表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/9

第4話 最高官位と、世界一甘い永遠の誓い

 灰冠の古城が完全な聖域へと変わったのは、メルヴィが三等枢機官となってから、さらに十二日後のことだった。


 北塔最上階。

 最後まで黒い瘴気を吐き続けていた封鎖区画の核――古代災厄の残滓と呼ぶべき黒い結晶を前に、メルヴィはいつものように腕まくりをしていた。


「これを落とせば、全部終わるのですよね」


 足元には、桶と雑巾。

 背後には、彼女にそれ以上重いものを持たせまいとする騎士団。

 そして、その中心には当然のようにオフィウスがいた。


「君が触れる必要はない」


「でも、汚れの性質を見ないと、どの洗浄から入るべきかわかりません」


「危険だ」


「陛下」


「何だ」


「そのやり取り、最近毎日しております」


 メルヴィがやんわり言うと、ラグナスが遠くで目を閉じた。

 実際その通りだった。危ないから触るな、と言う皇帝と、汚れの性質がわからないと掃除ができません、と返す三等枢機官。この古城ではそれがもはや日常である。


 オフィウスはわずかに眉を寄せたものの、最終的にはいつもの結論へ落ち着いた。


「ならば私が傍にいる」


「はい」


 それなら通るのも、いつものことであった。


 問題の黒い結晶は、天井から垂れ下がるようにして部屋の中心を占拠していた。

 見ているだけで頭が痛くなるほど濃密な瘴気を孕み、術師隊が何人がかりで結界を張っても近づくのがやっとの代物である。


 だがメルヴィは、しばらくそれを観察したあと、こくりと頷いた。


「思ったより単純です」


「単純」


 周囲がざわめく。

 どこが、と全員が思ったが、口に出す勇気はない。


「長年こびりついた汚れが、何層にも固まっているだけですね。最初から強く削ると飛び散るので、表面をふやかして、奥の澱みを流して、最後に核だけ乾拭きで――」


 完全に大掃除の手順だった。


 彼女はいつもの生活魔法を起動する。

 洗浄。浄水。乾燥。浄拭。


 誰もが日常で使う、ごくささやかな術の組み合わせ。

 なのにメルヴィの手から広がる光は、まるで朝焼けみたいに柔らかく、そして容赦なく、黒い結晶の表面を剥がしていく。


 じゅうう、と低い悲鳴のような音が響いた。


 結晶の表面が溶け、瘴気が白い霧へ変わって消えていく。

 部屋を満たしていた重苦しい圧が、少しずつ、しかし確実に軽くなる。


「今です、風を通してください!」


 メルヴィの声に、騎士たちが一斉に窓を開け放つ。

 北方の冷たい風が吹き込み、最後の黒をさらっていく。


「仕上げます」


 彼女は一歩踏み出し、雑巾をぎゅっと絞った。


「きれいになってくださいね」


 その一拭きで。


 結晶は音もなく砕け散った。


 まるで最初からそこに何もなかったみたいに、部屋の中心から災厄の核が消え去る。

 次の瞬間、古城全体がふわりと震えた。


 塔の外で、鐘が鳴る。

 中庭の泉が一段と高く湧き上がり、聖域を示す淡い光が城壁から空へ向かって柱のように立ちのぼる。

 精霊たちが歓喜するように乱舞し、庭の草花が一斉に開いた。


 そして玄関ホールの魔導板が、これまで見たことのない強い輝きを放つ。


『領域浄化率一〇〇%到達。灰冠の古城、旧離宮ラズ=ヴェルドの完全再生を確認』


 荘厳な音声が響く。


『現任管理者メルヴィ・アシュベリーの功績は、国家災厄鎮静、霊脈回復、聖域創成に相当。旧離宮特例規定を超過したため、王都中央審議会および皇統会議へ最終報告を上申します』


 誰も言葉を失った。


 完全浄化。

 死の地と呼ばれた辺境が、正式に聖域として蘇ったのだ。


 そしてその中心に立つメルヴィ本人だけが、結晶の消えた床を見て安堵していた。


「よかった……これで北塔も拭きやすくなります」


 緊張に耐えていた騎士の一人が、思わず膝から崩れた。

 ラグナスはもう何も言わない。言うだけ無駄だと知っているからである。


 オフィウスはそんなメルヴィを見つめ、胸の奥がひどく静かに満ちていくのを感じていた。

 彼女が成したことは、もはや一人の文官の功績ではない。国そのものを救う奇跡だ。


 なのに彼女は、最後まで変わらない。

 自分の偉業を“掃除の延長”として受け止めて、床の拭きやすさにほっとしている。


 そのあり方こそが、どうしようもなく愛おしかった。


「メルヴィ」


「はい?」


「王都へ戻るぞ」


 彼女は目を丸くする。


「王都、ですか」


「ああ。正式な報告と地位が必要だ」


「……地位」


 その言葉だけで少し身をすくませる。

 三等枢機官になったときでさえ、彼女は半ば気絶しかけていたのだ。これ以上いったい何をどうするのか、考えたくもない。


「心配するな」


 オフィウスは低く言った。


「面倒なものは全部、私が整える」


「……また全部とおっしゃいましたね」


「全部だ」


 真顔で繰り返され、メルヴィは困ったように笑うしかなかった。


 数日後。

 王都エルドラードは、前代未聞の凱旋を迎えることになる。


 皇帝直属の騎士団を先頭に、白く再生したラズ=ヴェルドの聖域紋を掲げた馬車列が中央大路を進む。

 沿道には貴族も平民も溢れ、誰もがその噂の中心を一目見ようとしていた。


「本当にあの死の地を蘇らせたのか?」


「三等枢機官になった娘だろう」


「いや、それどころではないらしいぞ。皇統会議が開かれるって」


「何を授けるつもりなんだ……?」


 ざわめきは波のように広がっていく。


 馬車の中で、メルヴィは完全に縮こまっていた。


「人が多いです……」


「王都だからな」


「見ています。皆さん、とても見ています」


「当然だ」


「当然なのですか?」


「君が見られるのは、当然だ」


 何の慰めにもならない。

 というか逆に緊張する。


 オフィウスは向かいに座ったまま、外套の裾ひとつ乱れていない。

 相変わらず非の打ちどころのない美貌なのに、メルヴィに向ける目だけが妙に甘く、彼女はそれが余計に落ち着かなかった。


「陛下、そんなに見つめないでいただけますか」


「なぜ」


「……恥ずかしいので」


「可愛い」


「陛下」


「何だ」


「今の会話、私の方が不利ではありませんか」


「そうかもしれない」


 少しも悪びれずに言う。

 この人は本当にずるい、とメルヴィは思った。


 馬車が帝城へ到着すると、彼女は半ば夢の中みたいな気持ちで、巨大な正門をくぐった。

 かつて九等文官として書類を運ぶためだけにしか近づけなかった場所へ、今は皇帝の隣を歩いて入っていく。


 しかも彼女の胸には、三等枢機官の徽章。

 それだけでも十分に異常なのに、今日のために整えられた礼装は、彼女自身が戸惑うほど上質だった。純白を基調に、淡い金糸で聖域紋が刺繍され、動くたび光を受けて柔らかく揺れる。


「……私、場違いではないでしょうか」


「どこがだ」


「全部です」


「似合っている」


 即答。

 しかも少しの迷いもない。


 メルヴィはまた耳を赤くした。

 褒め言葉への耐性が、最後まで育たないままここまで来てしまったらしい。


 やがて大広間の扉が開く。


 そこには、王都中の貴族、高官、聖職者、軍人、魔導省幹部が一堂に会していた。

 高い天井から無数の灯りが降り注ぎ、磨かれた白床には人々の緊張が静かに張り詰めている。


 メルヴィが一歩踏み入れた瞬間、無数の視線が集まった。


 かつて廊下の端で彼女を見下していた者。

 地味だ、要領が悪いと噂した者。

 その報告書をろくに読まず、名前すら覚えなかった者。

 全員が今、息を詰めてこの一人の少女を見ていた。


 ざわめきは起こらない。

 起こせないのだ。皇帝が直々に彼女を伴っているからではない。もっと単純に、聖域創成という途方もない実績を前に、軽々しく口を挟める者がいなかった。


 玉座前へ進んだオフィウスは、静かに振り返った。


「跪くのは私だけで足りる」


「え?」


 メルヴィが呆ける間もなく、皇帝は大広間の中央で片膝をついた。


 どよめきが走る。


 氷の皇帝が。

 誰にも頭を垂れぬと恐れられた男が、ただ一人の少女の前に膝をついたのだ。


 オフィウスは厳かな声で告げた。


「メルヴィ・アシュベリー。九等古城管理員として死地へ赴任し、災厄に蝕まれた北方辺境を自らの手で浄化し、ラズ=ヴェルドを聖域として蘇らせた者」


 広間の隅々まで響く声。

 その一言一言が、彼女の歩みを国の歴史へ刻んでいく。


「その功績は、通常官位にも、特例官位にも収まらぬ。よって皇統会議および帝国全権において、新たな最高位をここに定める」


 空気が震えた。


 新たな最高位。

 それがどういう意味を持つのか、広間にいる誰もが理解した瞬間、顔色を変える。


 オフィウスは続ける。


「メルヴィ・アシュベリーに、超位・終身名誉聖教官を授与する」


 ざわ、と大広間が揺れた。


 超位。

 それは既存の一等から九等の枠外。

 皇帝の統治権と並び立つことこそないが、国家の聖域・霊脈・民生を守護する象徴として、皇帝と同等の敬意をもって遇される永久名誉位である。


 前例はない。

 つまり彼女のために、いま初めて作られた位だった。


 メルヴィは完全に固まった。


「ちょう、い……?」


「そうだ」


「終身……?」


「そうだ」


「名誉……聖教官……?」


「そうだ」


「……無理ではありませんか?」


 思わず漏れた率直すぎる言葉に、何人かの高官が顔を引きつらせた。

 だがオフィウスは微塵も揺るがない。


「無理ではない。君以上に相応しい者が存在しない」


 その断言に、広間の空気が再び静まり返る。

 反論できる者は誰もいない。

 死の地を蘇らせた実績は、どんな家柄や官歴より雄弁だった。


 儀礼官が捧げ持つ白金の徽章が運ばれてくる。

 雪の結晶と泉と箒を意匠化した、新しい位を象徴する紋章。


 メルヴィは呆然としたまま、それを見つめた。


「陛下……私なんかが、こんなものをいただいてしまったら」


「君“なんか”ではない」


 静かだが、強い声だった。


「自分を卑下するな。ここにいる全員が、君の功績の前に頭を垂れるべきだ」


 そしてオフィウスは立ち上がり、自らその徽章をメルヴィの胸元へ留めた。


 広間の全員が見守る中、白金の紋が光を宿す。

 瞬間、彼女の足元から清らかな光が広がり、大広間の床に淡い聖域紋が咲いた。


 どよめきより先に、誰かが跪く音がする。

 ひとり、またひとり。

 貴族たちも、高官たちも、聖職者たちも、かつて彼女を見下した者たちすら、抗いがたく膝を折っていく。


 これは皇帝の強制ではない。

 彼女が持ち込んだ奇跡そのものに、頭を垂れずにはいられなかったのだ。


 前列の一角には、処分を待つ身となった元五等官バルトロメイも、証人として引き出されていた。

 彼は青ざめた顔でその光景を見上げ、震えている。


 かつて“薄汚い九等官”と罵った少女が、今や自分では顔も上げられない高さにいる。

 その現実は、彼の矮小さをこれ以上なく残酷に照らし出していた。


 メルヴィはその視線に気づいたが、もう何も言わなかった。

 恨みは消えない。けれど、もうそこへ引き戻されることもない。


 彼女が前を向けば、その先には広間いっぱいの人々と、そして、誰よりも真っ直ぐに自分を見つめるオフィウスがいた。


 叙任式が終わり、大広間が少し落ち着きを取り戻したとき。

 儀礼官が次の進行を告げようと口を開いた、まさにその瞬間だった。


 オフィウスが一歩前へ出る。


 その目は、皇帝としてではなく、もっと個人的な熱を帯びていた。


「……陛下?」


 ラグナスが嫌な予感に眉をひそめる。

 だがもう遅い。


 オフィウスは再び、メルヴィの前へ跪いた。


 今度こそ、広間は完全に息を止めた。


「君に授けるべきものは、位だけでは足りない」


 その声は低く、甘く、ひどく真剣だった。


「メルヴィ」


 名を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。


「君の不器用なところも、泥だらけで笑うところも、些細な汚れを見つけて放っておけないところも、誰かのために働きすぎるところも――そのすべてが、私の心を狂わせる」


 大広間のど真ん中。

 王都中の重鎮たちが見守る前で、氷の皇帝は一切の躊躇なく愛を告げていた。


 メルヴィは真っ赤になって固まる。


「私は君を敬い、愛し、何よりも大切にしたい」


 オフィウスは彼女の手を取った。

 かつて掃除道具を握っていた、少しだけ荒れた指先。それすら、彼にとっては何より愛しい。


「どうか一生、私の隣で、君の好きなように生きてほしい」


 静かに、けれど確かな熱を込めて。


「私の妃として――いや、それ以上に、私の人生そのものとして、共にいてくれ」


 完全な沈黙。

 あまりに甘く、あまりに真っ直ぐで、誰も口を挟む余地がない。


 メルヴィの頭は真っ白だった。


 超位を授けられた直後である。

 ただでさえ思考が追いついていないのに、その上で皇帝からの求婚。順番がおかしい。情報量がおかしい。


「……へ、陛下」


 やっと絞り出せた声は、情けないほど震えていた。


「私は、その……超位とか、終身とかだけでも、いっぱいいっぱいで……」


「知っている」


「しかも私は、礼法もまだ途中ですし、掃除をしている方が落ち着くような人間で……」


「それも知っている」


「たぶん、理想の妃らしさとか、そういうものは……」


「要らない」


 即答だった。


「私は、君を君のまま欲している」


 どこまでも真っ直ぐな言葉に、メルヴィの目の奥がじわりと熱くなる。


 王都で過ごした三年間、誰かに“そのままでいい”と言われたことは一度もなかった。

 もっと要領よく。

 もっと目立たず。

 もっと空気を読んで。

 そういう言葉ばかりだった。


 けれどオフィウスは違う。

 泥だらけでも、不器用でも、掃除ばかりしていても、それごと欲しいと言ってくれる。


「……私、変わり者ですよ?」


「知っている」


「たぶん、これからも気になったら床を磨きます」


「好きなだけ磨けばいい」


「陛下のお部屋も、勝手に掃除するかもしれません」


「歓迎する」


「書類の並びが気になったら、整えますよ」


「むしろ頼みたい」


 少しずつ、広間のあちこちから堪えきれない笑いが漏れた。

 あまりにも二人らしいやり取りだった。


 メルヴィは涙ぐみながら、でも確かに笑った。


「……それなら」


 そっと手に力を返す。


「私でよろしければ、陛下の隣にいます」


 次の瞬間、大広間を揺らすほどの歓声が上がった。


 騎士団が拳を握り、貴族たちがどよめき、儀礼官が半ば感極まった顔で祝福の言葉を叫ぶ。

 ラグナスは深いため息をつきながら、どこか安堵したように目を細めていた。


 オフィウスは立ち上がると、メルヴィの手を両手で包み込んだ。

 冷たいと噂される彼の手は、不思議なほどあたたかかった。


「ありがとう」


 それだけ言った声音が、ひどく優しい。


 大広間の灯りが揺れ、白金の徽章がきらりと光る。

 もう誰も、この少女を窓際の九等官とは呼ばない。呼べるはずがない。


 九等から始まった。

 誰にも期待されず、流刑同然に死地へ送られた少女が、掃除をしていただけで城を浄め、辺境を蘇らせ、七等、六等、五等、三等と階位を駆け上がり、ついには超位へ至った。


 それは出世物語であると同時に、正しく評価される物語でもあった。


 そしてその夜。

 盛大な叙任と求婚の余韻がまだ王都を包む中、メルヴィは帝城内の新たな私室へ案内されていた。


「……広いです」


「君の部屋だからな」


「広すぎます」


「足りないものは足す」


「足りないのは広さではありません」


 さすがに疲れたのか、メルヴィは肩の力を抜いて笑う。

 その部屋には、彼女のために用意された書棚、茶器、作業机、そしてなぜか最上級の掃除道具一式まで整然と並べられていた。


「……陛下」


「何だ」


「これ、もしかして全部」


「私が選ばせた」


「どうして掃除道具が中央に置かれているのですか」


「君が一番喜ぶと思った」


 返す言葉もない。

 実際、少し嬉しいのが悔しい。


 窓の外には、王都の灯りが星みたいに広がっていた。

 かつて見上げるだけだった場所を、今は違う立場から眺めている。それでもメルヴィの中身は、古城へ向かったあの日から、根っこの部分では変わっていない気がした。


「明日から、どうなるのでしょう」


 ぽつりと呟くと、オフィウスは彼女の隣に立った。


「君の好きなように生きればいい」


「またそれをおっしゃるのですね」


「当然だ」


「超位でも?」


「超位でも」


「皇帝の婚約者でも?」


「なおさらだ」


 迷いのない声に、メルヴィはくすりと笑う。


「では……まずは、このお部屋の棚の並びを整えてもいいでしょうか」


「好きにしろ」


「あと、窓辺に拭き残しがあります」


「すぐ手配する」


「いえ、それは私が」


「駄目だ」


「……やっぱり言いました」


 いつもの調子で言い合って、そして二人で笑う。


 王都の人々が想像するような、荘厳で完璧な恋ではないのかもしれない。

 泥がついて、雑巾を抱えて、掃除の手順でもめて、でも互いをまっすぐ大切に思う。そんな少し不格好で、けれどひどくあたたかい関係だった。


 やがて王都では、超位・終身名誉聖教官メルヴィの名が広く語られるようになる。

 死の地を蘇らせた奇跡の聖女。

 けれど本人は、呼び名が増えるたびに困ったように首を傾げ、時間を見つけては廊下の艶を気にしているだろう。


 そして皇帝オフィウスは、そんな彼女のどんな行動も全力で肯定し、時には自らモップを持って隣に立ち続けるに違いない。


 窓際の九等官だった少女は、もう誰にも見下されない。

 なにしろ今や、国ごと愛され、皇帝に世界一甘く溺愛される存在になってしまったのだから。


「メルヴィ」


「はい」


「これからも、君の好きなように生きろ」


 夜の帳が下りる王都で、彼の声はやさしく響く。


 メルヴィは白金の徽章へそっと触れ、それから、かつて死の地だった辺境へ思いを馳せるように微笑んだ。


「はい。ではまず――明日の朝、陛下のお部屋をお掃除してもよろしいですか?」


 オフィウスは一瞬だけ目を見開き、すぐに、とろけるように目元を和らげた。


「ああ。ぜひ頼む」


 こうして。

 死の地をピカピカに磨き上げた一人の少女と、そんな彼女を尊いと崇めてやまない皇帝の、甘すぎる日常が幕を開ける。


 それはきっと、どんな勲章よりも、どんな官位よりも、二人にとって幸福な物語の始まりだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ