに、恐る恐る口を開いた。
「単に、数百年分の砂埃と、魔物由来のヘドロで『排水管』が詰まっているだけですね」
――シーン。
完璧な沈黙だった。
術師たちの思考がショートする音が、実際に石室に響いた気がするほど、見事な静寂である。
「……は?」
最初に間抜けな声を絞り出したのは、ザフィールだった。
「排水、管?」
「はい。この祭壇、もともと水を流す仕組みですよね。ここが入口、こちらが分岐、で、中央から地下の本流へ落としている。でもその経路が、全部詰まっています。ほら、この縁、黒ずんでいるように見えて、内側はひどくぬめっていますし」
メルヴィはしゃがみ込み、作業着のポケットから取り出したマイ木べらで、祭壇の端をカリッとつついた。
べりっ、と嫌な音がする。
分厚く固着していた黒い膜がめくれ、その下から、本来の美しい白い石肌がわずかに顔を出した。
シャムス王国の術師たちが、一斉にヒッと息を呑む。
「これは……」
「まさか、魔力腐泥だと!?」
「しかも下層に、まだ水路の術式痕が生きている……?」
メルヴィは祭壇全体を見回し、お掃除のプロとしてあっさりと結論を出した。
「上から落ち続けた砂と、棲みついた魔物の分泌物、それに乾いて固まった瘴気汚れがミルフィーユ状の層になって、配管を完全に塞いでいたんです。呪いっぽく見えていたのは、空気が通らずに腐敗ガスが溜まっているからかと」
「……つまり」
ザフィールが、己の耳を疑うように呆然と問う。
「解呪、ではなく」
「大掃除ですね」
きっぱり、あっさりと断言した。
ラグナスは悟りを開いた僧侶のような顔になっていた。(ああ、そうでしょうね。知っていました)という無の境地である。
一方、オフィウスだけは一切動揺せず、平然としている。
いや、平然を装っているだけだ。
彼の胸中では、(やはり私のメルヴィは最高だ。世界一の審美眼だ)と、国威発揚レベルの感動の嵐が吹き荒れていた。
「必要な道具を」
オフィウスが指を鳴らすと、即座に帝国側の侍従兼補佐役たちが流れるような動きで展開した。
「長柄ブラシ、柄付きヘラ、極細繊維の洗浄布、桶、浄水媒体、全部こちらにございます!」
「ありがとうございます」
メルヴィはきっちり礼をして、作業着の袖をまくり上げた。
その小さな仕草だけで、なぜか石室の空気がピンと張り詰める。
これから伝説の聖戦が始まる、と錯覚するような圧倒的な緊張感だった。
実際に始まるのは、単なるお掃除である。
「まず大きい固着をヘラで剥がして、次に水を通して、中で緩んだものをブラシで掻き出します。最後に生活魔法で流れ全体を整えれば……たぶん」
「たぶん?」
「ピカピカになります」
あまりにも頼もしい背中だった。
メルヴィは自分の背丈ほどもある長柄ブラシを、両手でしっかりと構えた。
「では、失礼して」
――ごしっ。
次の一瞬。巨大な遺跡全体が、ズンッ!と重く震えた。
ただのブラシの音ではない。彼女が石床を擦った箇所から、目も眩むような純白の光が迸り、長年こびりついていた分厚い黒い層が、まるで断末魔の悲鳴を上げるように一気に剥がれ落ちたのだ。
じゅわあああっ!と、瘴気が浄化される強烈な音が響く。
「わっ」
「下がれ!」
騎士たちが慌てて盾を構えるが、飛び散ったのは呪詛ではなく、ただの浄化された汚泥の残骸だった。いや、シャムスの術師たちの目には、それが“ただの”では済まない致死量の魔力塊に見えているのだが、メルヴィは一切構わず次の一撃を叩き込む。
「ここが詰まりの核ですね。かなり頑固です……!」
ごしっ! ごしっ! ごしごしっ!
生活魔法の淡い光がブラシの先で竜巻のように渦を巻き、祭壇を巡る溝の奥深くへ染み込んでいく。
「洗浄! 浄水! 浮かせて、流して――えいっ!」
雷光を思わせる眩い光が、石室いっぱいに弾けた。
直後。
――どごんっ!!
地の底から、腹の底を揺らすような爆音が轟いた。
「何だ!?」
「水圧だ!」
「本流が動いたぞ!!」
祭壇中央の巨大な石盤の下から、数百年の眠りから強引に叩き起こされたような轟音が響く。溝の奥深くで巨大なヘドロの栓が一気に崩壊し、次の瞬間、乾ききっていた遺跡の全水路へ向けて、圧倒的な質量の「透明な水」が大噴出した。
「きゃっ!」
メルヴィの足元を、冷たく清らかな飛沫が駆け抜ける。
一本。二本。十本。
幾何学模様の溝という溝を、水晶のように透き通った水が怒涛の勢いで走り始めた。
遺跡中に、轟々たる水音が満ち溢れる。
数百年ぶりに解放された大水脈が、怒れる竜のように地下から天へ向かって美しい飛沫を上げて噴き上がったのだ。
「み、水だ……!」
「本当に通ったぞ!!」
「霊脈の魔力反応が、ありえない速度で正常化していく!」
シャムスの術師たちが、感極まって涙を流しながら叫ぶ。
ザフィールは、信じられない神の奇跡を見るように、目の前の光景に呆然と見入っていた。
黒く死んでいた祭壇が、見る間に純白の輝きを取り戻していく。水路を走る水はあくまで澄み渡り、肺を潰しそうだった空気は清浄な風へと変わり、崩れた天井の亀裂から差し込む光の柱が、水面に反射して石室全体を黄金色に照らし出している。
ただの解呪ではない。
まるで、遺跡という生命体そのものが蘇生しているかのようだった。
「そんな……本当に……たった一人で……」
ザフィールの声は震え、その瞳は祭壇の中心に立つ小柄な少女の背中に釘付けになっていた。
「やはり、詰まりでしたね」
メルヴィは額の汗を拭いながら、少し満足そうに頷いた。
「定期的に水を流して換気していれば、ここまで酷くならなかったと思うのですが」
数百年級の国家的災厄を、マンションの排水管管理不足みたいに言うのはやめてほしい。
誰もが心の中でそう突っ込んだが、それを言葉にする暇は、誰にも与えられなかった。
――ごごごごごっ!
突然、足元の祭壇が激しく揺れたのである。
「危ない!」
水圧と長年の乾燥で脆くなっていた祭壇周辺の石床が、急激な水流の復活に耐えきれず、連鎖的に崩壊を始めたのだ。
メルヴィの立っていた縁の石板が、無慈悲にパキンッ、と割れる。
「わわっ!」
彼女の小さな体が、宙に投げ出される。
オフィウスが、音速を超えんばかりの速度で動いた。
だが、ほぼ同時に、ザフィールも動いていた。
そして、落下するメルヴィにコンマ一秒早く届いたのは――上空の空間から滑り込んできた、一枚の豪奢な「飛行絨毯」だった。
「っ!」
砂漠の王子は躊躇なく虚空へ身を投げ出し、崩れゆく祭壇の上でバランスを失ったメルヴィの身体を、その強靭な腕でガッチリと抱きとめた。
ふわり、と浮力魔法が作動する。
メルヴィの視界が一気に持ち上がった。
「きゃあっ!?」
「しっかり掴まれ、俺の女神!」
「め、女神!?」
ザフィールは片腕でメルヴィの腰を抱き寄せたまま、もう片方の手で巧みに絨毯を操った。崩れ落ちる巨大な石柱の破片と水飛沫の雨をアクロバティックに縫うように急上昇し、崩壊する祭壇から一気に離脱を図る。
下から手を伸ばしたオフィウスの指先が、あと数センチのところで空を切った。
その瞬間。
遺跡の石室の空気が、物理的に凍りついた。
――バキィッ!!と、凄まじい轟音が響き、崩落しかけていた祭壇の一部が瞬時に絶対零度の氷塊に包まれる。空を舞っていた水飛沫さえもが一瞬で結晶化し、白いダイヤモンドダストとなって空中で静止した。
ラグナスが一気に顔色を青ざめさせた。
「まずい」
ものすごく、国家存亡レベルでまずい。
なぜなら今、氷の皇帝は「己のすべてである最愛の相手が、他の男に抱き上げられた」という絶対に許されざる事実を、目の前で直視してしまったからである。
しかも相手は他国の第一王子。
しかも絨毯で、そのまま上空へ飛び出した。
「ザフィール王子!」
ラグナスが喉が裂けるほどの声で叫ぶ。
「それ以上は、本気で――」
遅かった。
遺跡の天井の巨大な穴から、ザフィールを乗せた絨毯はすでに外の空へ飛び出していた。
まばゆく照りつける砂漠の太陽。吹きつける熱風。
はるか上空で、ザフィールは歓喜に満ちた声を張り上げる。
「なんという叡智! たった一言で古の呪いの正体を見抜き、伝説の水殿を蘇らせるとは! これぞまさしく、我が国を救うオアシスの女神!」
「お、王子殿下、降ろしてくださいっ!」
「いや、駄目だ!」
「駄目なのですか!?」
「君は我が国の救いだ! こんな奇跡、エルドラードに返してたまるか!」
何を言い出すのかと思えば、彼は砂漠の空気を震わせるほどの声量で、とんでもない宣戦布告を放った。
「この女神は、我がシャムス王国がもらい受ける!!」
「えええええっ!?」
メルヴィは目をひん剥いた。
もらい受けるって何だろう。私は壺か何かではない。人間です。
そう抗議したかったが、絨毯はすでに遺跡上空を離脱し、砂丘の彼方へ向かって猛スピードで加速し始めている。
メルヴィは恐る恐る、眼下を見下ろした。
崩れた遺跡の出口から、オフィウスがゆっくりと姿を現すのが見えた。
漆黒の外套が熱風に大きく翻り、彼が歩みを進める足元だけが、白く凍りついていく。
距離が離れていて表情までは見えない。
だが、メルヴィの本能が警鐘を鳴らしていた。
あれは、とても怒っているときの陛下だ。
しかも、これまで見たこともないレベルの、特大のやつだ。
「へ、陛下ぁぁぁっ!!」
広大な砂漠の空に、メルヴィの悲鳴がこだました。
「きゃああっ! 陛下ー!!」
その悲鳴を、地上で見上げるオフィウスは確かに聞いた。
たった一声で十分だった。
皇帝の胸の奥で、何かが静かに、決定的に切れる音がした。
最愛の少女が、目の前で攫われた。
他国の王子の腕の中で、怯えて自分を呼んでいる。
オフィウスの氷色の瞳から、人間としての最後の理性がすっと蒸発した。
「……ラグナス」
「はい」
ラグナスは直立不動で返事をした。たぶんこの直後、世界の地図が書き換わるような惨事が起きると確信しながら。
「追う」
「でしょうね」
「外交問題になっても構わん」
「それもでしょうね」
「メルヴィを泣かせた」
「はい」
ラグナスは静かに目を閉じた。胃薬ではもう追いつかない。
だが臣下として、帝国と世界の平和のために、今は命懸けで進言すべき言葉がある。
「……せめて、王子本人を殴るだけに留めてください」
「善処する」
善処で済む規模ではないことは、次の瞬間に証明された。
オフィウスが一歩、前へ踏み出す。
彼の足元から、青白い魔力のパルスが爆発的に奔った。
――ピキッ……ピキキキキキッ!!
けたたましい破砕音とともに、砂が凍る。
灼熱に焼かれていたさらさらの砂粒が、みるみるうちに絶対零度の青白い氷床へと変貌していく。
遺跡の周辺だけではない。オフィウスを中心に、目に見える範囲の巨大な砂丘を、熱された砂の海を、はるか果ての地平線へ向かって一直線に、凍結の津波が駆け抜けていったのだ。
シャムスの術師たちが、へたり込んで蒼白になる。
「う、嘘だろ……」
「砂漠を……凍らせている……!?」
「地表温度が一瞬で反転した!」
「霊脈ごと強制冷却しているのか!?」
彼らはもはや、声を発することすら恐ろしかった。
伝説で聞いたことはある。氷の皇帝が本気で怒れば、戦場そのものが冬の地獄になると。だが、それは単なる比喩表現の誇張だと思っていた。
違った。
実物の怒りは、神話の誇張をはるかに凌駕していた。
太陽が照りつける熱砂の大地が、圧倒的なスピードで白銀のアイスバーンへと塗り替えられていく。吹き荒れていた熱風は極限の冷気に砕かれ、舞い上がる砂塵はきらきらと輝くダイヤモンドダストへ変わって空を舞った。
凍りついた白銀の砂丘の上へ、オフィウスは一切の感情を排した顔で踏み出した。
その姿はまるで、世界の理そのものに「止まれ」と命じる絶対神のようだった。
「待っていろ、メルヴィ」
低く、静かに。
けれど、その奥にマグマのような熱情を孕んだ声で、皇帝は世界に向けて宣告した。
「今、迎えに行く」
上空を猛スピードで飛ぶ絨毯の上で、メルヴィは泣きそうな顔で振り向いていた。
遠ざかっているはずなのに、陛下の姿がはっきり見える気がした。
一面の白銀へと変わった世界の大地の中心で、彼だけが自分を見上げている。
その真っ直ぐで強烈な視線に、胸がぎゅっと締めつけられる。
「お、王子殿下……!」
「何だ!」
「陛下が、ものすごく怒っておられます!!」
「見ればわかる!!」
「でしたら降ろしてください!!」
「降ろしたら君という奇跡を失うだろう!」
「その前に国が氷河期になりますっ!!」
完全にその通りだった。眼下の砂漠が白く染まっていく異常事態に、ザフィールもさすがに顔を引きつらせていたが、それでもメルヴィを抱く腕は決して緩めなかった。
彼の胸にもまた、ひとつの強烈な確信が生まれていたからだ。
この少女は本物だ。国を救う奇跡そのものだ。
そして、そんな存在を目の前にして手放せるほど、彼は温い男ではなかったのだ。
「悪いが、聖教官殿!」
ザフィールは絨毯の魔力を全開にし、さらに加速させる。
「君には一度、我が国へ来てもらう!」
「い、一度どころでは済まされない危機の予感が!」
「安心しろ、未来の妃として最高に丁重に遇する!」
「そういう問題ではありませんーっ!!」
メルヴィの悲鳴が、氷に変わりゆく砂漠の空へと虚しく吸い込まれていく。
その後ろで、氷の皇帝は一切の迷いなく、軍団すら置き去りにした単騎での猛追撃を開始した。
熱砂の国と、氷の帝国。
国境どころか世界の気候すら揺るがす、とてつもなくスケールの大きな「お掃除」と「恋愛沙汰」の幕が、いま勢いよく切って落とされたのである。




