第3話 異常な特進と、愚かな元上司への「ざまぁ」
皇帝オフィウスが「視察」の名目で灰冠の古城に滞在し始めてから、五日が過ぎた。
その五日で、古城の景色はさらに変わった。
中庭の泉はすっかり澄み、白い石畳の隙間には淡い青花が咲き、精霊たちは今やメルヴィの後ろをついて回るのが日課になっている。
そしてもう一つ、はっきり変わったことがあった。
「……陛下。あの、モップを返してください」
「駄目だ」
即答だった。
朝一番、まだ日も高くならないうちから、メルヴィは二階南回廊の床磨きに取りかかろうとしていた。
しかし桶に水を汲み、雑巾を絞ろうとした時点で、皇帝が無言で道具を奪っていったのである。
「だが今日は来客の動線を整える予定で……」
「私がやる」
「陛下が?」
「そうだ」
銀髪の皇帝は真顔でモップを構えた。
この国で最も高貴な男が、朝靄の差す古城の回廊で、なぜか床清掃の姿勢を取っている。
騎士たちはすでに見慣れ始めていた。
最初の一日は蒼白になって止めようとしたが、オフィウスの「彼女に重労働をさせるな」の一言で黙らされたのである。
ラグナスなどは最近、目の前の光景に対する感性を半ば捨てていた。
「陛下、そちらは先に乾拭きを入れた方が艶が出ます」
しかも今ではメルヴィの指南まで受けている。
オフィウスは文句ひとつ言わず、素直に手を動かした。
「こうか」
「はい。わあ、お上手です」
ぱっと顔を明るくして褒められた瞬間、皇帝の手つきがわずかに軽くなる。
傍目にもわかる変化だった。
騎士の一人が小声で囁く。
「陛下、今、嬉しそうでは」
「見るな。死にたいか」
ラグナスが無表情で返した。
一方のメルヴィは、そんな空気を気にする余裕がない。
「でも、本当に私がやりますのに……。陛下のようなお立場の方に雑巾掛けをしていただくなんて、恐れ多すぎます」
「恐れる必要はない」
オフィウスは淡々と答えた。
「君がやる必要のないことを、私が引き受けているだけだ」
「必要がない、ということはないのですが」
「ある」
「ないと思います」
「ある」
「……」
「……」
数秒の沈黙の後、メルヴィはそっと視線を逸らした。
どう考えても、皇帝陛下と床掃除の必要性で張り合うのはおかしい。だが、押し切られる。
しかも最近のオフィウスは、彼女が雑用を始めようとするとどこからともなく現れるのだ。
重い家具を動かそうとすれば「私がやる」。
脚立に乗ろうとすれば「危ない、降りろ」。
中庭の雑草を抜こうとすれば「土で手が荒れる」。
書庫の高所を拭こうとすれば「その埃を吸うな」。
結果、皇帝自ら箒を持ち、騎士団が雑巾を絞り、側近が家具を運ぶという異様な古城再生活動が日々進行していた。
メルヴィはありがたいと思いつつも、どうにも落ち着かない。
「私、そんなに頼りなく見えるのでしょうか……」
ぽつりと漏らすと、オフィウスはぴたりと手を止めた。
「違う」
低い声が、すぐ近くで返る。
「頼りないのではない。働きすぎだ」
「……え?」
「君は、自分が一人で抱え込むことに慣れすぎている」
まっすぐ見下ろされ、メルヴィは言葉を失った。
王都では、そんなことを言われたことがない。
要領が悪い、手際が悪い、空気が読めない。そういう評価ばかりで、「働きすぎ」などと気づいてくれた人はいなかった。
「だから、少しは他人を使え」
オフィウスはそれだけ言って、また無言で床を磨き始めた。
その横顔は相変わらず冷ややかで、けれど言葉の温度だけが妙にやさしい。
メルヴィは胸の奥がじんわりするのを感じながら、小さく「……はい」と返した。
そのとき、玄関ホールの魔導板が明るく点滅した。
『領域清浄度七四%到達。生活圏安定、霊脈正常化を確認。現任管理者メルヴィ・アシュベリーの階位評価を更新します』
「またですか?」
メルヴィが駆け寄る。
魔導板は最近やたら働き者だった。
『七等相当・辺境聖域管理補佐官より、六等相当・離宮再生監督官補へ昇格を勧告。併せて、中央人事局へ正式記録の再査定を申請済み』
「六等……!」
思わず声が裏返る。
七等でも十分すぎるほど高かったのに、その上の六等。もはや王都の下級文官から見れば、別世界の役職である。
「さすがに上がりすぎでは……?」
本人は心配そうだが、ラグナスは半眼で魔導板を見ていた。
「むしろまだ低い」
「えっ」
「ここまでの功績なら五等でも足りぬ。……いや、通常の官位では測れんか」
騎士団の誰もが無言で頷く。
死の地を聖域に変えた実績など、前例がないのだから当然だった。
オフィウスは板へ近づき、文面を一読したあと、そのまま金印を重ねた。
「承認する」
『承認確認。六等相当・離宮再生監督官補待遇を付与。手当、権限、保護等級を更新しました』
金色の光がふわりと舞い、古城の天井近くで精霊たちがくるくる回る。
まるで祝福しているみたいな光景だった。
メルヴィは半ば現実逃避するように呟いた。
「私……九等官だったのですが……」
「今は違う」
また即答だ。
しかもオフィウスは当然のことのように言う。
「君の価値を、正しい位置へ戻しているだけだ」
その一言に、メルヴィは再び顔を赤くした。
最近、こういう言葉に弱くなっている自覚がある。たぶん慣れていないのだ。陛下は時々、さらりと大変なことを言う。
だが、その“再査定”という言葉は、古城だけで終わらなかった。
同じ日の午後。
王都中央、魔導省人事局第二会議室。
「……どういうことだ、これは」
卓上へ叩きつけられたのは、ラズ=ヴェルド旧離宮から自動送信された再査定記録だった。
九等古城管理員メルヴィ・アシュベリー。赴任後二十数日。領域浄化率七四%。瘴気の恒常的除去。聖域化現象。六等相当勧告。
会議室にいた高官たちは、誰もまともに口を開けなかった。
「ありえん」
「観測塔の数値とも一致しています」
「では本物なのか?」
「しかも陛下が現地承認済みです」
その一言で、室内の空気はさらに重くなる。
皇帝直々の承認が入った以上、もはや“誤記かもしれない”では済まない。
部屋の隅では、五等官バルトロメイの顔色が失われつつあった。
「こ、古城の自動評価など、古い機構の誤作動ということも……」
「ではなぜ陛下が承認なさる」
人事局長の冷たい一言に、バルトロメイは口をつぐんだ。
彼は知っている。
メルヴィが有能だったことを。
少なくとも、自分より現場把握に優れ、術式の継ぎ目や設備不良をいち早く見抜くことを。
だからこそ邪魔だった。九等のくせに目ざとく、実務ができて、しかも手柄への執着が薄い。利用するには都合が良く、近くに置くには危険な部下だった。
まさか、追い払った先で皇帝の目に留まるなど、夢にも思っていなかったが。
「アシュベリーの在職記録をすべて洗い直せ」
人事局長が命じる。
「過去三年の提出書類、実務記録、現場報告、補修案、進言書、連名文書。全部だ」
「っ」
バルトロメイの喉が鳴った。
それは、彼にとって致命傷になりうる命令だった。
古城ではそんな騒ぎも知らぬまま、メルヴィが新たに解放された三階西区画を片づけていた。
「この棚、だいぶ傷んでいますね……」
「触るな」
即座にオフィウスが出てきて、棚を押さえる。
「倒れる可能性がある」
「では、下の段だけ拭いておきます」
「それも私がやる」
「陛下」
「何だ」
「それはさすがにやりすぎです」
「そうか?」
「はい」
真剣に言い返したメルヴィに、騎士たちはこっそり息を呑んだ。
皇帝へここまで自然に物申せる者は、帝都でもほとんどいない。
だがオフィウスは怒るどころか、むしろ少し考え込むようにメルヴィを見た。
「では、君は何をする」
「帳簿の整理をします。古城の備品目録がばらばらなので」
「……それならよい」
よかった、通った。
メルヴィがほっとしたのも束の間、その直後には皇帝自らが埃だらけの棚を担ぎ上げて別室に運んでいく。もはや何を止めて何を許されるのか、基準がよくわからない。
帳簿の整理は、意外にも大きな発見をもたらした。
「古代離宮特例官位規定……?」
書庫で見つけた古い羊皮紙には、王家直轄の特別施設における管理功績の階位換算が細かく記されていた。
通常官位とは別に、“国家霊脈維持への寄与”が一定値を超えた者は、中央の通常審査を飛び越えて特進の対象になりうる、とある。
「こんな制度、初めて見ました」
メルヴィが目を丸くすると、ラグナスが横から覗き込み、珍しく眉を上げた。
「……残っていたのか、この規定」
「ご存じなんですか?」
「伝承程度には。建国期に近い制度だ。大災厄や大規模再生の功労者へ、通常の官歴とは別枠で位階を授けるためのものらしい」
「別枠で……」
妙な胸騒ぎがした。
自分には関係ない、と思いたいのに、古城の動きと噛み合いすぎている。
そのとき、再び魔導板が点灯する。
『旧離宮特例規定との照合を開始。現任管理者の功績値を再算定中』
「始めなくて結構です!」
思わず叫んだメルヴィに、精霊たちがびくっと散った。
だが無情にも表示は続く。
『中央再査定と現地承認を統合。暫定評価:五等相当以上』
「五等……以上……?」
その数字は、メルヴィにとって一種の因縁だった。
かつて自分の上に立ち、自分の功績を奪ってきた元上司バルトロメイと同じ位階。
まさか自分がそこへ届くなど、考えたこともなかった。
オフィウスはその文面を見て、目を細めた。
そして、静かに告げる。
「遅いくらいだ」
「陛下は簡単におっしゃいますけれど、五等官なんて、私にとっては雲の上どころでは……」
「君が見上げていた場所が低すぎた」
さらりと言われ、メルヴィは完全に黙った。
この人は本当にずるい。
あまりに真面目な顔で、とんでもない言葉を投げてくるから、冗談として受け流せないのだ。
その翌日。
古城へ、思いがけない来訪者が現れた。
王都からの紋章馬車。
随伴はわずかだが、着飾った官吏たちが鼻持ちならない足取りで門をくぐってくる。
先頭に立っていた男の顔を見た瞬間、メルヴィの肩がぴくりと震えた。
「……バルトロメイ様」
五等官、バルトロメイ・エーベルス。
かつての直属上司であり、メルヴィの手柄を当然のように自分のものにしてきた男である。
彼は古城の景観に一瞬ぎょっとしたが、すぐにいつもの人好きのする笑みを作った。
「やあ、メルヴィ。久しぶりだな」
「どうしてここに……」
「どうして、とは心外だ。旧部下の様子を案じて視察に来たに決まっているだろう?」
嘘だ。
その目の奥に浮かぶ計算高さを、メルヴィは忘れていない。
おそらく王都で噂を聞きつけたのだろう。
死の地が浄化され、旧離宮が聖域と化し、その中心に自分が追い払った九等官がいる、と。
彼にとってこれは、奪い返せるかもしれない“手柄”なのだ。
「君には荷が重い任務だったろう。私が来てやったからには、もう安心だ」
そう言って、まるで当然のように玄関ホールを見回す。
その仕草だけで、メルヴィは嫌な予感しかしなかった。
「古城の再整備は上級官の統括が必要だ。元々、お前のような下位官吏が扱える案件ではないからな」
つまり、功績を横取りしに来たのだ。
メルヴィの顔から血の気が引く。
せっかく少しずつ築いた場所を、また奪われるのか。
王都にいた頃と同じように、“お前はただ言われたことをやっただけ”で終わらされるのか。
だが、バルトロメイはそこで余計な一言を口にした。
「まったく、薄汚い九等官風情が、少し目立ったからといって身の程を忘れるから困る。顔に泥までつけて、古城の品位を落とすな」
その瞬間だった。
玄関ホールの空気が、凍りついた。
外気が冷えたのではない。
もっと根源的な、圧のようなものが空間そのものを締め上げた。
階段上から、ゆっくりと足音が響く。
「……今、何と言った」
低く、静かで、そして底知れず冷たい声。
現れたのは、白銀の光を背にしたオフィウスだった。
いつもの古城作業着ではない。黒を基調とした皇帝正装、肩には氷紋の外套。圧倒的な威厳が、そこに立つだけで周囲を跪かせる。
バルトロメイの顔から笑みが消えた。
「へ、陛下……!? な、なぜこのようなところに……」
「答えろ」
階段を一段下りるごとに、空気が冷えていく。
「誰を、何と呼んだ」
バルトロメイは青ざめ、慌てて頭を下げた。
「い、いえ、その、昔の部下に対してつい――」
「五等官のゴミが」
淡々と放たれたその一言で、誰もが息を止めた。
「私の愛する六等監督官補に、何の口を利いている?」
メルヴィは固まった。
愛する、と聞こえた気がしたが、気のせいだろうか。いや、気のせいではなさそうだった。ラグナスが遠い目をしている。
バルトロメイは真っ白になって震えていた。
「ご、誤解でございます! 私はただ、旧上司として指導を――」
「黙れ」
たった二文字で、場が制圧される。
「お前の指導記録は、すでに洗い出している」
オフィウスが軽く手を上げると、背後の騎士が一束の書類を差し出した。
中央魔導省から回収された過去三年分の記録。メルヴィ名義で起案され、バルトロメイ名義で提出された案件。補修案、結界改修、設備改善、現地報告――枚挙にいとまがない。
「南街区結界再設計。東庁舎排水術式改修。第五倉庫封印事故の初動抑止。すべてメルヴィ・アシュベリーの実務起案だ」
紙がぱらりとめくられるたび、バルトロメイの顔色が死んでいく。
「お前は功績を横取りし、虚偽報告を重ね、不要と見た人材を死地へ捨てた」
「ち、違……っ」
「違わぬ」
氷のような断定だった。
「死地へ追いやったつもりのその先で、彼女は国土級災厄を沈静化した。お前ごときが見下してよい相手ではない」
メルヴィの喉が詰まる。
国土級災厄。そんな大きな言葉で、自分のしたことを言われる日が来るなんて思わなかった。
バルトロメイはもはや取り繕えなかった。
「し、しかし陛下! この娘は元は九等官です! 官歴も浅く、礼法も未熟で、泥だらけで――」
「それがどうした」
オフィウスの声はひどく静かだった。
静かすぎて、逆に恐ろしい。
「懸命に働いた手が汚れるのは当然だ。泥にまみれて笑う彼女のどこに、侮蔑される理由がある」
完全に公開処刑だった。
「むしろ、書類の陰で他人の功績に寄生してきたお前の方が、よほど薄汚い」
騎士たちが一斉に跪く。
皇帝の怒気が、もはや比喩ではなく周囲の空気を震わせていた。
バルトロメイは腰を抜かし、その場にへたり込んだ。
「ひ……っ」
「人事局長令により、五等官バルトロメイ・エーベルスの全権限をこの場で凍結する」
オフィウスの宣言と同時に、護衛騎士が前へ出る。
「虚偽報告、功績簒奪、官位不正行使、辺境人事の悪用。正式審問を待つまでもない。爵位相当の優遇も、財産管理権も、すべて保留だ」
「へ、陛下、お慈悲を……!」
「ない」
短く切り捨てられる。
それで終わるかと思われた。
だがそのとき、古城の魔導板がまるでこの場を待っていたように最大光量で輝き始めた。
『中央再査定完了。過去功績の補正、旧離宮特例規定、皇統承認、聖域維持値を統合算定します』
金色の文字が次々と流れる。
『メルヴィ・アシュベリー。通常官歴補正後、五等相当を認定』
「ご、五等……」
メルヴィが呆然と呟いたその次の瞬間。
『しかし、旧離宮特例規定に基づき、国家霊脈維持への寄与は通常官位換算を超過』
室内の全員が息を呑む。
『特例勧告。三等・枢機官』
沈黙。
誰も、すぐには理解できなかった。
三等。
それはもう上級官ではない。高位貴族ですら気軽に口を利けぬ、国家中枢そのものの位である。
「そんなの、無理です!」
真っ先に叫んだのは、当然メルヴィだった。
「だって三等官なんて、私、字もまだ急ぐと少し崩れますし! 礼法だって完璧ではないですし、そもそも枢機官って何をするんですか!?」
叫びがあまりにも庶民的で、緊迫した空気が少しだけ揺らいだ。
ラグナスは思わず顔を覆う。
だがオフィウスだけは、ひどく真面目だった。
「君は受けるべきだ」
「で、でも……!」
「君がどれだけ自分を低く見積もろうと、功績は消えない」
彼は階段を下り、メルヴィの前へ立った。
「九等から七等、七等から六等、そして五等。そこまででも本来は十分に破格だ。だがそれでもなお足りぬ。ならば、足りる位置まで上げるだけだ」
その理屈は無茶苦茶なのに、不思議と彼が言うと揺るがない。
オフィウスは魔導板へ手をかざした。
「皇帝権限において承認する」
『承認確認。メルヴィ・アシュベリーに三等・枢機官待遇を付与。国家聖域管理、辺境再生、特例進言権を付与します』
黄金の紋章が、玄関ホールいっぱいに広がった。
精霊たちがいっせいに舞い上がり、泉から吹き込んだ風がメルヴィの髪を揺らす。
まるで古城そのものが、新しい主の位階を祝福しているみたいだった。
メルヴィは完全に思考停止していた。
「三等……私が……?」
「そうだ」
「でも昨日まで六等で……」
「今日から三等だ」
「計算が飛びすぎていませんか?」
「妥当だ」
真顔で言われてしまい、もう反論のしようがない。
一方、床に這いつくばっていたバルトロメイは、そのやり取りを聞いて絶望に目を見開いた。
つい先ほどまで“薄汚い九等官”と侮った相手が、今や自分では一生届かない三等枢機官になったのだから。
「そんな……馬鹿な……」
「馬鹿はお前だ」
オフィウスは振り返りもしない。
「真価を持つ者を見抜けず、己の器の小ささだけで踏みにじった。結果として、お前は国の宝を捨てた」
その一言が、何より重かった。
国の宝。
かつて誰にもそう扱われなかったメルヴィが、今は皇帝の口からそう断じられている。
胸が熱くなって、苦しくなって、泣きそうになる。
嬉しいのか、怖いのか、追いつかない。
「連れて行け」
皇帝の命で、騎士たちがバルトロメイを拘束する。
彼は何か言い募ろうとしたが、もう誰も耳を貸さなかった。
馬車へ引き立てられていく背中を、メルヴィは複雑な気持ちで見送った。
ざまあみろ、と思わないわけではない。
ずっと苦しかった。認められたかった。奪われたくなかった。
それでも、完全に晴れやかなだけではない。
かつて信じようとした上司が、ああいう形で終わるのは、少しだけ寂しかった。
そんな彼女の表情を見て、オフィウスが静かに問う。
「後味が悪いか」
「……少しだけ。でも、たぶんこれでよかったのだとも思います」
「そうか」
「はい。私、ずっと……自分が本当に駄目なんだと思っていました。要領も悪くて、誰の役にも立てなくて」
「違う」
また即答。
今日だけで何度目かわからないほど、迷いのない否定だった。
「君は最初から価値があった。ただ、周囲が腐っていた」
あまりにも容赦がない物言いに、メルヴィは思わず吹き出した。
こんなときなのに、笑ってしまう。
その笑顔を見た瞬間、オフィウスの目元がほんのわずかに緩む。
騎士たちは見なかったことにした。
「それにしても……」
メルヴィはまだ信じられないように胸元の新しい徽章を見下ろした。
三等枢機官を示す、金と白の重い紋。まるで自分のものではないみたいだ。
「私、本当にこれをつけてもいいのでしょうか」
「当然だ」
「でも、汚してしまいそうで」
「なら私が磨く」
「陛下」
「何だ」
「そこは普通、汚さないよう気をつけろ、では……」
「君に窮屈なことは望まない」
真顔で言い切る。
もう駄目だった。メルヴィは耳まで赤くなり、ラグナスは完全に遠い目をした。
その日の夕暮れ。
古城では三等枢機官への昇格を祝う小さな晩餐が開かれた。といっても豪華なものではなく、泉の水で淹れた茶と、庭で採れた野菜、焼きたてのパン、騎士団が慌てて用意した肉料理が並ぶ程度の、温かな食卓だった。
だがメルヴィにとっては、それで十分すぎた。
「おめでとうございます、メルヴィ様」
最初にそう呼んだのは、若い騎士の一人だった。
つられて他の者たちも頭を下げる。
「三等枢機官昇進、誠におめでとうございます」
「いや、あの、様はやめてください……!」
「では枢機官殿」
「それも落ち着きません!」
真っ赤になって慌てる姿に、場が和む。
オフィウスはその様子を少し離れた席から眺めていた。
表面上はいつもどおり無表情だが、周囲の者にはもうわかる。機嫌がいい。ものすごくいい。
「陛下」
ラグナスが低く声をかける。
「この後、中央へ正式公文を飛ばします。三等叙任に伴い、王都の貴族社会はかなり荒れるかと」
「荒れればよい」
「……ですよね」
「文句がある者は、ラズ=ヴェルドを同じだけ浄化してから言え」
あまりにも正論で、側近は黙るしかなかった。
晩餐が終わり、人々が引き上げたあと。
メルヴィは一人、中庭の泉のそばに立っていた。
月明かりが水面に揺れる。
赴任した当初は黒く澱んでいたその場所が、今では星まで映している。
「三等官、ですって……」
呟いても、まだ実感がない。
九等から始まった。
この古城に来て、九等上席、七等相当、六等相当、五等認定、そして三等枢機官。
階段を一段ずつ上るようでいて、気づけば崖を飛び越えたみたいな出世だった。
「私、ちゃんとやれるでしょうか」
泉へ向かって問いかけると、背後から落ち着いた声がした。
「やれる」
振り返ると、オフィウスが立っていた。
「陛下。まだ起きていらしたのですか」
「君がここに来ると思った」
「わかるんですか?」
「何となくな」
それだけで胸が少し熱くなる。
自分のことを気にかけてくれる人がいる。その事実が、まだ不思議だった。
「不安か」
「……はい。とても」
メルヴィは正直に頷いた。
「急に高い位をいただいても、私、中身が追いついていません。礼法だって完璧ではありませんし、王都の方々に何を言われるかも……」
「誰が何を言おうと関係ない」
オフィウスは泉のほとりまで来て、彼女の隣に立つ。
「君は君のままでいい」
月光の下、その横顔は昼間よりずっと静かで、そして柔らかかった。
「泥だらけで笑うところも、何でも自分でやろうとするところも、不器用に真っ直ぐなところも――私は、そのままの君を尊いと思っている」
最後の一言で、メルヴィの思考が止まった。
「……とうとい?」
「そうだ」
「ええと、それは、その……光栄……なのでしょうか……?」
「最大限に」
真顔すぎて冗談に聞こえない。
メルヴィは耳まで真っ赤になりながら、必死で言葉を探した。
「あ、あの、陛下。私はそんな、崇められるような立派な者では……」
「知っている」
「でしたら」
「立派だからではない。君だからだ」
そこまで言われてしまうと、もう何も返せない。
心臓ばかりがうるさくて、息の仕方まで変になる。
オフィウスはそんな彼女を見つめ、ふと声を和らげた。
「急に全部背負う必要はない。三等の責務が重いなら、私が整える」
「陛下が?」
「書類も、儀礼も、周囲の雑音も、面倒なものは全部だ」
「……全部」
「君は君のやるべきことをやればいい」
それは途方もなく甘い言葉だった。
普通なら、そんなふうに誰かへ寄りかかってはいけないと思う。けれどオフィウスが言うと、不思議と嘘には聞こえない。
メルヴィは少し迷ってから、小さく笑った。
「では……明日、北塔の掃除を手伝っていただけますか?」
皇帝は一瞬も迷わなかった。
「もちろんだ」
「本当に引き受けてしまわれるんですね……」
「君の頼みなら」
まただ。
またそうやって、さらっと大変なことを言う。
月の下、泉がきらきらと揺れる。
精霊たちが二人のまわりを静かに舞い、古城の窓からはあたたかな灯りが漏れていた。
この城に来た日、メルヴィは一人だった。
誰にも期待されず、誰にも惜しまれず、ただ厄介払いのように送り出された。
けれど今は違う。
この場所には彼女の仕事を認める光があり、階位があり、仲間がいて、そして――自分をまっすぐ見つめてくれる皇帝がいる。
九等官だった少女は、もう元の場所には戻れない。
六等、五等、そして三等。
少しずつ、確かに積み上がった出世の先で、彼女はようやく自分の価値を知り始めていた。
もちろん、その先にはまださらに大きな騒動が待っている。
王都の貴族たちは、いきなり現れた三等枢機官を放ってはおかないだろう。
古城の浄化もまだ終わっていない。
そして何より、オフィウスの溺愛は、今後ますます遠慮を失っていくに違いなかった。
だが少なくとも今夜だけは。
泉のそばに並んで立つ二人の間に、穏やかな時間が流れていた。
「……陛下」
「何だ」
「今日は、ありがとうございました」
「礼を言うのは私の方だ」
「え?」
「君が報われて、嬉しい」
あまりに真っ直ぐで、メルヴィはまた言葉を失う。
氷の皇帝と呼ばれる男のどこに、こんな熱が隠れていたのだろう。
そんなことを考えながら、彼女は恥ずかしそうに、それでも確かに笑った。
その笑顔を見たオフィウスは、誰にも気づかれないほど微かに目を細める。
三等枢機官。
それはまだ、終着点ではない。
王都へ戻れば、彼女の功績はさらに大きな形で国に知られ、官位も名誉も、常識外れの領域へ届くことになるだろう。
けれど、それはもう少し先の話だ。
今はただ。
辺境の古城で、泥だらけで働いていた一人の少女が、ようやく正しく評価された夜。
そして、そのすべてを世界で一番当然のことのように受け止める皇帝が、彼女の隣に立っている夜だった。
古城のいちばん高い塔の上で、祝福するように鐘がひとつ鳴る。
その音は静かに辺境の夜へ広がり、かつて死の地と呼ばれた場所を、やさしく照らし出していった。




